其ノ参 月光下の舞台
いつかこんな日が来ることを、桃花はずっと恐れていた。
明け方、まだ目覚めきらない朝日が差し込む部屋の中に、人の姿はなかった。
開いたままの窓から吹き込む風に、カーテンが静かに揺れている。ベッドはもぬけの殻だ。真っ白なシーツは人肌すら記憶していない。彼がこの部屋を出てから随分と時間が経っていることを物語っていた。
持っていたタオルと洗面器をチェストの上に置き、主のいないベッドから枕を掴み取る。大きく息を吸って、桃花は腹の底から怒鳴った。
「あんっの馬鹿……! あれだけ言ったのに……!」
怒りに任せて投げつけた枕は、バフッと鈍い音を立てただけで、壁に傷一つ付けられずに床に落ちた。舞い散った小さな埃が、朝日に照らされてキラキラと輝いた。
「……何で」
いつかこんな日が来ることを、桃花はずっと恐れていた。自分ひとり、この世界に取り残されてしまう日が。
「何でみんな、いなくなっちゃうのよ……!」
藤も小宮も、気付いたら桃花の手からスルリと逃げて行ってしまう。そうならないように、そうさせないように、これまでずっとその手を離さないでいたのに。
「やっぱり、あたしじゃ駄目なの……?」
桃花にとって二人は、似た者同士だった。
警戒心が強く、底知れぬ影を内に秘め、時折さり気なく他者を拒むように浮かべる笑顔が不思議なくらいよく似ていた。
他者と関わりを持つのが苦手で、孤独をすんなりと受け入れ、いつもここではないどこかに囚われている。
その目を現実に向けさせるのに、その足を地に着けさせるのに、どれだけ苦労したことか。
美術部という安息の地を、二人の帰る場所を死守するのに、どれだけ努力したことか。
それなのに、「人ならざるもの」はいとも簡単に桃花から二人を切り離す。ここに繋ぎ止めようと必死な桃花を嘲笑うように、二人を攫って行く。
「あたしじゃ、何の役にも立たないの……?」
桃花には、藤のような「人ならざるもの」を視る力はない。小宮のようにその気配を感じることもできない。けれど、その存在を心の底から信じていた。それは藤と小宮を信じることと同じだからだ。
しかし、視えるかどうかの壁は想像よりも高かった。ここに来て、桃花は何度も自身の無力さを痛感させられた。
例えば二人と一緒にいるのが葵だったなら、藤を取り戻す方法も小宮の呪いを解く方法も見つけることができたのかもしれない。だけど今の桃花には、小宮がどこへ行ったのかさえ見当がつかなかった。
――もう二度と、二人に会うことができないかもしれない。
そんな予感が頭を過り、桃花は床から拾い上げた枕をギュッと抱き締めた。
「……そんなの嫌」
まだ早朝の家の中は、とても静かだった。その静けさが、桃花の予期した未来を体現しているようでますます不安が募る。
「……あたし、ひとりなんて絶対に嫌だからね」
藤も小宮も決して賑やかな方ではないけれど、一緒にいるだけで楽しかった。美術室に彼らがいる気配を感じるだけで、安心感があった。桃花は二人とともに過ごす時間が大好きだった。だから――
自分の大事な友人を、
放課後の美術室で過ごした大切な時間を、
あんな奴なんかに奪われていいわけがない。
両手で頬を叩き、桃花は己を叱咤した。
「――そうよ。嘆いている暇なんてないわ」
大丈夫。きっとまだ間に合う。
自分の手から零れかけている大切な宝物を、絶対に取り戻しに行く。
桃花は裸足のまま、部屋を飛び出した。
◇ ◇
――はい、桔梗様。
耳に残る強烈な違和感。
藤は今、何と言った――?
「聞いたか? 貴様が何と言おうとこれが事実だ」
桔梗が勝ち誇った笑みで僕を見下ろした。隣で藤は、何の感情もない視線を僕の頭の辺りに彷徨わせている。
「そん、な――」
「諦めろ。もはや器の娘は存在しないのだ。この世のどこにもな」
「嘘だ……」
僕の呟きは、力なく地面に落ちて消えた。身体を支えていた腕がガクガクと震え出す。
頭は頑なに桔梗の言葉を拒否していた。
そんなはずがない。
藤がいなくなるわけがない。
絶対に、そんなはずがないんだ。
僕は祈るようにそう繰り返す。
「貴様が足掻いたところで、あの娘はもう二度と還らない。婚姻の儀が完了した暁には、この器は完全に我が許嫁のものになるのだ」
「そんなの……信じられるかっ!」
僕は歯を食いしばって、その場に立ち上がった。
「嘘だと言ってくれ、藤……!」
足元の紋様が再度僕を足止めしようと大きくたわむ。身体を押さえつけるような圧迫感が増したが、渾身の力で一歩、藤の方へと足を踏み出した。
「本当は、藤なんだよな……? こいつを油断させるために、そうやって、ご先祖様のフリしてるんだろ……?」
僕は藤との間にあるほんの短い距離を、死に物狂いで縮めようと全身で桔梗の術に抗った。
また一歩、どうにか前に進む。
「頼むから、嘘だって言ってくれ……いつもみたいに、笑って、僕の名前を呼んでくれよ……」
――小宮。
風そよぐ中庭の木の下で、
夕陽が差し込む美術室の窓際の席で、
少し低い落ち着いた声でそっと僕の名を呼んでくれた藤。
その絵画のように綺麗な横顔も、
風に靡く長くて艶のある髪も、
いつだって真っ直ぐに伸びる背筋も、
切れ長の凛とした瞳も、
藤のどんな部分も僕の頭の中には忠実に再現できる。
左手が動けば、絵に描いてみせることだってできる。
でも、今、僕の目の前にはちゃんと藤がいるのだから、そんなことしなくたっていいはずだ。
笑ってと願えば、
名前を呼んでと乞えば、
すぐにだって届くはずの距離。
なのに。
それなのに――
目の前の純白の少女は、無感動な目をするばかりだ。
いつもの毅然とした姿からは程遠い精彩を欠く表情に、僕は胸が張り裂けそうになる。
「ねえ、藤……」
僕は震える声で、祈るように尋ねた。
「僕のこと、分かるよね……?」
土埃にまみれ息も絶え絶えな僕の頭のてっぺんからつま先までを、白無垢の少女はゆっくりと見下ろす。
そして、その紅い唇を微かに動かした。
「――お前は、誰だ?」
塞ぎ続けた目と耳と口を一気にこじ開けられて真実を流し込まれたような感覚がした。
「あ……」
震えは全身に広がり、やがて重たい身体を支えきれなくなって膝から崩れ落ちる。
眩暈と耳鳴りが酷くなって、世界が歪んだ。
「う……」
嘘だ――いや、嘘じゃない。
同じように人間離れしていても、目の前の少女は、神秘的で幻想的な藤とは全く異なる。
桔梗の操り人形。魂のない、ただの抜け殻。
ならば、僕の知っている藤はどこに行ってしまったのだろう。桔梗の言うように、本当に、藤は、もう――
上手く酸素を取り込めなくなって、僕は焦って何度も息を吸った。けれど、吸えば吸うほど苦しくなって、目に涙が溜まる。
滲んだ視界の中、藤の手を取ったまま桔梗が言った。
「――これ以上苦しみを重ねたくないのなら、そこでじっとしていることだ。藤を取り戻そうなどと、愚かな企てはしない方が身のため。まあ――地獄の窯に茹でられる覚悟があるのなら、話は別だが……ああ、もう私の声も聞こえておらぬか」
クツクツと笑う桔梗に、言い返す気力はもう欠片も無かった。
ぼんやりと霞みがかっていく頭と、鉛のように重い身体が、まともな思考力を奪う。冷たい石畳の上で、抜け殻のように横たわる僕を、もう誰も見てはいなかった。
途切れていた笛の音が再開した。
花嫁と花婿は、巫女や正装姿の人々を伴ってまた進行を開始する。二人の後にはぞろぞろと参列者が続いていく。
いつの間にか拝殿の戸は開け放たれ、白と黒を取り囲むように人々が空間を埋め尽くした。それでも押しかける人の数は後を絶たず、やがて石段から境内にかけて溢れた人たちが、その場に整列し始めた。
人の形をしているが、多分、彼らは人ではない。どれもこれも、薄っすらとその身体が透けていて、藤と同じような無表情でその場に佇んでいる。
彼らから滲み出ているのは、感じ慣れた「人ならざるもの」の気配。僕と相性最悪なその気配が場に充満し、いよいよ吐き気が込み上げてきた。
ドーン、と太鼓の音が地響きのように空気を揺らす。
と、同時に全ての者の動きが止まった。
視界のほとんどは「人ならざるもの」の背中で埋め尽くされ、拝殿の中で何が行われているのかは見えない。
神職の畏まった奏上や、巫女が神楽鈴を鳴らす音が途切れ途切れに耳を掠める。
式が滞りなく進んでいることだけは分かった。
それ以外のことはもう、何も分からなかった。
「うう……」
左腕の呪いが一際大きく波打った。
鎖骨の辺りまで手を伸ばした呪いが、僕の精気を根こそぎ奪っていく。虚ろな目でただ地面に横たわる僕を、誰も気にも留めやしない。
全てのことが気持ち悪かった。
こののっぺりとした白々しい空間も、ここに満ちる「人ならざるもの」の気配も、人形のような藤も、身体に巣食う呪いも、僕をここに縛り付ける紋様の術も。
全てが不快で、腹立たしかった。
けれど、もう僕にできることは何もなかった。
指一本動かすことさえ叶わない。
この状況を覆すことなど到底できない。
結局僕は、藤を助けることはできなかった。
桃花には謝らないといけないけれど、もう二度と、会えそうも、ない――
とうとう目の霞が酷くなってきた。
痛みと苦しみが段々と遠のき、何だかふわふわとした心地になる。
ああ――これで、終わりだ。
最期の一片が沈む――
「――諦めるのはまだ早いですよ、先輩」
春の風のような、温かくて優しい声がした。
記憶の底をくすぐるような、懐かしさを呼び起こすその声が、僕の意識を水際まで引き上げる。ほとんど力の入らない瞼を少しだけ持ち上げると、滲んだ視界に見覚えのあるシルエットが浮かんだ。
それは、今年の春。
新入部員として僕の前に現れた「人ならざるもの」。
「春、奈……?」
あの時と変わらず、彼女は柔らかく微笑んだ。
「大丈夫ですよ、先輩。藤先輩は、まだ生きています」




