其ノ参 真夏の美術室
次の部活動の日がやって来た。
美術室に入ると、生暖かい籠った空気が全身を取り巻く。
今日は僕ひとり、自主練習のようなものだ。荷物を置いていつものように必要な道具を引っ張り出す。その間にも、先日の夏祭りの件が頭の中にちらついて離れなかった。
果たしてどのタイミングで夏祭りの話題を出すべきか。
何と尋ねればうまく答えを引き出せるのか。
人との会話が不得手な僕にとっては全部が難問すぎた。今度藤と顔を合わせた時、どうしたら自然にデートの相手を聞き出せるのか、僕にはさっぱり思いつかない。
結局同じところをぐるぐると巡る思考に疲れた僕は、気分転換と称してクロッキー帳片手に美術室を出た。
あてもなく人のいない校内をうろついていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。先日耳にした、あの繊細な旋律だ。
「夏休みなのに、練習熱心だな……」
どんな人が演奏しているのだろうか。僕は好奇心に駆られ、三階へと足を向けた。
音楽室の扉の小窓から、そろりと中を窺う。
教室の前方には、大部分を占める形で光沢のあるグランドピアノが鎮座している。その鍵盤に一人の男子生徒が指を滑らせていた。ピアノの奥にはもう一人女子生徒が立っていて、熱心に演奏に耳を傾けている。
「――あれ?」
見間違えるはずもない。
長いストレートの髪に、切れ長の瞳。絵画のように美しい佇まい。
紛れもなくそこにいるのは藤だ。
「でも、藤とはついさっき美術室で……」
僕は違和感を覚えて首を傾げた。
いや、だけど今日は桃花も藤も休みのはずだ。桃花は家族旅行で、藤は――何だったかな。思い出せないけどとにかく、今日はただの自主練習だったはず。じゃあ――
――熱中症には気を付けて――今年の夏はとても暑いから。
美術室を出る僕にそう言って手を振ったのは誰だったのだろう。
物思いに耽っていると、いつの間にかこちらに気付いた男子生徒が手を止めて僕を手招きしていた。彼は同時に口を動かして何かを伝えようとしているが、扉越しの僕には届かない。
「そんなところに立ってないで入りなよ」
恐る恐る扉を開けて顔を覗かせると、男子生徒は想像より甲高い声でそう言った。
「……えっと」
「ほら、そこに椅子あるからさ」
ピアノの脇に置いてある丸椅子を指さす男子生徒と椅子を交互に見ていると、「ほら、早く」とせっつかれた。
「じゃあ……失礼します」
ここで引き返すわけにもいかなくなり、僕はおずおずと入室する。
椅子に座って向かい合った男子生徒は、僕より一回りは小柄で、異国の血が混ざっているような華やかな顔立ちをしていた。
癖のある柔らかい髪、はっきりとした目鼻立ちに、色素の薄い大きな瞳。肌は血管が透けて見えそうなぐらい白い。同学年にいたらきっと忘れない顔だが、見覚えはない。もしかして下級生だろうか。
「僕の名前は葵。君は?」
「小宮……です」
答えながら彼の制服に光る学年章が上級生ということに気付き、咄嗟に語尾を付け足した。葵は僕の胸中に気付かなかったようで、爽やかに藤の隣に立った。標準より小さい葵と背の高い藤が横並びになって、空間に凹凸ができた。
「紹介しよう、小宮。こちらは、藤。僕と同じ三年生だ」
「初めまして」
藤は他人行儀に軽く会釈をした。葵は自分より高い位置にある彼女の肩に、馴れ馴れしく手を置いた。
「実は僕ら、付き合ってるんだ」
「――は?」
衝撃的な発言に、僕は数秒間ポカンと口を開いたまま固まった。
「えっ……え、何だって?」
狼狽する僕に、葵はあっけらかんと笑った。
「入学式で一目惚れしてね。僕から付き合ってくれと告白したのさ。それからもう二年が経つかな。秋から海外の音楽学校に編入するんだけど、彼女も僕について来てくれることになってね。夏休み中に二人でここから出立するんだ」
「……か、海外……?」
葵は一つ頷いて、譜面台の上から数枚の楽譜を引き抜き僕に寄越した。
「将来ピアニストになるためにね。その曲も全部僕が作曲したのさ」
僕は手元の紙切れに目を落とした。
同じ芸術分野といっても、僕は音楽についてはからっきしだ。五線譜に並んだ音符も、僕にはただの黒いおたまじゃくしにしか見えない――というか、今はこの奇妙な状況に理解が追い付かないせいで、楽譜の内容など全く頭に入って来ない。
「そうだ、小宮。よかったらしばらく僕に付き合ってくれないか。久しく人間と話していなくてね、遊び相手を探していたところなんだ」
葵はエスコートするように藤の手を取り、僕に近づいてきた。
「ねえ、小宮は僕らと遊んでくれるよね?」
異様に人間離れした二人は、気味が悪いほど綺麗な笑みを浮かべて僕に迫って来る。
「――っ!」
僕は声にならない悲鳴をあげながら、後ろも振り返らず音楽室を飛び出した。
その背中を、ピアノの音色が追いかけてきた。
◇ ◇
僕は一心不乱に走っていた。
冷たい空間に響くのは、床を蹴る僕の足音と乱れた呼吸音のみ。他には何も聞こえない。呪いのようにつきまとっていたピアノの音も、いつの間にか聞こえなくなっていた。
音楽室を飛び出してから、どれぐらい経ったのだろうか。
校内にいるはずなのに、整然と並ぶ教室の扉にきりがないし、廊下の突き当りも見えてこない。足場は時々ぐにゃりと歪んで僕を脅かし、その度に躓きそうになっては何とか体勢を立て直す。
ここは明らかに現実と異なる世界だ。
それは自覚しているのに、何をすれば、どこに向かえばここから出られるのかさっぱり分からない。まるで醒めることのない悪夢のようだ。
――チリン。
唐突に耳に飛び込んできたそれは、聞き逃してしまいそうなほど小さな響きだった。
普段鳴らそうと思っても鳴らないお守りの鈴が、ポケットの中で不意に音を響かせたのだ。
それを合図に、前方に光が差した。その眩い光に包まれ、見慣れた美術室の扉が現れる。
きっとこれは、出口に違いない――僕は確信した。
無我夢中でその扉の元へ走り、転がるようにしてその内側へと身を滑り込ませた。その勢いのまま扉を閉めて床にへたり込む。
「……小宮?」
冷たい床に手をついて、時間を掛けて乱れた呼吸を整えた。動悸が収まり、乾いた喉が水分を欲していることに気付いた頃、ようやく室内に自分以外の存在を感知した。
「そんなに急いでどうした? 何かあったのか?」
その人は文庫本を片手に、いつもと同じ窓際の席に座っていた。
美術室の窓は全て開け放たれているものの、生温い風すら入って来ない。室内は汗が滴るほど蒸し暑い。蝉の声がそこらじゅうで鳴り響いている。
そんな真夏の美術室で、彼女は絵画のごとく綺麗な顔をしてそこにいた。
「……藤」
ストレートの長い髪が、彼女の動きに合わせて揺れる。きっちりと結ばれた夏服のリボンも、少し長めのスカートの裾もすべてが藤らしくあり、僕は呆然とその場に固まった。
おかしい。
彼女とはついさっき、音楽室で出会ったばかりのはずだ。
「……何でここにいるんだ?」
僕の言葉に、藤は珍しく目を丸くした。
「何でって……どうした、小宮? 暑さでどうにかなったか?」
開いていた本を閉じ、藤は急いで僕の方へと歩み寄って来る。僕は反射的に後ずさったが、すぐに扉に背中が当たった。
「いや、だって、今日は僕一人しかいないはずだろ……桃花は家族旅行で、藤は……」
「落ち着け、小宮。一体どうした? ちょっとおかしいぞ」
「違う、訊きたいのはそんなことじゃなくて……そうだ、葵先輩が……」
その名前を口にした途端、藤の表情が一変した。
「――何故、小宮が彼を知っている?」
まるで葵のことを知られたくなかったかのような、そんな言い方だった。
「さっき音楽室で話をしたんだ。藤も一緒にいたじゃないか」
「……おかしいね。私はずっとここにいたけれど」
「そんなはずはない、だって……」
葵から聞いた藤との馴れ初めを話すと、藤は溜息を吐いて眉間を押さえた。
「……言っていることが滅茶苦茶じゃないか」
「でも、葵先輩が――あれ?」
そこで僕は、はたと気が付いた。
そうだ、違う。何かがおかしい。
「……藤って三年生だったっけ?」
「一体私がいつ飛び級したんだ?」
「じゃあ、入学式で告白されたっていうのは……」
「事実無根だよ」
「付き合って二年っていうのは……」
「あり得ない」
「二人で海外に行くっていうのは……」
「だから小宮、その話は全部嘘偽りだ。私は音楽室にも行っていないし、葵と付き合ってもいない。ましてや葵と海外暮らしをするなんて頼まれても御免だよ」
「――そう、か……そう、だよな」
――熱中症には気を付けて――今年の夏はとても暑いから。
美術室を出る僕にそう言って手を振ったのは、確かに藤だった。
どうして今日は一人だなんて思い違いをしていたのだろう。
おかしいのは、僕の方だったのだ。
「……え、まさか全部夢だった?」
意味もなく両の手のひらを眺めてみる。当たり前だが特に変わったところはない。
「またどこかでうたた寝でもしたのか? この暑い中で?」
疑いの眼差しを向けられ、僕は慌てて記憶を手繰り寄せる。
「いや……そんなはずは……」
あの時、藤に見送られて美術室を出て、校内をぶらついて、それからどうしたんだっけ――
どうにも記憶が朧げで、無理矢理思い出そうとするとそれを拒むように頭が痛んだ。
僕は側頭部を押さえ、背中を扉に預けた。気を張っていたせいか、ドッと疲れが全身を巡る。このまま目を瞑って眠ってしまいたい。そう思った時、パサリ、と何かが床に落ちた。
「――あ」
どこから現れたのか、あるいは持っていたことに気付かなかったのか、愛用のクロッキー帳が姿を見せた。
もしかしたらここに、何か記憶を手繰り寄せるヒントがありはしないだろうか。過去の自分に期待して表紙に手をかける。
一ページ目を開く寸前――どこからともなくあの気配がした。
ただでさえ暑さで不快な室内に漂う「人ならざるもの」の気配。
クロッキー帳を抱え、息を潜めるように身を縮めた僕に、藤は怪訝そうな顔で尋ねた。
「小宮、どうかしたのか?」
「――室内に、」
言いかけて、僕はまじまじと藤を見た。
おかしい。
藤が「人ならざるもの」の気配を察知しないはずがないのに。
「大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
藤は心配そうに僕の顔を覗き込んでくるが、「人ならざるもの」に気付いた様子はない。
「…………」
「……小宮?」
もしかしてここはまだ、現実ではないのか?
目の前の藤は、本物の藤じゃないのか?
――おかしいのは本当に僕の方だったのか?
そう思い始めたら、急に世界が作り物めいて見えた。
停滞した生温い空気も、
外から聞こえる蝉の声も、
青空に浮かぶ入道雲も、
僕らを静かに見守る石膏像や油絵も、
そして僕の前にいる、絵画の住人のような彼女も。
全てが僕を惑わすために揃えられた駒だったとしたら。
「もしかして」
仮にここがまだ現実でないのなら――
「お前は」
この世界に存在するものは――
「――『人ならざるもの』なのか?」
藤の長い睫毛が震えた。
薄く開いた唇から、微かに吐息が漏れる。けれど、そのまま言葉が出て来ることはなかった。
本物の藤ならすぐに笑って否定してくれるはずだ。しかし目の前の藤は、驚きなのか悲しみなのか怒りなのか、何ともつかない表情のまま、僕を見返していた。
「――そうだ、と言ったら?」
「――え?」
どれぐらい沈黙が続いたのか分からなくなった頃だった。
ポツリと呟くように、藤が訊いた。
「もしも私が人ではない存在だったとしたら?」
「――――」
藤は真っ直ぐ、僕の目を捉えて離さない。
彼女は僕にどんな答えを求めているのだろうか。
僕はその視線に耐えきれず、クロッキー帳を抱えて教室から逃げ出した。
背後で藤が何か言ったようだったが、僕には届かなかった。




