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藤小宮物語  作者: トウコ
最終章 結んだ縁と切れた糸(後編)
36/42

其ノ弐 あの日の続きを

 今宵は満月だった。


 人も車も寝静まった深夜。

 僕は重たい身体を引きずるようにして夜道を歩いていた。

 大通りとはいえ、田舎町の夜を照らす街灯の数は少ない。雲一つない空から注ぐ月明かりだけが頼りだ。


「あっ……!」


 足元の暗さに慣れず小さな段差に躓きかけて、咄嗟に利き手を突き出した。

 しまった、と思ったがもう遅い。上手く動かない左手は身体を支えることができず、僕はそのまま道路に転がった。

 コンクリートに打ち付けた膝よりも、呪いが蠢く左手の痛みの方が容赦ない。浅い呼吸で痛みを誤魔化しながら、もう使い物にならない左腕を抱えて蹲った。

 包帯の下、気持ちの悪い赤い刻印に埋め尽くされた左手は、指先から徐々に感覚を失っていた。今はもう、手首より下はほとんど動かせなくなっている。僕はそのことを、ついぞ桃花に打ち明けることはできなかった。


「怒るだろうなあ、桃花……」


 人通りがないのを良いことに、僕は通りの真ん中にしゃがみ込んだままぼやく。そのぼやきはどこか他人事のような響きがあり、僕はひとり苦笑した。

 黙って出てきたことを、桃花はきっと許してはくれないだろう。もぬけの殻となった部屋を見て、彼女がどういう顔をするのか想像がつくからこそ心苦しい。


 でも、そうするしかなかったのだ。 


 桃花は優しい。「人ならざるもの」は視えないけれど、彼女はその存在を知る側の気持ちに寄り添ってくれる。それでいて決して特別扱いせず、普通の、ただひとりの友人として、僕や藤と接してくれる。桃花もまた、同じ世界を視ていなくても手を差し伸べてくれる人なのだ。


 だからこそ、これ以上巻き込みたくはなかった。


 葵の推測通りなら、桔梗の狙いは僕だ。怨念になってまで復讐したい相手を、ただ呪いをかけて野放しにしておくとは考えにくい。必ずまた僕の目の前に現れるはずだ。

 だから僕は、できるだけ誰もいないどこか遠いところへ行かなければならない。

 そうすれば、きっと桔梗は僕にまた会いに来る。

 そうすれば、もう一度藤と会えるかもしれない。


「藤……」


 これまでは彼女の名前を呼ぶと安心感さえ覚えたのに、今はむしろ不安が募った。

 藤のご先祖様が桔梗から藤を守ってくれるはずだという桃花の推測は一理あった。藤の話では、彼女は自らを犠牲にしてまでもずっと僕の絵を守ってくれていたのだ。一心同体ともいえる藤のことを、そう簡単に見捨てたりはしないだろう。


 だけど()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 桔梗という脅威を祓うための具体的な方法を知る者はいない。

 代々家に伝わる災厄――それを食い止めることができるのなら、たかがひとりの娘の命など惜しくもない。もし、藤の家がそういう考えのもと藤にご先祖様をとり憑かせたのだとしたら、いくら藤にご先祖様のご加護があっても無意味だ。最悪、桔梗とともに封印されてしまう可能性だってある。


 遠い昔から僕らは縁があったのだと、僕らの出会いは偶然ではなく必然だったのだと知ったばかりなのに。それを知った途端、その繋がりが切れてしまうなんて。


「そんなの……絶対に、嫌だ」


 振り仰いだ空に浮かぶ月は、ただ静かに僕を見守っている。その丸い形に、ふと僕はある物を思い出してポケットを探った。

 取り出したのは小さな鈴。それを掲げて、満月と重ねてみる。


 藤がくれたこのお守りの鈴は、普段()()()()()()()()()()()()()。その鈴は、僕に何かを訴えようとする時だけ、自発的に音を奏でる。

 もしかしたら、鈴が藤の行方を教えてくれるかもしれない――だがそんな淡い期待は、いとも簡単に打ち砕かれた。


「――駄目、か」


 手の中の鈴は、一向に鳴る気配をみせなかった。沈黙を守る鈴に落胆し、僕は溜息を吐いてポケットにそれを戻そうとした。

 と、その時。


――チリン。


 それはあまりにも微かな音だったが、それでも幾度となく僕を助けてくれたその音を聞き逃しはしなかった。


「……っ!」


 直後、周辺一帯が「人ならざるもの」の気配に覆われた。上下左右の感覚が消失し、靴底で感じていた硬いはずの地面がたわむ。悲鳴をあげる間もなく、僕はそのまま暗闇に引きずり込まれた。


――チリン。


 闇が僕を包み切る前に、まるで最後の力を振り絞るように一際大きな鈴の音がした。

 それきり、二度と鈴は鳴らなかった。




◇  ◇




 内側から突き上げられるような衝撃で、目が覚めた。

 感じた衝撃は主に左腕に集中していて、やがてそれが呪いの侵蝕によるものだと理解した。その途端、それは痛みに変貌する。

 包帯の上から腕を押さえ、僕はやっとの思いで身体を反転し仰向けになった。


「あれ……?」


 見上げた先には、ついさっきまで見ていた満月が変わりなく浮かんでいた。「人ならざるもの」の世界に引き込まれたのだと思っていたが、勘違いだったのだろうか。

 そのままゆっくりと身を起こして周囲を見渡すと、やはりそこは深夜の大通りではなかった。けれど、どうにも見覚えのある場所だ。特にこの夜の景色が記憶の中に強く根付いている。


「そうか、ここは……」


 毎年地元の夏祭りが開催される、八坂の森の麓の神社だった。お祭りの時ぐらいしか訪れないため、人気のない静かな境内が何だか落ち着かない。

 僕は境内の中心を真っすぐ伸びる石畳の上にいた。その両脇には、僕の背丈ほどの灯籠が等間隔にズラリと並んでいる。まだ火が入れられていないものの、朱色の灯籠は暗闇の中でも際立って怪しげに見えた。


「藤……?」


 無意識に、彼女の名前を呼んだ。

 胸がざわつく。根拠はないが、すぐ近くに藤がいるような気がしたのだ。


「ここにいるのか……?」


 少し先に見える拝殿は、漆黒の闇とほとんど同化していた。まるで()()()が来るのを息を潜めて待っているかのように、ひっそりと佇んでいる。

 戸惑いながら僕は立ち上がった。周囲を何度見回しても、誰の姿も見えないし、何の音も聞こえない。虫の声一つしない。とても静かだ。


「藤……」


 閉じた世界にひとり取り残されてしまったような心細さに襲われた、その時。


「――汚らわしい口でその名を呼ぶな」


 聞き覚えのある声が僕を突き刺した。

 美術室で見た時と同じ、黒の紋付羽織袴を纏った桔梗が、闇を切り取ったかのようにヌッと僕の正面に現れた。相変わらず生気の薄い顔だが、ぎらつく両目だけが際立って光っている。


「藤はどこだ……?」


 語気を強めた僕に、桔梗は声高に言った。


「貴様が知る必要はない」


「ここにいるんだろ? 藤を返せ……!」


 声を荒げ、桔梗に掴みかかろうとした僕。

 だが、咄嗟に足を踏み出したはずの足は、一歩も前に動かずにつんのめった。

 不審に思って見おろした先、石畳の上にはいつの間にか赤い紋様が浮かんでいた。五枚の花弁を広げたような形に既視感と同時に危機感を覚える。

 これは――左手の呪いと同じ紋様だ。


「……っ!」


 そう確信するや否や、その赤い線は生き物のように脈打ち始めた。ここから逃げなければと頭は強く警鐘を鳴らすが、既に手遅れだった。まるで視えない何かに全身を抑え込まれているような圧迫感が僕を襲う。抗おうとすればするほどその力は増していき、僕は呆気なく紋様の中に倒れ込んだ。


「――二度も言わせるな。これから死にゆく貴様には、知る必要などないのだ」


 地面に伏した僕の後頭部を、桔梗が草履の裏で踏みにじった。


「ぐっ、あ……」


 顔面から地面に擦り付けられ、否応なしに砂粒が口に入る。その不快感に噎せていると、頭から草履が離れ、今度は前髪を掴まれて無理やり顔を上げさせられた。

 真正面から僕を覗く桔梗は、口元に深い笑みを湛えていた。


「呪いはもうすぐ心の臓に到達する。朝日を拝むことなく、貴様の命は灰となろう。それまでここで苦痛にのたうち回っているが良い。卑しい絵描きには相応しい最期だ」


「だから、僕は……!」


 桔梗の恨んでいる本当の相手ではないと訴えようにも、彼は聞く耳すら持たなかった。


「言い訳など不要。藤の絵を描いては気を引き、図々しくも隣に居座っている時点で、貴様は私の怒りを買ったのだ。その罪は死をもって償え」


「――――!」


 肥大化した桔梗の恨みは、既に無差別的な様相を呈していた。桔梗はもはや藤の周囲をうろつく存在は全て排除の的と捉えている。葵がこの怨念のことを厄介と言っていたわけが今になって身に染みた。


「これから愈々(いよいよ)我らの婚儀が始まる。長年の時を超えて、私と藤はようやく結ばれるのだ。我らが夫婦の契りを交わす様を、貴様はそこでとくと見届けるが良い――喜べ。絶命した暁には、貴様の屍は供物として神前に捧げてやろう」


 桔梗は満足げな顔で僕を乱雑に放った。僕は再び地面に沈む。その衝撃で、ポケットから鍵に括り付けられた鈴が飛び出した。


「あっ……!」


 鈴は何回転かして、ちょうど桔梗の足元で止まった。咄嗟に鈴を取り戻そうと、僕は右手を伸ばす。桔梗は、虫けらを眺めるような目つきでそれを見下ろした。


「――小汚い鈴だな」


 眉一つ動かさずそう吐き捨て、躊躇いもなくその鈴を踏みつけた。


――パキン。


 伸ばした指先はあと少し、届かなかった。

 儚い音を立てて、鈴は粉々になる。自分が踏み潰されたような錯覚に陥り、胸が軋んで息が苦しくなった。

 鍵と鈴を結び付けていた紫の紐は、今や力なく地面に横たわっている。繋ぐ先を失ったことに呆然としているようなその姿に自分自身が重なり、一層心を抉られる。

 僕は絶望的な気持で、無惨に散らばる鈴の残骸を見つめた。


「――さあ、始めようか。我々の悲願を果たそう」


 そんな僕などお構いなしに、桔梗が高らかに宣言した。

 それを合図に、石畳の両脇に連なる灯籠に一斉に火が灯り、どこからともなく雅な音色が響きだす。

 桔梗は鈴の破片を無造作に蹴散らして鳥居の方へ去った。僕は石畳の冷たさを頬に感じながら、砂粒を擦る草履の音が遠ざかるのをただ聞いていた。


 鈴を壊された衝撃が、僕の気力を完全に奪い取っていた。

 あれは藤がくれたものだったのだ。

 出会ってすぐの頃、「人ならざるもの」の気配にあてられやすい僕を見かねてくれたお守り。


 僕らを繋ぐ唯一の糸。


 それが――その糸が、切れた。


 嫌な予感がした。

 ざらついた不安が、冷たい地面から染み込んでくる。

 背後から、複数の気配が静かに近づいてくるのを感じた。

 一歩、また一歩。

 焦らすような速度だが、着実にこちらへ向かってきている。笛の音色が段々と大きくなり、草履の音や衣擦れの音がはっきりと耳に届く。

 動悸が激しくなる。

 呪いが蠢く。

 近づいてくるそれが何なのか、頭は冷静に予測していた。だが、心の何処かでどうか間違いであってくれと願っている自分がいる。

 すぐそばに迫ったその気配を確かめるのが怖くて、僕は顔を上げることができなかった。


 ついに、笛の音が頭上を通過する。

 僕を避けるように二手に分かれた足音が、僕を通り越して、また何事もなかったかのように列をなして拝殿に向かっていく。


 最初に見えたのは、神職と巫女の後姿。


 そして、後に続くように左側から僕の視界に白い何かが映り込んだ。


「――――」


 それは、暗闇の中に光り輝く白の打ち掛けだった。

 俗に言う白無垢――神前式の花嫁衣裳だ。

 白無垢姿のその人は、介添人に手を引かれ、裾を持ち上げながら時間を掛けて僕の隣を通り過ぎていく。

 真っ直ぐに前を向いているその横顔を見て、僕は言葉を失った。


「――ふ、じ」


 目の前にいる花嫁は、紛れもなく藤だった。

 あれだけ会いたいと、何度も無事を願った彼女だ。

 それなのに何故だろう――僕は安堵よりも、背中にうすら寒いものを感じたのだ。

 彼女は地面に這いつくばる僕に見向きもしない。右側から回り込んで来た全身黒に染まった桔梗と合流すると、大きな赤い和傘を差した付き人を伴って二人はまた並んで歩き出した。


「っ、藤! 目を覚ませ! 騙されるな! そいつは――う、ぐっ……!」


 叫びながら身を起こそうとした僕を、目に視えない力が抑え込む。赤い花弁の紋様が、呻く僕を嘲笑うように地面の上でゆらゆらと揺らめく。

 桔梗は足を止め、振り返った。それに合わせて、藤も静かに向きを変える。


「――騙されている、だと?」


 淡々と僕の言葉を繰り返すその声には、怒りも恨みもなかった。桔梗の中では既に、僕は地を這う虫と同等の扱いなのだろう。


「哀れな男よ。呪いに侵されてとうとう気が触れたか」


 桔梗の目には、憐みさえ浮かんでいる。


「五月蠅い! 藤を返せ……!」


 歯を食いしばってそう怒鳴ると、桔梗は一層憐憫を含んだ溜息を吐いた。


「愚かな……よく見てみたまえ。ここにいるのは正真正銘()()()()()()だ」


「え……」


 意味がよく飲み込めず、僕は口を開けたまま藤に視線を移した。

 綿帽子で顔の半分以上が覆われているせいでよく見えないが、灯籠の火が照らす藤はどんよりと虚ろな目をしていた。

 普段の凛とした切れ長の瞳は光を失くし、能面のように感情が削ぎ落された表情。


「藤……?」


 名前を呼んでも、何の反応も無い。まるで人形のようだ。


「まだ分からぬか。器の方はとっくに()()()()()()()と言っている」


 絶句する僕に、桔梗が顔を歪めて笑った。乾いた笑い声が、音のない空間に響き渡る。

 桔梗が藤の透き通るように白い手を取った。


「藤よ。そなたはこの私の許嫁で相違ないな? これから我らは契りを交わし、夫婦(めおと)となるのだ。そうだろう?」


 藤の反応は鈍かった。

 随分と時間を掛けて桔梗の方に首を回す。そして、濃い紅が引かれた形の良い唇を僅かに開いた。




「――はい、桔梗様」




 その声は確かに藤だった。


 だけどそれは、僕の知る藤ではなかった。






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