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藤小宮物語  作者: トウコ
第肆章 宴の終わりを告げる者
25/42

其ノ肆 現れた第二の脅威

 高校生活初めての文化祭がとうとう明日に迫った放課後。


 夜通しの設営に向けて校内の熱気は既に最高潮に達しようとしていた。だがそんな空気とは裏腹に、特別棟の一階にはいつもと同じどんよりとした空気が漂っている。

 桃花が美術室の扉を開けたのとほぼ同時に、中からガタン、と大きな音がした。


「こみやん!」


 音の原因は床に落ちたキャンバスだった。その傍にうずくまった小宮は、だらりと垂れ下がった左腕をもう片方の手で押さえていた。


「――ない、と」


 小宮は口の中でしきりに何かを呟いていた。間に苦しげな呼吸音が挟まっているせいで、言葉の端々しか聞き取れない。


「何? 何を言ってるの?」


 浅い呼吸につられて、桃花も息苦しくなってくる。


「――かか、ない、と」


 小宮はゆるりと顔を上げ、微睡の中にいるようにうわ言を繰り返した。


「絵――かか、ない、と」


 それは小宮自身の意志なのか、それとも「人ならざるもの」の意志なのか、既にその両者は切り離せないほど混ざり合っているように見えた。


「聞こえているか? 小宮。これ以上とり憑かれた状態でいるのは危険だ。もう頑張らなくていい。今ここで、君の中から『人ならざるもの』を祓う。いいな?」


 藤は小宮に話しかける体で、「人ならざるもの」にそう宣言した。すると、彼の瞳にサッと怯えの色が映った。


「いやだ――まだ――絵が」


「駄目だ、これ以上は待てない」


「い――やだ――」


 藤は抵抗しようとする「人ならざるもの」を押さえつけ、汗で湿ったシャツの上からその左胸に手を当てた。


「――少しだけ、我慢してくれ。すぐ楽にしてやるから」


 桃花が固唾を飲んでその様子を見守っていると、不意に()()の手が動いた。


「……っ、待ってくれ、藤……」


 小宮に腕を掴まれ、藤は動きを止めた。藤の腕にかけた小宮の左手は震えている。


「……小宮?」


「……あと少しで絵が完成するんだ……だから、それまで……」


 小宮の懇願するような目に、藤は少し困った顔をした。


「そうは言っても……そんな身体で絵を描き続けることはもう無理だろう。それは小宮自身が一番よく分かっているはずだ」


「そうよ、こみやん。それ以上無茶したら、あんたの身体がもたないわ」


 桃花は藤に加勢したが、小宮は譲らない。


「……お願いだ、藤。あと少しだけ……」


「だが……」


「あんた、そんな状態でどうやって絵を描くつもりなの? そんな震えているような手じゃ筆も持てないでしょう」


 酷使された左手は、もはや小宮の意志では制御できないようだった。小宮は何ともないことを証明しようと何度も力を入れようとしたが、指先は思ったようには動かない。


「ほら、もうどう頑張ったって無理よ。藤の言う通り、ここで祓ってもらいましょう」


 しかし、小宮は頷かなかった。


「……藤。僕の手に、筆を縛り付けてくれ。そうすれば、落とさない」


「は? あんた、正気なの?」


「……完成したら、()()()を助けられる」


 小宮は頬を伝う汗もそのままに、床に転がったままの筆に手を伸ばそうとした。小宮は藤の支えがなければ上体を起こしているのもやっとの様子だ。それでも筆を掴もうと必死だった。


「――分かった」


 見かねた藤は、小宮の代わりに床から筆を取り上げた。ポケットから白いハンカチを取り出し、小宮の左手を取る。

 ハンカチで器用に筆を括りつける藤の手を眺めながら、小宮が気の抜けた笑みを浮かべた。


「……藤の手、冷たいな」


「――小宮の手が、熱いんだよ」


 藤は溜息交じりにそう言った。

 ギュッと結び目を固く作り解けないことを確認し終えると、藤は改めて小宮の目を見て通告した。


「いいか? 待つのは明日の朝までだ。それまでに絶対に絵を完成させるんだ。できるか?」


「……やってみる」


 小宮は小さく顎を引いた。その瞬間、スッと小宮の目の色が変わった気がした。

 先ほどまでと打って変わってするりと立ち上がると、小宮はキャンバスを拾い上げて作業に戻った。あんなに億劫そうに動かしていた手を、何ともないかのように操り始める。


 その耳にはもう、誰の声も届かなかった。




◇ ◇




 そして迎えた文化祭当日の朝。


「できた……!」


 美術室いっぱいに、小宮の大きな声が響いた。うつらと船を漕いでいた桃花は驚いて目を覚ました。

 見ると、キャンバスには色とりどりの花が咲いている。花瓶にいけられた、溢れんばかりの花の絵。小宮が描いた藤以外の絵を、桃花はその時初めて目にした。それはとても美しかった。

 周囲に散乱する絵の具やパレットもそのままに、小宮は長い間その絵の前から動かなかった。左手と筆を結びつけているハンカチは、見る影もなく一面汚れきっている。


「――こみやん、そろそろ」


 いつまで経ってもその場から動かない小宮に、桃花はしびれを切らして声を掛けた。

 美術室の窓からは、明るい日差しが差し込んでいる。時計を見ると時刻は既に朝九時を回っていた。

 廊下から足音が聞こえた。先ほど校内の見回りに出た藤がもう戻って来たのかと思ったが、その人はやけに騒々しく美術室に入って来た。


「おーい、小宮いるか? 美術部の展示作品がまだ届かないって、苦情が来てるぞ」


 足音の主は、徹夜明けで目の下に隈をつくった顧問の笹木先生だった。宿泊許可を取るためには管轄の教師も責任者として付き添う必要がある。桃花は昨日大いに渋る先生に頼み込んで、何とか許可をもぎ取ったのだ。


「何だ、今完成したのか?」


 先生は絵の具で汚れた小宮のシャツを見て、顔を顰めた。


「本当にギリギリだなあ。夏休みの宿題でももう少し計画的にやるだろう。まあ、完成したならそれでいいや。絵、借りてくぞ。あと先生はこれから仮眠するから、ちゃんと戸締りと施錠して行くように」


 大きな欠伸を隠しもせず、先生は気怠そうにそう言ってキャンバスを手に取った。


「あ……」


 先生に押しのけられた小宮の口から、一言そう漏れた。


「先生、その絵は……!」


 桃花は咄嗟に先生を引き留めた。


「何だ?」


「ええと、その……」


 だが「人ならざるもの」のことを知らない先生に何と言えば良いか分からず、桃花は言葉を詰まらせた。怪訝そうに振り返った先生は、しばらく桃花の発言を待っていたが、やがて「お前らも早く体育館へ行けよ。もう開会式始まってるぞ」と言って美術室を出て行った。

 絵を追いかけるべきか入り口で迷っているうちに、視界の端で小宮の身体がふらりと揺れた。


「ああ、もう。世話が焼けるわね……!」


 桃花は再び室内に戻り、今にも倒れそうな小宮の肩を支えた。


「……も、もか?」


 小宮は虚ろな目で桃花を見て、「絵は?」と弱々しく尋ねた。


「先生が持ってっちゃったわ。それより、とり憑いていた『人ならざるもの』は?」


「……多分、出ていったみたいだ」


「絵を追い駆けていったのかもしれないわね。藤に連絡入れておくから、あんたは少し休みなさい」


 椅子に座らせて、汚れたハンカチを解き筆を回収する。途端、小宮は気の毒なぐらいぐったりと机に臥した。


「よく頑張ったわね。もう大丈夫よ。あとは藤に任せましょう」


「……これであの子は助かるのかな……」


 腕の中で、ポツリと小宮が呟いた。


「……僕の絵は、誰かの役に立てたかな……」


「そうね。そうだと良いわね」


 桃花はしんどそうに上下する背中をさすってやった。その薄い背中はじっとりと熱さを持っていて、小宮が既に体力的に限界を超えていたことを痛感した。


「……本当。呆れるくらいお人好しね」


 眠りに落ちた小宮の細い髪を梳いて、桃花は笑った。

 得体の知れないものにとり憑かれるのは恐ろしかったはずなのに、小宮は弱音も吐かずに絵を描き続けた。だからあの絵は、何としてでも「人ならざるもの」から守り抜かなければならない。小宮が文字通り命を削った証を、無かったことになんてしてはならない。


「――さて、藤の方は大丈夫かしら」


 桃花はつい小一時間程前に交わした藤との会話を思い返す。



――どうかしたの? 藤。


 藤は突然何かを感じ取ったように、ジッと廊下に面した窓を見つめた。


――「人ならざるもの」たちがざわついている……異様な雰囲気だ。


――何かあったのかしら。


――分からない……だが、何か恐ろしいものが迫っているような気配がする。


 藤はしばらく考え込んだあと、少し外の様子を見て来ると言って美術室をあとにした。

 桃花は藤の言いつけ通り美術室で小宮を見張っているのだが、ここには絵もとり憑いていた「人ならざるもの」ももういない。

 これ以上何かが起こることはないだろうと気を緩めたそこへ、息を切らした藤が飛び込んで来た。


「――桃花!」


「藤、どうしたの? そんなに急いで」


 桃花は小宮の隣を離れ、藤を迎えた。


「あの花の絵はまだ無事かしら? あの後、とり憑いていた『人ならざるもの』も絵を追い駆けて行ったみたいだけど――」


「それどころじゃない……彼らが騒いでいた原因が分かったんだ。どうやらここに厄介な『人ならざるもの』が近づいているらしい」


「厄介な『人ならざるもの』……?」


「ああ。それは――」


 藤は言葉を飲み込んで、目をみはった。


「え、何?」


 状況を把握できていない桃花の背後で、突如空気が揺れた。藤は顔を強ばらせて、桃花の後ろを凝視する。


「どうしたの? 藤。何が――」


 重ねようとした言葉は、すんでのところで押しとどめられた。桃花の喉に、パレットナイフが突きつけられたからだ。




『――ようやく見つけた』




 それは確かに小宮の声だった。

 が、その言葉は小宮ではない「何か」のものだった。







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