其ノ壱 桃花先輩の場合
時系列的には第参章の続きです。
本編を先に読んでいただいた方が理解しやすいと思いますが、番外編自体は本編とは無関係です。
私のクラスの担任である笹木先生は、美術部の顧問だ。
「おーい、櫻井」
ホームルームが終わった直後、名指しで呼ばれて仕方なく先生のもとへ向かう。
笹木先生は、美術部顧問のくせに何故かくたびれた白衣を愛用している、ちょっと変わった初老の教師だ。
「何ですか」
「悪いけどこの資料、美術準備室に届けておいてくれないか」
そう言って差し出された分厚い資料集の束に、私は憚らずに眉を顰めた。
「……重たくないですか? それ」
「重たいんだよ。だから早く代わってくれ」
「え、嫌です。文化部女子の体力の無さ、舐めないでくださいよ」
今年の体力測定も散々だったことを、担任なら把握しているはずだ。だが、こういう時だけ役者になる先生は、大袈裟に悲しそうな顔をしてみせる。
「お前だって美術部員の端くれなんだから、顧問の言うことくらい素直に聞けよなあ。そんな生徒に育てた覚えはないぞ」
「……分かりました。持っていきますから」
育てられた覚えもないが、これ以上話が長引くと厄介なので渋々了承し、荷物を受け取る。それから回れ右をして、満足げな顔の先生を見ないように急いで教室を離れた。
特別棟の一階、美術室に向かう廊下はいつだって薄暗い。
人の姿もまばらで、どこか異界に迷い込んだような錯覚に陥ることがたまにある。
私には何も見えないけれど、「何か」がいるのではないか、という気にさせられるのだ。
さっさと資料を置いて帰ろう。
私は先生から借りた準備室の鍵を鍵穴に差し込んだ。
手探りで電灯のスイッチを押し、資料の置き場を探す。指定はなかったから、どこか目につくところにでも置いておけば良いだろう。
「えっと……まあ、この辺でいいか」
ちょうど大判の画集が並べられた背の低い棚の上に空きスペースを見つけ、私は持ってきた資料をそこにドサリと置いた。
「……ふう」
肩を回しながら壁に掛かった電波時計を確認すると、時刻は既に十六時半を回っていた。これから二階の部室で文化祭に向けたミーティングがある。急がなくては。
来た道を戻ろうとした時、隣の美術室から微かに物音が聞こえて私は足を止めた。
耳を澄ましてみると、何やら人の声もする。美術部員が集まって来たのだろうか。だとしたら鉢合わせる前に退散したい。
「――うーん、ちょっと違うのよねえ」
踵を返そうとした私の耳に飛び込んで来たのは、聞き覚えのある声だった。
「……桃花先輩」
彼女は私と唯一面識のある美術部員だ。
準備室と美術室を繋ぐ扉を少し開けて覗く。案の定、扉の向こうには私の見知った先輩の姿があった。
先輩はとても真剣な表情で、キャンバスと向き合っていた。
どこから引っ張り出して来たのかデッサン用の鉛筆をそれらしく持ち、片目を瞑って何かを測っている様子だ。
「こみやんの描く藤はちょーっとあたしの理想とは違うのよねえ……もっとこう、ここに影があって……この辺の色を抑えて……」
先輩はぶつぶつと呟きながら、一心不乱に何かの角度を測っている――いや多分、そういう仕草をしているだけだ。
何故なら桃花先輩が壊滅的に絵が描けないということを私は知っているからだ。
◇ ◇
私が美術部に入部したのは今年の春――今から遡ること数か月前。
とある雑貨店で偶然桃花先輩と出くわしたことがきっかけだった。
閑静な住宅街の一角に小さな雑貨店がオープンしたという噂は、退屈な田舎の女子高生の間ではかなり熱い話題として広まっていた。
ただの冷やかしのつもりで立ち寄った店内で、所狭しと並ぶ可愛いアクセサリーたちに私の目は釘付けになった。なかでも一際目を引いたのが、小さな花をあしらった髪留め。繊細な細工と豊富な色展開に、心をくすぐられた。
「……どっちが良いだろう」
気になった黄色と水色の両方を手に持って見比べながら、私は真剣に悩んだ。残念ながら、私のなけなしのお小遣いで買えるのはどちらか片方のみなのだ。
自分用にも欲しいが、同級生の誕生日が近いことを思い出し、せっかくならプレゼントにしようと考え小一時間。
「……悩むなあ」
「そんなに悩むなら、両方買えばいいじゃない」
店内の客の姿が一巡した頃、背後から突然声を掛けられて私は肩をびくつかせた。あまりにも長時間居座るため店員に見咎められたのかと思いきや、そこに立っていたのは同じ学校の制服を着た、小柄な女子生徒だった。
「あ、もしかして……桃花先輩……?」
「お久しぶりね、櫻井さん」
肩の上で短く切り揃えられた髪を払いながら微笑んだのは、中学時代の部活動の先輩だった。
華奢で小動物のような愛らしさがある先輩は、部活動の中ではマスコット的な存在だった。資産家の令嬢としても有名で、この片田舎の町には似つかわしくない豪邸に住んでいることは誰もが知っている。
個人的に親しくしたことはなかったけれど、二年間同じ文芸部に所属していた私のことを先輩は律儀に憶えていてくれたようだ。
「同じ高校に進学してるとは知らなかったわ。でも貴女なら、もっと上の学校を目指せたんじゃない?」
「先生にもそう言われたんですけど……その、ここより偏差値の高い学校には文芸部がなかったもので」
「ああ、なるほど。櫻井さん、熱心に活動していたものね。あたしも貴女の書く文章、好きだったわ」
懐かしむような目で、先輩は店内の照明を見上げた。
「私は文芸部を続けていますけど、先輩は違うんですね。他に何か新しいことを始めたんですか?」
「ええ……まあ、そんなところかしら」
桃花先輩は、少し言葉を濁して笑った。
もとより、文章を書くことにそれほど興味のない人だったのかもしれない。中学の時も、先輩は一文字も書かずに卒業していった。
――先輩は、どうして何も書かないんですか?
私は一度、思い切ってそう尋ねたことがある。
夕陽が差し込む教室の片隅で、彼女は笑ってこう答えた。
――だって物語を書かなくても、現実にはそこらじゅうに面白いものが溢れているじゃない。
その時の先輩の表情から夕陽の色まで、私はいまだに映画の一場面のように事細かに思い出すことができる。ほとんど接点がなかった先輩との、ほぼ唯一といっていい会話だったからだ。
「――それはそうと、どっちを買うか悩んでるの?」
あからさまに話を逸らす意図で、先輩は私の手元を見た。
「あ、はい。友人のプレゼント用なんですけど、どっちの色にするか決まらなくて……」
「どちらも綺麗な色だものね」
一通り陳列を眺めてから、先輩は隣り合う二色の髪留めを指さした。
「あたしはこれにしようかしら。この桃色のと、薄紫色の」
「あ、良いですね。その色も可愛い。先輩もプレゼントですか?」
「そうね、片方は自分用だけど」
「桃色の方ですか? 先輩、その色似合いますもんね」
名前の通り、桃花先輩は桃色がよく似合う。持ち物も同系色で纏めていることが多かったので、きっと本人も好んで選んでいるのだろうと思っていた。だが先輩は首を横に振った。
「いいえ、あたしは薄紫の方よ」
「え? 珍しいですね」
「それでね、桃色の方を相手にあげるの。そうすれば、いつだってお互いのことを忘れずにいられるでしょう」
「それは――とても素敵ですね」
まるで物語の中の台詞のようで、私は非常に感心した。やはり先輩は物語を書かなくても、自然と現実の中に物語を創り出してしまう人なのだ。
「でしょう? せっかくだから櫻井さんも、お友達とお揃いにしたらどう?」
ロマンチックな提案に対し、私の口から出たのは何ともお粗末な言い訳だった。
「……それが、生憎持ち合わせがなくて……」
「あら、そんなことなら早く言ってくれれば良かったのに」
「え……?」
桃花先輩はひょいと私の手から二つの髪留めを取り上げ、自分の選んだ分と合わせてさっさとレジへ向かって行ってしまった。
私が制止する暇もなく、あっという間に会計が済み、髪留めは可愛いラッピング袋に収まってしまったのだった。
「先輩、すみません。ありがとうございました」
店の外に出てから、私は髪留めの入った小袋を受け取り、頭を下げた。
「気にしないで。進学祝いだと思ってくれればいいから」
桃花先輩は自分の分を鞄にしまいながら、大したことはないと手を振った。
「本当にありがとうございます、先輩。大事にしますね」
「そう言ってくれるとあたしも嬉しいわ」
先輩はニコニコと笑いながらも、その場を動かない。
帰り道はどちらなのだろうか。私はお暇するタイミングを図りつつ、先輩の様子を窺う。
「――それでね、櫻井さん」
相変わらず笑顔を貼り付けたまま、しかし力強い眼力で先輩は私を引き留める。
「代わりにと言ってはなんだけど、一つお願いを聞いてほしいの」
「……お願い、ですか?」
「そう」
先輩は鞄から一枚の紙きれを取り出し、私の前に差し出した。
「あのね、美術部に入部してほしいの」
「…………はい?」
先輩の言い分はこうだった。
この春、籍だけ置いていた先輩が卒業してしまったことで部員数が足らなくなり、美術部は廃部の危機にあるのだと。あと二人入部する生徒がいれば部の存続が叶うのだが、生憎入部希望者がおらず、困っているのだと。
「――ツテのツテを辿ってなんとか一人は確保したの。でも、あと一人がどうしても見つからなくて。貴女が入部してくれたら、何とか廃部にならずに済むのよ。名前を貸してくれるだけでいいの。文芸部と掛け持ちで構わないから」
「いや、いきなりそう言われても……というか、先輩美術部に入ってたんですね。絵が得意だなんて知りませんでした」
「いいえ、あたしは描かないわ」
胸を張ってそう答える先輩。聞くと何と美術の評価は毎学期最低だという。実技試験で教師から「評価に困る」とまで言われるほど、壊滅的センスをお持ちのようだ。
「……絵が描けないのに美術部員になれるもんなんですか?」
「なれるわよ。現に今いる美術部員のうち、まともに絵が描けるのはたった一人だもの。だから櫻井さんも、絵が描けなくて全然問題ないのよ」
一人しか絵を描かない美術部を、果たして存続させる意味があるのだろうか。廃部以前に、もはや部として成り立っていないような気もするが、桃花先輩は至って真剣な目をしている。
「そうは言っても、新入生歓迎会とか、文化祭とか、行事ごとになると参加しないわけにはいかなくなるのでは……」
「そこは心配いらないわ。部員のあたしも、その辺の行事に全く参加したことないから」
それはそれでどうなのか。私はますます困惑しながら、重ねて問う。
「先輩がそうおっしゃっても、顧問の先生が許してくれるかどうか……」
「そこもご心配なく。なんせ、部員のあたしたち以上に部の活動にノータッチな人だから。名目上顧問にはなっているけど、いないものとして考えてくれて構わないわ」
力強い返答に、いよいよ私は苦しくなってきた。
「……本当に、絵が描けなくても、幽霊部員でも構わないんですか?」
「もちろん。名前さえ貸してくれれば、あとはこっちで何とかするわ。美術部としての活動は一切しなくて大丈夫よ。ね、お願い。貴女にしか頼めないの」
両手を合わせ上目遣いでお願いしてくる桃花先輩の破壊力たるや。私が男だったら、一撃で心臓を鷲掴みにされていた――いや、男でなくともドキッとしてしまった。
「……分かりました。本当の本当に、名前を貸すだけですからね」
「わあ、嬉しい! 貴女ならきっとそう言ってくれると思っていたわ」
溜息とともに、私は承諾した。
そもそも髪留めを買ってもらってしまった手前、ここで断るという選択はできなかった。
さすがは桃花先輩。最初から、これが目的だったのだ。私はさしずめまんまと罠に嵌った阿呆な後輩といったところだろうか。
観念して入部届けにサインしていると、先輩は心底安堵したように呟いた。
「本当に助かるわ。なんせ、入部予定だった子が本物の幽霊部員になっちゃったものだから」
「……え?」
どういうことだろう。
訊き返したかったが、先輩はそれ以上、何も言わなかった。
◇ ◇
美術室でひとり楽しそうに画家の真似事に興じる先輩を覗き見しながら、私はぼんやりと五月の出来事を振り返った。
こういう経緯で私は美術部に所属しているが、活動に参加したことは一度もない。他の部員たちは、私の顔はおろか、名前すらも知らないだろう。
だがそれで良い。そもそも私は美術室があんまり好きではない。昼間でも薄暗いし、石膏像の視線は気になるし、居心地が悪いのだ。授業の時と、こうして顧問から雑用を頼まれる時以外、なるべく近寄りたくないのが本音だ。
その一方で、私はたった三人の美術部員に密かに興味を抱いている。
絵が描けないのに、何故桃花先輩は美術部に入ったのか。
それは知る由もないけれど、一つだけ確実に言えることがあった。
きっと桃花先輩は絵を描かなくても、美術部員としてなくてはならない存在なのだ。
あの頃の文芸部と同じように。




