其ノ参 花の絵と藤の忠告
去年文化祭で展示したのは、花瓶にいけた花の絵だった。
その絵は、片付けの最中どこかに行方をくらませた。
そして後日、真っ白になったキャンバスだけがゴミ捨て場で発見された――
◇ ◇
春奈が美術室を訪れるようになると、比例するかのように藤の足が遠のいた。
僕らはクラスも違うため、部活に参加しないと顔を合わせる機会がめっきり減ってしまう。
藤がいない美術室はいつもよりがらんとして見えた。年中薄暗い美術室の陰気さが余計に増しているのも、何だか藤がいないせいに思えた。
「……わたし、藤先輩に嫌われているんでしょうか……」
春奈はそんなことを言った。今日も藤の姿が見えないことを、一応気にしているようだ。
「……それは、どうかなあ」
僕は曖昧な笑みで濁した。藤が個人的な感情で人を嫌ったりすることはないと思うけれど、それを伝えたところで大した慰めにもならない。
それに藤が美術室を避ける理由を知りたいのは、どちらかというと僕の方だった。
鞄からクロッキー帳を出し、定位置に座る。春奈はもはや遠慮もなく僕の隣に腰掛けた。
「それより、先輩。こないだの話ですけど、少しは考えてくれました?」
「君のために、絵を描くって話?」
「そうです。描いてもらえますか」
僕は鉛筆を走らせたまま押し黙った。
「……どんな絵がいいの?」
しばらくしてからそう訊くと、春奈は目を輝かせて声を弾ませた。
「お花が良いです! 去年と同じ、色とりどりのたくさんの花。そういう絵を、もう一度見たいです」
「花、か……」
僕は苦笑いした。
去年の文化祭のことを思い浮かべてみたが、掬い上げられた記憶は酷く朧げで断片的なものばかりだった。
あの時僕は、「人ならざるもの」にとり憑かれていた。
僕にとり憑いた「人ならざるもの」は、僕に花の絵を描かせた上でそれを盗んでいったのだ。
それが何のため、誰のためだったのかは分からない。
けれど――
――小宮が無事で良かった。
正気に戻った時、最初に目に映ったのは心底安堵した藤の顔だった。
その表情を見て「綺麗だな」と場違いな感想を抱いたことはよく覚えている。
彼女の頬に絆創膏が貼られていたことに気付いたのは、だいぶ後になってからだった。
「――先輩?」
春奈の声で、現実に引き戻された。
僕の心を見透かすように、色素の薄い瞳がジッとこちらを向いている。
「今、何を考えていたんですか?」
「……いや、去年のことを、ちょっとね」
「先輩は嘘が下手ですね。分かりますよ。藤先輩のこと、考えていたんでしょう」
図星の僕は、上手く取り繕うこともできずに頬を掻いた。
「……女の子って、どうしてそういうことに鋭いんだろう……」
「先輩が鈍感なだけです」
「……悔しいけど言い返せないな」
僕が笑うと、つられて春奈も笑った。
春の陽気のように、柔らかい笑みだった。
「――さて、先輩。少しは絵を描く気になってくれましたか?」
お互いに他愛のない話をしたあと、春奈が再度尋ねた。
勝算があるのか、自信を含んだ声に少し申し訳ない気持ちになる。
僕の意志は既に固まっていた。
「悪いけど、僕は――とある人と交わした約束を、破るわけにはいかないんだ。だから君の要望に応えてあげることはできない。ごめんね。でも、君が僕の絵を好きだと言ってくれたことは本当に嬉しかったよ。ありがとう」
「……そう、ですか……」
言葉尻をすぼませ、春奈は俯く。
言い方には気を遣ったつもりだったが、想像以上の落ち込みように僕は狼狽えた。
もしかして、泣かせてしまっただろうか。
傷つけてしまっただろうか。
「――残念です、先輩」
だが、予想に反して放たれた言葉は冷たく尖っていた。
「本当に、残念です。先輩」
春奈の声が、揺らめいた。空気が急速に温度を下げる。
前髪の隙間から覗く春奈の眼光がやけに鋭い。
グワン、と景色が歪んだ気がして僕は眩暈を覚えた。
「……っ!」
慣れ親しんだあの気配が濃くなった。
美術室を満たすのは紛れもなく「人ならざるもの」の気配。
だけど、やはりおかしい。
春奈は僕に視えている。
言葉を交わしている。
触れられるのに、何故――
「こみやん、いるー?」
場違いに呑気な声が、扉を開ける音とともに響いた。
同時に張り詰めていたものが、パチンと弾けて一気に収束していく。
キョトンとした顔で、桃花が扉の前に立っていた。
「――なに、今の」
室内の異様な空気を察知したのか、桃花は眉を顰めた。
「こみやん、一人?」
春奈も一緒と言いかけて口を噤んだ。
隣にいたはずの春奈の姿はなかった。
「藤は野暮用があって今日も休むって。春奈は? いるの?」
「――いや、今日はまだ来てないよ」
目が泳いだ。だが桃花には気付かれなかったようだ。
「あらそう。珍しいわね。いつもならとっくにやって来て、こみやんにピッタリくっついて離れないのに。あの子、絵を見たいなんていうのは口実で、本当はあんたのことが好きなんじゃないの?」
「……そういう邪推は、彼女に失礼じゃないかな」
「ま、こみやんは平凡を絵に描いたような人間だもの、年頃の女子高生には少々退屈かもしれないわね。そんなことより見て、これ。この近くに新しく洋菓子のお店がオープンしてね――」
いつの間にか室内は元の空気を取り戻していた。
春奈の姿は、やはりどこにもなかった。
◇ ◇
美術室に向かう足取りは日に日に重くなっていった。
「はあ……」
放課後、部活動に向かう生徒の波に揉まれながら、廊下の途中で壁に手を付いて息を整える。
このまま今日は帰ってしまいたい。
身体以上に、気持ちが重かった。
春奈は「人ならざるもの」なんじゃないか――
僕の中の疑いは、日に日に増していった。
彼女の人間離れした佇まい。
空っぽの箱のような身体。
僕の絵を欲しがるということ。
そして何より――春奈という名前の生徒がこの学校に在籍していないという事実。
昼休み、こっそり持ち出した生徒名簿の中に彼女の名前は無かった。
予想通りではあったが、そうなるとますます腑に落ちない。
どうして春奈は、僕に視えるのだろう。
行き交う生徒たちは、けたたましい笑い声をあげながらそれぞれの目的地へ足早に去っていく。廊下の片隅で立ち尽くしている僕に、他の生徒は目もくれない。
身体を支えるのが億劫になり、目を閉じて頭を壁に預けた。
暗闇の中研ぎ澄まされた聴覚が、複数の人の息遣い、足音、衣擦れの音を拾う。これだけ沢山の人がいても、僕の名前を呼んでくれる人は誰一人いない。
「――小宮?」
凛とした声だった。
目を開けるとそこに藤がいた。
たった一週間。彼女と顔を合せなかったのはたった一週間のことなのに、とても長い間会っていなかったような懐かしさが込み上げた。
長い髪と膝丈のスカートが、窓から吹き込む風にささやかに揺れる。藤を取り巻く空間だけが澄んだ空気に満ちていた。
何故だかその姿にホッとして、僕は無性に泣きたくなった。
僕はこの一週間ずっと――藤に会いたかったのだろう。
「……顔色が悪いな」
藤が僕の頬を両手で挟んで持ち上げた。
「そうかな……」
はにかむと、彼女は「無理に笑わなくていい」と柳眉を寄せた。
「……大丈夫か? とても疲れたような顔をしている」
「そう言う藤も、何だか疲れた顔してるよ」
最近全然部活に来ないけど、どうしたのか――そう訊こうか迷っていると、向こうから切り出してきた。
「……ここのところ、美術室に行かなくてすまない。その――」
口ごもり、藤は遠くを見た。生徒の波が引き、静けさを取り戻した白い廊下の中で、僕はそっと問い掛けた。
「――行かないんじゃなくて、行けなかった?」
「…………」
「それはもしかしたら――彼女――春奈が何か関わっているのかな」
春奈は一体何者なのか。
どうして彼女は僕に視えるのか。
その理由を、きっと藤は知っているのだろう。
「――小宮。これだけは言っておく」
だが藤は、僕の問いには答えなかった。
「この先何があっても良いように、あの鈴だけは肌身離さず持っていてくれ」
「……それって、お守りの鈴のこと?」
それは以前、藤が僕にくれた小さな鈴。
「ああ。あれには私の力を込めてあるから、きっと役に立つだろう」
「……うん、分かった」
ポケットの中にその存在を感じながら、僕は頷いた。
結局藤は、春奈について一切触れようとはしなかった。
だから僕も何も訊けないまま、藤の背中を見送った。