其ノ壱 束の間の休息
夢を見た。
とても幸せな夢を。
大事な人と過ごした大切な時間。
幸せに満ちた、短く儚い記憶。
目に映る彼女はいつだって綺麗で、いつだって笑っていた。
その一瞬を、一瞬で終わらせたくなくて筆を握った。
絵の中の彼女は永遠に微笑みかけてくれた。
けれど、絵の外の本物の彼女はあっという間にいなくなってしまった。
それは遠い昔の、僕の――僕の血に刻まれた記憶。
◇ ◇
目に入った光が眩しかった。
学校の湿っぽい陰気な蛍光灯とは違う、柔らかくて暖かい光。何度か瞬きしてゆっくりと天井を見ると、煌びやかなシャンデリアが吊り下げられていた。
「――ここは」
言いかけて、随分と口内が乾いていることに気付いた。喉が張り付き、乾いた咳が出る。息苦しさが取れないまま、僕は目だけで周囲を見渡した。
染み一つない白い壁紙に、毛足の長い高級そうなラグが敷かれた床。窓に引かれた上品なレースのカーテンは、空調に合わせて慎ましやかに裾を揺らしている。
小ぢんまりとしているが、清潔な部屋だ。
僕が寝ているのは、部屋の真ん中に位置している大きなベッドだった。その隣には、アンティーク調の小さなチェストがある。チェストの上には洗面器やタオルが乱雑に置かれていて、部屋の主が一時的に席を外していることを物語っていた。
――ここは桃花の家か。
片田舎に似つかわしくないこの豪邸には、何度か訪問したことがあった。
長期休みに入ると桃花は必ず僕と藤を家に招いた。何をするでもない、ただ他愛もない話をしたり、僕がスケッチをするのを二人が眺めたり、課題をやったり、その程度の集まりだった。だが今にして思えば、そういうひと時こそかけがえのない時間だったのだ。
吐いた息はあからさまに熱を持っていた。
考えなければならないことや、やらなければならないことはたくさんあるはずなのに、呪いに蝕まれた身体は思うように動かない。寝返りも打てずに、僕はただぼんやりと天井の光源を見つめた。
「――あら、目が覚めた?」
静かに部屋の扉が開き、桃花がグラスを片手に入って来た。夜も更けているはずだが、彼女は学校にいた時と変わらず制服姿のままだった。
「はい、お水。身体、起こせるかしら」
背中を支える桃花の手に甘えながら何とか身を起こし、水を口に含む。喉を通る冷たい水が全身に染み渡った。
「……ありがとう。少し、楽になった」
半分ほど中身が減ったグラスを手渡すと、「馬鹿ねえ」と桃花は呆れ顔で言った。
その視線が辿った先は、シーツの上に投げ出された僕の左腕。捲り上げられた袖の下、包帯が肘から下をぐるりと覆っている。
手の甲に刻まれていた呪いの印は、時間の経過とともに侵食範囲を広げており、既に上腕にまで達しようとしていた。オカルト研究部の部室でそれに気付いた僕は、シャツの下にそっとその事実を隠していたのだ。
「どうして倒れるまで我慢してたのよ」
「……はは」
言い訳もせず、僕はただ曖昧に笑った。その態度が気に入らなかったのか、桃花は更に眉を吊り上げた。
「笑って誤魔化すのもいい加減にしなさいよ。あんたはいつもそうやって自分のことをなおざりにするけれど、それでどれだけ周りに心配かけているか分かっているの? これはこみやんだけの問題じゃないんだから、ひとりで抱え込んでたって何の解決にもならないでしょう。もっと他人を頼りなさい」
桃花の言うことは正しかった。だからこそ余計に、自分の不甲斐なさと惨めさが身に染みる。
僕は右手でぎゅっと掛布団の端を強く握り締めた。湧き出る言葉を堰き止めるために握った拳だったのに、どろどろとした感情は抵抗虚しく口から溢れた。
「……でも、他人に言ったところで結局何の意味もないんだ」
桃花は驚いたようにグラスを持ったまま立ち止まった。
「『人ならざるもの』を知らない人に何を言っても無駄なんだ。誰も僕を理解してはくれない。親身になって寄り添ってなどくれない……これまでもずっとそうだった。だからこれからも変わらないよ。人は自分の理解の及ばないことからは目を背ける。都合のいいように解釈する。それで勝手に分かった気になって、適当に憐れんで終わりだ。そんなもの……一体何になるって言うんだ?」
藤と出会う前まで、自分を理解してくれる人などいなかった。
描いた絵が消えることや、得体の知れない気配にあてられて体調を崩すことを話しても、誰も本当のことだと信じてはくれなかった。子どもも、大人も、友達も、家族も。
僕のことを理解して受け入れてくれたのは、後にも先にも彼女だけ。
そう――藤だけだ。
名前のない「何か」の存在に怯えていた日々から僕を救ってくれた人。
――小宮。
まるで絵画のように綺麗な微笑みを浮かべて、そう僕を呼んでくれた人。
「……っ、藤に……会いたい……」
込み上げた心細さは、涙の粒となって零れ落ちる。僕は右手で顔を覆った。
藤に会いたい。
これまでのどんな時よりも強く、そう思った。
「……ったく、ちょっと落ち着きなさいよ。熱上がって来たんでしょう」
ぐずぐずと泣く僕の後頭部に、桃花が氷枕を押し当てる。情けなさと恥ずかしさで僕はしばらく顔を上げられなかった。
桃花は僕の気分が落ち着くまでずっとそうして氷枕を当てながら、もう片方の手で背中を摩ってくれた。「あんたって、本当に馬鹿ねえ」と文句を言いながらも、桃花の小さな手は優しく僕を宥めてくれた。
「――あの後ね」
頬に張り付いた涙の痕が乾き始めた頃、桃花は静かにそう切り出した。
「こみやんが倒れた後、部室からここに運ぶまで、中里くんはずっと付き添ってくれたのよ」
そう言えばすっかり中里のことを忘れていた。
事情を知らない中で、急に目の前で人が倒れたのだ。さぞかし驚かせたことだろう。
「あたしが家に連絡している間も、迎えの車を待っている間も、ずっとこみやんのそばにいてくれた。学校を出る時もあんたの荷物を持ってきてくれたし、うちに着いた時も、部屋に運ぶのを手伝ってくれたわ。さすがに夜も遅いから家に帰したけれど、最後までこみやんのこと凄く心配してたのよ」
暗闇の中、僕の名前をしきりに呼ぶ中里の声は朧げに覚えている。強引に巻き込んだ上、迷惑まで掛けてしまったことに僕は項垂れた。心中を察したのか、桃花が「話は最後まで聞きなさいよ」と続けた。
「彼は言っていたわ。詳しいことは分からないし、これ以上は詮索しないけれど、もし手が必要な時が来たら教えてくれって。自分にも何か手伝えることがあるかもしれないからって」
「中里が……」
桃花は「そうよ」と頷いた。
「確かにね、世の中こみやんの言う通りよ。『人ならざるもの』がどうとか関係なく、そもそも他人はどう足掻いても他人。自分の痛みは例え目の前の相手にだって共有することはできない。人間ってそういうものなのよ……でもね、中には彼みたいに、例え同じ世界を視ていなくても、手を差し伸べてくれる人もいるんだってことを覚えておきなさい。藤のように全てを見通してくれる存在は何物にも代えがたいけれど、周囲の人の力を少しずつ借りれば、それは藤と同じぐらいとても心強くて大きな力になるものよ」
ああ、そうか。
僕はようやく気付いた。
――小宮、お前――大丈夫か?
あの時中里は、あまりに酷い僕の顔色を心配してくれていたのだ。
そのことに思い至らなかったのは、僕自身がちゃんと中里と向き合っていなかったからだ。誰も僕のことなど気に掛けてくれやしないという卑屈さが、自分の視野を狭めていた。相手のことを本当に理解しようと努めていないのは、結局僕も同じだったのだ。
「だから藤のことも、呪いのことも、ひとりで抱えるのはやめなさい。辛い時は素直に辛いと言いなさい。こみやんは決してひとりじゃないわ。気付いていないだけで、あんたを支える人はたくさんいるのよ」
普段と違って落ち着いた、諭すような桃花の声に、僕はまた泣きたくなった。
今の今まで、藤を助けるには自分が何とかしないといけないと思い込んでいた。この事態は僕が招いた結果だと葵に責められた時も、僕は何も言い返せなかった。
でも、現に桃花にも、葵先輩にも、そして中里にも助けられている。
むしろ何の力にもなれていないのは、僕だけだ。
桃花は腰を上げて、枕もとの装飾がかったランプを暗くした。
「さあ、分かったならもう少し休みなさい。あんたが今やるべきなのは、しっかりと身体を休めることよ。呪いを解く方法が見つかる前に、あんたがくたばったら意味ないんだからね」
「でも、こうしている間にも藤が……」
「……そうね。もちろんこみやんの心配もよく分かるわ」
桃花は洗面器を抱えながら、意外と冷静に答えた。
「だけどね、あたし考えたのよ。ほら、藤にはご先祖様がついているじゃない? 例え『人ならざるもの』とはいえ、藤と十六年の歳月をともにしたご先祖様が、果たして藤を見殺しにするかしら」
「それは……」
言われてみればそうだ。
藤が殺されるのを彼女にとり憑いているご先祖様が指をくわえて見ているとは考えにくい。
そもそも、彼女は桔梗に対抗する何かしらの切り札を持っていてもおかしくはないのだ。藤の祖母は、まさにこの時のために産まれて間もない藤に彼女をとり憑かせたのだから。
「きっと大丈夫よ。藤のことはご先祖様が守ってくれるわ。だから今は焦って暗闇を駆けずり回るより、力を温存して朝を待ちましょう」
「――そう、だね」
壁掛け時計の針はとっくに零時を回っている。藤が連れ去られたのは、既に昨日の出来事だ。
絞り出した声の響きで、僕が納得していないことをきっと桃花は見抜いたはずだ。だけど桃花はそれ以上追及することなく消灯した。
「桃花」
暗くなった部屋を出て行こうとした彼女を、僕は咄嗟に呼び止めた。半開きの扉の隙間から伝い漏れる廊下の明かりが、振り向いた桃花の顔に陰影を刻む。
「なあに? こみやん」
僕は喉までせり上がって来た言葉を、すんでのところで飲み込んだ。
「――ううん、何でもない」
桃花は「おやすみ、こみやん」と言って静かに扉を閉めた。
――おやすみ、桃花。
暗闇の中、僕はそっと呟いた。




