其ノ弐 藤先輩の場合
「おーい、櫻井」
今日もまた、笹木先生はホームルーム直後に私を名指しで呼ぶ。
「……何ですか」
「悪いけど今集めたこの提出物、美術準備室に届けておいてくれないか」
「またですか? そろそろ美術係に頼んでくださいよ」
「いやあ、今日は美術係休みだっただろう?」
今しがた自分も提出したばかりのスケッチブックの山を前に文句を言うが、先生はのらりくらりと躱す。
「いいじゃないか。たまにはついでに美術部の方にも顔を出したらどうだ?」
「結構です。私は文芸部の方で手一杯なので」
「つれないなあ」
心にもないことを言いながら、先生は教卓の上に積まれた提出物を私の方へ少しずつ押しやる。
「…………」
私も何食わぬ顔でそれを押し戻す。しばらく無言の押し合いが続いたが、私が少し強く押したタイミングで、耐えきれなくなったスケッチブックの山が上の方から崩壊した。
「はい、櫻井の負けー」
「あー、悔しい!」
床に散らばった提出物を軽やかに飛び越えながら「じゃ、よろしくな」と先生は教室を出て行ってしまった。
私は散乱したスケッチブックを掻き集め、今日も美術室準備室に向かうことになったのだ。
季節は夏だというのに、美術室の周囲は相も変わらずどんよりとした空気を纏っている。
両手いっぱいに抱えた提出物を準備室に届けて退出しようとしたその時、隣の美術室から物音が響いた。
また桃花先輩がひとり遊びでもしているのだろうか。そう思いながら私は薄く扉を開いて、眼鏡の奥で目を細めた。
予想は呆気なく外れた。
美術室の窓際の席でぼんやりと外を眺めているのは、絵画のように美しい女子生徒。
「……藤先輩」
噂に疎い私でも、流石の彼女の顔と名前くらいは知っている。
人間離れした美貌と、明晰な頭脳を兼ね備えた高嶺の花。藤先輩は、男女問わず全校生徒の憧れの的だ。
これだけ目立つ人なのだからきっと苦労も多いのだろうと思っていたが、先輩はどこか人を寄せ付けない孤高さを持っているせいか、下手に絡まれることもなく案外平穏な学校生活を送っているようだった。
大半の生徒は、先輩のことを何も知らない。多分、先輩が美術部所属だということすら知らないだろう。ただその印象的な容姿から、彼女が謎多き麗人であると思い込んでいるのだ。
しかし私は知っている。
藤先輩が、本当に謎を持った人間だということを。
◇ ◇
それは梅雨の頃だったと思う。
同じ学年の文芸部員から、藤先輩にまつわる突飛な噂を聞いたのだ。
「――なあ櫻井、聞いてくれるか?」
試験が終わった解放感を味わいながら久しぶりの部室に入った途端、その部員は飼い主を待っていた犬のように駆けてきた。
「え、何。急に」
「昨日さ、兄貴が面白い話を教えてくれたんだよ!」
「兄貴……? ああ、一つ先輩の方の?」
彼――中里はむさくるしい男三兄弟の末っ子で、同じ学校に通う一つ上の兄はオカルト研究部の部長を務めている。前に見かけた兄の方はヒョロリと首が長い文化部特有の見た目をしていて、あんまり似ていないなという感想を抱いた。
兄弟仲は悪くないらしく、中里は時々こうして兄経由でオカルトチックな噂を部室に持ち込んでくる。そして大抵、話のオチまで聞いた後、私はこう言うのだ。
――そんな阿保みたいな噂、よく真に受けて持ってきたわね。
「どうせまたオカルトの話なんでしょ? 好きねえ」
鞄をおろして席に着きながら、私は呆れたように笑った。だが、中里は可笑しなほど真剣な眼差しをしている。
「いやいや、今回ばかりは聞いて驚くぞ。なんせ、兄貴の実体験だからな」
「へえ……ついに妖怪に出会ったりしたの?」
冗談のつもりだった。が、隣に座った中里は自信ありげに胸を張った。
「妖怪じゃなくて、妖怪祓いに出会ったんだよ!」
「……は? 嘘でしょう」
「これが嘘じゃないんだなあ」
中里は一つ咳払いをすると、居住まいを正して語り始めた。
事の次第はこうだ。
先日、オカルト研究部の部室に忽然と現れた虹の絵。その絵はオカルト研究部に代々伝えられてきた幻の「妖怪を呼ぶ絵」だという。
中里の兄たちオカルト研究部員は、この虹の絵から妖怪を招く儀式を行おうとした。だが、邪魔が入ったことで儀式は中断され、絵から出て来た妖怪は暴走を始めた。その影響かいきなり突風が巻き起こりあわや大惨事かと思われたその時、颯爽と現れたのが――
「――藤先輩だったのさ!」
得意げに言う中里に、私は自分で思った以上に憐みの表情を浮かべていた。
「先輩が登場した途端、謎の突風はピタリとやんだんだ。先輩が何らかの力で妖怪たちを鎮め、元の場所へと還したんだよ。つまり、先輩の裏の顔は妖怪祓いだったんだ!」
さて、どこから突っ込めばいいのやら。
中里のいいところは、年の割に明るくて純粋で素直な性格であることだけれど、時には疑うことも覚えて欲しいものだ。
「――まず訊きたいんだけど、あんたの兄貴はその虹の絵から出て来たっていう妖怪の姿を見たの?」
「いや、妖怪自体は見ていないらしい」
「じゃあ何で絵から妖怪が出て来たって言えるの?」
「だって普通、学校の階段の踊り場に突風が起こったりするか? それって絶対、異常現象だろう? 妖怪の仕業に違いないよ」
「それって階段の窓が開いていて、たまたま強い風が吹いただけじゃないの? その時階段の窓が閉まっていたっていう確実な証拠はないんでしょう? それに藤先輩が妖怪を祓ったっていうのも怪しい話ね。直接祓うところを目の当たりにしたわけじゃないみたいだし、先輩は偶然その場に居合わせただけなんじゃない?」
「……でも、先輩が現れたら突風が収まったのは単なる偶然で済ませられないだろう? それに虹の絵はその後どこを探しても見つからなかったって言うから、もしかしたら先輩は最初からあの絵をオカルト研究部から取り戻すことが目的だったってことも考えられるよな」
話は収まるどころか広がっていく一方だ。想像力が逞しいのは文芸部員としては結構なことだが、物語にはそれを裏付ける理論が必要だ。
「あのね、中里。目に視えないものが存在すると言うのなら、それが存在するという目に視える証拠を持ってきてよ。それができないなら、この話にはただの作り話以上の価値はないわ」
畳み掛けるように言うと、中里はつまらなさそうに唇を突き出した。
「ちぇ、お前ってほんと冷たいよなあ」
「私は現実を見てるの。藤先輩は確かにちょっと浮世離れした雰囲気だけど、証拠もないのに見た目だけで判断してそんな変な噂流しちゃ失礼だよ」
中里は唇の上に器用に鉛筆を乗せながら何かを思案しているようだったが、やがて背もたれから勢いよく身体を起こした。
「要は証拠があればいいってことだよな?」
「……うん?」
「分かった。兄貴に何か話を裏付ける証拠がないか訊いてくるから、ちょっと待ってろ!」
「え、ちょ……」
言うや否や、中里は部室を出て行った。入り口ですれ違った他の部員が、驚いて振り返る。
「中里どうしたの? 何か慌てて出て行ったけど」
「……ああ、いや、気にしないでください」
私は大きく溜息を吐いて、目の前の原稿用紙に向き合った。
後先考えずに動くところは、彼の悪い癖だ。以前カツアゲに遭っている人を助けに入ったら自分が全治二週間の怪我を負ったと笑って話され、思いっきり引いてしまったことを思い出した。
まあどうせ、しばらくは戻って来ないだろう。
その間に文化祭で配布する部誌に載せる小説の続きを書こうと、緑色のマス目に視線を落としたその時。
――ああそうだ、至急探して欲しい。虹の絵の持ち主を。
凛とした声が、不意に脳裏に過った。
「――――!」
私はハッとして頭を上げた。
さっきまでは全然気にもしていなかった「虹の絵」という単語が、今になって記憶と繋がった音がしたのだ。
「……あれは確か」
掴んだ記憶の紐を引っ張り上げようと、私は天井を睨む。
確か、ほんの数日前のことだ。
私は日直の仕事として、放課後大きなゴミ袋を一つ抱えてゴミ捨て場へと向かっていた。雨はその時、やんでいたと思う。傘は持っていなかったはずだから。
ゴミ捨て場は学校の敷地の片隅にひっそりと作られていて、滅多に人の往来がない。時々用務員さんと回収業者が行き来しているだけで、生徒はほとんど近寄らない場所だった。
だから、私は不思議に思ったのだ。そのゴミ捨て場の影に身を潜めるようにして一人の女子生徒が佇んでいることに。
彼女が私に気付くより先に、私が彼女の姿を見つけた。
こんなところで何をしているのだろう。どうやら話し込んでいる様子なので、最初は人目を避けて電話でもしているのかと思った。それか、私に見えていないだけで奥にもう一人いるのだろう、と。
しかし、至近距離まで近づいて、私は足を止めた。
そこにいた女子生徒は、驚いたことに一人で会話していたのだ。
彼女は確かに、こう言った。
――ああそうだ、至急探して欲しい。虹の絵の持ち主を。
周囲には誰もいなかった。それでもその女子生徒は、迷うことなくたった一点に焦点を定めて、しっかりとした口調でそう言ったのだった。
私の抱えたゴミ袋が、ガサリと音を立て、その人は振り向いた。切れ長の瞳が私の姿を確認すると、サッと何かを隠すような微笑みが浮かべられた。
「ゴミ捨て、ご苦労さま」
「……いえ。先輩こそ、お疲れ様です」
私の返事を聞き終える前に、彼女はその場を去った。私は少々気味の悪さを感じながら、それを振り払うようにゴミ袋を投げ捨てた。
その女子生徒こそが、まさに「妖怪祓い」と噂された藤先輩だった。
◇ ◇
薄く開いた扉の向こう、窓の外を飽きもせず眺める藤先輩を覗き見ながら、私はぼんやりと梅雨時の出来事を振り返った。
あの後、オカルト研究部から帰って来た中里はガックリと肩を落としていた。何でも、兄は中里にそんな話をしたことを全く覚えていなかったらしい。そんなはずはない、絶対に昨日聞いたのに、と憤慨する中里を「夢でも見たんじゃないの」と茶化してやったが、私はその一方でうすら寒いものを感じていた。
虹の絵というただ一つの共通点で全てを繋げるのは暴論かもしれない。
別に藤先輩を「妖怪祓い」だなんて本気で信じているわけではない。
けれどもしかしたら先輩には、人の目には視えない「何か」が視えているのではないか。
そんな予感は、私の胸の内にジワリと広がっていった。
――虹の絵と妖怪と藤先輩。
それらは繋がりそうで、繋がらない、ピースの揃わないパズルのようだった。
断片的な情報は想像を掻き立てるが、それはただの憶測でしかない。
きっと真実は本人にしか分からないところだろう。
私は回顧するのをやめて、準備室をあとにした。
文芸部の部室は、特別棟二階の小さな教室だ。
いつもより少し遅れて部室に行くと、既に中里が原稿用紙と向き合っていた。
「どう、順調?」
一学期いっぱいは、大抵どの部員も文化祭用の部誌制作に取り掛かっている。中里は運動部との掛け持ちだが、まめに出席しては何やら壮大な長編を書き上げようとしていた。
声を掛けると、中里は椅子の背にもたれて頭の後ろで腕を組んだ。
「うーん、結末が決まらなくてさ。ネタ自体は面白いと思うんだけど」
「どんな話なの?」
「学校を舞台にした人間対妖怪の戦い」
「……なるほどね」
この男はどうあってもオカルトから離れられないらしい。兄が兄なら、弟も弟だ。もしかして一番上の兄もオカルト好きなのだろうか。
「最後にどっちが勝つかがまだ決まらないんだよな。櫻井はどっちが勝つ方が面白いと思う?」
中里はくるりと鉛筆を指先で回しながら尋ねた。
私は隣の席に腰掛け、「そうねえ」と言った。
「――成り行きに任せれば良いんじゃない?」
「成り行きに?」
「そう。そこまでに至る過程に根拠と情熱があれば、どっちが勝っても面白い物語になると思うよ」
「そういうものかねえ」
そう呟きながらも、原稿用紙に向かう彼の横顔はどこか前向きになっていた。私も自分の原稿を進めなければと、紙束を鞄から取り出した。
今この瞬間、この教室の真下に位置する美術室で藤先輩は何を考えているのだろう。
それは知る由もないけれど、一つだけ確実に言えることがあった。
きっと藤先輩は私たちの知らない謎をまだまだたくさん秘めているはずだ。
だけど――いや、だからこそ、藤先輩は美しいのだと。




