其ノ肆 真夏の中庭
「――あら、こみやん。遅かったわね」
扉を開けると第一声、桃花がそう声を掛けてきた。
放課後の美術室は美術部の活動拠点となっている。少し遅れて来たせいか、既に室内には他の部員たちが集まっていた。
「そんなところに突っ立ってないで、ほら早く入りなさいよ」
入り口で足踏みしていた僕を、桃花が招き入れる。
「あ……うん」
鞄を机に置いて、室内を見渡した。
桃花を入れて五人、学年も性別もバラバラな部員たちが、各々の制作に取り掛かっている。油絵を描いている部員もいれば、彫刻を模写している部員もいる。だが、その中に彼女の姿は見当たらない。
「――遅くなりました」
入り口の扉が開かれ、女子生徒が少し駆け足でやって来た。
彼女だろうか――そう期待して振り返ったが、そこにいたのは別の部員だった。
「先輩も今来たところですか?」
その女子生徒は、肩より少し長いくらいの黒髪を揺らしながら、人懐っこい笑顔で僕に尋ねてきた。彼女の名前は、春奈。僕より一学年下で、今年の春、美術部に入部した。
「ああ、うん。そうなんだ……」
「企画展まであと少しですけど、先輩は進捗どうですか?」
「いや、まあ、何とかなりそうだよ。それより……」
室内にやはり彼女がいないことを確認して、僕は春奈に訊いた。
「藤はまだ来ていないの?」
「えっと……誰です?」
春奈は小首を傾げた。
「え、だから藤だよ」
「ええと……」
どうにも春奈の返答は歯切れが悪い。
「何、どうかしたの? こみやん」
「ねえ、桃花。藤はどうしたの?」
愛用の桃色の携帯を片手にやって来た桃花にも同じ質問をした。
美術部には、絵を描かない部員が桃花の他にもう一人いたはずだ。
「藤……? 誰よそれ」
だが、返って来た答えは予想外のものだった。
「誰って……同じ美術部員の……」
「は? 何言ってんの。部員ならこれで全員よ」
桃花は僕の話など興味もなさそうに携帯に目をやりながら、「いよいよこみやんもボケてきちゃったのかしらねえ」だなんて呑気に呟いている。
「先輩、具合でも悪いんですか? だったら今日は早く帰った方が……」
「――おかしい」
「……え?」
おかしい。
この世界はおかしい。間違っている。
藤がいない世界なんて、間違っている。
「先輩? 大丈夫ですか?」
――先輩?
春奈の声が遠ざかる。
美術室がぐるぐると渦を巻いて、僕を飲み込んだ。
◇ ◇
「そんなところで昼寝か? 小宮」
突然掛けられた声に驚いて、僕は上体を跳ね起こした。
心臓がバクバクして、息が上がっている。
今まで自分が何をしていたのか、ここはどこなのか、一瞬何も分からなかった。
高鳴る鼓動を抑えながら時間を掛けて周囲を見渡し、ようやくここが学校の中庭だということを知る。手元には、愛用のクロッキー帳。いつもの昼休みと同じ光景だ。スケッチの途中で、また眠ってしまっていたのだろうか。
普段なら開け放たれた窓から生徒の談笑が漏れ聞こえてきたり、校舎の向こう側のグラウンドから部活動の掛け声が響いたりするが、今日は一面に静寂が広がっている。
――そうか、今日は夏休みか。
納得し、人の気配がしない中庭で、僕は目の前に佇む彼女の名前を呼んだ。
「――藤」
彼女はフッと微笑んで、僕の左隣に腰をおろした。
「何の夢を見ていたんだ?」
優しく尋ねられた。
「……何の夢だったかな……よく、覚えていないけど……」
僕は空を見上げる。夢の中で、確か僕は美術室にいた。桃花が出て来て、何故か春奈もいて、それで――ああそうだ。
「……藤が、いなかったんだ」
「私が?」
「そう。誰も藤のことを知らなくて、僕だけが知っていて、そんな世界、間違ってるって思ったんだ」
「……そうか」
「まあ、夢の話で良かったよ」
そう言って笑うと、藤も「そうだね」と笑ってくれた。
しばらく沈黙が続いた。
お互い何とはなしに中庭の景色を眺める。夏休みとはいえ、本当に静かだった。
「――ねえ、藤」
僕はふと思い浮かんだことを、切り出した。
「今度の夏祭りだけど」
「……夏祭り?」
「いや、その、桃花がさ、気にしてたんだ。藤に誘いを断られたのは、もしかして誰かと約束があったからなんじゃないかって」
デートだと疑われているとは、さすがに言い出せなかった。
「……小宮は?」
「え?」
「小宮は気になるのか? 私が誰と夏祭りに行くか」
「……それは」
僕は言い淀んだ。
気にならないといえば嘘になるけれど、気になると素直に言うのもおかしな感じがする。
僕と藤はただの部活仲間であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
「僕は……藤が言いたくないなら無理に言わなくても良いと思ってるよ」
「――小宮はいつもそうだね」
僕の無難な返答に、藤は少し呆れたように言葉を返した。
「私に訊きたいことが色々あるだろうに、何も言わない。いつも私に気を遣って、自分の感情を押し殺している。それが君の優しさであることは十分に承知しているけれど、時々その優しさが辛くなるよ」
「藤……」
「小宮は本当は知りたいんだろう? 『人ならざるもの』の世界のこと、私と葵との関係、夏祭りの約束の相手、それから――ああ、『人ならざるもの』を人の目に映す者のことも、私に訊きたがっているね。あとはそう――私が何者であるか、とか」
「…………」
図星を突かれて、僕は言葉を失った。
確かに僕は藤のことを知りたいと、藤の視ている世界を視てみたいと思っていたが、まさかそれを藤に見透かされているとは思ってもみなかった。
冷や汗が背中を流れる。こういう時、何を言えば良いのだろう。藤が求める答えが何なのか、予想もできなかった。
藤はそっと僕の左手に自分の手を重ねた。細くしなやかな指先が、僕の手の甲を撫でる。その感触と思わぬ冷たさに、僕は肩を震わせた。
「分かっているよ。小宮はそれを知って私との関係が変わってしまうことが不安なんだね。私がどこか知らない世界の住人になってしまうことを、恐れているんだね」
藤は僕の耳元で囁くように言った。少し低めの落ち着いた声が、僕の脳に染み渡る。
そうだ。僕は恐れているのだ。
僕の知らない藤の一面を見るのが怖くて。
藤のことを知れば知るほど、僕との距離が離れていくような気がして。
「でも大丈夫。私はどんなことがあっても、小宮のそばから離れはしないよ。私たちの関係はずっと変わらない。君が私の絵を描き続ける限り、私は君のことを守る。だから小宮、この小さな世界で私と二人、永遠に一緒にいよう。それはとても素敵なことだと思わないか?」
隣で微笑む藤は、やはりこの世のものとは思えないほど綺麗で、まるで幻のように儚く見えた。
胸の中に色んな感情が積み重なって、僕は何だか泣きたい気分になった。
藤が僕のことをこんなに肯定してくれているのに、そんな藤をどうして僕は否定してしまいたくなるのだろう。
夏休みの学校は静かだ。
まるでこの世に、僕と藤しかいないかのように。
「……でも、そんなのは、無理だ」
「どうして」
「だって、僕と藤とは視ている世界も違って、生きる道も違う。それなのに、ずっと一緒にいるなんてことはできない」
「小宮は、私と一緒は嫌なのか?」
「そうじゃない。そうじゃなくて……!」
「じゃあ問題ないじゃないか。嫌じゃないなら、この先もずっと私と一緒にいればいい。そうすれば何も心配することなどないのだから」
「…………っ!」
「何でそんな泣きそうな顔をするんだ。悲しいことなんて何一つないのに」
左手に重ねられていた藤の手を、僕は反射的に振り払った。
「……小宮」
藤は振り払われた手を呆然と見ている。
僕は胸に広がる苦い気持ちを押さえようと、皺が寄るほどシャツをきつく握りしめた。
「……僕は、藤のことを大切に思っているよ。だから……」
――熱中症には気を付けて――今年の夏はとても暑いから。
目の前に藤がいるのに、僕は今、とてつもなく藤に会いたい気持ちでいっぱいだった。
「まがい物の言葉に、惑わされたくないんだ」
足元にあったクロッキー帳に一枚の紙きれが挟まっていることを、僕は初めから知っていた。
それを広げると、案の定、そこには癖のある手書きの音符が五線譜に並んでいた。
葵の楽譜だ。
やはりこの世界はまだ、現実ではない。
ここは葵に作られた世界――ここにいるのは、偽物の藤だ。
トン、と僕の身体は地面に倒れた。
「……?」
状況を理解するよりも早く、頭が警鐘を鳴らす。僕に覆いかぶさった藤が、その冷たい指を僕の首に絡めていた。
「気付かれてしまったら、仕方がない」
僕は彼女の指を剥がそうともがくが、びくともしない。
「抵抗するな、小宮。このままここにいれば、君は辛い思いをしなくて済む」
「……ふ、……っ」
じわじわと首に圧が掛けられ、息苦しさが増す。
砂嵐のように歪む視界の中で、藤の言葉が何度もリフレインした。
――この小さな世界で私と二人、永遠に一緒にいよう。それはとても素敵なことだと思わないか?
そうだね、藤。
だけど、それはきっと、
叶わない夢のような気がするんだ。
意識が闇に沈んだ。




