其ノ漆 黄昏に交錯する思い
熱中症――病院に運ばれた僕はそう診断され、数日の入院を余儀なくされた。
丸一日眠り込んだ後、病室で目が覚めて一秒で桃花に殴られた。その目には涙が溜まっていた。
「馬鹿ね。あれだけ今年の夏は暑いから熱中症には気を付けなさいと言われていたのに」
夏祭りの会場で桃花と出会った時、僕は既に酷い顔色だった。桃花が会場に常駐していた医療班を引き連れて来てくれたおかげで、僕は最悪の事態を免れることができたと聞かされた。
まるでお祭り騒ぎに惹かれて蘇った幽霊のような顔をしていたとそう振り返る桃花も少し疲れた顔をしていて、思わず僕は手を伸ばした。腕に絡みついた点滴のチューブに邪魔されて、その手は力なくベッドの上に逆戻りした。
「安静にしてなさい。今、お医者様を呼んでくるから」
桃花が病室を出ていったのを見送り、僕はもう一人の美術部員を見上げた。
「――藤」
彼女は、優しく首を傾けて、応えた。
「心配かけて、ごめん」
冷房の稼働する単調な音が、室内を満たしている。窓には薄いレースのカーテンが引かれているものの、強い日差しがベッドの近くまで差し込んでいる。締め切られた窓の向こうで、今日も賑やかな蝉の声が絶えず響いていた。
ようやく本当に夢から醒めたような実感が湧いた。
「謝らないでくれ。小宮は何も悪くないのだから」
藤の肩から流れ落ちる長い髪が、ベッドの縁に触れる。
「――無事で、良かった」
そう微笑み、藤は点滴が刺さった方の僕の手を握った。その手は、思っていたより温かかった。
「――ああ」
本物の、藤だ。
僕はその温もりに、心から安心した。
現実から切り離された空間を彷徨い続ける中出会った、幻影の藤たち。
彼女たちは、どことなく世界に馴染まない不自然さを纏っていた。
葵と付き合っていると言った藤も、僕と永遠に一緒に過ごそうと言った藤も。
藤の姿をしていたはずなのに、彼女たちがどんな顔をして、どんな声をして僕と話したのか、だんだんと思い出せなくなってきた。
ただ――
――もしも私が人ではない存在だったとしたら?
美術室で僕にそう問い掛けた藤だけは、その表情をよく覚えている。
あの藤は――
「……まさか、ね」
「……ん?」
ぼんやりと点滴の落ちる様子を眺めながら記憶の波に浸っているうちに、無意識に呟いていた。藤が呼応したが、全身を取り巻く気だるさに僕の意識はまた微睡の中に沈んでいった。
曖昧にしか思い出せない――でも。
あの時確か、蝉の声が響いていたような気がしたのだ。
◇ ◇
退院して数日後、僕の快気祝いと称して桃花からの招集がかかった。
夕暮れ時の川原では、既に二人が準備を済ませて僕を待っていた。
「花火……?」
足元に置かれていたのは、家庭用の手持ち花火とバケツが一つ。
「そうよ。せっかくの夏祭りだったのに、全然満喫できなかったもの。これで少しは夏らしさを感じられるじゃない?」
桃花は夏祭りの時と同じ、桃色の浴衣に身を包んでいた。今日は簪ではなく、小さな花をあしらった髪留めをつけている。そして、その隣ではにかみながら立っているもう一人の美術部員の姿を、僕は直視することができなかった。
「どう? 藤のために仕立てたんだけど、ピッタリでしょう」
「……どうかな、あまり着慣れなくて」
促され、僕は緊張の面持ちでその姿を視界に入れた。
薄紫の落ち着いた色の浴衣に、濃いめの帯を巻いている。桃花とお揃いらしい髪留めで横髪を纏めているせいか、いつもと雰囲気が違う。
「……よく、似合ってるよ」
隣でニヤニヤ笑う桃花を無視し、僕はなるべく自然に聞こえるようにそう伝えた。
去年写真でしか見られなかった彼女の浴衣姿に、蝉の声に負けず劣らず心臓の音が五月蠅い。
「ありがとう。そう言ってもらえて嬉しいよ」
藤の返答は相変わらず爽やかだった。きっと藤は、誰に対しても同じようにそう言うのだろう。分かってはいるけれど、僕の鼓動は何かを期待するように高鳴り続けた。
でもやっぱりその後は会話もなく沈黙が訪れて、じれったくなった桃花が間に割って入ってきた。
「もう、いつまで二人で突っ立っているのよ。ほら、さっさと花火やるわよ。こみやん、こっち手伝ってちょうだい」
「ああ、うん」
桃花は僕の手にバケツを押し付けた。それから用意してきたらしい蝋燭を台に立て、シュッとマッチを擦って火をつける。しばらく不安定に揺らめいていた火は、僕がバケツに水を汲んで戻ってくる頃には、仄かな明るさで周囲を照らし始めた。
「藤は、どれがやりたい?」
ガサガサと袋から取り出した花火を地面に並べながら桃花は尋ねた。
「そうだね……線香花火がいいかな」
蝋燭の近くに屈みながら、藤は線の細い花火を一つ取り上げた。
「じゃああたしはこれにするわ」
桃花は噴射の激しい花火を取り、意気揚々と火をつける。
僕は藤と同じ線香花火の先端を火に炙り、彼女の向かいに座って控えめに飛び出した火花を眺めた。
「……綺麗だね」
「そうだね」
パチパチと消え入りそうな花火の音が川のせせらぎや虫の声と混ざり合い、夏の空気を醸し出す。つい先日まで、「人ならざるもの」に関わるいざこざに巻き込まれていたとは思えないほど、長閑な景色だった。
「そういえば、葵先輩は……」
「ああ、昨日無事に出国したって」
「そっか……」
僕の夏の始まりを、かき乱すだけ乱して去っていった葵。何ともはた迷惑な先輩だ。
結局僕は藤と葵との関係すらいまだに知らないでいる。それを彼女の口から直接聞くまでは待っていた方が良いのか、僕から尋ねて良いものなのか分からずに、モヤモヤとした気持ちだけが残っていた。
静かに弾ける花火を見つめながら、藤が呟いた。
「……小宮、あの」
「……うん?」
「今回は本当に、迷惑をかけた。君を危険に晒すようなことになってしまって……改めて謝りたい」
「だから、藤が謝ることじゃないって」
「でも、葵が小宮を試すような真似をしたのは、元を辿れば私のせいでもあるから」
「葵先輩が勝手にやったことだろ? 藤のせいじゃないよ。それに――」
葵の気持ちも分からなくもないのだ。
正直に白状すれば、藤が他の誰かと夏祭りに行く約束をしていたことに、僕は桃花のことを言えないぐらいやきもちを焼いていた。
藤の隣に他の誰かが立っている場面を想像したくない。葵がいなければ、きっと僕はそんな自分の気持ちに蓋をし続けていただろう。
だけどこれは自分の心の内にしまっておくべき感情だ。わざわざ人に言うべきことでもない。僕は途切れてしまった言葉にうまく繋げられる別の言葉を、心の引き出しから引っ張り出した。
「――今回の件で、ちょっと反省したんだ。僕はこれまで自力で『人ならざるもの』に向き合うこともせず、藤に頼ってばかりだったなって」
「そんなことはない」
「いや、本当に僕は何もできない人間だと痛感したんだ。今回だって結局、藤がくれた鈴があったから現実に戻って来られたわけで、そうじゃなければ僕は永遠に幻の中を彷徨い続けるしかなかったんだ」
藤の背後で両手に持った花火をはしゃぎながら振り回している桃花を一瞥し、僕は続ける。
「僕は今まで藤に助けられてばっかりで、でもそれをまるで当たり前のことのように思っていた。藤はいつでも僕のことを気に掛けてくれるし、手を差し伸べてくれるけど、じゃあ僕は藤にそうしてあげたことがあったかなって」
「……小宮」
「藤は強いから自分で何でもできちゃうかもしれないけど、『人ならざるもの』が視えない僕は何の役にも立たないかもしれないけど、それでも――」
顔を上げた藤の、澄んだ瞳を真っ直ぐ見る。
「何か困ったことがあった時は、教えて欲しい。悩みがあれば、聞かせて欲しい。僕はもっと藤のことを知りたいと思っているし、いつでも藤の助けになりたいと思っているよ」
例えば葵との関係や、例えば対「人ならざるもの」の力が弱まっていること。
それだけじゃない。単純に、彼女の好きなこと、嫌いなこと、何だっていい。
いつか教えてくれたら嬉しい。
僕のことを、信頼のおける人間だと思ってもらえる日が来たら。
「――ありがとう、小宮」
僕の話を黙って聞いていた藤は、少し複雑そうに長い睫毛を伏せた。
「そう思ってもらえているのは、とても嬉しい。だけど、私があまり周囲に自分のことを話したり、頼ったりしないのは、決して相手のことを信頼していないからではなくて……その……ただ、私自身が怖いだけなんだ」
「……怖い?」
藤の口から出て来た言葉は思ってもみないものだった。
「ああ……私は臆病だから、みんなに嫌われるのが怖くてたまらない。いつか本当のことを伝えて、それで大切な人たちが私から離れて行ってしまったらと思うと……耐えられないんだ」
藤がそんな風に思っていたなんて意外だった。僕はいつでも、一本芯が通ったように自立している藤の姿しか見たことがない。悩みや愚痴を零す人ではないせいで、勝手に藤はそんなことを考えもしないのだと思い込んでいた。
「だから、私がそんな自分自身と折り合いをつけられるまでもう少し待っていて欲しい……というのは、我儘だろうか」
想定以上に真剣に僕の言葉を受け止めようとしてくれる藤に、僕は思わず笑ってしまった。
「ううん、全然。むしろ、藤は真面目すぎるから、我儘言うくらいがちょうどいいよ」
「そうかな」
「うん。だからこの先、もし藤が話したいと思うその時が来たら、教えて欲しい。藤の思っていることを、藤の視ている世界のことを」
線香花火の最後の灯火が、二人の手から同時に落ちた。一瞬の輝きの後、暗闇が一層深みを増す。
「……ああ。その時が来たら、必ず」
吐息のように囁かれた藤の言葉が、空気に溶けて消えていく。後に残されたのは、桃花の無邪気な笑い声と、草むらの中で絶えず響く虫の声。
見上げるといつの間にか空は暗くなり、小さな光がいくつか瞬いていた。夏の夜の風が、僕らの間を吹き抜けて、花火の煙を攫って行く。
波乱の幕開けだったが、夏休みはまだ始まったばかりだ。
「ねえ、藤。今年の夏はどこへ行きたい?」
藤は新たに火をつけた線香花火から顔を上げ、僕を見て微笑んだ。
「小宮となら、どこへでも」
その姿は、まるで夏の幻のように儚く美しかった。
第参章 完




