其ノ壱 放課後、美術室にて
ざあぁ……
春の風が、音を立てて頭上を吹き抜けていく。
砂埃とともにどこからともなくやってきた桜の花びらが、中庭でひらりと舞い踊った。
空はいつになく快晴だ。風に揺れる枝葉が地面に落とす影も、普段よりコントラストが効いている。
清々しい中庭の風景が、僕の中の創作意欲を掻き立てた。
校舎と外廊下で囲まれた小さな中庭。その真ん中に聳え立つ古い大きな木の下が、僕のお気に入りの場所だ。
木の根元に腰掛けて、愛用のクロッキー帳に鉛筆を走らせる。
周囲に人影はない。とても静かだ。
目の前の景色を紙の中に写しとるように、僕は無心で左手を動かした。
――不意に、気配がした。
ゾワリ――背筋が凍る。
思わず鉛筆を取り落とした。
「…………っ!」
背後に「何か」がいた。
得体の知れない「何か」。
名前も知らない「何か」。
視ることも、聞くこともできない「何か」――
物心ついた頃から、僕はその「何か」に脅かされてきた。
そいつらは、僕が絵を描いていると決まって周囲に寄り集まってくる。
そして、僕の絵を食べてしまうのだ。
背後に感じる「何か」の気配は、一向に消え去る様子がない。
その不気味な気配は僕の身体に障るようで、押し寄せた気分の悪さに思わず口を押さえた。
背中を丸めたせいで、クロッキー帳が膝から滑り落ちる。
霞んでいく視界の端で、緻密に描き込んだはずの風景が消しゴムをかけられたように真っ白になっていくのが見えた――
ピーンポーンパーンポーン……
『生徒の呼び出しをおこないます。二年B組、小宮君。笹木先生がお呼びです。職員室まで来て下さい。繰り返します――』
突然耳に飛び込んできた校内放送に、僕は肩を震わせて跳ね起きた。心臓が倍の速さで脈打つ。
「……っ、絵が……!」
咄嗟にクロッキー帳に手を伸ばし、引っ掴むようにページを捲る。だが想定していた事態は、起きていなかった。
紙面にはさっき描いたばかりの人物画がしっかりと残っている。他のページも検めたが、どこも抜け落ちたところは無い。
「……なんだ……夢か……」
僕は安堵の息を吐いた。
疲労感がどっと押し寄せてきて、倒れるように木の幹にもたれかかる。どうやら知らぬ間にうたた寝していたようだ。いつの間にか手放していた鉛筆が、思ったより離れた場所に転がっていた。
冷静になって振り返れば、確かにあれは夢だ。
あの夢の内容は、実際に僕が経験したことだった。
一年前――この中庭の木の下で。
そして、この出来事には続きがある。
背後に蠢く気味の悪い気配。
逆再生のごとく、吸いとられていく鉛筆の線。
それとともに、身体から抜けていく力――
いつも通り意識が薄れかけたその時、その人は現れた。
僕の身に起こる数々の不可解な現象。
それを引き起こす元凶となっている「何か」の正体に、その人は名前を与えてくれた。
彼女は、言った。
――君、これからは私の絵だけを描きなさい。
「いけない……! 笹木先生に呼ばれてたんだった」
思い出に浸っている場合ではなかった。
呼び出されたことをすっかり忘れていた僕は、慌てて手荷物をまとめた。
◇ ◇
高校生活二回目の春が来た。
職員室の扉を溜め息混じりに閉めて、重い足取りで美術室に向かう。連続する廊下の窓から射し込む春の陽気とは裏腹に、僕は憂鬱な気持ちで先程のやり取りを反芻した。
僕を職員室に呼び出したのは部活動の顧問だった。
「――さて、小宮。何でここに呼ばれたか分かるか? 分かるよなあ」
美術部の顧問なのに白衣を好んで着る風変わりなその教師は、書籍や書類が雑然と積まれた自席で頭を掻きながら面倒臭そうに言った。
「ええと……もしかして、部の存続に関することでしょうか……」
「もちろんその通りだ。察しが良くて助かるなあ」
普段は放任主義を貫いているが、さすがに美術部が抱える大きな問題を見過ごすわけにはいかないようだった。
先月卒業していった先輩が二人。
籍だけ置いてほとんど顔を出さない幽霊部員だったが、それでも貴重な頭数だった。彼らがこの春卒業していったことで、あとに残された部員は僕と、同学年の女子生徒二人のみ。
部活動として成立するには最低五人の部員が必要なことから、今、美術部は廃部の危機に立たされているのだった。
「いいか、小宮。とにかく新入部員を捕まえなきゃあ、美術部は廃部になっちまう。幸いもうすぐ新入生歓迎会があるし、そこの部活動紹介で今年は何か披露したらどうだ」
「何かって……運動部みたいにできる余興なんてないですよ」
部員数が多く、新入生の憧れの的でもある運動部は、毎年凝った余興で歓迎会を盛り上げている。そして、新入生の大半をかっさらっていくのだ。
「他の二人はおいといて、小宮、お前は絵が得意だろ。例えば即興で風景画や似顔絵なんかを描いたら結構ウケると思うんだが。どうだ、やってみないか」
くたびれた白衣の袖口のほつれに目をやりながら笹木先生はそう提案した。
「いや、それはちょっと……」
「何だ? じゃあ他に良い案でもあるのか?」
「ほ、他に……ですか……?」
意見が無ければ決定事項にされてしまいそうな雰囲気に慌てて僕は代案を探した。全校生徒の前で絵を描くなんて、たまったものではない。色んな意味で、僕は死ぬ羽目になる。
だが他の出し物もそう簡単には思い浮かばなかった。一番手っ取り早いのは制作物の発表だが、歓迎会の余興としては些か退屈だろう。
「……と、とにかく、僕は人前で絵を描くのが苦手なんです。とてもじゃないですけど、即興で絵を描くなんて無理ですよ。制限時間だって十分そこらですし……」
先生は「そうか、無理かあ」と無感動な声を上げた。
「……いっそのこと廃部にするか?」
「それは困ります」
きっぱりと言うと、我儘だなあと小言を呟きながら、先生はまた頭を掻いた。
「まあ、なんだ。とにかく廃部にしたくなきゃ、何としてでも入部希望者を捕まえないといけない。そのためには、やっぱり歓迎会で目を引く出し物をするべきだな。猶予はまだあと一週間ある。難しいことは言わん。たった二人、勧誘できればそれで我が部は安泰だ。よろしく頼むぞ、小宮」
と他人事のように僕の肩を叩いて、先生は話を一方的に打ち切った。呼び出したのは向こうの方なのに、僕は追い立てられるように職員室を出ることになったのだった。
美術室に近づくにつれ、すれ違う生徒もまばらになる。職員室付近とは打って変わり廊下は薄暗さを増す。
僕は職員室での会話を踏まえてぼんやりと思考を巡らせた。
そういえば、久しく風景画を描いていない。
少し前までは、むしろ風景や静物ばかり描いていた。空や花など、目についたものを片っ端から紙に描き留めていた。それから、自分の頭の中にある空想上の景色や、生物なんかも。
そういったものを、僕は去年から一切封印していた。
そして、今に至るまでずっと、僕は一人の女子生徒の絵だけを描き続けている。
――君、これからは私の絵だけを描きなさい。
一年前、中庭で「何か」の気配に怯えていた僕に、彼女はそう言った。
その一風変わった女子生徒の名前は――藤、といった。
◇ ◇
「遅かったね、小宮。笹木先生に呼び出されたんだって?」
美術室に入ると、そこには既に二人の部員が揃っていた。いつもと変わらず定位置に椅子を置き、ご丁寧に僕の描きかけのキャンバスも用意されている。
彼女たちは、絵を描かない。
「うん。廃部の件だった」
「やっぱり。それで、先生はなんて?」
「……一週間後の歓迎会で、何か出し物をやって新入部員を獲得しろってさ。即興で絵を描いたらどうだって言われたよ。例えば風景画とか、似顔絵とか」
そう答えると、工作台の向こう側に座っていた背の高い方の女子生徒がほんの少しだけ愉快そうに口角を上げた。
「それは確かに部員が増えそうな余興だ。小宮の絵は非常に魅力的だからな。ただし、入部してくるとしたら『人ならざるもの』ばかりになるだろうけど」
「冗談きついよ――藤」
僕は苦笑いしながら椅子に腰掛け、キャンバスを引き寄せた。
「人ならざるもの」――それが、藤が僕に教えてくれた「何か」の正体だ。
それは、人ではない「何か」。
人の目には視えないけれど、確かにそこに存在する。
彼らが俗に言う幽霊やあやかし、モノノ怪といった類と同じなのかは分からない。
はっきりしているのは、藤には彼らの姿が視え、その存在に干渉することができる。ただそれだけである。
「――で、その案はきっちり断ってきたんだろうね?」
「いや…とりあえず保留で帰って来た。先生なりに考えてくれたことだし。代案があるわけでもないし……」
「は? ばっかじゃないの、こみやん」
キャンバスと反対側、僕の隣に座っている小柄な女子生徒――桃花が、呆れ顔で僕の背中を殴った。厄介なことに桃花は、自身の馬鹿力加減に無自覚なくせに言葉よりも先に手が出るタイプだ。
「いってえ……」
涙目になる僕に、桃花が更に追い打ちをかける。
「即興で絵を描くだなんて、どう転んだって『人ならざるもの』ホイホイにしかならないじゃない。全校生徒の前で目を回して倒れるのがオチ。新入生獲得どころか、ドン引きして誰も入って来なくなるわよ?」
「それは嫌だけどさ……」
どういうわけか、「人ならざるもの」は僕の絵を食べたがる。
食べられた絵は、まるで初めから存在しなかったかのように白紙に戻ってしまうのだ。その上彼らの気配にあてられやすい僕は、絵を奪われるたびに自分も体調を崩す。そんな僕の特異体質を知るのは、ここにいる二人の美術部員のみだ。
「でも、何か策を考えなきゃ美術部はこのまま廃部になっちゃうし……桃花もそれは困るだろ」
「そりゃあ、あたしだってこの居心地の良い場所がなくなるのは嫌よ。でも、新しい子が入ってきて場の空気が変わるのも嫌。ねえ藤、なんとかしてよう」
桃花が甘えるような声で藤に話を振ったが、藤は窓の外に視線を投げかけたまま反応しない。
何かを思案しているのか、警戒しているのか、あるいは感じ取っているのか、そんな様子でジッと窓の外を見つめている。時々藤はこうやって、僕らには視えないものを視ていることがあった。
午後の少し強い日差しに照らされた藤の横顔は、絵画の世界の人物と見紛うくらいに美しい。僕は躊躇いながら、名前を呼んだ。
「――藤?」
「え――ああ、すまない。ちょっと考えごとをしていた」
僕の声に気付いた藤は、何でもないかのように視線を戻す。長い睫毛で縁どられた切れ長の瞳が、何かを隠すようにニ、三度瞬いた。
「――とにかく、新しい部員が入らないと困るのは事実だ。小宮に余興をやらせるわけにはいかないし、歓迎会で他にできることを考える必要があるね」
「そうだね」
「でもあたしと藤は絵が描けないし……あ、じゃあ入部してくれた子には特典として藤と一日デート権っていうのはどう? 男女問わず応募が殺到しそうじゃない?」
「「却下」」
思わず声が揃った。桃花は「じゃあ他にどんな方法があるって言うのよう」と口を尖らせる。
「……また幽霊部員を捕まえるのが一番手っ取り早いんだけどね」
僕らは互いに顔を見合わせ、同時に溜息を吐いた。
「ま、そんなこと頼める知り合いがいたら苦労しないね」
桃花が壁にもたれかかりながら、頬を膨らませた。
「あーあ、どっかから都合の良い新入部員が降って湧いたりしないかなあ」
その言葉がまさか現実になるとは、その時誰も思っていなかったのである。