其ノ参 開かれたパンドラの箱
いよいよ文化祭前日。
桃花には、あれ以来一度も会えないままだった。姿も見かけないので、学校にも来ていないのかもしれない。藤とも話の続きをする機会は訪れなかった。
僕ひとりの美術室は、やけに広く感じた。今までどうやって過ごしていたのか分からなくなり、僕は無心で絵を描いた。
「……おかげで作品の制作は捗ったけど……」
両手いっぱいに大きな暗幕を持ちながら、僕はぼやいた。
明日の文化祭に向け、今日は終日設営と準備を行う予定になっている。申請すれば、今日だけは学校に泊まり込むことも許される。
朝から有無を言わせず備品の調達や大道具係の手伝いに駆り出され、本番前なのに既に疲労困憊だ。浮かれた顔をした生徒たちが廊下を走り抜けていくのを見送りながら、僕は重い暗幕を抱えなおした。特別棟二階、演劇部の部室の片隅に転がっていた暗幕は、僕の歩みにあわせて長年振り積もった埃をまき散らす。それに噎せながら、階段を降りた。
一階に着地し、何となく廊下の奥の美術室に視線をやる。完全なる習慣だ。だが、思いもよらず、僕の目はひとりの女子生徒の姿を捉えた。
――桃花だ。
声を掛けようか迷い、立ち止まった。また顔を見ただけで逃げられたら、話し合いにもならない。どうしたものか思案していると、先に桃花が動いた。
美術室の入り口に立っていた桃花は、ゆっくりと目の前の扉に手を掛ける。指先が扉に当たる寸前、まるで静電気が起きた時のような反応で桃花は手を引っ込めた。
桃花は束の間自分の手を不思議そうに眺めていたが、やがて視界の端に僕を認識してその手を振ってきた。
「こんなところで何してるの? こみやん」
「桃、花……」
あれほど僕を突き放したのが嘘のように、桃花は平然と僕の元へやって来た。
目を引いたのは、両足に不自然なほどたくさん貼られた絆創膏。この前会った時は無かったはずだ。一体何があったのだろう。
眉を顰めた僕を気にすることもなく、桃花は当たり前のような顔をして隣に並んだ。
「なあ、桃花……」
「なあに?」
「……いや」
何から話せば良いのだろう。
「何よ。言いたいことがあるならハッキリ言いなさいよ」
呆れたように笑う桃花は、本当にいつも通りだった。いつも通り過ぎて怖いくらいだ。
桃花の横顔を眺めながら次の言葉を探していると、踏み出した足が地面を捉え損ねた。
「うわっ……!」
暗幕で足元が見えず、僕は段差に躓いて体勢を崩した。
――チリン。
ポケットの中で鈴が鳴った。僕は何とかその場に踏みとどまった。暗幕に破損がないことを確かめてから、僕は安堵の息を吐いた。
「大丈夫? あたしも手伝おうか?」
「大丈夫……それより桃花、さっきは美術室に用事でもあったのか?」
「え? ……ああ、ちょっと忘れ物を取りに来たんだけど、鍵が掛かっていたからまた明日にするわ」
「――鍵?」
「そうよ。先生が閉めたんじゃないかしら」
桃花は暗幕に目をやると、「ねえ、そんなことより」と声のトーンを一段上げた。
「お化け屋敷の準備、進んでるの?」
「……どうだろう、半分ぐらいかな。外に面した窓には暗幕を張ったから、雰囲気は出てきていると思うけど」
「あたし楽しみにしてたのよ、お化け屋敷。ねえ、ちょっと見に行ってもいい? 邪魔はしないから」
「まだお化け役もいないから面白くもないと思うけど……ていうか、桃花は自分のクラス手伝わなくていいのか?」
「平気、平気。ちょっとだけだから」
桃花はスカートの裾を翻し、機嫌良く先陣を切った。
僕らの教室が並ぶ廊下までやって来ると、桃花は勝手知ったる顔で僕のクラスに足を踏み入れた。
「へえ、わりと本格的なのね」
抱えていた暗幕を入り口近くにおろし、僕は桃花と並んで室内を見渡した。
僕が借り物に出る前と同じく、外に面した窓側の壁は既に暗幕で覆われている。その後に付けられたのか、天井から仕切りのように垂れ下がる布が、通路の役割を果たしていた。
来場者を脅かすための小道具はまだ設置されておらず、教室の中央に散らばっている。マネキンの頭や、お化け役用の白い着物、血のりの入った瓶、柳の枝、こんにゃく、たらい――桃花は楽しそうにそれらを手に取って吟味した。
そういえばクラスメイトが一人も見当たらないのだけれど、みんな準備もほったらかしてどこに行ったのだろう。
「明日の文化祭が楽しみね。始まったら一番最初に来てあげるわ」
桃花は無邪気に笑った。
「――なあ、桃花」
暗幕で日差しが遮られた室内は、いつもより温度が低い。空気は停滞し、切れかけの蛍光灯が点滅を繰り返す。
「なあに?」
――もしかして小宮、覚えているのか? 去年の文化祭の――
「去年の文化祭、何があったのか桃花は知ってるか?」
「去年の文化祭……? 何で?」
桃花は意図が掴めないという表情をした。
「いや、その……あの時色々あったと思うんだけど、正直全然覚えてなくてさ。藤はあんまりその時のことを話したがらないけど……できるなら僕は知りたいんだ。あの時、本当は何があったのか」
「うーん、そうねえ……」
桃花は倒れていた机を一つ起こして、その上に腰掛けた。頬に手を当てて、考え込む仕草をする。
「別に教えてあげても良いんだけど……」
「……けど?」
嫌でも目に入る彼女の両膝の絆創膏を見ながら、訊き返す。
「条件があるわ」
ぞんざいに足を組み、桃花は右手を突き出した。そして人差し指をピンと立てる。
「一つ目は、あたしが喋ったことを藤には内緒にすること」
次いで、中指を立てた。
「二つ目は、話をしてあげる代わりに、あたしの望みを一つ叶えること」
「桃花の、望み……?」
眉を寄せて尋ねると、桃花はニコリと笑った。
「大丈夫よ、そんなに難しいことじゃないから。どうする? この条件を飲むなら教えてあげても良いわ」
試すような目で見る桃花に、僕は無意識に拳を握りながら答えた。
「分かった。その条件を守る。だから教えてくれ。去年の文化祭で、何があったのかを」
◇ ◇
「――最初の異変が起きたのは……そうね、文化祭の一週間ほど前だったかしら」
それは昼休みのことだった。桃花が職員室への用事を済ませた後不意に中庭に目をやると、草木に紛れ込んでスケッチをする小宮が見えた。
休み時間、中庭でスケッチするのが彼の日課であることは桃花も知るところだった。周囲に人はいない。大多数の生徒は、教室か部室でお喋りに興じている。高校生とはそういう年頃なのだ。
「こみやん、クラスで浮いたりしてないかしら……」
小宮と同じ部活動に所属して半年。
彼の人となりや、その特異体質について理解し受け入れ始めてきたものの、桃花はふとした瞬間に不安を感じることがあった。
美術室以外の場所で、小宮は人との関わりをなるべく避けているように見えた。自分は「人ならざるもの」を知らない人たちとは決して相容れない存在なのだと、そう諦めてしまっているように思えたのだ。その在り方は藤とよく似ていて、桃花は自然と小宮の世話を焼くようになった。
ちょっとは同級生と交流でもしなさいと声を掛けようとして、上履きのまま中庭に踏み入れたその時。突如、小宮の肩が大きく震え、そのまま身体が重力に従って傾いた。バランスを崩したクロッキー帳が膝から滑り落ちる。
「こみやん!」
小宮は「人ならざるもの」にあてられやすい体質だ。だからなおのこと、ひとりにさせるのが怖かった。
駆け寄って肩を揺すると、小さく呻きながら小宮が目を開けた。時間を掛けて桃花に焦点を合わせ、寝起きのようなぼんやりとした声で名前を呼んだ。
「……桃、花?」
「そうよ。大丈夫? 生きてる?」
「……あれ、僕……」
まだ少し気怠そうに身体を起こそうとするのでそれを手伝いながら、桃花は顔を覗き込んだ。
「人ならざるものにあてられたんじゃない? 急に倒れたからびっくりしたわよ」
「……そう、なんだ。何だかよく、覚えてないな……」
まだ頭の回転が鈍いのか、小宮は舌足らずな言い方をしながら自分の手を握ったり開いたりする。その動きは不自然なほどぎこちない。
桃花は散らばったクロッキー帳と筆記用具をかき集めた。
「歩けそうなら取り敢えず保健室行くわよ。少し休んだ方が良いわ」
「……いや、もう何ともないみたい」
「は? そんな顔色で何言ってるのよ?」
予想とは異なる反応に、桃花は手を止めて眉を寄せた。
「うん、大丈夫そうだ。ありがとう、桃花」
小宮はひとりそう頷き、桃花の手からスケッチ道具を半ば強引に受け取った。
「ちょ……」
立ち上がりに少しふらつきながらも、小宮はしっかりとした足取りで中庭を出ていく。呆気に取られていた桃花は我に返ると、その後ろ姿に向かって叫んだ。
「今日の部活は休みなさいよ! 絶対だからね!」
放課後、美術室の扉を開けて桃花は眉間を押さえた。
「――って、何でいるのよ!」
そこには既に、鉛筆片手に黙々と下描きをする小宮がいた。集中しているのか、桃花たちが到着したことにも気付いていない様子だ。
「今日は休みなさいって言ったわよね? あんたはどうしていつもあたしの言うことを聞かないの――」
「……待って、桃花」
溜息を吐きながら入室しようとした桃花を、後ろにいた藤が押しのけて中に入って行った。
藤は小宮の肩を掴み、力強く自分の方を振り向かせた。
「――小宮」
「……あれ、藤?」
ようやく反応があった。振り向いた小宮は、やはり寝起きのようなぼやけた表情をしている。
「何をしている?」
「……え?」
「自分の手を見てみろ」
そう言われて素直に小宮は目線を落とす。真っ黒になった手のひらを認めた途端、小宮は悲鳴じみた声をあげた。
「うわ、何だこれ」
次いで、目の前のキャンバスを見て小宮は首を捻った。
「……いつの間にこんな絵、描いたんだろう」
小宮ごしにキャンバスを覗く。藤の絵だけを描くことを約束した小宮がキャンバスいっぱいに描いていたのは、花瓶にいけられた花の絵。
「――桃花、ちょっと」
藤に手を引かれ、桃花は一度美術室の外に出た。そして薄く開いた入り口の扉から、小宮の姿を盗み見る。
「ねえ藤。一体何なの、あれ」
小宮はまた鉛筆を手にしてキャンバスに描き込みを始めていた。何の迷いもなく、手や服が汚れるのも厭わず、ただ手を動かすことに没頭している。
「――どうやら『人ならざるもの』にとり憑かれたようだ」
「ええええええ? とり憑、んぐ、ぐぐ……」
絶叫が廊下に響き渡る寸前、藤の手が口を塞いだ。
「しっ! 声が大きい」
「ご、ごめん。驚いて、つい……」
深呼吸を何度か繰り返して桃花が落ち着きを取り戻すと、藤は手を離した。
「一体、いつどこでとり憑かれたのか……昨日まではそんな様子じゃなかったんだが」
「あっ……! もしかして――」
ピンときた桃花は昼休みに起きた一部始終を話した。聞き終えた藤は、嘆息した。
「どうやらその時で間違いなさそうだね……」
単純に「人ならざるもの」にあてられただけかと思っていたが、まさかとり憑かれていたとは。あまりにも無防備すぎる小宮に、桃花は段々と腹が立ってきた。
「まったく……こみやんはどうしてこう、面倒事ばかり起こすのかしら。どれだけ藤に心配掛けたら済むのよ!」
「あんまり怒ってやるな、桃花。とり憑かれたのは、小宮が悪いわけじゃない」
「そりゃ、そうだけど……で、これからどうするの? このままにはしておけないわよね?」
「もちろん。だが……」
藤は扉の隙間から、美術室の中を窺う。桃花もつられて小宮の背中を見た。
「……どうやらとり憑いた『人ならざるもの』は警戒心が強そうなんだ。さっきも私の顔を見るや奥に引っ込んでしまって、対話に応じてくれる気配がない……だがおそらく『人ならざるもの』の目的は小宮の絵だ。何らかの意図があって、あの絵の完成を求めているのだと思う」
「じゃあ絵が完成したら、満足して出て行ってくれるってこと?」
藤は扉に背を預け、両腕を組んだ。
「……必ずしもそうだとは言い切れないが、可能性は高い。絵の完成があれにとって意味があることは確かだ。今、下手に刺激して小宮を危険に晒したくはない。しばらくは様子を見るしかないだろう。だが――」
「……何か不安があるのね?」
「あまり悠長にはしていられない。『人ならざるもの』にとり憑かれる状態は、人の身体に大きな負荷がかかる。小宮がそれにどれだけ耐えられるか分からない。それに、意識を乗っ取られる時間が長引けば長引くほど、自我を保つのが難しくなる。もし完全に侵食されてしまったら、二度と小宮から引き剥がせなくなる可能性もある」
藤は冷静さを装っているが、その心中が穏やかではないのは手に取るように分かった。
「……あとどのぐらいまでなら、間に合うの?」
藤は引き結んだ唇から、絞り出すように一言。
「一週間」
「文化祭当日までね」
「限界まで引き伸ばして一週間だ。もしそれまでに絵が完成しなかったら――あるいは、絵が完成しても小宮から出て行こうとしなかったら――」
藤は切れ長の目を更に細めて、力強く言った。
「その時は、私が無理やり祓うしか方法はない」




