其ノ陸 ふたたび
「あら、遅かったわね、藤」
桃花は、まるで部活に遅れてやってきた藤に声を掛けるときのような気軽さでそう言った。
「あたしの作った世界は楽しんでくれたかしら? 藤ならもっと早く出てこられるかと思ったけれど、どうやらあたしの買いかぶりだったみたいね」
「――これ以上、桃花の姿を騙るのはやめてくれないか」
今までに見たことがない、凍てつくような眼差しが桃花――いや、桃花の中の「人ならざるもの」に向けられた。
「それは無理な相談ね。そもそもあたしを封印したのは藤なのに、今更何を言ってるの? それとも封印を解いてここから出してくれるって言うの?」
藤は溜息のように、長く息を吐いた。
「――ああ、そうだ。確かに、桃花の中にお前を封印したのは私だ。悪かったな。今、そこから出してやるから」
「それは駄目だ……っ!」
「五月蠅いなあ。こみやんは黙っていて」
頭と胸を強く押さえつけられ、僕は呻いた。痛みと酸素不足で、藤の輪郭が幾重にもぶれる。
僕の上に乗ったまま、「人ならざるもの」はうっとりとした声で語った。
「ああ、お腹が空いてもう限界。ねえ藤、早くここから出してちょうだいよ。あたしこみやんの絵が食べたいわ。何なら先にこみやんを食べちゃっても良いのよ。そうしたら、藤の手なんか借りなくてもこんなボロボロの封印簡単に解けちゃうんだから。それで、こんな窮屈で退屈なところ飛び出して、ありとあらゆるものを食べて、食べて、食べ尽くすの。あたしが満たされるまで全部、全部よ。そうしたらあたし、もっと大きく強くなれるかしら。ああ、楽しい、楽しいわね、藤」
「そうだな」
藤は、桃花の――桃花にとり憑いている「人ならざるもの」のはしゃぐ様子に、目を細めた。
「――例え叶わなくても、夢を語るのは楽しいことだな」
「――え?」
何の前触れもなく、突如「人ならざるもの」の気配が爆発的に増加した。どういうわけか、僕らを取り巻くように無数の「人ならざるもの」たちが集結し始めたようだった。彼らの姿が視えない僕ですらはっきりとその存在を感知するほど、「人ならざるもの」の濃い気配が室内に帯びる。
何が起きたのだろう。
突然の出来事についていけないままふと目に入ったのは、床一面に散乱している紙きれ。そこに五線譜が並んでることに、僕は今になって気が付いた。
これは、葵の楽譜――すなわち「人ならざるもの」との契約書。
もしかして藤が「人ならざるもの」たちと契約を交わしたのだろうか。
「や、やめなさいよ! 離しなさい!」
僕の上で桃花が藻掻く。どうやら他の「人ならざるもの」たちに動きを封じられているようで、思うように動けない苛立ちを募らせていた。
「――さて、望み通り、そこから出してやろう」
冷やかな藤の声が、その場を支配する。藤は腕を組んだまま、桃花の中の「人ならざるもの」を真っ直ぐ見つめた。封印からの解放を望んでいたはずなのに、「人ならざるもの」は急に怖気づいた様子で懇願する。
「何をするつもりなの……? こみやんの絵だって、八坂の森の主だって、まだ食べられてないのよ? やめてよ、あたしまだ消えたくないわ」
「心配しなくて良い。ちゃんと封印は解いてやるさ」
「う、嘘よ」
「嘘じゃない――ただ」
一旦言葉を区切り、藤は改めて宣言した。
「封印を解いた後のことは、保証しないがな」
桃花の動きがピタリと止まったのを背中越しに感じた。
僕は息を呑んで、無意識に桃花の表情を見ようと顔を上げた。だが、自分の背中に馬乗りになっている桃花の顔なんて見えるはずもない。
「小宮! 今のうちに、こっちへ!」
藤に促され、我に返った僕は桃花の下から這い出た。
桃花は床に膝をついたまま、だらりと両腕を下げて俯いていた。その周囲にどれだけの「人ならざるもの」がいるのか、どれだけの「人ならざるもの」たちが藤に手を貸してくれたのか、僕には何も視えないと分かっていても、つい目を細めて凝視してしまう。
僕が床に腰をおろしたまま呆然としていると、頭上から藤の声が降ってきた。
「――小宮、大丈夫か?」
振り仰いだ先、切れ長の瞳と目が合う。
そこには先程まで「人ならざるもの」に向けていた冷酷な眼差しが少しだけ残っていた。それは僕の知らない彼女の一面。去年の文化祭でも、藤はこんな顔をしていたのだろうか。
「――藤」
「結局君を巻き込んでしまった。すまない、小宮」
すぐに藤は、僕のことを心底心配するような、自分の力不足を悔いるような、僕の見知ったいつもの表情に戻った。
去年の文化祭で二度「人ならざるもの」にとり憑かれた僕が目を覚まして最初に見た藤は、絵画のように綺麗な顔に似合わない絆創膏を貼り付けていた。あの時藤は、僕を助けるために怪我をして、多くの力を失った。それでも彼女が、開口一番言ったのは。
――小宮が無事で良かった。
「……違う」
「――え?」
「違うんだよ、藤……」
僕は鈴を握りしめたまま、左腕で顔を覆った。
「謝るのは僕の方なんだ」
「何故、小宮が謝るんだ?」
「だって……一年前、藤は僕のせいで力を失ったんだろ?」
「――どうして、それを」
藤の動揺が、空気を伝わって肌に触れた。藤がどんな表情をしているのか、想像がつくだけに見られない。僕の顔も見られたくなかった。
「桃花が――桃花に封印されている『人ならざるもの』が教えてくれたんだ。去年の文化祭で何があったのか、最初から最後まで。全部僕のせいだったんだ。藤の力が弱くなってしまったのも、桃花が学校に来なくなってしまったのも、全てはあの時僕が『人ならざるもの』にとり憑かれたせいだったんだ……!」
「……小宮」
みっともなく震える声に、僕は唇を引き結んだ。
僕があまりも不甲斐ないせいで彼女たちはこれまでずっと苦しんで来たのに、僕はそんなことも露知らずこれまで能天気に過ごしてきたのだと思うと、胸の奥が軋んだ。
「ごめん、藤。藤は何も悪くない、桃花だって何にも悪くないのに、僕のせいでこんなにも辛い思いをさせて――」
「――それは違うよ、小宮」
芯を持った藤の声が、優しく、それでいてはっきりと僕を遮った。
「あの時、小宮を助けたいと――例え持っている力を全て使い果たしたとしても、絶対に小宮を救うと、そう決めたのは私自身だ」
「…………」
「私は自分の意志でこの道を選択したんだ。だから、私の『人ならざるもの』に対する力が弱まったことに君が責任を感じる必要はない。私は望んでそうしたのだから。桃花だって、きっとそうだったに違いない」
「でも……」
それでも僕がいなければ――
「小宮、顔を上げて」
自責の念に押し潰されそうになりながら恐る恐る藤を見上げると、彼女は想像以上に穏やかな微笑みを浮かべていた。
「大丈夫だよ、小宮。私は君を恨んだりなどしない。あの時の選択に、後悔などない。私は今こうして君と向かい合うために、一年前、『人ならざるもの』を封じたのだから。それが正しかったのだと、まさに君自身が証明してくれているじゃないか」
「……藤」
良いのだろうか。何の償いもしないで、藤の庇護下にいるままで。本当にそんなことが許されるのだろうか。
「ほら」
差し出されたハンカチは、混じりけのない藤の気持ちを表しているかのように白く綺麗に折り畳まれていた。
「……別に、泣いてない」
それを簡単には受け取れず、僕は俯いた。「分かってるよ」と藤は苦笑交じりに言った。
「頭、血が出てるから」
「つ、っ……」
額にハンカチを押し当てられ、走った痛みに声が漏れた。一瞬くらりとして、僕は強く目を瞑る。暗闇の中、断片的にしか記憶にない去年の文化祭の映像が走馬灯のように脳内を駆け抜けた。
確かにあの時僕が「人ならざるもの」にとり憑かれさえしなければ、こんなことにはならなかった。それは藤がどんなに僕を慰めてくれようとも、変えることのできない事実だ。
だけど――それならなおのこと、僕が口にするべきなのは「ごめん」じゃない。本当に僕が言わなければならないのは――
僕は意を決し、背筋を伸ばして藤と向き合った。額に当てられたハンカチに添えた藤の手に、僕の手を重ねる。ほんの少しだけ驚いたように藤が目を見開いた。
「一年前――僕を助けてくれてありがとう、藤」
そう――「ごめん」ではなく「ありがとう」だったのだ。僕が言わなきゃいけなかったのは。
その言葉を口にした途端、スッと心の中が冷静になった。
今僕がしなくてはならないこと――それはこんなところで泣きべそをかいていることじゃない。
何としてでも桃花を救うこと。それだけだ。
「ねえ、藤。桃花を助けるために、何か僕にできることはあるかな。どんな些細なことでも良い。藤の力になれるなら教えて欲しい」
「小宮……」
「僕はもう一度、桃花とここで笑い合いたい。そのためなら、何だってする。だから――」
一年前の恩返し。今度は僕の番だ。
藤は力強く頷いて、僕の後方の状況を手短に説明した。
「――葵の契約書を借りて複数の『人ならざるもの』たちと契約を結んだんだ。あの厄介ものを祓うために、力を貸してくれと。彼らがあれを食い止めてくれているうちに封印を解いて『人ならざるもの』を桃花から切り離し、外に出たところを捕まえできる限り力を分散させる。そうすればこの先しばらくは、他の者たちに脅威を与えることもなくなるはずだ。だが……」
藤は悩ましげに続ける。
「封印を解くことはそう難しくはない。既に効力を失っているようなものだからな。だがその後、あれの力を散らすには正直今の私では不安が残る。もし私の力が及ばず暴走などしたら、手を貸してくれた者たちを危険に晒すことになってしまう……」
「葵先輩の楽譜は……?」
「残念ながらここにあるもので全てだ。今は数の力で何とか抑え込んでいるが、それもあとどれだけ持つか……」
きっと藤のことだから相手の力量とこちらの戦力を冷静に見極めた上での判断なのだろう。となると、余計僕の出る幕などない。
「――あ」
無意識に握った左手の中、固いものが皮膚に刺さりその存在を思い出す。
そうだ。
「僕の絵は?」
「――え?」
「僕の絵は、何か役に立てないかな」
手の中にあったロッカーの鍵を差し出した。藤は一瞬垣間見えた手の甲の傷に顔を顰めながら、僕の顔と鍵を交互に見比べた。
「僕の絵を食べさせれば、彼らの力の足しになるかもしれない」
まさか自ら「人ならざるもの」に絵を食べさせる日が来るとは思いもしなかった。だが、今の僕に思いつく唯一の策はこれしかない。
「――でも、そうしたら小宮が」
藤の言いたいことは分かっていた。たくさんの絵を一気に「人ならざるもの」たちに食べられることが、どれだけ僕の負担になるのかは未知数だ。
「それでも、桃花を助けられるなら僕は構わない」
「……小宮」
僕は有無を言わせず、藤の手に鍵を握らせた。鍵は紫の紐で括られた小さな鈴とともに、藤の手のひらの上でじっと返答を待っている。
「――分かった」
やがて藤は溜息とともに、首を縦に振った。
「小宮の絵を使わせてもらうことにする。確かにこの状況を打破するためには、君の絵ほど心強いものはない。だが、『人ならざるもの』たちには食べさせない。小宮の絵は――私が貰い受ける」
「――え?」
思ってもみない言葉に呆気にとられて瞬きをしていると、僕の様子を察したように藤が言い添える。
「――もともと、そのつもりだったんだ。初めからね」
藤がとても寂しそうに笑うから、余計に混乱する。
ただ脳裏に浮かんだのは、あの日桜の花びらが舞う中庭で、藤が言った一言。
――君、これからは私の絵だけを描きなさい。
その理由を僕はずっと知らないままだった。
知りたいと思いながらも、知らない方が良いような気もしていて、いつでも尋ねられたはずなのに敢えて何も訊かないでいた。
だけど――
「――藤は」
ぐらぐらと視界が揺れて、呼吸が浅くなる。
僕の絵が藤の役に立つならそんな喜ばしいことはないはずだ。
けれど、頭の奥の方でもう一人の自分が冷静に言い放つ。僕の絵が、藤にとって価値があるものだと言うならそれは――
「もしかして――」
「う、うう……」
背後で桃花が呻き声を上げた。張り詰めていた空気が振動し、「人ならざるもの」たちがざわつく気配が背中にあたる。
「ゆ、るさ、ない……ふ、じ……食べてやる……お前も、全部……」
「まずいな――もう限界寸前だ」
藤が柳眉を寄せて僕越しに「人ならざるもの」に目を向ける。その視線を追って振り向こうとしたその時。
「まずは、お前からだ……!」
「小宮……!」
グン、と首根っこを掴まれ、楽譜を蹴散らしながら強引に床の上を引きずられた。先程まで一ヵ所に固まっていた「人ならざるもの」の気配が、美術室じゅうに散らばる。
自力で拘束を解いた桃花は、肩を大きく上下させながら飢えた獣のような目で藤を睨んでいた。
「あたしは絶対に消えないわよ……こみやんも、こみやんの絵も、藤も、そこにいる雑魚どもも、全部食べて、食べ尽くして、もっともっと強くなるんだから……!」
どこにそんな力が残っていたのか、僕は後ろから羽交い絞めにされる格好で桃花の腕の中から逃れられずにいた。強く掴まれたシャツが首を圧迫し、じわじわと呼吸が苦しくなる。
ふと、そう遠くない過去に桃花が言った言葉が思い出された。
――この先何があっても、絶対に藤を信じること。そうすればきっと大丈夫だから。
ハッとして、僕は落ちかけていた意識を引き戻した。
そうだ。僕が信じなくてどうする。
藤が何者だって関係ない。僕にとって藤は藤だ。それ以上でもそれ以下でもない。
「――藤!」
僕は歯を食いしばって叫んだ。
「頼む……! 桃花を……!」
酷く掠れた声しか出なかったが、藤は軽く顎を引いてみせた。
――チリン。
澄んだ小さな音がした。
途端、窓も開いていないのに旋風が巻き起こり、舞い踊る楽譜が視界を遮る。
「おのれ、藤……! 何のつもりだ……!」
警戒する桃花の手に力が入り、余計に首が締まった。
「ぐっ……!」
喘ぐように息をするが、圧倒的に酸素が足りない。
チカチカと光が舞って明滅する世界の中、気付いたら藤の周りに僕の絵が散らばっていた。
僕が描いた藤の絵。
その中に佇む藤は、僕の絵なんかとは比べ物にならないくらい神秘的だった。
「――小宮」
幻想のように美しい藤の唇が、僕の名前を紡いだ。
「君の力――私に貸してくれ」
その一言が、全ての始まりでもあり、全ての終わりでもあった。
ありとあらゆる線が、色が、そこかしこで浮かび上がり、宙へと消えていく。
あとに残されるのは、まっさらな白。
フッと身体から力が抜けて、意識が遠のく。
「人ならざるもの」に絵を食べられる時と同じように、身体の中が空っぽになっていく感覚。
だけど、それだけで終わらなかった。
暗闇に沈む直前、その空洞に温かくて優しい何かが流れ込んで来た。
それは昔懐かしいような、とても安心するような何か。
――ああ、もう。
これで、大丈夫だ。
遠くで眩い光が弾けた。




