其ノ肆 ロッカー荒らし
気付けば五月も半ばを過ぎ、連日汗ばむ陽気となっていた。
衣替えにはまだ早いが、そろそろ長袖のシャツも暑い。ほんの二週間前まではまだ薄手のカーディガンが必要なくらいだったのに、毎年季節は思っているよりも早いスピードで進んでいく。
仮入部期間も既に終わり、他の部活動では正式入部が決まった新入生たちが思い思いに活動を始めている。活動報告と予算申請の提出期限も間近だ。春奈の処遇を決めなければならない時期が差し迫っていた。
だけどその前に、どうしても確認しなければならないことが、一つ。
放課後、美術室の扉の前で、僕は深呼吸をした。
いつも通りなら、既に春奈が来ている可能性が高い。
「……よし」
きっと大丈夫だ。
心の中で気合いを入れ、勢いをつけて扉を開けた。
予想に反して室内は消灯されたままで、人影は見当たらない。
拍子抜けしそうになったその時、視界の端を掠めた異様な光景に息を呑んだ。
教室背面には年季の入ったスチール製のロッカーが設置されていて、僕はその一角を絵の保管用に借り受けていた。「人ならざるもの」に絵を奪われないよう、藤がまじないをかけて守ってくれているはずのその扉が――
全部開いていた。
「……!」
開いた扉は不自然に揺れている。
ロッカーの鍵は僕だけが持っていて、スペアキーは存在しない。その鍵はちゃんと、藤に貰ったお守りの鈴とともに、僕のポケットの中にある。
ロッカーの扉にはどれも無理やりこじ開けられたような跡が残っていた。床には家探しされたように画集や教材、スケッチの紙が散らばっている。
荒らしの目的は――僕の絵か。
急速に背筋が凍り、腕を抱えた。
絵を盗んだのは、きっと人じゃない。人にとって僕の絵など、紙切れ同然。無価値なものに過ぎない。
いつだって僕の絵を求めてくるのは「人ならざるもの」だけだ。
だから、きっとロッカーを荒らしたのは――
――チリン。
不意にポケットの中で、鈴の音がした。
紫色の紐で、ロッカーの鍵に括りつけられた小さな鈴。
藤がくれたこのお守りの鈴は、普段鳴らそうと思っても鳴らない。その鈴は、僕に何かを訴えようとする時だけ、自発的に音を奏でる。
――チリン。
途端、空気が歪んだ。
不穏な気配が、一気に美術室内に充満する。
それは紛れもなく――
「――先輩」
その声は、背後から響いた。
振り向いた先、黒板の前に春奈が立っていた。
彼女は両手にキャンバスを抱えていた。
「……僕の絵を持ち出したのは、君なんだね」
「先輩」
「それは僕にとって大切なものなんだ。頼むから返してくれないかな」
春奈は無表情のまま首を横に振った。
「それはできません」
「どうして?」
「わたしには時間がないんです」
「確か前にもそう言っていたね。それはどういう……」
「もう、説明している時間もないんです……ああ駄目、ほら……」
彼女が持ち上げた指先から、どんどん色が失われていく。
「最期に先輩の力を貸してください。それで、春奈を、あの子を――」
「春奈、君は――」
――どうか、救ってあげてください。
僕の意識はそこでプツリと途切れた。
◇ ◇
――嫌な予感がする。
美術室に向かう道すがら、藤が眉間に皺を寄せてそう言った。
藤の勘はよく当たる。それも、良くないことは特段。
「言っておくけど、これ以上面倒ごとに巻き込まれるのは御免よ」
「残念だけど桃花、私たちはもうずっと前から巻き込まれているよ」
「それは……あの子が来てから?」
「いや、もっとずっと前。それこそ――待って。何か、おかしい」
目的地に到着し扉に手を掛けようとした桃花を、藤が制止した。
「どうかした?」
藤は唇に指をあてて、小窓から中の様子を伺う。室内は薄暗く、外からでは状況が掴めない。耳を澄ませても何の音もしなかった。
「結界が――消えてる」
「……結界? 何のこと?」
「ここのところずっと、私を拒む力が美術室を覆っていた。意図的なものではなさそうだったが、無闇に刺激するのも良くないとしばらく様子を見ていたんだ……」
「何それ、じゃあ藤がずっと部活に来なかったのはその結界のせいだったっていうわけ? 何でそういう大事なことをもっと早くに言わないのよ」
腰に手を当てて憤ったが、藤は目尻を下げて薄っすらと微笑むだけだった。藤がこういう顔をする時は、これ以上追及しても時間の無駄だ。
桃花はこれ見よがしに溜息を吐いた。
「……それで、中の様子は? 誰かいるの?」
「気配はある」
「そう。じゃあとっとと入って確かめましょ」
桃花は藤と一つ頷き合い、雪崩込むように中に足を踏み入れた。
薄暗い室内のいたるところに置かれている石膏像や油絵たちの目が一瞬光ったような錯覚がした。
「何だかヘンな空気ね。重苦しいっていうか、薄気味悪いっていうか」
視線を巡らすと、後方のロッカーの扉が不自然に開いているのが桃花の目にとまった。
「誰よ、ロッカー開けっ放しにした奴は……」
言いながら足を踏み出した時、藤の鋭い声が響いた。
「小宮……!」
何事かと駆け寄ると、物が散乱した床の上に藤がしゃがみ込んでいた。その足元には、小宮がぐったりと横たわっている。
「こみやん! しっかりして!」
繰り返し呼びかけてみるも、ピクリとも反応しない。呼吸は正常だが、顔色は血の気が引いたように青白かった。
「全然目を覚まさないわよ……『人ならざるもの』にあてられたのかしら」
力なく投げ出された小宮の細い腕に触れ、桃花はその冷たさにゾッとした。まるで蝋人形のようだ。
「大丈夫よね、これ。死んだりしないわよね……?」
縋るように藤を見上げれば、彼女はその切れ長の目を細めてしばし黙り込んだ。
「……もしかしたら小宮は『人ならざるもの』の世界に引きずり込まれたのかもしれない」
「……どういうこと?」
「彼らは人と異なる世界に住む存在だ。私のように彼らの姿を視たり、声を聞いたりできる者ならともかく、普通の人は彼らの世界と関わりを持つことはできない……だが、夢や幻などを媒介として『人ならざるもの』の世界と繋がってしまうことも稀にある。それから、『人ならざるもの』に招かれることもまた、異界に足を踏み入れる条件となる」
「じゃあ、こみやんも招かれて……?」
床に散らばった物の中に小宮の絵を見つけると、藤はそれに目をやりながら頷いた。
「……少しだが絵に食べられた形跡がある。どうやら彼女は、絵の力を借りて小宮を強制的に連れて行ったみたいだ。あまり長い間向こう側に留まり続けたら、危険な状態に陥る可能性はある」
藤は慎重に小宮の身体を抱き起こすと、その額に人差し指と中指をトンッと突き立てるようにして当てて目を閉じた。
「――聞こえるか、小宮。そちらの世界では足掻くだけ無駄だ。成り行きに身を任せろ。彼女の本当の願いを叶えてあげるんだ。そうすればきっと帰って来られる」
藤は額に立てていた指を離し、重く息を吐いた。
「彼女の本当の願いって……?」
「きっと小宮なら分かるはずだ」
眠るような小宮の顔を見下ろし、藤は囁いた。
「――うまくやってくれよ」
◇ ◇
わたしのおうちは、病院のベッドだった。
小さい頃から繰り返す入退院。
一向に治らない病。
お母さんの疲れた表情。
お医者さんの嘘くさい笑み――
灰色の病棟に閉じ込められて、ベッドの上から出ることを許されず、ただ過ぎ去る季節を別世界の出来事のように眺める毎日。
窓の外の景色が変わるたび、世間と自分との距離が広がっていくようで、焦りばかりが募った。
心の内を吐露できる相手もおらず、病は進行する一方で。
不安、焦燥感、恐怖、嫉妬――
自分の中で膨れ上がった負の感情に押し潰されそうになっていたその頃。
わたしはあの子の声を聞いた。
真っ暗な病室で泣いているわたしに届いたその声は、とても優しくて暖かい声だった。あの子の声を頭の中で言葉に置き換えることは難しかったけど、それでも何を言っているのかはよく分かった。あの子はいつでも、わたしを勇気づける言葉をくれたのだ。
あの子と出会ったことで、わたしは少しだけ元気を取り戻した。
あの子はわたしの悩みを聞き、叶わぬ夢や希望を肯定し、常に寄り添ってくれた。ただ、その声の主は誰の目にも映ることはなかった。
それは、わたしの目にさえ。
誰もあの子の存在を知らない。
だから皆、わたしが妄言を吐いているのだと呆れた。
お母さんには、長期入院と病気の不安で精神的に参ってしまったのだと思われた。
それでもわたしは構わなかった。
あの子は、正真正銘わたしの唯一の友達だった。
例えそれが、人ではない存在だったとしても。
それは去年の秋のこと。
十五歳の誕生日を迎えたわたしの最大の悩みは、高校受験だった。
高校に進学するなら他の子と同じように受験しなければならない。奇跡的に合格したとしても入退院を繰り返すような現状では出席日数を満たせる自信もない。
制服を着て、授業を受けて、友達とおしゃべりして……そんな当たり前のことが、わたしにとっては酷く遠い世界だった。
身体を治すには、大きな手術を受けなければいけない。成功率は非常に低く、今の体力では手術することすら厳しいと言われ、ずっと延期になっている。
手術が成功すれば、わたしは高校に通える。
でも、失敗すれば問答無用であの世行き。
手術を受けるか、受けないか――
その選択は、わたしを精神的に追い詰めた。
わたしは以前のように毎日ベッドの上で泣き暮れ、あの子の宥める声にも耳を塞ぐようになってしまった。
誰もわたしの苦しみなんて理解できやしない。
どれだけ親身になって話を聞いてくれても、結局みんな他人事でしかないのだ。
そんな卑屈な気持ちに閉じこもっていると、次第にあの子の声も聞こえなくなっていた。
それに気付いたのは既にあの子と話さなくなって何日も経ったあとで、わたしはあの子を無視し続けたことをその時になって初めて後悔した。
あの子はわたしのことを励まし続けてくれたのに、わたしはいつだって自分のことばかり考えていた。
名前も、どこから来たのかも聞いたことはない。
思い返せば、わたしはあの子自身のことを何一つ知らなかった。
あの子の声がしなくなってしばらく経った頃、病室に一枚の絵が届いた。
差出人不明の贈り物。
それは――色とりどりの花の絵。
その絵は生命力に溢れていた。今にもキャンバスから飛び出してきそうなほど力強い花の姿が、そこにはあった。
花瓶にいけられた花。
どこにも行けないのはわたしと同じなのに、どうしてこんなにも生きる力に満ち満ちているのだろう。
気付けば、涙が流れていた。
きっとこれはあの子からの贈り物なんだ。
初めて目で見るあの子の気持ちは、思った通り優しさに溢れていた。
ありがとう――ひとり呟いた言葉に、どこからともなく応える声がした。