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藤小宮物語  作者: トウコ
第参章 真夏の白昼夢、花火の旋律
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其ノ弐 真夏の音楽室

 次の部活動の日がやって来た。

 先に来た藤が、窓際で本を読んでいる。

 今日は僕と藤の二人きり。桃花は「お土産買って来るからね」と宣言し、意気揚々と旅立っていったばかりだ。


「――おはよう、藤」


 挨拶を交わし、荷物を置いていつものように必要な道具を引っ張り出す。僕は藤に意識が向いてしまうのを気取られないように、細心の注意を払った。


 果たしてどのタイミングで夏祭りの話題を出すべきか。

 何と尋ねればうまく答えを引き出せるのか。


 人との会話が不得手な僕にとっては全部が難問すぎた。今までどうやって藤と話していたのか思い出せなくなりそうになる。

 勝手にひとりで悶々とした時間を過ごし、結局沈黙に耐えきれなくなった僕は、気分転換と称してクロッキー帳片手に美術室を出た。

 藤は本から顔を上げて、僕に小さく手を振った。


――熱中症には気を付けて――今年の夏はとても暑いから。


 逆光で藤の表情はよく見えなかった。

 蝉の声だけが、やけに五月蠅く響いていた。



 あてもなく人のいない校内をうろついていると、どこからともなくピアノの音が聞こえてきた。先日耳にした、あの繊細な旋律だ。


「夏休みなのに、練習熱心だな……」


 どんな人が演奏しているのだろうか。僕は好奇心に駆られ、三階へと足を向けた。

 音楽室の扉の小窓から、そろりと中を窺う。

 教室の前方には、大部分を占める形で光沢のあるグランドピアノが鎮座している。その鍵盤に一人の男子生徒が指を滑らせていた。

 色彩豊かな演奏に聞き入っていると、いつの間にかこちらに気付いた男子生徒が手を止めて僕を手招きしていた。彼は同時に口を動かして何かを伝えようとしているが、扉越しの僕には届かない。


「そんなところに立ってないで入りなよ」


 恐る恐る扉を開けて顔を覗かせると、男子生徒は想像より甲高い声でそう言った。


「……えっと」


「ほら、そこに椅子あるからさ」


 ピアノの脇に置いてある丸椅子を指さす男子生徒と椅子を交互に見ていると、「ほら、早く」とせっつかれた。


「じゃあ……失礼します」


 ここで引き返すわけにもいかなくなり、僕はおずおずと入室する。

 一瞬、ピンと張りつめていた糸がたゆむように、空間が揺れた気がした。


「――――?」


「どうかしたかい?」


 入り口で立ち止まった僕に、彼は不思議そうに投げかける。暑さのせいで、陽炎でも見えたのだろうか。


「……いや」


 僕は何事もなかったように扉を閉めた。


 椅子に座って向かい合った男子生徒は僕より一回りは小柄で、異国の血が混ざっているような華やかな顔立ちをしていた。

 癖のある柔らかい髪、はっきりとした目鼻立ちに、色素の薄い大きな瞳。肌は血管が透けて見えそうなぐらい白い。同学年にいたらきっと忘れない顔だが、見覚えはない。もしかして下級生だろうか。


「僕の名前は(あおい)。君は?」


「小宮……です」


 答えながら彼の制服に光る学年章が上級生ということに気付き、咄嗟に語尾を付け足した。が、葵にそれを目ざとく指摘されてしまった。


「君、僕のこと、下級生だと思ったね」


「……すみません、あの……」


 何と弁解しようか焦る僕に、葵はあっけらかんと笑った。


「別に年下扱いされるのは慣れているから気にしないでいいさ。それにどうせ夏休みが明ける頃にはもう僕はここにいないから、学年なんて関係ないようなものだしね」


「……ここに、いない?」


 葵は一つ頷いて、譜面台の上から数枚の楽譜を引き抜き僕に寄越した。


「秋から海外の音楽学校に編入するんだ。将来ピアニストになるためにね。その曲も全部僕が作曲したのさ」


 僕は手元の紙切れに目を落とした。

 同じ芸術分野といっても、僕は音楽についてはからっきしだ。五線譜に並んだ音符も、僕にはただの黒いおたまじゃくしにしか見えない。しかし葵は、これをあの綺麗な旋律に変換することができるのだ。


「……先輩なら、なれると思います。ピアニスト」


「そう言ってくれると嬉しいよ」


 謙遜することもなく、葵は自信に満ちた表情を浮かべる。だがそれすらも、様になっていた。

 葵は大きな瞳をさらに見開きながら身を乗り出し、


「そうだ、小宮。良かったらしばらく僕に付き合ってくれないか。久しく()()()話していなくてね、遊び相手を探していたところなんだ」


 と言った。

 そういえばここに来る前、僕は何をしようとしていたんだっけ。頭の中は霧がかっていて、うまく思い出せない。僕は曖昧に頷いた。


「……少しなら」


 葵は心底嬉しそうに笑った。




  ◇  ◇




 葵はまるで玩具を手に入れた幼子のように、喜々として語り始めた。

 自分の生い立ち、音楽観、将来の展望――平凡な人生を歩む僕からしてみれば、葵の語る話はどれもこれも映画の一場面のようだった。

 容姿も、学力も、才能も、全てにおいて恵まれている葵は、もはやそれを当たり前のこととして受け止めているようで、その潔さはいっそ清々しく思えた。

 神は二物以上を与えるのだなと素直に感心していると、「でもね」と葵の口調が変わった。


「――これだけ不自由ない僕の人生においても、手に入らないものがあるんだ」


「手に入らないもの……?」


「そう。例えば小宮は、誰か好きな人はいるかい?」


「……え、ええと……」


 逆に問われて、口籠る。一瞬頭を過るものがあったが、それを自覚したくない気持ちの方が強く、言葉にはならなかった。

 葵は深く追求することなく、話を戻す。


「まあ、良いや。僕にはね、僕に相応しい、ずっとそばに置いておきたい人がいるんだけど、それがなかなか手に入らないんだよ。何でだと思う?」


「何で……」


「それはね――その人の隣に、邪魔な人間が居座っているからさ」


 葵の瞳に、強い光が宿った。ドキリ、というより、無性にギクリとさせられる。


「その人はとても綺麗で、とても気高く、とても強い力を持っている。その隣に立つのは、全てにおいて完璧な僕以外あり得ないはずだ。なのに、何の力も持たないような人間が、平然と彼女の隣に立って、平然と彼女の庇護下にいる。そんなことが許されると思うかい?」


 葵は振り上げた拳を、鍵盤の上に叩きつけた。不協和音が空気を揺らす。驚いて肩をビクつかせる僕を、葵はどこか冷めた目で見ていた。


「僕は――昔から少し変わった力を持っていてね。自分で作った曲を弾くと不思議な出来事が起きるんだ」


 葵は椅子の上で悠然と足を組み替える。頭の位置は僕より低いはずなのに、何故か葵に見下ろされているような感覚だ。


「自分の願いや望みを託して作った曲を演奏すると、たちまちその通りに世界が変わる。まるで目に視えない『何か』の力が働いているかのように、全ては僕の思い通りになるのさ。便利な力だろう? これこそが、彼女の隣に立つのに相応しい力だよ。これぐらいの力がなければ、彼女を支えられないし、その隣に立つ資格もない」


 漠然と嫌な予感がした。


「そういうわけだから小宮、()()()()()()()()()()()()()()()()?」


「――――」


 さっきから葵が語っている「彼女」の正体はおそらく藤。

 彼が言う邪魔な人間とは多分、僕だ。

 だが、僕と葵は初対面のはず。何故そんな人間からいきなり挑戦状を叩きつけられなければならないのだろう。

 葵は僕の返答も待たず、ポーン、と一つ鍵盤を叩いた。


「――今から僕は、君を現実から切り離された空間に閉じ込める。そこは現実とは全く時間の流れが異なる世界だ。もしそこから自力で出て来られたなら、君の勝ちを認めよう。ただし、タイムリミットは夏祭りまで」


――それまでに元の世界に戻って来られなければ、彼女の隣は明け渡してもらうよ。


 その言葉を皮切りに、葵の指が旋律を奏で始める。

 美しいメロディのはずなのに、どこか不穏な印象を受ける演奏。

 何が起きているのかさっぱり理解できなかったが、とにかくここにいては駄目だということだけは本能が訴えていた。

 音楽室を出ようと葵に背を向けた途端、ぞわりと肌が粟立った。


「……っ!」


 感じ慣れた――それでいていつまで経っても不快な気配が室内に満ち始めた。


「何で……」


 絵を描いていたわけでもないのに、どうして「人ならざるもの」の気配がするのだろう。

 空間が歪んだような錯覚に陥りたたらを踏んだ僕は、思わずクロッキー帳を取り落とした。床に落ちた衝撃で、クロッキー帳がパラパラとひとりでに捲れる。

 そこに描かれた女子生徒――藤の姿に、葵は目を止めた。

 演奏をやめた葵は、拾い上げたクロッキー帳の中を興味深そうに検める。


「見かけによらず、君は繊細な絵を描くよね」


 独り言なのかこちらに返答を求めているのか分からず、僕はただ押し寄せる息苦しさにジッと耐えた。


「――でも」


 クロッキー帳をパタンと閉じ、葵は嘆息した。


「君の描く絵は表面的な美しさにすぎない。彼女の内面に踏み込むこともなく、外側だけ美しく着飾っただけの空っぽな絵。そんなものばかり描いて何がしたい? はっきり言って小宮はさ――」


 葵はクロッキー帳を差し出しながら、僕の顔を覗き込んだ。


「藤のこと、何も知らないだろう?」


 息が止まった。

 揺れる視界の中、葵の嘲笑うような視線だけが真っ直ぐ僕を刺す。

 僕はクロッキー帳をひったくり、後ろも振り返らず音楽室を飛び出した。


 その背中を、ピアノの音色が追いかけてきた。




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