其ノ伍 雨上がりの虹
夢を見ていた。
内容は思い出せない。ただ、夢から醒めて最初に藤の顔を見た時、安心したと同時に少しだけ不安になった。
どうしてそう思ったのかは、自分でもよく分からなかった。
◇ ◇
藤の宣言通り、目が覚めた時には全てが元通りになっていた。
虹の絵から出て来たものは無事絵の中に還され、絵は持ち主の元へと戻った。
絵に魅かれてやって来た「人ならざるもの」たちは、結局御馳走にありつけないままあるべき場所へと帰って行った。
僕だけではどうにもならなかったことが、藤が現れてからあっという間に解決してしまったのだ。まるで絡み合った糸がスルリと解けるように。
全ては僕の知らないところで。
「小宮……?」
名前を呼ばれ、意識が引き戻される。いつの間にか思索に耽って、道の真ん中で足を止めていたようだ。
学校からの帰り道、赤い傘を持つ藤が顔色を伺うように僕を覗き込んでいる。その顔は僕の知っている顔のようで、どこか知らない人のようにも見えた。「人ならざるもの」と対峙する彼女の姿を見たわけではないのに――いや、何も見なかったからこそかもしれない。
僕は藤のことを知りたいと思っていながら知ることに不安を抱いていて、それでいて関わらせてもらえないことに少し不満を感じている。自分でも呆れるほど面倒臭い人間だ。
「どうした、ぼんやりして。まだ気分が優れないのか?」
藤はとても素直に僕のことを心配してくれている。そんな彼女に僕の心の内をぶつけるわけにもいかなかった。
「……いや、何でもない」
僕は首を横に振って歩き出そうとした――が、無意識に負傷した足に体重を掛けてしまい、思い出した痛みにまた立ち止まる。保健室で藤が手当してくれたものの、腫れて熱を持ち始めた足首はジクジクと痛みを訴えてきた。
「……これは、家まで辿り着けるか不安だな……」
迎えを呼ぶのを断ったのは僕だ。だが想像以上の歩き辛さに、家路までの距離を測って溜息が出た。
「いいよ、ゆっくり歩いていこう」
「ごめん、藤。傘も……荷物まで持たせて」
藤の肩に掛かる二人分の鞄を見やり、僕は申し訳なさに手を合わせた。
「気にすることはないさ」
藤は片足を引きずる僕の方に自然に傘を傾けてくれている。それほど大きくない傘なのに、藤の肩には雨が当たっている気配がなかった。
歩いて十分ほどの距離を、その倍以上の時間を掛けて歩く。
蝸牛の如くのろのろと歩を進める僕は、せめて話題を提供しようと保健室では訊きそびれていたことを尋ねた。
「そういえばあのオカルト研究部の三人は大丈夫だったのか?」
藤は道端に飛び出している紫陽花をさり気なく避けながら、頷いた。
「ああ……絵から出てきたものの暴走に巻き込まれたみたいだけど、無事だったよ。今は多少記憶が混乱しているかもしれないが、日が経てば全て忘れるだろう」
「そっか……」
「彼らも、無意識のうちに絵の中のものに心を引っ張られていたみたいだ。絵を修復しなければならないという気持ちに駆られていたのは、そのせいだろうね」
藤曰く、今回僕はとり憑かれていたわけではなかったようだ。
絵の中に封印されていたものの、「絵の外に出たい」という強い気持ちに引きずられていたらしい。中里から人ならざる気配を感じたのも、彼が一番強く絵の影響を受けていたからだった。
あの絵には、確かに人ならざる「何か」がいた。
オカルト研究部の言葉を借りれば、あれは本当に「妖怪を呼ぶ絵」だったということだ。
ここ数日、僕はあの絵と彼らに散々振り回されたが、中里たちからはその記憶も綺麗サッパリなくなってしまうのだという。理不尽な気もしたし、それで良いような気もしたし、ちょっと可哀想な気もした。
自分の知らない世界を知りたいという思いは、多分彼らも僕もそう変わらない。
彼らにとっての「妖怪」は、言うなれば僕にとっての「人ならざるもの」。
視えないけれど、その存在を信じている「何か」がある。
今回のような出会い方をしなければ、彼らとは親しくなれたのかもしれない。そんな気がしたのだ。
「それにしても変わった部活動があるもんだな。オカルト研究部なんて、今まで存在すら知らなかったよ」
「うちの学校は意外と部活動の数も多いからね」
「中里たちは、普段どんな活動をしているんだろうな」
「おや、意外。小宮はオカルトに興味があるのかな」
クスリと笑われて、僕は早口に弁解した。
「別にそういうわけじゃないよ。ただ、中里たちがあれほど妖怪に夢中になるのは何でなんだろうな、とちょっと思っただけ」
「そうだね……」
答えを求めたわけではなかったが、藤は目を伏せてしばし言葉を探しているようだった。
「それはきっと、目に視えない存在だからじゃないかな」
「……目に視えないから?」
「そう。視えない存在だからこそ、想像が広がる。そこには無限の可能性がある。自分たちの望むように、いくらでもそれは姿を変化させられる。それは時には希望にもなりうるし、時には災厄の種にもなりうるだろう。彼らは自分たちにとって都合の良い望みを、無意識に『妖怪』という存在に託しているんじゃないかな」
少し、突き放すような言い方だった。
「それは……結局、妖怪なんて存在しないってこと?」
「そういうわけではないよ。彼らがその存在を信じている限り、妖怪は彼らの中に存在し続けるということさ」
「…………」
何だか腑に落ちたような、そうでないような気分だ。
だけどそれ以上藤が何も言わなかったので、僕らは黙って濡れた道路を歩いた。雨足はだいぶ弱くなり、鈍色の雲の切れ目から少し光が射し始めている。
梅雨時の水分を多く含んだ空気は重く、じっとりと身体にまとわりつく。不快な湿気と、足の痛みが頭の中の思考を妨げてきて、思うように考えがまとまらない。
自分が何を考えていたのか何を訊きたいのか整理もつかないまま、横断歩道の赤信号を理由に再び口を開いた。
「――ねえ、藤」
「何?」
「――僕らが『人ならざるもの』と呼ぶ存在と、中里たちの信じる妖怪との違いって何なんだろう? 目に視えないという点では同じようなもののような気がするけど。それでも『人ならざるもの』が存在すると、どうやって証明したら良いんだろう?」
「人ならざるもの」――人ではない、「何か」。
それは人の目には視えないもので、人の世の理から外れた存在。
その存在は、とてもあやふやで、頼りなくて、心もとない。その存在を感じない人からしてみれば、「勘違い」や「気にしすぎ」としか思えないのも理解できる。今まで散々そう言われてきたし、自分でもそう思っていた時期があった。
だからもし藤の言うように、妖怪がいると信じるから存在するのであれば、僕にとっても「人ならざるもの」がいると思うから存在する――ということになるのだろうか。
それは裏を返せば、信じなければ簡単にいなくなってしまうということになる。
「――あのね、小宮」
横断歩道の手前、雨に濡れた電柱の隣で藤はちょっと困ったような、何とも言えない綺麗な表情をした。
「――私にはね、『人ならざるもの』が視えるんだ」
だからもう、それだけで充分なんだよ。
「――――」
――ああ、そうだ。
今更僕は、何を言っているのだろう。
肩が触れるぐらい近くにいるのに、急に藤の存在が遠く感じた。
視えない者は、その存在に名前をつけて存在する根拠を求めたがる。
けれど、視える者にとっては「視える」ということが全てを語っているのだ。
藤には「人ならざるもの」が視える。
それだけが、事実だ。
それだけが、全てだ。
信号が青になった。
心臓を鷲掴みにされたような気持ちのまま踏み出した僕の腕を、藤が強く引いた。
「――ああ、ほら。水溜りがある。気を付けて歩かないと」
パシャリと靴が水を飛ばす音がして、僕は足元を見た。
道路の窪みにできた大きな水溜りが僕を映している。藤のさす赤い傘も、水面にゆらゆらと浮かんで見えた。
僕と、赤い傘と――
「――藤」
名前を呼んでみた。
「どうした? 小宮」
そう応える藤は、いつも通り絵画のように美しい。
「ううん……雨、やんだな、と思って」
「――ああ、見て。虹が出てるよ」
役目を終えた傘をすぼめ、藤は遠くの空を指さした。
見上げた空は、青かった。
流れのはやい風に乗って灰色の雲がどんどん遠ざかっていく。
その雲の間から覗くのは、薄く色づいた虹の架け橋だった。
それは絵の中で見たより、とても美しい光景だった。
「――さて、そろそろ帰ろうか」
藤が立ち止まったままの僕を促す。
虹は思ったよりもあっという間に消え、渡りそびれた横断歩道が何度目かの青信号に変わる。
信号待ちをしていた人たちが、僕らを追い越して白線を渡っていく。
僕は足元の水溜まりに映った彼女の姿を目に焼き付けてから、顔を上げた。
さっき一瞬、水溜りに藤の姿が見えなかったのは――多分、気のせいだったんだろう。
大丈夫。
視えている世界が違ったとしても、藤はここにいる。
大丈夫。
きっと見上げた虹の色は、僕も藤も綺麗だと思っている。
「――そうだね、帰ろうか」
僕は心の中でそう言い聞かせて、一歩踏み出した。
第弐章 完




