其ノ壱 藤の告白
大事な話がある。
ついに藤がそう切り出してきたのは、文化祭が終わって二週間後。左手の包帯も取れて、ようやく不自由な生活から解放された頃だった。
昼休み、久しぶりに中庭でスケッチでもしようかと教室を出たところで藤とばったり出くわした。美術室以外で会話をする機会がほとんどない彼女が、向こうからわざわざ僕の元へ足を運んだ時点で、胸騒ぎがした。
教室の戸口に立った藤は、神妙な面持ちで「放課後、大事な話がある」と告げた。僕は一瞬頭の中が真っ白になり、何か返事をしなければと開いた口はそのまま固まり、最終的に面白みの欠片も無いような「分かった」という一言を何とか絞り出した。
藤が去った後も、僕は暫く腕にクロッキー帳を抱えたまま放心した。
「――では、教科書の百五十三ページを開いて。今日の範囲は中間試験にも出るので、漏れなく板書するように」
五時間目の古典。
眠気を誘う教師の声も、形だけ開いた教科書も、その内容はほとんど頭に入ってこなかった。大事な話とは一体何なのか。授業中、僕の思考はただその一点にのみ集中していた。
どうして藤が「人ならざるもの」を視ることができるのか、とか。
僕が藤の絵を描く理由が何なのか、とか?
あとは何だろう。確かにこの時を待っていたはずなのに、藤に訊きたいことはたくさんあったはずなのに、こうしてその機会が目前に迫ってきた途端思い浮かばなくなってしまう。
白いままのノートに目を落とし、どこまでも平行に引かれた罫線を眺めた。
初めて藤と出会ってから、もう一年半ほど経つだろうか。
その間、藤自身のことや「人ならざるもの」のことなど、知りたいと、教えて欲しいと思ったことはたくさんあった。けれど、藤はとても自然な振る舞いで僕の疑問を遠ざけた。だからはぐらかされたと気付いた時にはもう僕は何も言えなくなって、藤との間にある透明な壁は少しずつ時間を掛けて高くなっていったのだ。
彼女は以前、僕らの間にある距離を「自分の臆病さ」だと表した。今になってそれを重く実感する。藤の言う「大事な話」を聞いた後、果たして僕らの関係はこれまで通り続くのか。僕らの間にある壁が取り払われた後、僕らは今までと同じように笑い合えるのか。そこに期待より不安を感じるのは、多分、僕も臆病だからだ。
「――であるから、ここの死ぬれどもというのは、動詞『死ぬ』の活用の一つ、仮定形であることが分かりますね。それを踏まえたうえでここの文章を訳すと、『例え死んだとしても、私があなたと添い遂げることはないでしょう』となります。復習になりますが、ナ行変格活用は『死ぬ』と『去ぬ』だけに見られる変則的な活用になりますね――」
綺麗なままの教科書は折り目が付きにくく、時間が経つにつれて元の形に戻ろうとしていた。パラパラとひとりでに捲れるページを開き直しながら、また頭の中に彼女の姿を思い浮かべる。
藤が自分のことを話そうと決めたのは、十中八九文化祭がきっかけだろう。
あの時零れた本音を僕が聞いていたことは知らないはずだ。微睡の中、心情を吐露する藤の声はとても苦しそうに聞こえた。
あれから二週間。藤はずっと考えて、考え抜いて、決心したに違いない。
だから、僕もちゃんと向き合わないといけない。
例え藤が何者であっても、どんな経歴を持っていたとしても。
分かっている。頭ではそう分かっているけれど、心がまだ戸惑っていた。
「はい。では次のページ、一行目から十五行目までを読んでください――」
出席番号順に当てられた男子生徒が、立って古文を朗読する。ごちゃごちゃと感情が入り乱れる僕の脳内とは反対に、室内は静寂で満たされていた。
淡々と空間に響く朗読を聞きながら、先走って早鐘を打つ鼓動を鎮めるものを探す。
ふと机の中からはみ出している一枚の用紙が目に入った。先週配られた進路希望調査表だ。締め切りが迫っているのに、まだ空欄のまま提出できずにいた。
高校二年の秋を過ぎ、僕らは本格的に進路を考え始める時期に差し掛かっている。
今はまだ、やりたいこともなりたいものも、何一つ思い浮かばない。
僕はこの先どうなりたいのか、僕自身よく分からないままだ。
そういえば、桃花は将来何になりたいのだろう。
藤はこの先、どんな道を歩いて行こうと思っているのだろう。
一年半も一緒に時間を過ごしたのに、そんなことも訊いたことがなかった。
思った以上に、僕は彼女たちのことを何も知らない。何も知らないまま、既に卒業までの折り返し地点を過ぎようとしていた。長くてもあと一年半しか、彼女たちとあの美術室での時間を共有することができないのだ。
「――じゃあ君、ここの一文を訳してください」
隣の席の女子生徒が当てられ、慌てて僕は思考回路を授業に切り替えた。プリントを机の中に押し込むと、たちまち紙はぐしゃりと丸まる。折り目のついた部分を指で伸ばしてみても、元には戻らなかった。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
日直の号令に合わせて、生徒たちはガヤガヤと騒々しい音を立てながら起立をする。窓際の一番後ろの席で、僕も一拍遅れて立ち上がった。
礼をしながら目に入ったのは窓の外、中庭の景色。いつも僕がスケッチをする古い木の近くに、人影が一つ。学生でも、教師でもないような、校内の風景にそぐわない風貌の人物だ。
抱いた違和感の正体を掴もうと窓から少し身を乗り出したその時、まるで僕の視線に反応したかのようにその人が顔を上げた。
「……!」
ゾクリと背筋を這い上がる悪寒に、僕は反射的に目を背けた。
見てはいけないものを見てしまった――そんな予感。
「小宮ー、次体育だぞ。早く準備しないと」
体操着に着替えながら前の席の男子生徒が振り向いた。
「あ……ああ、うん」
シャツのボタンに手をかけながら恐る恐るもう一度中庭を見下ろしてみたが、そこにはもう誰もいなかった。
◇ ◇
放課後、美術室の扉の前。
僕はごくりと唾を飲み込んで、二、三度深呼吸をした。それでも動悸が止まらなくて廊下を何往復かしているところを、後から来た桃花に見つかった。
「――何やってんのよ、この不審者」
呆れた桃花に背中を思いっきり叩かれた。相変わらず容赦ない。背中を押さえて悶絶する僕を、桃花はぐいと美術室に押し込んだ。
「ほら、さっさと入りなさいよ。体験入部じゃあるまいし」
「ちょっ、待っ……」
「お待たせ、藤」
たたらを踏む僕の横を、桃花が涼しい顔して通り過ぎる。桃花は普段通りの調子で荷物をおろし、藤の前に座った。さっさと座れと桃花が視線で命じて来たので、慌てて僕も定位置に着席する。
藤はいたって落ち着いた様子で僕らを見渡した。
「――まず、突然大事な話があるなんて言って驚かせたことを謝りたい。決して不安を煽りたいわけではないのだけど、ただ、これから話すことは色々とその……複雑なところもあって、二人には心の準備をしておいてもらった方が良いかと思ったんだ」
「大丈夫よ。あたしたちはいつだって準備万端だもの。ねえ、こみやん?」
急に同意を求められ、「え? ああ、そうだね……」と上ずった声になってしまった。内心の動揺を悟られたかと思ったが、気に留められることはなかった。
「それから、二人に関わる重要な話を今になって持ち出してすまない。本当はもっと早くに、それこそ最初に会った時に話しておくべきことだったのだが――」
「何言ってるのよ。藤が自分から話したいと思えるようになったことが、あたしは何より嬉しいわ」
「……そう言ってもらえると気が楽になるよ」
薄く微笑む藤に、夏休み、線香花火の灯りを掲げながら交わした言葉が蘇る。
――だからこの先、もし藤が話したいと思うその時が来たら、教えて欲しい。藤の思っていることを、藤の視ている世界のことを。
――……ああ。その時が来たら、必ず。
夏休みの時点では、「その時」はもっと先の未来だろうと漠然と想像していた。少なくとも、一つぐらい季節が進んでいるはずだと。
だが、どう考えてもまさしく今が「その時」だ。
「何から話したら良いか、色々と考えたのだけど……結局うまく纏まらなくてね」
「良いのよ。藤の思うままに話してちょうだい」
「分かりにくいところがあったら、遠慮なく訊いてくれ」
「ええ、分かったわ」
「なあ、藤……」
桃花との会話の切れ目に差し挟んだ声は、自分が思っているより弱気な響きを持っていた。
「どうした? 小宮」
「本当に、僕らで良いのか? そんな大事な話……いや、まだどんな話なのかは分かんないんだけど、でも……僕にそれを聞く資格があるんだろうか」
「あんたねえ、今更何言い出すのよ」
「いや、だってさ……」
隣の桃花に水を差すなと睨まれ、僕は口ごもる。藤はそんな僕を笑ったりはしなかった。
「……確かに少し前までは迷っていた。本当のことを話して二人に嫌われたくないという気持ちが私の中に根強くあったからだ。だけど今は、大切な人だからこそ隠し事をしたくないという思いの方が強い――だから大丈夫だよ、小宮。二人だからこそ全てを知って欲しいと、私は心からそう思っている」
――私は臆病だから、怖いんだ。
夏の川辺で迷子のような顔をしていた少女はもういなかった。
「――そっか。分かった」
僕は改めて藤に向き直った。
藤の決意は固い。最早後戻りはできない。
いつもの放課後の美術室。
今日だけは、いつもと違う緊張した空気が満ちていた。
◇ ◇
「……まずは、そうだね。私がこうして話をしようと思ったきっかけから伝えるべきかな」
藤はゆっくりと、しかし迷いなくそう切り出した。
「既に察しているだろうけど、先日の文化祭の一件で、私は自分が犯した過ちの重さに改めて気付かされたんだ。私はこれまで、自分にとって都合の良いように小宮を利用してきた。小宮の才能を、絵を描く時間を搾取し続けてきた。それが悪いことだと分かっていながらも、私はずっと見て見ぬふりをしてきたんだ」
大袈裟なくらい喜怒哀楽を表現する桃花と違い、藤は普段から起伏の少ない話し方をする。初めこそいつも通り話しているように聞こえたが、途中から彼女が意図的に感情を押し込めていることに気付いた。藤は自分自身に対する静かな怒りを抱えていた。
「それは違うよ、藤。別に僕は利用されたなんて思ってない。僕は自分が描きたいから藤の絵を描いている――ただそれだけなんだから」
「……そうだね。小宮は優しいから、きっとそう言ってくれるはずだと私は甘えていたんだ。だけどね、小宮。それでも私は、やはり君にきちんと説明するべきだったんだ。どうして君に絵を描いて欲しいと頼んだのか、それがどういう意味を持つのか。小宮が絵を描くということはすなわち、『人ならざるもの』の世界と接するということ。それが君にとって不安や恐怖を与えることになるのなら、その道を行くかどうかは君自身で選択するべきだったんだ。だけど、私はそうさせなかった。選択する余地を与えず、あたかも私が『人ならざるもの』から小宮を守りきることができると見せかけて、実際のところこの一年半、私は何度も君を危険な目に遭わせてきた」
特別棟一階の片隅にある美術室は、平素から人が寄り付かない場所だ。人の気配のない静かな空間に、後悔の滲む藤の声が響く。
僕は歯がゆい思いで、藤の懺悔を聞いていた。
藤の絵を描くことは、僕にとっては生き甲斐だった。でも、僕が彼女の絵を描く度に、藤は自分の中に罪悪感を積み重ねていたのだ。
「今更何を言っているんだと思われるかもしれない。私は小宮を危険に巻き込むと分かっていて、それでもなお身勝手な理由から絵を描かせ続けてきたんだ。当然それは許されることではない。けれど、私の――もう一人の私の願望を満たすためには、どうしても君の絵が必要だったんだ」
「もう一人の……?」
藤は一旦言葉を区切り、何もない机の上に視線を滑らせた。
少しの間そうした後、藤は意を決して顔を上げた。
「そう。私の中には――紛れもなくもう一人『藤』という人格が存在しているんだ」




