其ノ弐 現れた新入部員
新学期が始まり、早くも一ヶ月が経とうとしていた。
新入生歓迎会は、結局美術部不参加のまま終わってしまった。前日まで三人であれこれと頭を悩ませていたのだが、肝心の当日に僕が熱を出して寝込んでしまったのだ。多分、珍しく頭を使ったせいで知恵熱が出たのだろう。
他の二人は絵を描かない。
特に桃花は壊滅的に絵が描けない性質だ。センスがないというレベルではない彼女の絵を見た時、藤は何とも複雑な表情で「桃花は画伯だね」という感想を残した。
美術部を名乗れるかも怪しい部員たちでまともに活動をアピールできるはずもなく、続々と入部希望者が押し寄せる他の部活動を横目に、僕らは今日も閑古鳥が鳴く美術室でのんべんだらりと過ごしていた。
「こみやん、連休の予定は?」
「今のところ何も。桃花は?」
「んー、特にはないわ。藤は?」
「課題やって終わりだね」
「だよねえ。あ、あたしん家で勉強会でもする? たくさんお菓子用意するから」
「いいね。小宮もどう?」
「うん? ああ、そうだね」
いや、本当は悠長にしていてはいけないのだ。
五月の連休明けには部活動の活動報告と今年度の予算申請の受け付けが始まる。それまでにあと二人、部員の入部が見込めなかったら、美術部は本当に廃部になってしまう。
しかしながら、今のところ入部希望者の訪問は皆無だ。あと数日のうちに奇跡が起きる可能性も低い。
入部してくる生徒がいなかったら、藤の絵もこれで描き納めになってしまうのだろうか。
色を乗せた筆先がキャンバスに触れる直前、ふとそんな不安が頭を過って手が止まった。
もし廃部になってしまったら、この先僕らの関係はどうなってしまうのだろう。縁もゆかりもない赤の他人に戻ってしまうのだろうか。
それは――ちょっと嫌だなあ。
なんて考えていると、あの気配がしてスッと血の気が引いた。
あ、と思った瞬間目の前が真っ暗になり、僕の身体はキャンバス目掛けて滑り落ちていった。
――ガタン。
大きな音を立てて、キャンバスがイーゼルごと床に倒れた。何とか自分自身だけはその場に踏みとどまる。
「こみやん!? どうしたの?」
「大丈夫か、小宮」
驚いた二人が慌てて駆け寄ってきた。
「今、一瞬……『人ならざるもの』の気配がして……」
言い終える前に、僕の身を案じるように肩に置かれた藤の手がピクリと何かに反応した。
「藤……?」
切れ長の目をさらに鋭くし、藤は前方の扉を見た。
そこに彼らが――「人ならざるもの」がいるのだろうか。
床に散乱した画材を拾い集めていた桃花も、つられてそちらを凝視した。
やがて、わずかに軋んだ音を立てて扉が開いた。
そこから遠慮がちに顔を覗かせたのは――
「あのう……美術部の見学はこちらでいいのでしょうか……」
何と、入部希望の新入生だった。
◇ ◇
「――おっどろいた。まさか、本当に新しい部員が降って湧いてくるなんてねえ。しかもこんなに可愛い子が」
桃花が物珍しそうに入部希望者のつむじを見下ろした。
自らを春奈と名乗ったその女子生徒は、背後の桃花に気圧されるように椅子の上で縮こまる。僕はなおも値踏みしようとする桃花を引き剥がし、「ええと……」と前置きをして尋ねた。
「入部希望ってことだけど……その、君は絵を描いたりするのかな」
「……いえ、あの……絵を描くのは苦手なんです……すみません」
消え入りそうな声で謝る春奈に、慌てて僕は言葉を足す。
「あ、いや、別に描けないから駄目ってことはないから、大丈夫だよ。現に、今いる部員のうち二人はまったく絵を描かないから。じゃあ、えっと、むしろ鑑賞する方なのかな? 好きな画家がいるとか?」
「……そういうの、あんまり分からないんです……すみません」
さらに項垂れる春奈に僕はお手上げ状態だった。助けを求めるように藤を探すと、彼女は少し離れた壁際で、腕組みしながら険しい表情を浮かべていた。
「――絵は描けない、興味もない……なら何故美術部に?」
藤の突き放すような問いに、春奈は逡巡したあと静かに口を開いた。
「先輩の――小宮先輩の絵が、好きだから、です」
「……それは、どういう意味で?」
彼女は膝の上で両手をギュッと握ると、藤を見上げて一番はっきりとした声で言った。
「そのままの意味です。わたし、去年の文化祭で、先輩の絵を見たんです。一枚しか展示してなかったけど、その作品にものすごく惹かれました。それで、もう一度先輩の絵が見たいって思って、ここに来たんです」
桃花が意地の悪い笑みを浮かべて、僕の脇腹を小突いてくる。思いもよらなかった入部希望の理由に、僕は戸惑った――いや、有難い話ではあるのだけども、どうにも素直に喜べないでいた。
「わたしは小宮先輩の絵が見たいんです。先輩が絵を描くところを見たい。だから、ここに入りたいんです――それだけじゃ、駄目ですか?」
言い切った春奈は、どことなく挑戦的な視線を藤に送る。藤はそれを軽く受け流し、窓の外に目をやる。
何も言わない両者。
隣に立つ桃花が、今度は僕の脇腹を抓った。この気まずい空気を何とかしろという指令に違いない。仕方なくわざとらしい咳払いをして、僕は二人の間に割って入った。
「えっと……とにかく、貴重な入部希望者なわけだし、まずは体験入部というかたちで入ってもらうのはどうかな? 本格的に入部するかどうかは、それから決めるっていうことで……」
「わたしはそれで構いません」
最初のおどおどした態度はどこへ行ったのか、春奈は強い意思を持って頷いた。
その向こう、いまだ硬い表情の藤は「……小宮がそう言うのなら」と渋々了承した。
「じゃあ、入部届は一旦預かるよ」
「はい、お願いします」
春奈は懐から一枚の紙切れを取り出した。
それを受け取ろうと伸ばした僕の手が、春奈の指先に触れる。
「――――?」
瞬間覚えた違和感に、僕は反射的に手を引っ込めた。
「先輩……? どうかしましたか?」
「ごめん……なんでもないよ」
訝しがる春奈に誤魔化すように笑って、入部届を預かった。
「じゃあ、明日の放課後また来ますね」
春奈は礼儀正しく一礼して、美術室をあとにした。扉が閉まった途端、桃花が大きく息を吐いて春奈が座っていた椅子に大儀そうに腰をおろした。
「何だか息が詰まりそうだったわ。新入部員が来るのは有難いけど、あたしあの子ちょっと苦手。可愛い子だったけど、何だか変わってるもの。ねえこみやん、そんな感じしなかった?」
僕は自分の左手を見つめながら、上の空で桃花に返事をした。
さっき一瞬、僕は春奈の指に触れられなかったような気がしたのだが――
「……気のせい、かな」
「ん? こみやん何か言った?」
首を横に振った。
「……ううん、何でもない」
大丈夫だ。
春奈はちゃんと僕に視えている。
◇ ◇
美術部の入部希望者第一号である春奈は、今時珍しいぐらい清楚だった。
肩より少し長い絹のような黒髪、化粧っ気の全くないきめの細かい肌、校則通りの膝丈スカート。女子高生というより、女学生と言った方がしっくりくる。
浮世離れしているといえば藤がその代表格であるが、それに負けず劣らず春奈はどこか人と違う雰囲気を醸し出していた。
「ねえ、こみやん。暇なんだけど。ちょっとは構ってよう。ねえってば」
午後から降り出した雨が、美術室の窓を叩く。
今時の女子高生代表である桃花はだらしなく机に寝そべって、愛用の桃色の携帯を開いては閉じ、開いては閉じを繰り返していた。よっぽど暇を持て余しているようだ。
美術室にいるのは、僕と桃花と春奈の三人。
藤はいない。今日は用事があるらしいと、彼女と同じクラスの桃花から聞いた。
モデルがいないので、僕は仕方なくいつも持ち歩いているクロッキー帳を広げる。その隣にぴったりとくっついた春奈が、これでもかと手元を凝視してきた。正直、やりづらいことこの上ない。
「……春奈――さんは、熱心だね。その、絵の勉強に……」
穴が空くほど見つめられて、僕は仕方なく鉛筆を置いた。
「春奈でいいですよ、先輩」
春奈は紙面から一ミリたりとも視線を外さないで応えた。
「絵の勉強というより、わたしは先輩の絵がどうやって描かれていくのかに興味があるんです。どうぞ、わたしのことは気にしないで続きを描いてください」
「……いやあ、そう言われてもね」
困ったなあ――と向かいの席の桃花を見ると、僕が春奈の相手ばかりしていたせいか完全に拗ねていた。助け船を求める念を送ってみても桃花は携帯の画面から顔も上げず、意図的に僕の――僕らの存在を無視している。
「ところで先輩。先輩はどうして同じ絵ばかり描いているんですか?」
そんな桃花をよそに、春奈はクロッキー帳を興味深そうに眺めながら尋ねてきた。
「え、ああ……それはその……今は、この人をモデルにした絵を描いているから、練習もおのずと似たような構図になっちゃうんだ」
「人物画以外は描かない主義なんですか?」
「そういうわけじゃないよ」
「わたしが去年見たのは確か、花の絵でした。花瓶にいけられた、溢れんばかりの色とりどりの花……すごく、綺麗でした。ああいうのは、もう描かないんですか?」
僕はその絵を思い出し、すぐにそれを打ち消した。
もうあの絵は、この世に存在しない。
あの絵は、「人ならざるもの」に食べられてしまったのだ。
「今は風景画とか静物画より、人物画を描きたい気分なんだ。だから、別にずっとそういう絵を描かないわけじゃないよ。気が向いたらいずれ描くこともあるだろうし」
「……そう、ですか」
何故か気落ちした様子の春奈に、僕は罪悪感を覚える。
嘘は言っていないが、僕はしばらくこの人物の絵を描き続けることになる。それが一年先か、二年先までかは分からないけれど。
それまでは、キャンバスに彼女以外をのせることはない。
春奈はそれから口を閉ざしてしまった。
僕はまた鉛筆で線を重ね始めたが、どうにも気分が乗らない。心なしか寒気もし出した。
重たい頭を上げ、窓の外を見た。雨足が強くなっている。これから酷くなるかもしれない。
今日はもう帰ろうか――そう思案していると、隣で春奈がポツリと呟いた。
「……先輩。お願いが、あるんです」
「……お願い?」
「わたしのために、一枚絵を描いてもらえませんか?」
俯いた春奈の表情が読めず、僕は彼女の顔を覗き込む。同時に春奈が顔を上げたせいで、真正面から目が合ってしまった。
春奈の、色素の薄い瞳に僕の姿が映る。一瞬、そこに自身が閉じ込められた錯覚に陥り、僕は焦って瞬きを繰り返した。
「無理を言っているのは承知しています。でも、わたしには時間がないんです。お願いです、一枚でいいんです。わたしの、春奈のために、絵を――」
唐突に春奈の身体が傾いだ。
咄嗟に両手を伸ばす。
触れる直前に指先が強張ったが、その華奢な身体は僕の腕の中にしっかりとおさまった。
「……大丈夫?」
ちゃんと質量を感じたことに安堵しつつも、その身体の軽さに驚いた。
まるで空っぽの箱のようだ。
「すみません……もう、大丈夫です」
春奈は身を起こしながら、申し訳なさそうに謝った。
「顔色が悪いよ、今日はもう帰った方がいいんじゃないかな。送って行こうか」
「いえ、一人で帰れます。先輩、今日のところはこれで失礼しますね」
春奈は僕の申し出を断ると、ふらりと出入り口に向かった。扉の前で一度振り返り、薄い笑みを浮かべる。
「先輩、わたし、諦めませんから。良いお返事がいただけるまで、何度でもまた来ます」
――それでは。
春奈の姿が廊下に消えた途端、激しい雨音が耳を揺さぶった。
外はいつの間にか土砂降りになっていた。
何かが弾け飛んだかのように、一気に周囲の音や色や匂いが僕の感覚器官を通り抜けていく。ずっと美術室にいたはずなのに、たった今ここに戻って来たようだ。
疑問符を浮かべながら周囲を見渡す僕を、桃花が不審な目で見ていた。
見下ろしたクロッキー帳には、鉛筆の線で大雑把に縁どられた藤の姿があった。
何だかその姿が、酷く懐かしく思えた。