其ノ弐 桃花に起きた異変
文化祭を数日後に控え、僕は美術部の制作とクラスの出し物の手伝いでいつになく忙しない日々を送っていた。
慣れない他人との共同作業に、容赦なく迫る締め切り。日に日に増していく疲労感を背中に乗せて、僕は重い足取りで美術室までの道を辿った。
きっと今日も美術室には僕ひとりだろう。そのことも、溜息が出る原因の一つだった。
桃花はいつになったら戻ってくるのか。
それすらも分からないまま――
「……え?」
横切ろうとした階段の踊り場を二度見した。
十三段分目線を上げた踊り場で、こちらに背を向けて立っている女子生徒が一人。
見慣れた背中――桃花だ。
僕は逆光に眩みながらも、階段を駆け上がった。
足音に気付いた彼女が振り返る。僕の姿を認めた途端――桃花はあからさまにしまったという顔をして逃げ出した。
「ちょ……!」
いきなりの逃走に、僕は慌てて後を追う。
「待てってば……!」
三階の音楽室手前で、僕はようやく桃花の細い腕を掴んだ。桃花は全力で僕の手から逃れようともがいた。
「離してよ!」
僕は肩で息をしながら、暴れる桃花を押さえ込む。
「どうしたんだよ、桃花。何で逃げたりするんだ」
「そっちが追いかけてきたからでしょ!」
「頼むから、話を聞いてくれ。最近何で部活に来ないんだ? 何かあったのか?」
「別に何もないわ、こみやんに話すことなんか何も」
「そんな言い方ないだろ。僕は桃花のことを心配して……、っ!」
腕に容赦なく爪を立てられ、思わず僕は桃花の手を離してしまった。桃花はすかさず僕から距離をとる。その全身からは、威嚇する小動物のような警戒心がひしひしと伝わってきた。
「あたしがいつ心配して欲しいだなんて言った? 余計なお世話よ。部活に行かないのだって、行く気にならないからってだけ」
「嘘だ」
「嘘じゃないわ。本心よ」
「そんなはずない」
断固として否定する僕に、桃花は眉を顰めた。
「何故そう言い切れるの? あんたにあたしの何が分かるっていうのよ」
桃花のよく通る声が、白い廊下に響き渡る。全方位から突き刺さる桃花の言葉に、僕の身体は竦んだ。
「どうせあたしがいない方が、あんたの制作も捗るでしょう? 分かってるんだから。絵を描かない人間があそこにいる意味なんてないんだって。もうこれ以上あたしに構わないで。放っておいてよ」
「……桃花」
普段から強い物の言い方をする桃花だが、これほど突き放されたのは初めてだった。
自分の気持ちを素直に表現することを臆さないのが、桃花の良いところのはずだ。それなのに、今の彼女は全ての感情に鍵を掛けてしまっていて本音が見えない。
何も言えないで立ち尽くしている僕に、桃花は少しだけ困ったように表情を崩した。
「――あのねえ、そんな泣きそうな顔しないでよ。これじゃあまるであたしが悪者みたいじゃない。人のことばかり気にしてないで、あんたはせいぜい自分の心配でもしてなさい。『人ならざるもの』は、いつだってすぐそこにいるんだから」
――どういう意味だろう。
とても意味深に聞こえた言葉に、僕が訊き返す前に桃花が続けた。
「それと、これだけは約束して。この先何があっても、絶対に藤を信じること。そうすればきっと大丈夫だから」
「――――」
「じゃあね、こみやん。藤をよろしくね」
桃花は呆然とする僕を残して、廊下の向こう側に姿を消した。その背中は、僕が追いかけることをはっきりと拒んでいた。
◇ ◇
酷く胸騒ぎがした。
あてもなく校内を歩きながら、僕は先ほどの桃花の様子を思い浮かべた。
美術部では一番口が軽い桃花が、あれほどまで頑なに口を割らない理由は何なのか。
彼女は一体何を隠しているのだろう。
それは、僕には言えないことなのだろうか。
それは――僕だから言えないことなんじゃないのか。
あそこで出会ったのが藤だったら、桃花も素直に話せたのだろうか。
立ち止まった廊下に、人の気配はない。「人ならざるもの」の気配もない。
本当に、怖いぐらい静かだ。
目を瞑って、壁にもたれた。
――「人ならざるもの」は、いつだってすぐそこにいるんだから。
桃花の言葉は、まるで忠告のようだった。
彼女は何かを知っている。「人ならざるもの」にまつわる、僕が知らない何かを。
僕が――僕だけが知らない何か。
それって、もしかして――
「……小宮、こんなところで何をしている?」
予想しなかった人の声に目を開くと、これまた予想もしなかった距離に彫刻のような美しい相貌があった。
ほんの数センチ、それはもうお互いの鼻がくっつきそうなぐらい近くにいたのは藤。
僕は思わず叫び声をあげて後ずさろうとした――が、生憎背中は既に壁にくっついていて藤と距離を取ることは叶わない。
「ふ、藤……」
僕とそれほど身長が変わらない藤は、真っ直ぐ僕を見ながらやや困惑したように言った。
「……そんなに驚かなくても」
「いや、あの……」
「何度も声を掛けたんだが」
「ごめん……」
恥ずかしさのあまり熱くなった顔を隠すように、僕は首を垂れて謝った。
この距離で見る藤の顔は心臓に悪すぎる。脳内で繰り広げていた思考が今ので全て吹き飛びそうになった。
「そ、そういえば今さっき桃花に会ったんだ」
「桃花に……?」
話を逸らそうと、僕は先ほどの出来事を藤に語った。
桃花の様子がおかしい原因を藤なら知っているのではないか。そういう期待もあった。
話を聞きながら、藤の表情は段々と険しくなっていった。
「桃花が部活に来ない理由……藤は何か知ってるのか?」
藤はしばらく顎に手を当てて何かを考え込んだが、やがて声を潜めるように話し始めた。
「小宮は気付いているか? ここ最近『人ならざるもの』たちの気配がしないことに」
「あ――うん、何となく」
藤がそう言うということは、やはり異常事態だったのか。
「彼らは今、危険を察知して身を隠している。厄介な存在が封印から目覚めようとしているせいで、皆怯えているんだ」
嵐の前の静けさ――どうやらそう感じたのは間違いではなかった。
僕らの周囲で何かが起きようとしている。
「そいつは一体何者なんだ……?」
「それはとても長い時間を生き、とても強い力を持った『人ならざるもの』――残念ながら、私もその程度しか知らない。ただ、一つだけ分かっていることは、その『人ならざるもの』が相当な悪食であるということだ。それは時には人を襲い、時には他の『人ならざるもの』たちを食べる。特に力の弱い者はそれに見つかったら最期、欠片一つ残さず貪りつくされるしかない。生命の糧を手に入れるためには手段を選ばないのがその者の恐ろしいところだ。だからね――」
藤は僕の両肩を掴み、指先にグッと力を込めた。
「それが目覚めてしまったら、きっと小宮のことを狙ってくるに違いない。それにとって小宮の絵は、喉から手が出るほど欲しいものだろうから」
「――――」
背筋が凍った。
藤曰く、「人ならざるもの」にとって僕の絵はご馳走らしい。
中身など何でもいい。僕が描いた絵であれば、彼らは喜び勇んでやってきて、白紙になるまで食べ尽くす。
だが藤と出会い、彼女の絵を描き始めてからは、彼らに絵を食べられることも少なくなっていた。藤が僕を――僕の描いた絵を、他の「人ならざるもの」たちから守ってくれているからだ。
そのせいか「人ならざるもの」に対する警戒心がいつの間にか緩んでいたようだ。薄れかけていた、目に視えない存在に執着される恐怖と不安が、ジワリと胸の内を侵食していった。
「――や、小宮」
無意識に指先が震えていた。
藤に強く肩を揺さぶられ、ようやく彼女と焦点が合う。その宝石のような瞳が、心配そうに僕を覗き込んでいた。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
「……ごめん、大丈夫」
大きく息を吐いてから、僕は藤の手をそっと肩から外した。
「ちょっと動揺しただけだから、気にしないでくれ」
藤は尚も複雑そうな表情で、僕を見つめる。
「……藤?」
「もしかして、覚えているのか? 去年の文化祭の――」
藤がそう言いかけた時、「ああ、いたいた。おい、小宮!」と大きな声が僕を呼んだ。廊下の突き当りで、笹木先生が僕らに向かって手を振っていた。
「お前、合同展示の説明会、ちゃんと出ろって言っただろ! もう始まってるんだよ」
こちらに来るのが面倒なのか、先生はその場から大声で怒鳴ってくる。
「しまった……」
教室を出るまでは覚えていたのに、桃花と出会ったことで完全に頭から抜け落ちてしまった。決してさぼろうとしたわけではないが、この状況では弁解の余地もない。
「い、今行きます! ごめん、藤。話はまた後で」
僕は慌てて荷物を持って、その場をあとにした。
藤が言いかけた言葉の意味を、その時の僕は、まだ知る由もなかった。




