其ノ肆 三つ巴の結末
「……っ、どこに行ったんだ……!」
屋上に向かう階段を一気に駆けのぼったせいで、足ががくがくと震えた。
三階まで行ったところで、堪らず膝に手をついて呼吸を整える。日頃の運動不足が身に染みた。
彼らが美術室を出てからまだそれほど経っていないはずなのに、その姿はどこにも見当たらなかった。もしかしたら既に屋上で怪しげな儀式を始めているのだろうか。
彼らの行う儀式そのものには何の意味もなくても、既に虹を渡って「何か」がやって来ようとしている。そこに虹の絵を食べに集まった「人ならざるもの」が鉢合わせでもしたら、一体何が起こるか分からない。
とにかく、あの絵を取り返さなければ――
疲れ切った足に鞭打って走り出そうとした時、階上で騒々しい足音がした。急いで音のする方へ向かうと、ちょうど中里たちがへんてこなローブを纏って屋上を目指しているところだった。
中里の小脇に抱えられた虹の絵を見つけ、僕は渾身の力を振り絞って叫んだ。
「待ってくれ、その絵は危ない……!」
踊り場で足を止めた中里が、呆れ顔で振り返った。
「何だ小宮。絵を修復してもらったから、もうお前に用はないぞ」
「やっぱりその絵は、なおしちゃ駄目だったんだ」
「そんなことはない。これでようやく絵の本来の効果を発揮することができるんだ。それはこの絵にとっても喜ばしいことだろう」
「だから本物なんだよ、その絵は。本当に妖怪が出てきたらどうするんだ」
一歩ずつ距離を詰めていく僕を、中里は眉を顰めて見下ろす。
「お前、何言ってんだ。むしろそうであってくれないと困るんだよ」
「やめてくれ、何が起こるか分からないんだ……!」
僕は残る力を振り絞り、中里の抱えていた絵を取り返そうと掴みかかった。
「おいっ……! 一体、何のつもりだ!」
「だから、絵を返してくれ……!」
「お前の絵じゃないだろう!」
「中里の絵でもないだろ! お願いだから、この絵から手を引いてくれ……!」
抵抗する中里と、僕を絵から引き剥がそうとする二人。僕らは狭い踊り場の上で揉み合った。その周囲を取り巻くように「人ならざるもの」の気配が漂っている。この場にいる全員の狙いはただ一つ。この虹の絵だ。
「しつこいなあ! 手を離せよ!」
「そっちこそ、いい加減諦めてくれ……!」
僕は中里から絵を取り戻そうと、全力でキャンバスを掴む。中里は腕に絵を抱えたまま、意地でも離そうとしない。その腕の下、覗いた虹の上にあったはずの足跡が――すっかり消えていた。
「……え」
思わず力が緩んだ。その隙をつかれ、中里に距離を取られる。中里の脇を二人のオカルト研究部員が固め、完全に僕は不利な状態となってしまった。
だが、そんなことよりも虹の絵の変化に僕は動揺していた。
虹の上を一直線に歩いてきた足跡は、そのまま絵から抜け出したかのように跡形もなく消滅していた。
足跡の持ち主は、ついに虹の「向こう」からこちら側へとやって来てしまったのか――
「……中里。悪いことは言わないから、その絵をこちらへ渡してくれ」
「やっぱりお前にこの絵の話をするんじゃなかったな。どうせあの話を聞いて、お前もこの絵が欲しくなったんだろう」
「違う」
「妖怪のことなんて知らないフリしていた癖に、興味があったんじゃないか」
「そういうんじゃない……君たちには視えていなかったようだけど、その虹の上には小さな足跡がついていたんだ。その足跡の主は絵についていた汚れが消えたことで多分――その絵から出て来てしまった」
「……は? 何だ、それ」
「その足跡の主が『何』なのかは僕にも分からないけれど、目に視えないものはいつだって厄介だ。頼むから、その絵を手放してくれないか」
「…………」
ここまで言って効果が無かったら、僕はどうしたら良いのだろう。早まる鼓動を落ち着かせるように心で言い聞かせながら、僕はゆっくりと、刺激しないように中里に向かって手を伸ばした。
彼はその手を拒むように一歩後ずさった。
「そんな嘘には騙されないぞ」
「――――」
「だったら証明してくれ。もしお前の言っていることが本当なら、お前はその絵から妖怪が出てくるところを見たんだろう? そいつはどんな姿なんだ? どんな大きさで、どんな声をしていた? 絵から出て来て、そいつは今どこにいる? 教えてくれよ」
駄目だ。
僕の言葉が嘘じゃないことを、目に視えないものが存在することを、視えていない僕には証明できない。
例えば藤なら、こういう時何と言うのだろう。
押し黙った僕を、三人はそれ見たことかと笑った。
「――冗談はほどほどにしてくれ。これから正式に妖怪を呼び出す儀式を行わなきゃいけないんだ。だから――」
中里が僕に見せつけるように頭上に絵を掲げた――その時だった。
突如、突風が発生し、踊り場全体に吹き荒れた。
「……あっ!」
中里の手をスルリとすり抜けた絵が、宙を舞った。
僕は風に飛ばされかけた絵に咄嗟に手を伸ばす。
その縁に指先が触れた瞬間、突風に巻き込まれ――階段から落ちた。
「小宮……!」
轟音の中、凛と響いた声。
その声のする方へ、僕は頭から落下していった。
固く目を瞑り、来るはずの衝撃に備える。
だが、想像よりも柔らかい場所に僕は背中からトンッと着地した。
「――小宮、大丈夫か」
さっきまで遠かった声がいきなり頭上から響き、僕は恐る恐る目を開いた。
「……藤?」
僕は階段の一番下で、その背中を藤に支えられていた。全身を彼女の腕に預けており、藤の長い髪が僕の鼻先をくすぐる。フワリと花のような香りがして、僕の緊張感は一気に解けていった。
「……どうして、ここに?」
尋ねると、藤は薄く笑った。
「小宮がここにいるから、かな」
「…………?」
首を傾げると、藤はそっと僕の肩に手をかけた。
「よく絵を守ってくれたね」
「……あ!」
そうだ、完全に絵のことを忘れていた。見ると、僕はしっかりと腕に絵を抱えている。どうやら絵は無事のようだ。
「これでちゃんと、もとの持ち主に絵を返すことができそうだ」
「もとの、持ち主……?」
「ああ。あの虹の絵には正式な所有者がいてね。大昔に絵を失くしてしまったらしく、ずっと探していたそうなんだ」
大昔と言うことは、そのもとの持ち主は十中八九「人ならざるもの」だろう。
「ようやく本人に出会えたから、ちょうど今から絵の元に案内しようとしていたところだったんだ」
「……その絵の持ち主は、今ここに?」
「ああ。絵に封印していたものを連れ戻そうとしてくれている」
そう言って藤は階段を見上げた。
踊り場ではオカルト研究部の三人が、放心状態で蹲っている。突如あり得ない現象が起きたことに、まだ頭がついていかないのだろう。それは僕も同じだった。
さっきの突風は何だったのか。絵の持ち主がこの場に現れたことと何か関係があるのだろうか。
訊きたいことは山ほどあったが、僕には視えないものを見つめる彼女の顔があまりにも綺麗すぎて、何も言えなかった。
急に視線の先で、中里たちが慌てふためき始めた。「何か」に弄ばれるようにぐるぐるとその場をのたうちまわる。
「――ああ、まずいな。ちょっと面倒な事態になった」
藤は目を細めて呟いた。
あそこには絵を食べようと集まった「人ならざるもの」も、絵から出て来てしまった「何か」も、その絵の持ち主もいるはずだ。
だけど、どれ一つ僕の目には映らなかった。
それでも、あの場に彼らを取り残しておくわけにはいかないと、絵を床に置いて僕は性急に立ち上がった。途端に走った鈍い痛みにバランスを崩す。
「大丈夫か?」
「ちょっと、足を挫いたみたいだ」
階段から落下した時、変な方向に足を捻ってしまったのかもしれない。摩った右足首が少し腫れていた。
「でも、大したことはな――」
ヒタリと目を覆われて、急に視界が真っ暗になった。
「――え?」
肌に触れる藤の手は、温かいような冷たいような不思議な温度だった。
「……ふ、じ……?」
戸惑う僕の耳元で、落ち着いた声が囁いた。
「大丈夫。しばらく休んでいてくれ。起きたあとは――全て元通りだ」
――だから心配せずに、おやすみ。
否応なしに、藤の声が脳内で溶け出す。
僕は抵抗する間もなく意識を手放した。
◇ ◇
大きな虹がかかった。
土砂降りの後、すっきりと澄んだ空に光る七色。
僕は虹のこちら側にいて、「向こう」から誰かがやってくるのをジッと待っていた。
数えきれないぐらいの流れる雲を見送った頃、ようやく「向こう」から誰かが近づいてくる気配がした。
僕は立ち上がって、手を振る。
遠く、遠くに見える影は、僕に気付いて手を振り返す。
確かにその影はゆっくりと時間を掛けてこちらへ向かっているのに、待てど暮らせど距離が縮まる様子はない。
僕はとうとう待ちきれずに、「向こう」へと走り出そうとした。
それを、誰かが制止した。
――「向こう」に行ったら危ないよ。
誰かはそう言う。
「どうして?」
僕は問い掛ける。
――「向こう」は世界が異なるから。
「世界……?」
――だから「向こう」に行ったら最後、こちら側には戻ってこられないよ。
「でも……」
僕は首を捻った。
虹の「向こう」からやってくる影の方を振り返り、その誰かに尋ねた。
「じゃあ何で、あの子はこちら側に向かって来てるの?」
――それはね、
その誰かの声が、聞き慣れた声に変わる。
――それはね、小宮。私はどちら側にも属さない存在だからだよ。
振り返ると、僕の後ろに立っていたのは藤だった。
僕は困惑して、「向こう」からやってくる影を見る。
僕に手を振って、虹の上を歩いてくる人影もまた――藤の姿をしていた。




