其ノ壱 宣戦布告
カラリと晴れた夏空の下。
五月蠅い蝉の声が鳴り響く学校の中庭。
その中心に聳える木の幹に寄り掛かって一人の男子生徒が眠っていた。
「初めまして、小宮」
返事はない。
代わりに木漏れ日が揺れた。
「――といっても、僕は随分前から君のことを知っているけどね」
男子生徒の前にしゃがみ込む。ジャリ、と靴の下で砂が鳴ったが、彼が起きる気配はない。
あどけない顔でうたた寝しているのは、特別容姿が優れているわけでも、頭脳明晰なわけでもない、至って平凡な少年だ。
「僕はね、不思議でならないんだ。何故君みたいな何の取り柄もない人間が、彼女の隣に図々しく居座っているんだろうって」
彼の手元に散らばっている鉛筆から適当に一本拾い上げ、同じく地面にそのまま横たわっていたクロッキー帳を引き寄せる。
束の間、鉛筆の芯が削り取られていく音だけが静かに響いた。
「ねえ、小宮。どうしたら君は彼女から離れてくれるんだろう? 例えば――その左手を使い物にならなくすれば良いのかな」
クロッキー帳を閉じて元の位置に戻し、使い終わった鉛筆の切っ先を無防備に投げ出されている彼の左手に向ける。そしてそのまま、躊躇いなくその手のひらに向かって鉛筆を振り下ろした。
ぐしゃり、と鉛筆の先端が潰れる耳障りな音がした。
「――ま、そうは言ってもさ」
彼の指先すれすれの地面にめり込んだ鉛筆は、危うい感覚で直立不動を保っていた。
「僕は紳士だから、もし彼女が君を必要としているのなら、その時は潔く引き下がるよ。何より一番に尊重すべきは、彼女の意志だからね。でも――」
小脇に抱えていた紙束を見やる。
「例え彼女が君を認めていても、君が本当に彼女に相応しい人間かどうかはちゃんと見定める必要があると思うんだ。だからね、小宮」
膝に頬杖を突きながら、笑いかける。
「しばらく僕と遊んでよ」
彼は目を覚まさない。
◇ ◇
ピアノの音が聞こえていた。
どこか懐かしさを覚えるそのメロディは、特別棟の三階にある音楽室から静かに降ってきた。
誰が弾いているのかは知らないが、その情緒豊かな演奏に耳を傾けていたらいつしか眠りに落ちていたようだ。膝から滑り落ちたであろうクロッキー帳や鉛筆が、そこかしこに散乱している。
何だか不思議な夢を見ていたような気がするが、よく覚えていない。
大きく伸びをして身体の凝りを解していると、得体の知れないオブジェが地面から生えているのが視界の端に引っかかり、僕は唸った。
「――何だ、これ」
左手側の乾いた地面に、一本の鉛筆が強引に突き立てられていた。
絶妙なバランスで直立している鉛筆は、どことなく墓標を連想させる。寝ぼけて自分でやったのだろうか。僕は心当たりを探りながら、それをしげしげと眺めた。
「――ここにいたのか、小宮」
澄んだ声がして、僕が背を預けている木の後ろから藤が姿を現した。
「桃花がそろそろ戻って来なさいって」
「え――あ、もうそんな時間?」
校舎の壁時計を見上げる。美術室を出てから既に一時間近く経過していた。
外は暑いから三十分おきに水分補給に戻ってくること、という桃花の言いつけをすっかり破ってしまった僕は、慌てて持ち物をかき集めた。きっと桃花は鬼の形相で待っているに違いない。
「もしかして、うたた寝でもしていたのか」
「……桃花には内緒にしてくれ」
藤は困ったように眉を下げた。
「熱中症には気を付けて――今年の夏はとても暑いから」
木陰は多少気温が下がるとはいえ、ちょうど日が一番高い時間帯だ。古木の庇護下から一歩でも外に出れば、灼熱の日差しが容赦なく照り付けてくる。
僕は「藤もね」と言って、彼女の隣に並んで歩いた。
ピアノの音は、もう聞こえなかった。
学校は一週間ほど前から、夏休みに入った。
やる気のない顧問とやる気のない部員しかいない美術部に、長期休暇中の活動計画などない。せいぜい週に一度集まって、絵を描いたりだらだら話をしたりして時間を潰す程度だ。
今日も朝から桃花の気まぐれによって招集がかかり、僕らはうだるような暑さの中美術室までやって来たのだった。
「あっついようー」
屋内に戻ると、桃花が制服のリボンも靴下もすべて取っ払い、スカートの裾をたくし上げる勢いで涼を求めていた。
田舎のおんぼろ学校に、冷房など気の利いた設備はない。窓をすべて開け放っていても風の通らない室内は、サウナのように蒸し暑かった。言いつけを守らなかったことで説教の一つでも食らうかと思っていたが、当の本人もこの暑さにダウンしていてそれどころではなさそうだ。
「暑いのなんて分かり切ってるんだから、わざわざ集まらなくても良かったんじゃないか」
僕は仕方なく、下敷きを団扇代わりにして風を送ってやった。生ぬるい風しか生まれないが、少しはましだろう。
今にも溶け出しそうな顔でそのぬるい風に目を細めていた桃花は、聞き捨てならないと言わんばかりに僕の脛を蹴った。もちろん、素足である。突き刺さった爪が痛い。
「あんたは本当にそういうところ疎いわよね」
「そういうところ……?」
「高校二年の夏休みよ? 今しかない青春の一ページよ? それを暑いからって家に引きこもって終えるなんて勿体ないじゃない。こみやんの平凡な人生に華を添えるためにあたしが骨を折ってあげているんだから、感謝して欲しいくらいだわ」
恩着せがましく言い放つ桃花に、僕は苦笑した。
「美術室でだらだらしてるだけならいつもと変わりないだろ。どうせなら海に行くとか、山に行くとかした方が良かったんじゃないか?」
「安直ねえ。海は遠いし、山なんて今の季節虫だらけじゃない。そもそもアウトドア派じゃないあたしたちがそんなところ行ったって、慣れない環境に疲れて帰って来るのがオチよ」
「まあ、確かに……」
海で泳いだり、山でキャンプをして夏を満喫する自分たちの姿を、僕は残念ながら想像できない。そもそも学校の部活動でさえ運動部ではなく文化部を選択している時点で、僕らの体力の無さはお察しだ。
「あたしたちでも楽しめる夏の行事といえば、せいぜいが夏祭りね。来週末、もちろん空いてるわよね?」
「来週末……もうそんな時期か」
小規模ながら毎年開催される地元の夏祭りは、行楽地もない田舎の高校生にとっては一大イベントだ。会場となる神社の境内では、大抵いつも見知った顔ばかりとすれ違う。
去年は三人で行く約束をしていたものの、僕は夏風邪が長引いたせいで結局行けずじまいだった。
「浴衣着て、花火見て、盆踊り踊って、屋台で食べ歩き! ああ、良いわよねえ。これぞ青春って感じだわ」
思いを馳せるようにうっとりと宙を見上げる桃花。
緩慢な手つきで下敷きを動かしながら、僕も去年見せてもらった写真を思い出す。桃花愛用の桃色の携帯に収められた夜空いっぱいの花火の写真。その間、一枚だけ映った藤の浴衣姿にドキリとした記憶が蘇って来た。
「今年は絶対三人で行きましょうね。十八時に鳥居のところで待ち合わせしましょう。それまでにこみやんは体調を整えておくこと。良いわね? 夏バテなんかしちゃ駄目よ。あ、藤はその前にあたしの家に寄ってちょうだい。浴衣、新調したの。薄紫色の、すっごく綺麗な浴衣よ。絶対に藤に似合うと思ってね――」
「――桃花、あの」
それまで沈黙を守っていた藤が、桃花のマシンガントークを遮った。
いつもの窓際の席で、藤は夏の日差しを背負いながら言いにくそうに口を開く。
「悪いんだけど……」
風を通すためにスカートの裾を握っていた桃花の手も、下敷きで風を送っていた僕の手も、ピタリと止まった。
「その日は、先約があって……」
「「――え」」
藤が言い終わらないうちに、桃花はこの世の終わりのような悲鳴をあげた。
校庭に届くぐらいの絶叫のあと、桃花は机に突っ伏す。
「ええー、来年も一緒に花火見ようねって約束したのにあんまりじゃなあい……酷いわ、藤」
「申し訳ない……この埋め合わせは必ずするから」
藤は心底すまなそうに、両手を合わせる。頬を膨らませた桃花は、何故か僕の方をキッと睨み付けてきた。
「こみやんと二人じゃ、浴衣着る意味もないし」
「だったら普通の服で行けばいいんじゃないか」
ただの提案のつもりが、桃花に盛大に溜息を吐かれた。
「ほんっと分かってない。ぜんっぜん分かってない。違うの、そういう問題じゃないのよ。あんたは少し乙女心について勉強すべきね」
乙女心なんてテストに出ない――心の中でそう呟くと、何を察したのか桃花が「何よ。文句ある?」と拳を握ってきたので、僕は首を横に振っておいた。
その後桃花はしばらくの間、うだうだと藤の不参加を嘆いては額を机に擦り付けていて、藤はあの手この手で桃花の機嫌を取ろうと頑張っていた。僕はクロッキー帳を広げながら、その様子を面白おかしく眺めた。
夏の昼下がり、遠くで蝉の声が響く美術室は、とても緩やかに時間が流れていった。
◇ ◇
「ねえ、こみやんは気にならないの?」
午後四時過ぎ、帰り支度を済ませて美術室を出ようとした僕は、桃花に引き留められた。
「え、何が?」
意図が分からず訊き返すと、桃花は藤が待つ廊下の方をちらりと窺ってから僕の耳元に口を寄せた。
「だから、藤が誰と夏祭りに行くかってことよ」
「――は?」
「は? じゃないわよ。あんた、ちゃんと藤の話聞いてた?」
「え、だって先約があるとは言っていたけど、夏祭りに行くとは言ってなかっただろ」
先ほどのやり取りを思い返しながら僕がそう言うと、桃花は呆れ返った様子で僕を見た。
「ほんっとに鈍感ねえ。普通誘いを断るなら用事があるとか、その日は行けないとか言うもんでしょう? 先約があるって言い方は、暗に予定がかち合ったことを仄めかしているようなものよ」
「そういうもの……?」
他人の機微に疎い僕にはその辺りのことがよく分からない。が、桃花がそう断言するのなら、そうなのかもしれない。
桃花は顎に手を当てながら、名探偵よろしく推理を繰り広げた。
「きっと藤は誰かと夏祭りに行く約束をしているのよ。こみやんには酷かもしれないけど、ここは心を鬼にしてはっきりと言うわね。あたしの勘が囁いてるの、藤の約束の相手は男だって。つまりね――」
力説する桃花に圧倒された僕は、ごくりと唾を飲んだ。
「――つまり?」
「これは夏祭りデートよ」
開いた口が塞がらなかった。
桃花のそういう勘が鋭いのは知っているが、まさか藤相手にそれが発揮される日が来ようとは。浮世離れした雰囲気を纏う藤は、そういうこととは縁がないような気がしていたのだ――いや、そうあってほしいと思っていたのだ。
「……でも、藤が誰とどこへ出かけようが僕らには関係ないだろ」
僕と藤はただの部活仲間であって、それ以上でもそれ以下でもないのだから。
自分でも上辺を滑っていることが分かる言葉に、桃花が目を眇めた。
「……ねえ、こみやん? あんた、本気でそう思ってる?」
「…………」
目を泳がせる僕の腕を、握力四十超えの馬鹿力が容赦なく握る。
「ちょ、桃花、痛い……」
「あたしに嘘吐こうなんて百年早いわ。素直に白状したらどうなのよ。デートの相手が誰なのか気になるって」
「まだデートだって決まったわけじゃないだろ……」
「いいえ、決まってるわ。このあたしとの一年越しの約束を反故にしてまで会わないといけない相手なんて、他に誰がいるのよ?」
余程藤と夏祭りに行けないのが悔しいようだ。桃花はギリギリと僕の腕を掴みながら、眉間に皺を寄せる。
「あたしたちには相手が誰なのか知る権利があるわ。そして、そいつが藤に相応しい人物か見極める義務がある。こみやん、これはあたしたちに課せられた使命よ」
「そんな大袈裟な……」
「というわけで、来週の夏祭りまでに藤のデートの相手が誰なのか突き止めること。いいわね?」
「――いやいや、ちょっと待って桃花。何でそうなるんだ」
あたかも当然のごとく行き着いた話の終着点に、僕は全力で抵抗した。藤が誰と夏祭りに行こうがそれは藤の自由だろう。外野がとやかく言うことじゃないはずだ。
「あたしはほら、来週末まで家族旅行で不在にするから、その間にね?」
「ね、じゃないだろ。デートの相手なんて知ってどうするんだよ」
反論すると、桃花は不満そうに口を尖らせた。
「ええー、じゃあこみやんは、藤がどこの馬の骨とも知れない奴に取られちゃってもいいの? 夏祭りの後、私たち付き合い始めたんですって報告されて、見知らぬ男とイチャイチャするのを見せつけられて、挙句の果てに部活に顔を出さなくなっちゃってもいいっていうの?」
一体どんな妄想だ。少女漫画の読みすぎではないか。
さすがに藤はそんな人ではないが、口だけは達者な桃花にうまく言い返す術が見当たらない。
「そろそろ準備できたかな」
そうこうしているうちに、待ちくたびれたのか藤が入り口の扉からひょっこり顔を覗かせた。
「ええ、今行くわ」
桃花は満面の笑みで藤を追い返すと、「じゃあ、よろしく頼むわね」と言い残してさっさと教室を出て行ってしまった。
一人残された僕は、しばらくその場に立ち尽くすしかなかった。




