其ノ伍 使役する者
「――おや、思ったより早いお出ましだ」
音楽室の扉を乱暴に開けると、グランドピアノに向かっていた葵が少しだけ驚いた表情で出迎えた。
「――葵先輩」
僕は握りつぶした紙切れを彼の眼前に差し出した。
「この楽譜……以前ここでクロッキー帳を拾ってくれた時、先輩が挟んだんですよね?」
僕は低い声で問い質す。葵はその紙切れを一瞥した後、すんなりと白状した。
「ああ、そうだよ。これはね、小宮。契約書なんだ」
葵は「あーもう、ぐちゃぐちゃじゃないか」と唇を尖らせながら、皺になった楽譜を指先で伸ばす。
「契約書……?」
「そう。小宮は僕が前に言ったことを覚えているかい? 僕が自分で作った曲を演奏すると、不思議な出来事が起きるっていう話」
確か、自分の願いや望みを託して作った曲を演奏すると、その通りに世界が変わるんだと言っていたはずだ。そこにはまるで目に視えない「何か」の力が働いているようで――
「……まさか」
――まさか。
「訂正しよう。これはね、小宮。僕と『人ならざるもの』との契約書なんだ」
葵は「人ならざるもの」を知っている――
藤以外で「人ならざるもの」を視ることができ、なおかつその存在に干渉することができる人間に出会うのはこれが初めてだ。
「先輩は……『人ならざるもの』が視えるんですか?」
「それは愚問だよ、小宮」
葵の得意げにすら見える表情。彼の言う、藤の隣に立つのに相応しい力とは、そういう意味だったのだ。
「僕は『人ならざるもの』が視えるだけじゃない、奴らに干渉することも可能だ。僕は自分の作った曲を介して『人ならざるもの』と契約を結び、命令を下す。そしてその対価として、曲を食わせてやる。これが僕のやり方さ。いうなれば、僕は極上のメロディを餌にして奴らを釣るわけだ。小宮の絵につられて『人ならざるもの』が現れるのと、原理は同じこと。ただ、視えるか、視えないか。奴らに干渉できるか、できないか。君と僕との差はそこに尽きる」
葵は手にしていた楽譜を何もない上空に向かって差し出し、「契約は終了した。それ、持っていくといい」と呟いた。途端に、消しゴムをかけたかのように五線譜が消え去って、あとには真っ白な紙が一枚、残った。
目の前で起こったことが、僕には信じられなかった。
僕の絵が食べられるのと同じ現象を、葵は自ら望んで起こしている。不可思議な現象に脅かされることも、翻弄されることもない。彼は完全に「人ならざるもの」を使役する立場だった。
「今回この契約書で僕は『人ならざるもの』にこう命令したんだ――夏祭りが終わるまで、小宮を現実から切り離された空間に閉じ込めておけ、とね」
「……でも、僕はちゃんと自力でここに戻って来ました。この勝負、決着がついたんじゃないですか」
「残念ながらそれは早計だ」
「な……」
「――小宮。今日が何の日か知ってるかい?」
「今日……?」
「そう。今日は、夏祭り当日さ」
一瞬、言われた意味を理解することができなかった。夏祭りの日はまだあと数日は先のはずだ。僕の疑問を見透かすように、葵はクスリと口元を笑わせた。
「混乱してるね。無理もない、小宮がずっと彷徨っていた場所は、現実とは時間の流れが違うんだ。君が思っている以上に、時計の針は先へ進んでいたんだよ」
「――――」
――今年は絶対三人で行きましょうね。
そう言った桃花の顔が、よく思い出せない。
あれはいつのことだったのか。あれからどのぐらい経ったのか。
あまりにも目まぐるしく幻の世界に翻弄されすぎたせいで、時間の感覚が狂ってしまっていた。
それにしても、どうして葵は夏祭りの日まで僕を遠ざけておきたかったのだろう。
面識のない僕をいきなり「人ならざるもの」の世界に閉じ込めるくらいなのだから、葵の藤に対する執着はかなりのものだ。それほどまでに僕の存在を疎ましく思うのなら、期限など設けなくても永遠に現実から切り離しておくことだって、きっと葵の力なら可能なはずなのに。
「――もしかして」
――悪いんだけど、その日は、先約があって。
「藤と夏祭りで会う約束をしているのは、先輩だったんですか?」
「その通りさ」
藤のデートの相手は、笑みを深めた。
「僕はね、何も君をただ痛めつけたいがためにこんなことをしているわけじゃないんだよ。僕は君を試したかった。僕がいなくなった後、彼女を守る役目として本当に小宮が適任であるかどうか、『人ならざるもの』を視ることができない人間に果たして彼女の隣に立つ資格があるのかどうか、それを見極めたかった。夏祭りの日――すなわち、僕が藤と会う最後の日までにね」
「どうしてそんなこと、先輩に試されなきゃならないんですか? 僕と藤との関係を、先輩にとやかく言われる筋合いは――」
「だからね、小宮。僕は君のそういうところが本当に嫌いなんだよ」
葵の冷めた声が、僕を遮った。
「僕と藤との関係? 彼女のことを何も知らないのに、よく言うよ。小宮はさ、藤の何を知っている? 彼女の視ている世界のことだけじゃない、彼女自身のことをどこまで理解しているのかい?」
「藤自身の、こと……?」
葵は一体何を言いたいのだろう。僕は眉を顰めた。
「そうさ。結局君は藤の表面的な美しさと、神秘的な空気に酔いしれているだけで、藤という生身の人間のことを何一つ知ろうとはしていない。だから藤も、君を信用できないんだよ」
「藤が、僕を……?」
「そう。小宮は信用されていないから、彼女は君に何も言わないし、訊かない。助けも求めない。小宮は気付いていたかい? 藤の『人ならざるもの』を視る力がだんだんと弱まっているということを」
――藤の力が、弱まっている……?
「……嘘だ」
藤がそんな素振りを見せたことは一度もない。
それほど大事なことなら、僕にも話してくれているはずだ。
「嘘じゃないさ。藤は僕にはちゃんと話してくれたし、頼ってくれた。それは僕が彼女に信頼されているからだよ。僕は藤の求めに応じて、時々彼女のために曲を書いて渡している。彼女の弱まった力を補うために、僕の力を貸しているんだ。それが小宮はどうだい? 藤から一言でも相談されたかい? 力になって欲しいと言われたかい?」
僕は何も言い返せず、口をつぐんでただ葵を睨んだ。
葵の言っていることが全て正しいとは思わない。けれど、全て間違っていると否定しきれない自分がいた。
確かに僕はこれまで藤に頼るばかりで、藤に頼ってもらったことはなかった。
それは「人ならざるもの」に対する力を持っているか、持っていないか、という一点のみを判断基準として作られた僕らの関係図。だけどその視点を除外してみれば、なんてことはない、藤はただ一人の、普通の女の子なのだ。
僕は他人から指摘されなければ、そんなことにすら気が付かなかったのか。
「さあ小宮、自分がどれほど思い上がっていたのか、ようやく理解したかな」
とどめと言わんばかりに、葵が僕の心を抉る。僕はギュッと拳を握って、葵と向き合った。
「……先輩の言い分は分かりました。でも、やっぱりこれは僕と藤との問題です。だから、僕がこれから藤とどう付き合って行くのかは、僕が決めることです」
「……案外小宮は強情だね」
葵は鍵盤に手をついて立ち上がると、そのまま僕の隣をすり抜けて入り口の扉へと歩いて行った。
「ま、どのみちこの勝負の決着はもうついている。勝者は僕だ。何と言おうと、君は藤から手を引くしかないんだよ」
「どうして先輩の勝ちなんですか?」
「気付いていないようだから教えてあげるけど」
音楽室の扉を引き半身を滑り込ませた葵は、振り向きざまに言い捨てた。
「ここはまだ、現実じゃないんだよ」
パタン、と扉が閉まった。
◇ ◇
――チリン。
澄んだ音が、僕の意識を引き戻した。お守りの鈴の音だ。
それを引き金にハリボテの音楽室は壁や天井、楽器を巻き込みながら捻じ曲がり、折りたたまれ、空間自体が消滅に向かって行った。
得体の知れない力に揉まれ、上昇しているのか落下しているのかよく分からない時間が続く。ぐるぐると回る視界に、船酔いのような気持ち悪さを感じ、僕は強く目を瞑った。
どのくらいの間、そうしていたのだろう。
瞼すら貫通するような強い光を感じた途端、けたたましい蝉の鳴き声が耳に飛び込んできた。いつの間にか平衡感覚を取り戻していた世界で、僕は地面に寝転がっていた。
「ここは……?」
鳥肌を立てていた腕をじりじりと焼くのは夏の日差し。
強い太陽光に目を細めながらぼんやりと青い空を眺めていると、次第に錆びついていた頭の歯車が動き出した。
鈍い動作で辺りを見渡す。校舎で囲まれた小さな安息の場所。ここは、学校の中庭だった。
「あっつ……」
思わず額の汗を拭う。
怒涛のごとく押し寄せる熱風。
耳をつんざく蝉の声。
蒸し蒸しとした夏の空気の匂い――
「戻ってきた……のか?」
振り返ってみれば、これまで彷徨っていた空間は音や匂い、温度を感じない無機質な場所だった。五感を刺激する感覚が、確かにここが現実であることを指し示している。
胸が空っぽになるぐらい、大きく息を吐いた。
視界が滲んだのは気のせいじゃない。
僕は、ようやく元の世界に戻って来られたのだ。
うんざりするほど鳴く蝉の声も、夕方になってもまだまだ傾きそうもない太陽ですら、今は安心感を与えてくれた。
ポケットの上から、藤がお守り代わりにくれた小さな鈴に触れる。鈴の音が聞こえた途端、幻の空間が音を立てて崩壊した。どうやらこの小さな鈴が、あの場所からの脱出を手助けしてくれたようだ。
「また……藤に助けられたな」
夢幻の中だったとは言え、葵の言葉が頭に鮮明に残って離れなかった。
――小宮はさ、藤の何を知っている?
そうだ。僕は、藤のことを何も知らない。
だけど、何も知らないなら――これから知っていけばいい。
僕らはこの先ずっと一緒にはいられないかもしれないけれど、少なくとも卒業までは同じ美術部員なのだから。
「――そうだ! 夏祭り……!」
ハッとして身体を起こしたが、自分が思っていたよりも怠さが付きまとっていて、僕はその場に蹲った。さっきまで歌うように響いていた蝉の声が、一転耳障りに感じ始める。
現実に戻って来たのに抜け出せない眩暈に耐えていると、足のつま先が何かに触れた。そこには、中身を晒しながら投げ出されたクロッキー帳があった。
クロッキー帳の開かれたページには、鉛筆で走り書きしたような五線譜と音符がびっしりとかきこまれている。どう見てもこれは葵の楽譜だ。
「……そうか」
そういうことか。
僕はまだ一度も、本物の葵と出会っていなかったのだ。
いつどこでこの曲が仕込まれたのかは知らないが、音楽室で繰り返し出会った葵はきっと全て幻だったのだ。もしかしたら、その前から――夏休み最初の美術部の集まりですら、本当の出来事ではなかったのかもしれない。
葵がクロッキー帳に挟んだ楽譜を「人ならざるもの」に食べさせた時、「人ならざるもの」の力が無効化しなかったのも納得がいく。葵は複数の契約を同時に結んでいたのだろう。
ただ僕を翻弄するためだけに。
「――――」
どうあっても僕は、まるで道具のように「人ならざるもの」を使う葵のやり方とは相容れない。例え「人ならざるもの」が僕にとっては脅威だったとしても。彼らの世界は――藤の視ている世界は、そういう形で消費されていいものではないはずだ。
力の入らない足を叱咤して、僕は立ち上がった。
葵に会いに行かなければ。
まだ夏祭りには間に合うだろうか。
見上げた校舎の壁時計は、どうにも霞んでいてよく見えない。仕方なく周囲に人を探したが、夏休みのせいか人影一つ見当たらなかった。
ようやく外廊下を歩く女子生徒を見つけ、僕は急いで声を掛けた。見知らぬ人間に出会えたことに、ここが現実であることを再確認する。
「あの、すみません。今日って、夏祭りの日であってます?」
丸眼鏡を掛けた、これといって特徴のない顔の女子生徒は肩で息をする僕を怪訝そうに見上げた。
「夏祭りって……森の麓の神社でやる祭りのことですか?」
「そうです。それです」
「それなら……はい、今日ですけど」
「今、何時か分かりますか?」
「……えっと、十八時少し前です、けど……それが何か?」
右手に巻かれた細いベルトの腕時計を確認し、女子生徒はあからさまに不審な目でそう答えた。
――十八時に鳥居のところで待ち合わせしましょう。
桃花がそう言ったのは果たして現実のことだったのか、最早自信はない。
でも、僕は行かなければならない。
葵に僕を認めさせるために。
藤のことを知るために。
「ありがとう、助かった」
藤が夏祭りデートだなんて、と桃花が憤っていたのが懐かしく思えた。
僕は親切な女子生徒の顔も見ずにお礼を述べ、校門に向かって走り出した。




