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藤小宮物語  作者: トウコ
最終章 結んだ縁と切れた糸(前編)
31/42

其ノ参 招かれざる来訪者

 その男はあまりにもこの学校という空間にそぐわない出で立ちをしていた。


 立派な黒の紋付羽織袴を身に付け、同じく漆黒の短い髪の毛をピッタリと撫でつけている。足元は白い足袋に草履。まだ年若いように見えるが、その顔つきは精悍で、全身に纏う雰囲気には貫禄があった。

 中庭で見かけた時以上に美術室(ここ)にその男が存在することの違和感が大きく、まるで彼だけ背景から浮いているような錯覚がした。何だかとても不気味だ。

 男の黒い目はじっと藤を捕らえて離さない。男は他の誰でもない、藤だけを見ていた。


「……誰だ?」


 警戒するように低く問う藤に、男は引き結んでいた口元を緩めた。


「――私の顔を忘れたと? そんな寂しいことを言うな、藤よ」


 その言い方はとても親しげで、一見すると彼は藤と知り合いのようにも思えた。だが、そうではないのは藤の態度から明らかだ。


「久方ぶりの再会ではないか。さあ、その顔をもっとよく見せておくれ……」


 男は僕と桃花のことなどまるで視界に入らないようで、恍惚としながら藤に向かって歩み寄ろうとした。僕らはそれを阻むように、藤の前に立ちはだかる。


「……どちら様ですか?」


「まずはそっちが名乗りなさいよ、不審者。警察呼ぶわよ?」


 廊下でうろうろしていた僕の時以上に、桃花が厳しく言い放つ。男はようやくこの場に藤以外の姿を認めると、ほんの一瞬だけ視線を尖らせた。そしてすぐに社交辞令の表情を作り、恭しく名乗った。


「――ああ、これは申し遅れた。私は桔梗(ききょう)。藤の許嫁(いいなずけ)である」


 藤の許嫁――?


「……え、何、どういうこと?」


 桃花が僕の袖を引っ張って小声で尋ねてきたが、狼狽する僕にはまともに返答できない。どういうことかと訊きたいのはこっちの方だ。


「人違いじゃないか。私には許嫁などいないし、お前のことも知らない」


 僕の頭の後ろから響く藤の声は、一層冷たくなっていた。その声が自分に向けられた時のことを考えるとぞっとするが、今はそれが許嫁など何かの間違いなのだと僕に思わせてくれる唯一の救いだった。

 だが男は怯むことなく一歩ずつ歩を進める。


「つれないことを言うな。私たちは結婚を誓った仲じゃあないか。そなたは記憶を失っているだけだ。そのうちにきっと思い出す。だから、私とともに行こう。もう一度、あの日の続きをしよう」


 藤の言葉は男に全く届いていなかった。その上、既に僕らの存在も完全に視野の外だ。彼が僕らを無視して距離を詰めてくるせいで、僕と桃花は藤を背後に守りながら、二、三歩後退せざるを得なかった。


「悪いが、お前の妄言に付き合っていられるほど暇じゃない」


 藤の声に、若干の苛立ちが滲む。それを引き受けて、桃花が男を牽制した。


「そういうことだから、お引き取り願えるかしら? 残念だけど、貴方の許嫁はここにはいないみたいよ」


「いいや、私が間違えるはずがない。そんなことはあり得ない。あの日から長い時が経っているせいで、そなたは忘れてしまったのだ。愛すべき己の許嫁のことを」


「でも、藤は貴方のことを知らないと言っていますよ。何かの間違いなんじゃないですか?」


 男は初めて僕の存在に気付いたと言うような仕草で、口を挟んだ僕に僅かばかり意識を向けた。身長差で見下ろすように僕の顔面を数秒凝視した男は、大きく目を見開いたかと思うと、突如僕の胸倉を強く掴んだ。


「うわっ……」


 屈強な男に力任せに引っ張られて踵が浮く。強制的に向かい合った男の瞳の奥で激しい感情が燃え上がっていた。本能的に背筋が凍る。


「まさか、あの絵を描いたのは貴様か?」


「……?」


「とぼけるな。先日ここで宴が催された時に飾られていた藤の絵、あれは貴様が描いたものかと訊いている」


 もしかして文化祭の展示のことだろうか。確かにあの絵には藤の姿が描かれているけれど、それが一体何だと言うのだろう。


「そうですけど、それが――」


 言い終える前に、男は「やはり貴様か!」と口角泡を飛ばして怒鳴った。


「私から藤を奪っておきながら尚も彼女の隣に居座るとは……! 貴様という男はどこまで私を愚弄すれば気が済むのか!」


「うう、苦し……」


 シャツを掴まれたまま大きく揺さぶられて、視界がぐるぐると回る。首が締まりかけていることを手を叩いて知らせても、男は一向に力を緩めようとはしなかった。これだけ怒りに身を燃やしていてるのに触れた男の手はぞっとするほど冷たい。


「ちょっとあんた、こみやんを離しなさいよ!」


 桃花が男から僕を引き剥がそうとしたが、びくともしない。それどころか、男は更に僕をきつく締め上げた。


「あの日我らの婚儀を邪魔だてしたことですら許されない暴挙。その上再び彼女を私の手から奪おうとするなど……! その身を刻み、炎で焼き尽くして尚、私の前に蘇るとは何たる身の程知らずか! 貴様のその計り知れない強欲さが罪もない者の一生を狂わせたことを思い知らせてくれるわ――!」


 いくら吸っても酸素が肺に届かず、じわりと視界が狭まる。目の前で男が叫んでいる言葉の意味がほとんど頭に入って来ない。駄目だ。まずい。必死にもう一度手を伸ばし、男の手を振り払おうとしたその時だった。


「――そこまでだ」


 僕と男の間に割り込んだ藤が、着物の袖口から伸びる男の太い手首を掴んでいた。男の怒りで全体的に上昇した美術室内の温度が少しだけ和らぐ。男の力が緩んだ隙に、僕は喘ぎながら酸素を取り込んだ。


「何故だ、藤。何故止めるのだ。この男は――」


「これ以上小宮に手荒な真似をしてみろ。今すぐここから()()()()()()


 その言葉に、桃花が息を呑むのが聞こえた。

 彼に抱いていたそこはかとない違和感の正体がはっきりとした。この男の存在が、中庭で見た時も、美術室内においても、その場にそぐわないように見えたのは――


 この男が「人ならざるもの」だったからだ。


「嘘でしょ……? だったら何であたしにも視えているのよ……?」


 桃花の言葉で、僕は遅ればせながらその事実に鳥肌が立った。

 確かに今、目の前には古風な装いをした青年がいて、彼はその逞しい腕で貧弱な僕を物ともせずに捻り上げている。僕は「人ならざるもの」を視て、その手に触れているのだ。


「落ち着け桃花。この『人ならざるもの』は、人の身体にとり憑いているんだ。だから二人に視えていても何もおかしくはない……お前、その身体はどこで手に入れた?」


 パニックに陥りかけた桃花を宥めながら、藤は男を追及する。


「何を言っている? 私は私のままだ。何も変わりはしない」


「嘘を吐くな。その身体の持ち主は、随分と昔に命を落としているじゃないか。お前のせいか?」


 男はしばらく黙って藤を見下ろしていたが、やがて観念したように息を吐き出した。


「……確かにそなたの言う通り、これはその昔(かどわ)かした童の(むくろ)。だが、顔かたちは元の私の通りに再現している。一目見れば私のことを思い出すと思ったのだが……やはりもっと上等な器を探すべきだったな」


 男は少し残念そうにそう言った。そこには罪の意識など一欠片も見当たらなかった。

 目の前の男は人の形をしていても、その中身は「人ならざるもの」。僕の知っている常識や、倫理観など持ち合わせているはずもないのだ。

 僕の眼前に浮かぶ青白い――死者の顔。熱っぽく藤を見つめるその黒い瞳だけが生気を帯びていて、気味が悪い。


「……何のために、お前は罪なき子どもの命を奪った?」


「何のため? 決まっている。そなたに会って、もう一度あの日の続きを行うためだ」


「さっきからあの日あの日って、一体何なのよ? 藤とあんたは面識ないって言ってるじゃない。ありもしない過去を捏造して藤を誑かそうって魂胆?」


「ありもしない――だと?」


 男の声が一段低くなった。男は突き飛ばすようにして僕から手を離すと、今度は桃花に詰め寄った。よろめいて尻餅をついた僕の隣、小柄な桃花を男の影が覆った。


「な、何よ……」


 たじろぎながらも、桃花は真っ直ぐ男を見上げた。


「結婚を誓った許嫁が、あろうことか婚儀の当日別の男に奪われたことが、ありもしない過去だと? 紛い物の記憶だと? 娘よ、お前に一体私の何が分かるというのだ?」


「あんたの事情なんて知ったこっちゃないわよ。でもね、人様に迷惑をかけてまで押し通さなきゃいけないものなんてないわ」


「迷惑? 夫が奪われた我が妻を迎えに来ることが迷惑だと?」


「ええ、そうよ」


「これ以上ない正当な理由ではないか」


「相手が間違ってなければ、ね」


「何度も言わせるな。私は藤の許嫁であり、彼女は今まさに、ここに――」


「――なるほど。そういうことか」


 そう呟いたのは藤だった。全員の注目が彼女に集まる。


「お前の探している相手は――()()の方だな」


 その言葉に男はスッと目を細め、


「――ほう」


 と呟いた。それから時間をかけて、藤を見定めるように頭からつま先まで見回す。その後、得心したように頷くと、一歩藤の方へ踏み込んだ。草履が床に擦れる音が、不穏な展開を予感させた。

 男が予告もなくゆっくりと腕を振りかぶる。その狙いは、藤ただ一人に定められていた。

 僕は咄嗟に立ち上がった。言葉で警告することもできないまま、手前に立っていた桃花を押しのけ、両手で藤を突き飛ばす。藤の身体が傾くと同時に、僕の突き出した左手を男の爪が掠めた。


「っ……!」


「――失敗したか」


 床に倒れ込んだ僕らの上に、男の舌打ちが降って来た。僕は藤の無事を確認し、身を起こして男に詰問した。


「藤に何をしようとしたんだ……!」


「いや、何、大したことではない。少し、()()()には黙っていてもらおうと思ったまでだ」


 平然とした言い方に血の気が引いた。

 男は、床についた僕の左手の甲に自分がつけた赤い線を確認すると、ニヤリと口端を引き上げた。


「――まあ良い。それより貴様と再び相まみえたのもきっと天の定め。ここで一つ、我々の邂逅を祝そうではないか」


「何を……、ぐっ!」


 言いかけた僕の左手を男が掴み取った。無理やり引っ張られた腕が悲鳴を上げる。


「貴様に祝福を贈ろう――呪いと言う名の祝福を」


「やめろ……! 小宮を離せ!」


「こみやん!」


 藤と桃花がそれぞれ別方向から男に掴みかかろうとしたが、それよりも男の方が早かった。

 男の節くれだった指が、手の甲の傷をなぞる。と同時に、鋭い痛みが走った。反射的に目を瞑り、歯を食いしばってその痛みに耐える。何が起きたのかさっぱり分からない中で、優越感に浸った男の声が響いた。


「貴様にかけた呪いは、これから徐々に貴様の命を蝕んでいくだろう。持って明朝だ。それまで己の犯した罪と向き合うが良い」


――呪い。


 男が口にしたおぞましい単語は、やはりこの美術室にはそぐわなかった。

 どことなく現実感を失ったまま、それが何を意味するのかよく分からないまま、薄っすらと目を開ける。


「……今すぐ呪いを解け。でなければここでお前を祓う」


 そう詰め寄る藤を、男は鼻で嗤った。


「やれるものならやってみれば良い。ただ、私を祓おうとすれば――」


 男が掴んだままの僕の左手を見やる。それを合図に、赤い傷痕が意志を持ったかのように蠢きだした。肌の上を容赦なく赤い線が広がって行くのに合わせ、再び恐ろしい痛みが僕を襲った。


「あっ……う、あ……!」


 声にならない呻きが、勝手に口から飛び出ていた。噴き出した脂汗が額から伝い落ちる。正面にいるはずの男の声が、何重にも張った膜の向こう側に聞こえた。


「――こういう結果になるが、それでも良ければ好きにするといい」


 藤は唇を噛みしめて、男を睨んだ。僕の目線の高さで握られている藤の拳が、小さく震えていた。


「――分かった。お前には手出ししない。だから小宮を離せ」


 男は藤の押し殺した声に、満足げに微笑んだ。ぞんざいに僕から手を離すと、その手を今度は藤の前に差し出す。


「さあ、藤よ。私とともに来るが良い。儀式の準備は既に整っている。あとはそなたの支度を済ませれば、愈々(いよいよ)あの日の続きだ」


「駄目よ! そんな奴の言うことなんか聞いちゃ駄目!」


「そなたが来なければどうなるか――言わなくても分かるだろう」


 藤はちらりと僕の方に視線を投げかけた。ぎゅっと眉を寄せる藤は、僕以上に何か痛みを堪えているような、そんな表情をしていた。


「藤――」


 思わず僕が口を開きかけた時だった。


「私はもう十分長いこと待ったのだ。これ以上待たせてくれるな、藤」


 藤の意識が男から離れた一瞬のことだった。

 トン、と男の指先が藤の額に触れた。驚いたように目を見開いた直後、藤の長い睫毛に縁どられた瞼が重力に従って落ちて行く。

 ぐらり、と藤の身体が傾いだ。


 まるでスローモーションのように、


 僕の目の前で、


 ゆっくりと、


 藤が崩れ落ちる。


「藤――!」


 反射的に駆け寄ろうとしたが、視えない結界が張られているかのように、僕は藤に近づけなかった。別の角度から藤に手を伸ばそうとした桃花もまた、何かに阻まれているかのように藻掻いている。


「ちょっとあんた! 藤に何をしたのよ!」


「藤! 目を覚ませ! 藤……!」


 全ての雑音を無視し、男は倒れ伏した藤のそばに膝をついた。そして彼女の頬を、愛おしそうに人差し指で撫でた。


「手荒な真似をしてすまないが、辛抱してくれ」


 藤は完全に意識を失っているようで、微かな反応も見せずに固く目を閉じている。男は藤を抱きかかえると、そのまま扉の方へ踵を返した。


「待ちなさいよ!」


「藤を離せ!」


 男は僕らの制止も無視し、一度も立ち止まることなく扉の向こう側に姿を消した。

 途端、美術室内がぐにゃりと歪んだ。足場が無くなり、捻じれる空間に揉まれながら暗闇へ吸い込まれて行く。


 強く瞑った目の奥に、藤を連れ去った男の姿が焼き付いて離れなかった。






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