其ノ肆 予期せぬ再会
『――だから、時差を考えろと何度言えば分かるんだい? 君たちは』
愛用の桃色の携帯電話を片手に、桃花はまだ人通りの少ない早朝の大通りを駆けずり回っていた。
「いちいち五月蠅いわねえ、小言なら結構よ。それより、状況は説明したでしょう? 何か分かったことはない? 藤の居場所でも、こみやんの行き先でも何でもいいから」
何としてでも、藤と小宮を連れ戻す。
その一心で、藁にも縋る思いで電話をした桃花だったが、葵はあからさまに面倒臭そうな雰囲気を醸し出していた。
『あのね、僕は探偵でも超能力者でもないんだ。そう簡単に何でもかんでも分かったら苦労しないよ』
「ほんっとに使えないわね、あんた」
『君にだけは言われたくないな。奴らを視る力もないくせに、自分にできることがあるとでも思っているのかい? 悪いことは言わない。無駄に怪我する前に、大人しく引き下がった方が身のためだ』
「そう言われて、はい分かりました、って素直に聞くと思うわけ? 見くびらないでちょうだい」
赤信号に捕まって、桃花はじれったい気持ちで足踏みした。振動に合わせて携帯に付けたストラップが音をたてて揺れる。目の前を車が一台、二台と緩やかなスピードで横切っていった。
空は既に明るい。
小宮が部屋からいなくなってから――もっと遡れば藤が連れ去られてからはかなりの時間が経過している。桃花は焦るばかりの自分の心に言い聞かせるように呟いた。
「……まあでも、そうね。あんたの言う通りかもね。『人ならざるもの』が視えないあたしなんて、どうせ足手まといになるだけ……分かってるのよ、そんなことくらい。でも……それでも、今こうしている間にもし藤やこみやんに何かあったら、あたしは自分を一生許せない。絶対に許さない。だから、立ち止まっているわけにはいかないのよ。転んでも良いから走り続けなきゃいけないの。今のあたしにできることは、それしかないんだから」
『――つくづく阿保だね、君も。それが何の意味もないことぐらい分かっているだろう? 単なる自己満足な行為だということも。それでも無闇に走り続けるっていうのかい?』
こんな状況でも、冷静に相手を分析してくる葵に腹が立つ。だが、葵の言うことは正しかった。桃花自身、とっくに分かっているのだ。自分が闇雲に動いたところで無意味だということぐらい。でも――
「……無意味で何が悪いのよ? 自己満足? 上等じゃない。あたしがこれまで二人と一緒に過ごしてきたのも、これからも二人と一緒にいたいと願うのも、全部全部自分のためよ」
反対側の横断歩道の信号が点滅し、赤に変わる。それを見届けてから、桃花は進行方向に向き直った。
「相手がどう思っていようが、誰に邪魔されようが関係ない。あたしは、あたしのために、二人を連れ戻したい。これはあたしのエゴよ。それ以上でもそれ以下でもない。だから、あたしは前に進むの。その先にどんな未来が待っていようと、決してその選択を誰かのせいにはしないわ」
電話の相手は、しばし沈黙した。
また揚げ足を取ろうとしているのかと思ったが、たっぷりと間を置いてから届いたのは意外な言葉だった。
『呆れるほど自己中心的だね――ま、でも、嫌いじゃないよ。そういうのは』
「まったく……素直に協力するって言ったらどうなのよ」
『まさか、貸し一つだよ。後できっちり返して貰うさ』
「はいはい。利子付きでしょう」
桃花は笑って肩を竦めた。
目の前の信号が青になり、誰もいない交差点に一歩踏み出す。
『――さて、小宮についてだけど』
先程までの軽口から一転、葵はやや低めの落ち着いた口調で続けた。
『きっと彼のことだから、どうせ君に迷惑を掛けたくないとかいう理由で家を出たに違いない。あの怨念が再び自分を襲って来る可能性を考えたんだろうね。君を巻き込まないためにも、どこか遠くへ行かなければならない――そして、もし、あの怨念と接触することができたなら、藤ともう一度会えるかもしれない――おおよそ、そんなところだろう』
「だからって、あんな身体で出て行くなんて、無茶も良いところよ……」
意識を失った小宮の左腕を見た時、桃花はその酷い有様に絶句した。
人ならざる存在を概念的にしか捉えられない桃花の目にもはっきりと映った、腕に絡みつく呪い。赤い印は、まるで生き物のように、少しずつ、少しずつ小宮の身体を侵していた。その原動力は言うまでもなく小宮の命だ。
『お人好しは彼の専売特許だからね。そんな状態でも小宮は君の安全を優先したわけだ。素直に喜んだらどうだい? 彼にとって君は、それだけ価値のある存在だってことなんだから』
「……そうね」
だけど、本当にそうだったとしても、やっぱりひとりで出て行かないで欲しかった。相談の一つくらいして欲しかった。ひとりで抱え込むなとあれほど言ったのに何一つ届いていなかったのかと、悲しみの方が先立ってしまう。
『それから、怨念の方も、小宮を野放しにするつもりはないはずだ。呪いを媒介として小宮の動向は把握しているだろうから、きっと準備ができたらまた彼を迎えに行くつもりだろう。もしかしたら既に小宮と接触しているかもしれない』
「準備って? 何の?」
『そりゃ、そいつが願ってやまない、藤との結婚式の準備さ……だけど、僕にはどうも、そいつの目的が藤と結婚することや、小宮への復讐だけにとどまらないような気がするんだ』
「……どういうこと?」
無意識に眉間に皺を寄せながら、桃花は閑散とした歩道を歩く。すれ違うのは犬の散歩をする人か、ジョギングをする人ぐらいだ。まだ通勤時間より前の大通りは、澄んだ空気に満ちていた。
『これは完全に僕の憶測だけど、あの怨念は<来る災厄>と呼ばれ、長らく森の奥に封じられていた。人々はそいつをとても恐れたが故に、丁重に祀り上げた。その災厄の中身が、単に結婚式のやり直しってだけじゃあ、あまりにもお粗末だと思わないかい?』
「つまり、あいつには他に目的があるってこと……?」
『僕らが想像もできないような厄介な願望を秘めている可能性は十分考えられる。あいつの魔の手が藤や小宮だけに向かっているうちはまだ良いけど、それがこちらに向かって来たら相当面倒な事態になるね』
「そうなる前に、あの男を止めないといけないってわけね……それで、二人の居場所に心当たりは?」
そう問うと、葵は『無い』と即答した。
「……は?」
一瞬、耳を疑って、立ち止まる。
『聞こえなかったのかい? 心当たりなんて無いよ。さっきも言ったけど、僕は探偵でも超能力者でもないんだ。今彼らがどこで何をしているかなんて、分かるはずもないし、それに――分かったところで、君は絶対にそこに辿り着けない』
「何でよ。何でそう言い切れるのよ?」
噛みつくように訊く桃花を、『当たり前じゃないか』と葵はせせら笑った。
『そいつが藤と式を挙げる場所が、どうして現実世界だと思っているんだ? 忘れたとは言わせないよ。その怨念は人ならざる存在で、君はそいつに対して何の力も持っていないんだ。その桔梗とか言う怨念は、婚儀のための舞台を周到に用意しているだろう。参列者だって選別しているはずだ。無関係で部外者の君に招待状が届くと思うかい?』
「――――」
『だから、君に二人を見つけるのは無理だよ。君がそいつの作った空間に干渉できない以上、例え君のすぐ隣で小宮が殺されかけていても、君はそれに気付くことすらできないんだから』
突き付けられた現実に、桃花は目の前が真っ暗になった。自分では分かっているつもりでも、こうして改めて自分の無力さを思い知らされると何も言えない。
俯きかけていた視線を持ち上げると、前方に小さな川が見えた。川に架かる橋の向こうには、相変わらず鬱蒼と茂る八坂の森がある。桃花の足は、その橋のたもとで止まっていた。
「……嫌な言い方するわね。あんた、モテないでしょう?」
『ご心配には及ばないよ』
電話の向こうで、その男は慇懃無礼に言った。
桃花は橋の欄干に背を凭れ、空を仰いだ。カラリと晴れた青空が目に眩しい。
「よーく分かったわ。あんたと話していてもこれ以上時間の無駄ってことがね。じゃ、切るわよ」
『――は? 何でそうなるかな。僕の話、ちゃんと聞いてた?』
携帯を耳から離したタイミングで、葵の声が桃花を引き留めた。
「聞いてたわよ。どうせあたしは何の役にも立たないお荷物だって、今散々あんたがこき下ろしたところじゃない。まだ何か、言い足りないことでもあるっていうの?」
『だからね、僕が言いたいのは、君が駆けずり回って別空間に閉じ込められた二人を探すより、その元凶となる怨念それ自体を炙り出した方が手っ取り早いってことなんだけど』
一拍遅れてその内容を理解した桃花は、額を押さえて盛大に溜息を吐いた。
「あんたねえ……回りくどいこと言ってないで、最初っからそれを教えなさいよ!」
『五月蠅いなあ。僕だって今、話しながらその可能性に行き着いたんだから。ただし、効果は期待しない方が良い。上手くいく保証なんて全くないけど、どうする? 一か八か、賭けてみるかい?』
迷う必要も、時間もなかった。
可能性があるのなら、それに全力で乗っかるしかない。
「無駄な前置きは結構よ――で、どうやってあの男を引っ張り出すの?」
『八坂の森にそいつを封じる祠があったと言っていただろう? 今は壊れて力を失っているけれど、元々その怨念を封じ込めるだけの強い結界作用が祠にはあったはずだ。だから、壊れた祠を元に戻せばいい。そうすれば、そいつを封じるまではいかなくても、力を弱めたり、儀式の邪魔ぐらいはできるかもしれない。ただし、これはあくまで理論上の話だ。何も起きなくても、手遅れだったとしても、僕を責めないでくれよ』
桃花は勢いをつけて欄干から背を離し、橋の真ん中に仁王立ちした。そして橋の向こう、行く手に立ちふさがる森を見上げる。
「――オッケー。八坂の森、ね」
◇ ◇
藤はまだ、生きている。
僕はかなり長い時間を掛けて、その意味を理解しようとした。
「藤が……」
「はい」
「生きてる……」
「そうです」
春奈の力強い頷きに、ブワリと全身の細胞が息を吹き返し始めた。
「今ならまだ間に合います。だから先輩、気を確かに持ってください」
透明感のある声が、僕の胸に一筋の光を差した。停滞していた血が巡り出し、鈍っていた頭の歯車がぎこちなく再稼働する。
「……君は、どうして、ここに……?」
呂律が回らない僕には、そう尋ねるのが精一杯だった。それでも彼女は僕の疑問を察して、手早く説明してくれた。
「――残念ながら、わたしの実体は既にこの世にはありません。先輩とあの子を引き合わせたあの時、わたしの命は確かに燃え尽きました。ただ以前、あの子を――春奈を助ける方法を探しに出た時、わたしは自分の寿命と引き換えに人の目に映る力を得ました。その時に手放した命の欠片……それが今のわたしです」
目の前の少女は、春に出会った時と全く変わらない姿かたちをしていた。
肩より少し長い絹のような黒髪も、化粧っ気の全くないきめの細かい肌も、校則通りの膝丈スカートも。
まるであの頃に時間が巻き戻ったかのような錯覚に陥るほど、彼女は記憶の中と同じ輪郭をしている。
ただ一点、身体が透けていることを除いては。
「わたしが命を売り渡した相手は、これまで数えきれないほど多くの者を誑かしてその寿命を奪いました。そして、自らが使役する影人形として、その命の形を無理やり作り変えてしまったのです――全ては今日、この時のために」
言葉を区切って、春奈が後ろを振り返る。
僕の正面、紋様の術に触れないようギリギリの線で膝を付く春奈の背後には、桔梗の手に堕ちた「人ならざるもの」たちの背中がぞろりと立ち並んでいる。春奈の視線はその透明な人々を射抜いて、更にその先へと向けられていた。
「あの怨念こそが<八坂の森の主>と呼ばれる、恐るべき存在なのです」
彼女が睨むように見据えた先は神社の拝殿。
そこで行われている儀式の中心人物こそが、「人ならざるもの」を人の目に映す者。
そして、その代償に命を奪う者。
「――桔梗、だった、のか」
まだ何も知らなかった春の頃。
あの頃から、ずっと繋がっていたのだ。
全ては今日、この時のために。
春奈は再び僕の方へ顔を戻す。
「時間がありません。式が終わればわたしたちは用済みです。わたしたちはあの者の一部になるため、残らず食べられてしまうでしょう。そうなればもう、誰もあれを止めることはできなくなる……人々の恐れる災厄が起きてしまいます」
代々藤の家に伝わって来た<来る災厄>。
「その、災厄とは、一体、何なんだ……?」
春奈はしきりに背後を気にしながら、声を顰めた。
「あの者の最大の願望は、己の惨めな過去の清算です。自身の最愛の許嫁が他の男に奪われたという汚点を無かったことにして、あれが望む正しい過去を創り出す――つまり、世界を改変するということです」
「世、界を……?」
「はい。そうなれば、元々あったものが無くなり、無かったものが存在することになってしまいます。今、この世界に生きる存在そのものが、消滅したり、全く姿かたちの違うものとなってしまう。それは――今を生きる人々にとっては災いでしかありません」
僕が僕じゃない世界。
僕が藤や桃花と出会わなかった世界。
もし桔梗が創り変えたあとの世界がそうなっていたとしても、僕はもう、そのおかしさに気付くことすらできない。
取り澄ましたように生き続ける世界の裏側で、本来あるべき姿の僕らは泡沫のように消えていく――そんな想像ですら恐ろしいことが、現実に起こるというのか。
「わたしはあの子を守りたい。あの子と――春奈と過ごした日々を、無かったことにはしたくないんです。だから先輩、お願いです。どうか災厄を阻止してください」
「だけど、こんな僕に、何ができる……?」
真剣な眼差しの春奈とは対照的に、僕の発言は弱気だった。
僕は最初から、桔梗に対抗できる切り札の一枚も持ってやいない。それにもう、僕はここから一歩も動けそうになかった。
「災厄を止めるためには、二人が契を交わしてしまう前に儀式を中断させる必要があります。だから先輩、何とかして藤先輩をこちら側に連れ戻してください。藤先輩が、完全に本当の許嫁と入れ替わってしまう前に。向こう側へ行ってしまう前に、必ず――良いですね?」
返事をする間もなかった。
春奈の手のひらが僕の視界を覆う。
半透明なはずなのに、その手が翳された途端――全てが闇に包まれた。




