其ノ漆 終わりの始まり
夢を見た。
とても幸せな夢を。
大事な人と過ごした大切な時間。
幸せに満ちた、短く儚い記憶。
目に映る彼女はいつだって綺麗で、いつだって笑っていた。
その一瞬を、一瞬で終わらせたくなくて筆を握った。
絵の中の彼女は永遠に微笑みかけてくれた。
けれど、絵の外の本物の彼女はあっという間にいなくなってしまった。
それは遠い昔の、僕の――
◇ ◇
膜を張った水面の向こうで、賑やかな音が響いている。
陽気な音楽、高さの異なる笑い声、騒々しい足音。
――何だろう、このお祭り騒ぎは。
少しだけ浮上した意識の中で不思議に思う。音のする方へ行ってみようとしたが、手足は配線の繋がっていない機械のように動かない。
今度はすぐ近くで聞き慣れた声がした。
「――それで、本当に身体に異常はないんだね?」
「ええ、この通りピンピンしてるわよ。最近つきまとっていた眠気も解消したし、あいつが出て行ってくれたお陰で身体も軽くなった気がするわ」
「あれだけ『人ならざるもの』たちに囲まれて何ともないとは……」
「こみやんが貧弱なのよ。それより藤は大丈夫なの? 疲れてない?」
「心配してくれてありがとう。私は平気だよ」
心地良いテンポで刻まれる会話。
明るく張りのある声と、落ち着いた少し低めの声。
放課後の、少し日の傾いた美術室の光景が自然と浮かぶ。
描きかけのキャンバス。
窓際の席。
机に散らばる絵の具。
何気なく捲られる資料集。
「――こみやんは大丈夫かしら。随分と満身創痍だったけれど、多分、あたしのせいよね? 何となく覚えてるわ。嫌なものね……自分の意志じゃなくても、自分の手で大切な人を傷つけるのは」
柔らかい何かが、慈しむようにそっと僕の頬に触れた。
「気に病むな。あの『人ならざるもの』は最初から――そう、一年前から小宮の絵を狙っていたんだ。それが分かっていたのに、小宮をまた危険な目に遭わせてしまったのは私の落ち度なのだから」
「何言ってるの、それこそ藤のせいじゃないでしょう。藤はちゃんとこみやんを守ったし、あたしのことも助けてくれたじゃない」
「……でも」
「あの『人ならざるもの』もしばらくは悪さできないぐらいになったんでしょう? それに藤の力も元に戻ったんだし、ひとまず良しとしましょうよ。いくら後悔しても、過ぎた時間が戻って来るわけじゃないんだから。ね?」
「それは、そうなんだけど……」
「まったく、藤らしくないわね。どうしたのよ? 何がそんなに気掛かりなの?」
沈黙が流れる。静かに意識が沈んでいき始めた頃、ポツリと呟きが落ちた。
「――絵を」
「……絵?」
「小宮の絵を、貰ったんだ。小宮がこれまでずっと描き続けてきた絵を、私が、全部」
「……そうね。でもそれは仕方のないことだったんでしょう? だったら……」
「小宮は何も知らないんだ。何故自分がずっと、同じ絵を描き続けるのか。その理由を一度も尋ねてはこなかった。それでも小宮は、何も訊かないで絵を描き続けてくれた……それなのに私は、その絵を全て――白紙に戻してしまった」
「……藤」
「私は結局、小宮に何一つ大事なことを伝えられてない。本当は言わなければならないことがたくさんあるのに。自分の臆病さを理由に、小宮の優しさに甘えて、これまでずっと騙すように絵を描かせてきてしまったんだ。その上、その絵を――絵を描いた時間さえ、無かったことにしてしまった……」
再び、静けさが辺りを覆う。遠くから漏れ聞こえる賑やかな喧騒が、間を持たせるかのように鳴り響き続けた。
「……あのね、藤」
やがて、高い方の声が宥めるように言った。
「あたしが思うに、藤はちょっと考えすぎよ。こみやんが藤に何も訊かなかったのは、まあこみやんが意気地なしなのもちょっぴりはあるだろうけど、きっとね、藤を信じていたからだと思うわ」
「…………」
「あたしだってそう。例え藤がどんな秘密を持っていても、別にあたしたちにとって藤が藤であることに変わりはない。そんな些細なことで藤から離れたり、嫌いになったりなんてしない。だって、あたしもこみやんも、藤がどんな人かちゃんと知ってるもの。だから、こみやんは藤に絵を託したのよ。何があっても、藤を信じれば大丈夫だって、そう確信していたから」
――この先何があっても、絶対に藤を信じること。そうすればきっと大丈夫だから。
それは遥か昔のことのような、たかだか数日前の出来事。そう言って僕に背を向けた彼女の名前は――
「……も、も……か?」
薄く目を開くと、白い光が視界いっぱいに飛び込んできた。その眩しさに思わず持ち上げた左手に鋭い痛みが走る。左手を締め付ける布の感触。その正体は傷を覆ったガーゼと包帯だった。
僕が横たわるベッドの傍には、二人の美術部員がいた。
「……ここは?」
「学校の保健室だよ。調子はどうだ?」
自覚すると左手だけじゃなく全身に満遍なく痛みを感じた。思わず顔を顰めた様子で察したようで、藤は「無理をしない方が良い」と優しく宥めた。
「眠り姫はようやくお目覚めかしら?」
「桃花……」
その藤の横に座る桃花は、普段と何ら変わらない姿でそこにいた。
きっちりと切り揃えられた髪。
よく動く丸くて大きな目。
「桃花なのか……?」
「小宮、まだ安静にしていないと」
藤の制止も聞かず、ゆっくりと身を起こす。
彼女の中の「人ならざるもの」は藤が祓ってくれたはずだから、ここにいるのは正真正銘の桃花で間違いない。けれど――
「本当に、本物の桃花なんだよな?」
「あんた何言ってんの? まだ寝ぼけてる?」
口の悪さもいつも通りだ。
それでも僕は、決め手が欲しくて手を伸ばした。
桃花の中の「人ならざるもの」と最初に対面した時。あの時僕は。
偽物の桃花をいつも通りだと思ったんだ。
包帯の絡んだ手で彼女の薄い頬の肉を――思いっきり抓んだ。
「いっひゃい! ひょっと、なにすんのひょ!」
「うん、本物だ……」
夏の頃と同じ反応を見せた桃花に、僕は泣きそうなほど安堵した。
感傷に浸る僕の背中を桃花は寸分の迷いもなく引っぱたく。
「あんたねえ、毎回あたしのほっぺで現実を確かめるのやめてくれる? 抓るなら自分のにしなさいよ!」
「……悪かったよ、ごめん」
もうこんなこと、二度とあって欲しくない。
桃花を――大切な人を失うかもしれない。そんな局面に立たされることなど、もう二度と。
「何よ……えらく素直じゃない。気持ち悪いわね」
張り合いのない僕に拍子抜けした桃花が少し気まずそうに顔を背けた。
「まあ、良いわ。お互い様ってことで水に流してあげる。あたしも……その、悪かったわね。色々と」
一瞬何のことだろうと首を傾げたが、視界に左手が入り腑に落ちた。あれは桃花の中の「人ならざるもの」がやったことで、桃花のせいなんかじゃない。それに部活に来なくなったのも、僕に厳しい言葉を投げつけたのも、桃花なりに僕の身を案じてのことだったのだと今ならちゃんと理解できる。
「謝らないでくれ、桃花は何も悪くない」
一年前、自分の不注意のせいで桃花を危険に巻き込んだ。例え桃花が「人ならざるもの」が視えないとしても――いや、視えないからこそ、得体の知れない存在を自分の内に宿す決断は相当な勇気と恐怖があったはずだ。
「むしろ謝らないといけないのは、僕の方だ。ごめん、桃花。迷惑かけて――」
「ああもう、辛気臭いのはやめやめ。こういうの、あたしの性に合わないのよ。何だかむず痒いのよね。お互い無事だったんだし、それで良かったじゃない」
手を叩いて僕を遮った桃花は、場をとりなすように明るい調子でそう言った。
「でも……」
「これ以上うだうだ言うんなら、あんた今度奢りなさいよ! 『スミレ堂』の期間限定モンブラン! それでチャラにしてあげるわ。一日ニ十個限定なんだから、開店前に並ばないと駄目なんだからね!」
やはりムードメーカーとして美術部における桃花の存在は大きい。
過去の過ちばかりに囚われてはいけない、大事なのはこれからのことなんだと僕に思わせてくれるのは、桃花の底抜けに明るい気質のおかげだ。
僕はぎこちなくも桃花に笑って応えた。
「――うん、分かった」
桃花は「約束よ」と満足げに微笑んだ。
「ほら、藤もなんか言ったらどうなのよ? こみやんに奢って貰うなら今のうちよ?」
ずっと何か言いたげな表情で黙っていた隣の藤を、桃花は肘でつつく。
「――藤?」
そっと名前を呼ぶと、藤は気まずそうに膝の上で手を組んだ。
「――君の絵のおかげで、無事に桃花から『人ならざるもの』を祓うことができた」
「うん」
「しばらくはあの『人ならざるもの』も他の者たちを襲ったりはしないだろう」
「良かった」
「私も――弱まっていた力を取り戻すことができた。全ては小宮のおかげだ」
「……僕は何もしてないよ。桃花を助けられたのは藤がいてくれたからだ」
僕のしたことはただ一つ。
藤を信じること。それだけだ。
「――僕の絵が藤の役に立ったのなら、それで十分だ。これまではずっと藤に助けられてばっかりだったけど、少しでも恩返しができたなら僕はそれだけで嬉しい」
後悔ばかりじゃ前には進めない。
「だからさ、藤――」
微睡の中聞こえた藤の後悔。多分僕には話してくれない本音。僕は少しでもその気持ちに寄り添いたかった。白く薄い布団を握り締め、意を決して口を開く。
「僕の絵を藤が貰ってくれたのは――本望だよ」
一瞬、藤の目に涙が浮かんだように見えた。
宝石のように綺麗な瞳の縁に浮かんだ澄んだ雫。
あまりにも綺麗な光景に僕は息を呑んだ。
だがそれは光の加減で見間違えたのかと思うぐらいほんの一瞬のことで、瞬きする間に藤は普段と変わらない、凛々しい表情に戻っていた。
「――ありがとう、小宮。そう言ってくれて、私も――安心した」
僕はこれ以上重ねる言葉が見つからず、それでも藤に思いを伝えたくて何度も何度も強く頷き返した。
不意に賑やかな音楽が耳を掠めた。
目覚める前からどこか遠くで聞こえていた、お祭りの喧騒。
「――そろそろ午前の部も終わりかしら」
「…………?」
桃花が壁の電波時計を見上げた。
「そうだね。私たちも一度教室に戻った方が良いかもしれない」
「――あ」
数拍遅れて理解した。
今日は文化祭なのか。
昨日「人ならざるもの」の世界に飲み込まれてから、想像以上に時間が経過していた。何だか浦島太郎のような気分だ。
「そうだ――」
文化祭も残りあと半日。午後の部は片付けもあるので実質あと二時間程しかない。
僕は急に思い出したことがあり、急いでベッドを降りようとした。
「こみやん?」
別に文化祭自体はどうだって良い。クラスの出し物だって僕がいなくても成り立つし、ああいうはしゃいだ空間はむしろ苦手な方だ。
それでも――美術部の展示だけは無かったことにはしたくなかった。
まだ休息が必要な身体は逸る心についていけず、床に足を付けただけで力尽きた。思わずその場にしゃがみ込んだ僕の腕を、桃花が引っ張り上げてベッドへ押し戻そうとする。
「まだ寝てなきゃ駄目よ」
「大丈夫、何ともないから……」
僕は視界の回転が止まるのを待ってから、やんわりとその手を止めた。
「何ともないことないでしょう。頭打ってるんだから、これからちゃんと病院行って検査しなきゃ」
「その前に、展示だけ……」
「展示?」
「美術部の制作……結局今年も一枚だけだったけど、二人には見て欲しいんだ」
ちゃんと僕が描いた――僕の意志で描いた絵。
「でも……」
まだ不満げな様子の桃花を「迎えが来るまでには戻るようにするから」と藤が説得してくれた。藤はベッドの横、裸足でしゃがみ込んだままの僕に、そっと尋ねた。
「立てるか?」
僕は答える代わりに、差し伸べられた藤の手を握る。思いのほか強い力で手を引かれた。
「よし、行こうか」
◇ ◇
昼時の展示ルームに人の姿はまばらだった。
室内では数人の生徒と保護者らしき大人たちが、静かに作品を見て回っている。
白い壁の一角に、何も飾られていない場所があった。そこには「美術部」と書かれた簡素なプレートが一枚、画鋲でとめられている。
そのプレートの下に、僕は美術室から持ってきた一枚のキャンバスを飾った。
少し離れた位置に立つ二人の隣に並んで、僕も絵を見上げた。
「これが、今年の絵?」
「そう」
「良い絵ね」
「ありがとう」
短い言葉を交わして、僕らは黙って絵を眺めた。
キャンバスに描かれているのは美術室だ。
窓際の席に、一人の女子生徒。
その彼女をモデルにキャンバスと向き合う男子生徒の後姿。
その隣で、制作の様子を見守るもう一人の女子生徒。
僕と、藤と、桃花の三人を収めた絵。
ここには僕らの日常があった。
絵の中に留めておかないとあっという間に過ぎ去ってしまいそうな、気付いたら形を変えてしまいそうな、そんな儚い時間。それを失くしてしまわないように、壊してしまわないように、キャンバスの中に切り取ったのだ。
外の賑わいに惹かれるように室内から人影が消え、いつの間にか僕ら三人だけが取り残されていた。静寂が支配する室内で、僕らは長い時間キャンバスと向かい合った。
絵のタイトルは『穏やかな時間』
暖かみのある光に包まれて佇むその絵が、僕らの未来であることを祈って。
◇ ◇
短い宴が終わった。
あの人の気配を辿ってやって来たこの場所で、開かれていたささやかな宴が。
ぞろぞろと敷地の外に出て行く人間を横目に、見知った足跡を探す。
敷地の中をあてもなく歩き続け、人影のない閑散とした部屋の中にようやく懐かしい気配を見つけて足を踏み入れた。
何も無い空間。そこに一枚の絵が飾ってあった。
「――ほう」
思わず吐息が漏れた。
絵の中には見覚えのある美しい女の姿。
長年記憶の中で繰り返し見つめてきたその人が、絵の中にいた。
本物には遠く及ばないが、その美貌の再現への努力には賞賛を贈りたいぐらいだった。
そう――これを描いたのがあの男でなければ。
瞬間的に湧き立った怒りを、膨れた腹を撫でることでどうにか抑える。先程力を削がれて彷徨っていた者を捕食したところだ。期待したほどの糧にはならなかったが、多少は血肉となるだろう。
――あの女をもう一度この手に取り戻す。
そのために、幾年月、深くて暗い森の中で孤独と闘って来たのだ。
あと少し――あと少しで、その悲願がようやく叶う。
絵の中のその人に、改めて誓った。
「藤よ――必ず迎えに行くぞ」




