其ノ参 小宮先輩の場合
夏休みに入った。
暑さと蝉の声に起こされて普段より早起きした私は、部活動の予定表をまず確認した。
長期休暇中は基本的に部員が持ち回りで鍵を開けて、部室を開放している。
今日は私が鍵当番の日だった。
中里は運動部の方の練習が忙しいのか、最近はあまり顔を出さない。ちょっとつまらない気持ちもするが、話し掛けられない分原稿が捗るのは助かる。いつものように制服を着て、原稿用紙を鞄に入れて私は家を出た。
学校に到着し、玄関口で上履きに履き替えたあと、外廊下を渡って職員室へ鍵を取りに向かう。
その途中、ふと中庭に視線が行った。
二つの校舎と外廊下で囲まれた小ぢんまりとした中庭では、カラリと晴れた青空の下、木々が葉っぱを気持ち良さそうに揺らしている。今日はいないようだけど、ここではよく休み時間に一人の男子生徒がスケッチをしている姿を見かける。
美術部で唯一絵を描く部員――小宮先輩だ。
中庭で最も古い木の根元に腰掛けて、クロッキー帳を広げながら景色を眺めている姿を見かける度に、先輩は一体何を描いているのだろうと気になって仕方がなかった。
鍵を手に入れ、部室のある二階へと歩を進める。
その間にも、やはり廊下の窓から見える中庭にどことなく視線が向いてしまった。
もはやそこに先輩がいるのが当たり前すぎて、姿が見当たらないことに違和感すら覚えてしまうが、今日は夏休みなのだ。さすがにいるわけがないし、いたら逆に怖い。
扉に掛かっているプレートを「閉鎖中」から「開放中」に入れ替え、換気のために窓を全開にしてからいつもの席に着く。他の部員が来る気配はなさそうで、私は貴重な一人の時間を満喫することにした。
原稿用紙を広げながら、私は引き続き小宮先輩のことを考えた。
美術部に籍を置くことにならなければ、きっと私は先輩の顔も名前も知らずにいたことだろう。それぐらい先輩は、目立った取り柄も無さそうな――私が言うのも失礼だが――平凡な人間だ。
桃花先輩と藤先輩という個性豊かな花を両手に抱えてなお、それを周囲から妬まれもしない。まるで無色透明な水のような存在。
私は先輩のことをずっとそう思っていた。
そう、つい先日までは――
◇ ◇
ほんの二、三週間前のことだ。
家庭科の調理実習でベタに包丁で指を切った私は、恥ずかしさと血の噴き出す指を抱えながら、消毒と絆創膏を求めて保健室へと向かっていた。
授業中の校内は、人ひとり歩いておらず、シンと静まり返っている。保健室は特別棟の一階にあり、私の苦手な美術室と距離が近い。私は無意識に息を殺して暗い廊下を足早に進んだ。
扉の前まで来ると、ホワイトボードには保健医不在の文字。タイミングが悪かったようだ。
仕方がないので、絆創膏だけでも貰って行こう。
そう思いながら扉を引こうとして、その異常な重さに首を傾げた。
「……ん?」
何か引っ掛かっているのだろうか。普通の力ではびくともしない。しかし鍵が掛かっているわけではなさそうだ。
両足を踏ん張り全力で引っ張ってみた。しばらく扉と力比べをしていると、あからさまに急に扉が軽くなり、ガラリと大きな音を立てて開いた。
つんのめるようにして入った室内は電気がついているにも関わらず薄暗く、保健室特有の匂いが充満していた。
勝手に備品棚を漁り、発見した絆創膏を一枚拝借する。その隣の手洗い場で再度血を洗い流し、剥がした絆創膏をきつく巻き付けた。
「よし、完了」
一仕事終えた達成感に、私はようやく肩の力を抜いて周囲を見渡す余裕が出た。
整然と並んだベッド、冷たい表情で佇むパイプ椅子、剥がれかけた感染症予防ポスター。
時間を刻む時計の針、空調の稼働する音、グラウンドから響いてくる生徒の掛け声――
混ざり合った様々な音が、停滞する保健室の空気の上をなぞっていく。
――ぞくり。
不意に背筋が凍った。
得体の知れない「何か」に見られている感覚に陥り、私はぎゅっと腕を抱いた。
ここは気味が悪い、さっさと離れなければ――そう頭では分かっていながらも、私は並んだベッドの中で唯一閉じられたカーテンの向こう側が気になって仕方がなかった。
見てはいけないような、でもそれを確かめなくてはならないような、相反する気持ちが私の中でせめぎ合い――結果、好奇心が勝った。
私は足音を忍ばせてそのベッドに近寄り、そろりとカーテンの隙間から中を覗いた。
一瞬、空間がぶれた――ような気がした。
だが、そこには何もいなかった。
そこに「何」がいると思い描いていたのか自分でも言葉にするのは難しかったが、とにかく私が見下ろした先にいたのは、真っ白いベッドに横たわる一人の男子生徒だけだった。
これといって特徴のない薄い顔立ちは、しかし私には見覚えのある顔だった。
「……小宮、先輩……」
その顔色は酷く青白く、浅い呼吸を繰り返している。胸をおさえるようにシャツを握りしめた左手は、力みすぎて色を失っていた。
今まで遠くから眺めるばかりだった先輩が、急に現実の存在として現れたことに動揺した私は、よろめいてサイドテーブルに足をぶつけた。
「しまっ……」
バサリ、と音を立てて一冊のクロッキー帳が床に落ちた。先輩がいつも持ち歩いているものだ。
慌ててそれを拾い上げようとして、思わずそこに描かれた絵に目を奪われた。
落下の衝撃で開いたページには、繊細な筆致で描き込まれた一人の女子生徒の姿があった。
――藤先輩だ。
彼女の纏う独特な雰囲気をそのまま紙に写し取ったかのように、本物めいた表情で先輩はそこに佇んでいた。ページを捲っても、捲っても、そこに描かれているほとんどが藤先輩なのだ。
私は他人の秘密を覗き見てしまったような後ろめたさを感じ、クロッキー帳を閉じようとした――その時、不意に紙面に描き込まれていた線が揺らいだ。
「……え?」
写生の練習なのか、余白に描かれていた写実的な花の絵。
その輪郭を構成する鉛筆の線が、フワリと浮き上がる。そして――まるで消しゴムをかけられたかのように、その線は私の前から消えたのだ。
「……嘘、でしょ……」
目を擦ってもう一度クロッキー帳をよくよく見たが、確かに今ここにあったはずの花の絵はどこにも見当たらない。初めからそんな絵などなかったと言うように紙面は静寂を守っている。
「……う、っ……」
目の前の出来事に狼狽えていると、ベッドの上で先輩が小さく呻いた。彼は線の細い身体を強ばらせ、苦悶の表情を浮かべている。
「せ、先輩……?」
驚きと恐怖のあまり、私はその場に立ち竦んだまま動けなくなった。
先生を呼んできた方が良いのだろうか。
額に汗を浮かべながら魘される先輩の様子に私は咄嗟にそう思ったが、どうしてだか手足が自由に動かない。まるで金縛りにあったように立ち尽くす私の背中に、ジワリと嫌な気配が触れた。
「…………っ!」
全身の毛が逆立った。
普段そういった感覚を持ち合わせていない私でも、本能的に理解した。
今私の背後には、人ではない「何か」がいる――
手のひらに汗を感じながら私は全身の感覚を研ぎ澄ませた。
目を瞑りたいが、暗闇に包まれるのは余計怖い。
どうしたらいい。どうすればいい。
これは本当に現実なのか?
夢なら早く、お願いだから早く醒めて――
――チリン。
どこからともなく涼やかな音が鳴り響いた。
刹那、空気が一気に晴れ渡り、固まっていた私の足は恐怖から解放された。
思わずたたらを踏んで、サイドテーブルに手をつく。背後に感じていたおぞましい気配は既に霧散していて、私は無意識に止めていた息を吐き出した。
何が起きたのかさっぱり分からなかったが、どうやらあの小さな鈴の音に救われたようだ。ベッドの上の小宮先輩は依然目を覚まさないものの、苦しそうな表情は少し和らいでいた。
「――あら、お客さん?」
突如扉が開く音がして、私は憚らず悲鳴を上げた。振り向くと、白衣を着た保健医が背後に立っていた。
「そんなに驚かなくても……あらま、小宮くんまた来たのね。親御さんに連絡しなきゃ……それであなたはどうしたの? 体調が悪いの?」
「あ、いえ、あの、絆創膏だけ貰いに、あ、でももう終わったので。すみません、失礼します!」
要領を得ない返答を残し、私はその場から全速力で立ち去った。
早鐘を打つ心臓を抱えながら、私は頭にこびりついた光景を振り払おうと頭を振った。
まるで悪夢を見た後のような気分だった。
その後、家庭科室に戻った私は上の空で包丁を扱い、案の定また指を切ったのだった。
◇ ◇
結局夕方まで部室を開放していたが、猛暑のせいか訪れる部員の数は少なかった。
それもそうだ。冷房設備もない真夏の学校に、誰が好んで足を運ぶだろうか。
おかげで自分の執筆は進んだものの、またこの暑さの中家路を辿らなければならないのかと思うと、少しばかりげんなりした。
鍵を職員室に返し、外廊下に出る。途端に不快な湿気と、五月蠅い蝉の声が纏わりついてきた。
――そうか、今日は夏祭りの日か。
思い出し、合点がいった。だから今日は部員の数が少なかったのかもしれない。そんな日に鍵当番とは、私もつくづく運が悪いものだ。
そう思いながらまた習慣のように中庭に目をやると、木の下にはいつものように小宮先輩がいた。あまりに景色に溶け込んでいたものだから、何事もなく通り過ぎてしまいそうだったが、その違和感に気付いて立ち止まる。
「――え、何で?」
夏休み中の自主練習か何かだろうか。
それにしてもこの暑さの中、外でスケッチなど熱中症になりかねないが大丈夫なのだろうか。そう心の中で心配していると、先輩は急に振り返ってこちらを見た。
何事かと焦る私に、先輩はどんどん近づいてくる。その手には、あの時と同じクロッキー帳が握られていた。
「あの、すみません。今日って、夏祭りの日であってます?」
小宮先輩は息を弾ませながら、私にそう尋ねた。先輩と言葉を交わすのは初めてだが、想像以上に柔らかい丁寧な話し方をする人だった。
「夏祭りって……森の麓の神社でやる祭りのことですか?」
この辺で夏祭りといったらそれしかないのだけれど、先輩に話し掛けられて混乱した私はそんなようなことを言った。
「そうです。それです」
「それなら……はい、今日ですけど」
「今、何時か分かりますか?」
私は腕時計に目を落とす。
「……えっと、十八時少し前です、けど……それが何か?」
中庭から見上げれば、校舎の壁に大きな時計が掛かっているはずだ。それなのにどうしてわざわざ時間を確認されたのか少し不思議だった。
外廊下の古い庇がちょうど、先輩の顔を半分ほど影で覆っている。けれど、それでも分かるぐらい調子が悪そうな顔色をしていて、思わず私は声を掛けようとした。
しかし先輩は、柔和な笑みを浮かべて「ありがとう、助かった」と礼を述べると、私に背を向けた。
「あ、ちょっと……」
咄嗟に伸ばした手は先輩の背中には届かず、宙を掴んだだけだった。
陽炎に飲み込まれた先輩の姿は幻のように揺らめいて――消えた。
まるで無色透明な水のような存在。
私が先輩のことをそう思ったのは、先輩が単に他人と比べて目立たない、平凡な人間に見えていたからだ。
だけど、本当はそうじゃなかった。
小宮先輩は、あまりにもその存在が希薄だ。
目を離してしまったら、手を離してしまったら、簡単にここから消えてしまいそうなほど、先輩の存在は危うい。関わりなどないに等しい私ですら、保健室での一件は肝が冷えた。
事情は良く知らないが、小宮先輩は――先輩の絵は、人ではない「何か」に狙われている。
だからこそ桃花先輩は、美術部の存続に力を入れていたのかもしれない。
唯一絵を描く美術部員をここに引き留めておくために。
「――あれ、櫻井じゃん」
校門を出ようとした私に声を掛けてきたのは、部活終わりの中里だった。彼は運動部の方の仲間数人と一緒に歩いていたが、彼らに別れを告げて私のもとへ駆け寄って来た。
「部活お疲れ様。いいの? あっちと一緒じゃなくて」
「うん。大丈夫。どうせあいつらとは方向逆だし」
中里は私の隣に並んで歩き出した。普段あまり気にしたことがなかったが、中里は意外と背が高い。私は彼の高い肩の位置にどことなくそわそわしながら、歩幅を合わせて歩く。
「そっちこそ、今日鍵当番だったよな。行けなくて悪いな」
「気にしないで。大会の練習の方が大事でしょう」
「でも俺にとってはどっちも大事だからさ」
「……そっか」
彼と同じく掛け持ちしながら片方は幽霊部員扱いの私は、少々居心地悪く相槌を打った。
「で、原稿は捗ったのか?」
「ぼちぼちね」
「そういえば櫻井はどんな話を書いてるんだ? そろそろ教えてくれてもいいんじゃないか?」
そういえば私は彼に執筆中の物語の話をしたことがない。それは単に機会がなかっただけなのだが、中里は私がわざと隠していると思っているようだった。
目の前の信号が赤になる。足を止めて私は隣の中里を見上げた。
「そうだね。タイトルは――とある美術部員の考察――かな」
番外編 完




