Biggining
遠くの方で雷が落ちた。
強風に足を取られないように注意しながら玄関に向かう。
カギを開けて中に入るまでには、頭からコートの下まで、すっかりずぶ濡れてしまっていた。
カギとカバンを靴入れの上に投げ置いてから、その足でバスルームに向かう。
濡れて肌にくっついてしまった着衣を引きはがすように脱いでから、しばし温かいシャワーを浴びることにした。
上がって、とりあえずバスローブを羽織る。
部屋着に着替えるため二階の自室に行こうとして、あることに気付いた。
居間の明かりがついているのだ。
「イファ、起きてるの?」
そうとしか考えられなかったけれど、返答はなかった。
「イファ」
ソファーの向かいのテレビには、何かのアニメが映っている。
それを見ていただろう本人は、穏やかな寝息を立てていた。
「イファ、起きて」
その横に座って肩を揺さぶる。イファは嫌そうに、積み上げられたクッションに顔をうずめた。
「起きなさい」
少し強めに言ってやると、ようやく薄く目を開いた。
「あ…、アンナ、おかえり」
「ただいま。風邪をひくから、ベッドで寝なさいって、いつも言っているでしょう」
「…アンナが帰るのを待ってたんだよ」
言い訳がましく言って、だがさらさら起きる気はないらしく、そのまま寝がえりを打つ。
「夜ごはんは?」
「ん」
「歯磨きをしないと。」
「もう済んだ」
「じゃあ、ベッドに行きなさい」
返答はなしに、また寝入ってしまう。
これ以上起こそうとしても無駄なので、諦めて小さな体を抱え上げる。
階段を上がって、子供部屋のベッドの上におろしてから、めくった毛布をかけてやる。
全く、とため息をついたが、イファが満足そうな表情で寝がえりを打ったので、文句は浮かばなかった。
明日は休日だ。給料のいい一般企業にいるサラリーマンなら、明日はゆっくり過ごすか、などと考えるのだろう。
多くの人にとって、一週間で一番心待ちにしている日なのだろうけれど、私にとってはそうではなかった。
なぜなら、人一倍早く起きなければならないし、前日に残った食器の片付けやキッチンや床の掃除をたった一人でやらなければならない。
こんな片田舎だし、人手がないのは仕方ないことなのだろうけど、女手一つというのに、不服が全くないわけではない。
私自身、満足はしないが、融通の利かないことだと諦めている。
だけど…、この子の寝顔を見ていると時々思う。私にも、違う人生に辿り着く道があったはずだと。
姉さんの様に、有名な大学を出て、立派な企業に就職をして、結婚をして、子供を授かって…。
私も、こんな人生じゃなく、姉さんのような人生を送りたかった。
田舎町の寂れたバーの従業員なんかじゃなくて、もっと高尚な何かになりたかった。
「ふふっ」
アホらしくて、思わず笑いがこぼれた。
毎日のように、現実逃避をしている自分が、情けないやら可笑しいやら。
…もう止めよう。
いつまでもこんなこと考えて。明日は早いんだ。早く寝なくちゃ。
肌寒さを覚えて、着替えもまだなのを思い出す。
穏やかに寝息を立てる甥っ子に、おやすみのキスをして、部屋を出る。
すっかり戻ってしまった寒さに、もう一度シャワーを浴びようかと階段を降りかけた時だった。
廊下の明かりが消えた。
…停電?
大きな雷鳴が轟く。
突如訪れた暗闇に、少々浮足立っていた時、一階の窓ガラスが割れる音がした。
嵐のせいだと思いたかったが、そうではないらしい。
〔ザリ…ザリ…〕
割れたガラスを踏む音と、寒さを耐えるような息遣いが聞こえた。
その途端、私の体は水を打ったように、恐怖で動かなくなった。
割れた窓から打ちつける雨と風の音、それに混じってカーペットとフローリングを踏む音。
…強盗。
即座にその言葉が頭に浮かんで、鼓動が高鳴る。
…逃げなきゃ。
足音が階段に向かってきた。
脚がわなないて、思いがけずその場にへたる。
ほんのかすかな音だった。倒れた膝が床に当たって鳴った。
通常なら聞き流されるであろう程の微かな音だったが、その瞬間、ピタリと足音がやんだ。
明らかに、気づかれてしまった。
「誰かいるの?」
諦めて、こちらからその何者かに問いかける。
「こっちは銃を持ってる。今すぐ出ていって」
ハッタリがきくことを祈って、階段の下の暗闇に言い放つ。
何をおいても今は、イファの安全が第一だった。
窓ガラスを割った犯人を見逃すことになっても、いなくなってくれることを願った。
返答はない。
すぐさま、自分の部屋に向かって、ベッドの下を探る。
探し当てた箱を開けて、中におさまっていた銃をつかんだ。
使ったことはないが、独り身の私を案じて、姉夫婦がくれたものだ。
安全装置を外し、両手に銃を握って廊下に出る。
雷光がまたたいた。階段の踊り場にできた暗闇が一瞬晴れる。
そのまさに一瞬だった。稲光でできた影に、違和感が生じ、先を行こうとした足を止める。
雷鳴。気づく。
床に投げられた影が、異様な形に盛り上がっていた。
それが隠れた人間の影だということに気づく。
銃を握った両腕が、大きく打ちふるえた。
足音が全く聞こえなかった。
再び稲光がその周辺を照らす。
白く光る二つの眼球があらわになった。
それは私の正面に立っていた。
凶悪すぎる相貌に、悲鳴すら上がらなかった。
引き金を引く前に、影が覆いかぶさってきた。
銃を持った手をつかまれ、床に引き倒される。
背中を打った衝撃で、銃を手放してしまった。
手を伸ばして持ちなおそうとしたが、それより先に相手が首を絞めてくる。
のしかかられて、一層呼吸ができなくなり、意識が遠のいた。
力押しではかなわない。
上気した息遣いが聞こえてくる。男は窒息の危機に陥る私を、笑いながら見降ろしていた。
抵抗の気力も失った私を見て、首から手を離す。
私はかろうじて、意識を保ってはいたが、どうすることもできなかった。
男は、私の頭をつかんで、傍にあった部屋に私を連れてくる。
どういうつもりかなんて、火を見るより明らかだった。
「…お願い…、やめて…」
私の悲痛の声も、男には届いていなかった。
ただ、上気した息を続けながら、私をベットの上に放り投げ、脚の上に馬乗りになった。
私は抵抗したが、いとも簡単に取り押さえられてしまう。
恐怖する私を嘲り笑うように、男はあるものを見せつけた。
それは細い注射器だった。中の液体が何なのかは分からないが、男はさも楽しそうに言い放った。
「奴らはただ、“こいつを打て”と言ったがな。その前に、お楽しみをいただいてもいいだろう」
男はそういうなり、注射器を、ベッド脇のテーブルの上に置く。
バスローブの帯を抜き取られ、胸がはだけた。
私は、半狂乱になって悲鳴を上げた。
「いくら叫んでも、助けなんて来ないぜ、お嬢さん。もう、“始まってる”んだからなぁ」
露わになった脇腹を、ざらざらした、汚い手がなでた。
「いや…!助けて!!誰か、助けて!!!!」
鳥肌が立って、大声で叫んだ。
抵抗に、男を何度も殴ったけど、少しも応えていないようだった。
「誰か!!」
手が胸に触れて、体温が奪われていくようだった。
私が、あらゆることを諦めかけた時だった。
「アンナから離れろ!!」
開いたままになっているドアの向こうからだった。
私の悲鳴で起きたらしいイファが、そこに立っていた。
一層危機感を感じた。
「ダメよ!イファ!こっちに来ちゃダメ!!」
この子に何かあったら。その方が私には恐ろしかった。
でも、無駄だった。あの子が私の言うことを聞いた試しなんてなかった。
それはこの時も例外じゃなかった。
イファの手には、私がさっき取り落とした銃が握られていた。
「離れろって言ってるだろ!」
男は向けられた銃口に、一切の感情を持っていなかった。
相手が子供だからと侮っているのだろう。もしくは向けられた銃が、おもちゃだろうと思ったのかもしれない。
でも、私はあの子と今日まで暮らしているから、知っている。
私の制止の声が届く前に、イファは、男を睨みつけながら、引き金を引いていた。
ズドン、と嫌な重い音とともに、男が悲鳴を上げた。
「くそっ!なんだよ!撃ちやがった…!!」
男は肩から血を流していた。油断している隙に、私は男の下から這いずり出て、ベッドから転がり落ちるようにその場から離れる。
痛みに喚く男を後ろ目に、驚いて呆然としているイファを連れて、部屋から出た。
走りながら、はだけたバスローブの袂をなおし、帯をしっかり結ぶ。
「クソガキが…!アバスレが…!殺す…!殺してやる…!!」
男の怒り猛る声が聞こえて、全身から震えが止まらなかった。
とにかくここから逃げ出さなければならなくて、何も考えずに、玄関へ向かった。
どかどかと怒りにまかせた足音が聞こえてくる。
着替えたり、靴を履いてる暇もなくて、私は、バスローブひとつのまま、外へ走り出た。
土砂降りの雨なんて、気にしなかった。イファを抱え上げて、道路を隔てたの真向かいにあるエディンさんの家まで走った。
神にすがるような思いで、ドアをたたいた。
「お願いエディンさん!!助けて!!」
後ろを警戒して見てみると、あの男が、家の玄関から出てくるところだった。
怒りの形相でこちらに向かってくる姿は、もう恐怖でしかなかった。
「…一体何事だい?」
私たちの悲鳴で起こされたらしい、エディンさんは、眠そうな声でドアを開いてくれた。
私はただ恐怖にせきたてられ、エディンさんの了解も得ず、そのまま玄関になだれ込む。
イファを降ろして、ドアを閉め、カギとチェーンを掛けた。
「アンナ…あんた一体どうしたんだい…。そんなかっこで…、ずぶぬれじゃないかい」
私は応えられなかった。
濡れて冷えた体の寒さに相まって、恐怖で体がすくんでしまって、喉が上ずっていた。
あの男にされかけたことが、今になって、どうしようもない恐怖になって、考えの全てを掌握していた。
その場にへたり込んだ私を、イファが気遣うように、背中をなでてくれる。
「知らない人が家に入ってきたんだ…!おれが一回追い払ったけど、怒って追いかけてきたんだ!今だって…」
イファが言いかけたときに、玄関のドアが、ドン、と大きく打ちつけられる。
私たちは、驚いて、一切声を立てられなくなった。
ドア脇についている擦りガラスの小窓に、黒い人影が見える。
人影は、小窓に近づいて、私たちを覗き込んだ。
至近距離で見たあのおぞましい容貌があらわになって、黒目が異様に小さい白い目が、私たちを捉えた。
これ以上とない恐怖で、私は大きく打ちふるえ、イファは、とうとう我慢できなくなって、大声で泣きながら、私に抱きついた。
男は、ドアノブを何度も回し始める。
〔ガチャガチャ、ガチャガチャ、ガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャガチャ〕
大声で泣くイファを宥めることも忘れて、私は、ドアが破られないことを願いながら、それを凝視しているしかなかった。
ふと、エディンさんが動き出す。
どこかへ行ったかと思ったら、すぐに戻ってきて、大声で言い放った。
「いい加減におし!どこの誰かは知らんけどね!これ以上つけ回すってんなら、黙っちゃいないよ!!」
彼女の手には、猟銃が握られていた。
だが、そのことに気づかない男は、今度はドアを蹴り始める。
エディンさんは銃口をドアの方へ向けると、躊躇なく、ドア越しに男を撃った。
銃の種類は分からないが、相当、威力の高いものだったらしく、銃弾は、木製の玄関扉を突き抜けて男に当たった。
見えないのに、当たったと確信したのは、男がうめいて、それ以上、何かしてこようとしなかったからだ。
「……ちく、しょう…」
声がして、足音が遠のいて、気配が去った。
「…アンナ、大丈夫…?」
涙を袖でこすりながら、イファは私を気遣う。
私はしばし呆然としていたが、脅威が去ったことを確信して、イファを抱きしめた。
「ええ。もう大丈夫…。もう、行ってしまったから…」
今までに出くわしたことのない危機に見舞われた私たちを、エディンさんは労わってくれた。
エディンさんの勧めで、今晩は彼女の家に泊めてもらうことにした。
「すみません、なんだか…。シャワーまで借りてしまった上に、お洋服まで…」
エディンさんは、彼女らしいおおらかな笑みで
「いいんだよ。こっちこそ、こんなおばあちゃんのお下がりしかなくて、すまないねぇ」
「とんでもない…!感謝しています」
「そうかい?…なら、いいんけどさ」
彼女、レウラ・エディン夫人は、5年前に交通事故でご主人を亡くしてから、彼と共に過ごしたこの家で一人で暮らしている。
人懐っこく面倒見のいい女性で、昨年、今の家に引っ越してきたばかりの私にも親切にしてくれた。
そんな彼女が猟銃なんて物騒なものを持っていたことに驚いたが、何でも、亡くなったご主人の遺品らしい。
昔はよく、この近くの森に狩りに行っていたそうだ。
頼んでもいないのに、よく、獲物を見ぜびらかしては、趣味のはく製づくりにいそしんでいたらしい。
エディンさんは、悪趣味な事この上ない、と何度も当人をなじったらしいが、そのおかげで、今こうして彼女自身や、私やイファが、危ない目に合わずに済んだと思うと、その悪趣味にも感謝しなくちゃ、と、からかい交じりにくしゃりと笑った。
それから、エディンさんは、ため息をつくなり、窓の外の私の家を見た。
「あたしもね、もう76になるが、こんな目にあったのは初めてだよ。
こんな穏やかな田舎町にも、あんなにおっかない奴がいるなんてねぇ。嫌な世の中になっちまったよ」
思い出して、また、震えが走る。
あのとき、イファが起きていなかったら、エディンさんが玄関を開けてくれなかったら、そう思うと、恐ろしくてたまらなかった。
「アンナ。あんた、朝になったら警察に行くんだよ」
さっき電話を借りて連絡したけれど、嵐のせいか繋がらなかった。
だから、エディンさんの言い分も分からなくはなかったけど、
「でも、仕事が…。」
「何を言ってるんだい。あんなに危ない目にあっておきながら、何もしないなんて、そんなの犯人の思うつぼだ。
それに、あの男、あんたの家に隠れてるかも知れないんだよ」
日々の忙しさから、仕事を優先してしまう癖が付いている。
エディンさんの言葉で、その考えが間違っていることを思い出した。
でも、店長の性分は知っている。こんなことで、決められた通りの仕事ができなくなったら、私は辞めさせられるかも知れない。
そんな私の想いとは裏腹に、エディンさんは
「それにね、あんたみたいな若くて綺麗な子が、なんで、あんなケチな小男なんかに小間使いにされなきゃならんのさ。
あたしゃ正直ハラワタが煮えくりかえってるところだったんだよ。
これを機に、あんな汚い店、とっとと辞めちまいな。あんたくらいの器量があれば、もっといい働き口があるでしょうに」
この言葉を、素直に嬉しいと思ってしまう。
でも現実は違う。私に残された道は、きっとこの人が思ってるよりも、遥かに限られたものでしかない。
でも、それを伝えても、この人の機嫌を損ねてしまうだけだ。
私は、明朝になったら、警察に行く旨だけ伝えて、自分の寝室に向かうエディンさんに、おやすみの挨拶を返した。
この子を預かっていてほしいの。
私の出迎えを拒否して、玄関に立ったままの姉さんはそう言った。
仕事柄、疎遠にならざるを得なかった姉夫妻の事情なんて、よく知らなくて、子供がいたことも初めて知った。
突然のことで、理解が追い付かなくて、とりあえず説明を求めたけれど、姉さんはただ、仕事が忙しいからとしか言わなかった。
傍らには、綺麗な金の髪をした、まだ年端もいかない子がいた。
もう10才になるらしいが、年頃の割りに、小柄で、顔つきも女の子のようだった。
精神的にも幼いらしく、挨拶しなさい、と叱る、母親の声にも無反応で、ただ不貞腐れた表情で俯いていた。
母親と離れるのが嫌なのかもしれなかったが、姉さんは、自分の子相手でも辛辣だった。
その子を向かい合わせにしたかと思うと、その白い頬を、容赦なく平手で打った。
「いい加減にしなさい。今日からの事は昨日話したでしょう。挨拶なさい」
その子は特に意思表示せず、涙で潤んだ瞳で姉さんを見つめていた。
もう一度姉さんが強行に出る前に、私は止めなければならなかった。
私はしゃがみこんで、その子の方に、なるべく穏やかな声で言った。
「私はアンナ。あなたのお母さんの妹なの。あなたのお名前は?」
その子は少し戸惑ったようだけど、やがて、袖で涙をぬぐいながら小さく返した。
「…イファ」
「そう。イファね。今日からよろしくね。イファ」
子どもの宥め方なんて分からなくて、ただ、そう微笑みながら言ってあげることしかできなかった。
だけど、その子にはそれで十分らしかった。
涙をぬぐいながら大きく頷くと、私の方へ来て、手を握った。
「それじゃあ。しばらくよろしくね。アンナ」
温度のない声で言って、姉さんはイファを置いて行ってしまった。
その折に、イファは私の元から離れた。
母親である姉さんに、さよならのハグでもしに行くのか、もしくは、置いてかないでと泣きながらせがむのか、そう思ったが、イファは考えもしないことをした。
車に乗り込む背中に向かって、大きく息を吸ってから、大声で怒鳴った。
「お前なんか大っ嫌いだ!!!!お前も!ロイスも!死んじゃえばいいんだ!!!!」
早朝の通りに、響き渡った。
だが、言われた方は、一度イファの方を見ただけで、特に気分を害したふうでもないように、そのまま車に乗って行ってしまった。
この時から分かっていたけれど、イファは、普通の子とは一線を画するものがあった。
イファは、少し、他人に対して攻撃的なところがあった。
転校先の小学校で、名前や身長の事をからかったクラスの子と、大喧嘩をした。
保護者である姉さんの代わりに、怪我をさせた子の親に謝りに行く羽目になったが、それ自体はさしたる問題じゃなかった。
問題はそのあとだ。ひたすら謝る私に、その母親は弾丸のように罵詈雑言を浴びせてきた。
「あんたの事知ってるわよ。腐った店で働く尻軽女だって、町の皆が噂してたわ。
人間の風上にも置けない下品な奴!あんたみたいな女のもとにいるから、こんな非道なことができるんだわ!」
この瞬間。私の背後で大人しくしていたイファが、突然彼女へ向かって行った。
「それ以上アンナを悪く言うな!」
怒鳴って、私の制止もものともせず、彼女を押し退けた。
思わぬ出来事に、面食らっている彼女に、イファは立て続けに怒鳴りだす。
「アンナはいつも一生懸命働いているんだ!!お休みの日だってほとんどないんだぞ!!
その大変さがお前なんかに分かるか!!お前なんかがアンナを悪く言うな!!」
…この時、イファは私のために怒鳴ってくれたんだろう。
あの時もそうだ。私のために、拾い上げた銃で男を撃った。
イファは人一倍勇敢な子なのかもしれない。
でも、10才の男の子がするには、あまりにも年齢にそぐわない気がして、私には素直にそう思えなかった。
傍らで幼い寝息を立てる金髪を撫でる。
色んな思いが浮かんでは消え、眠れない時間が過ぎていった。
夜が明けて、外を見ると、町は霧に覆われていた。
昨夜の嵐の影響だろうか。エディンさんに言って電話を借りたが、やはり繋がらない。
朝食を御馳走になったあと、警察署へ向かうことにした。
歩いて行くとここからは20分はするのだが、致し方ない。車のキーは、自宅の靴箱の上だ。
あの男がどこへ行ったかも分からない今、取りに戻る気になど、到底なれない。
「アンナ、ちょっと待ちなさい」
身支度を整えたエディンさんが、私の後から玄関を出てきた。
それから、車のキーを見せつけるように、顔の前で振った。
「あたしも行くわ。一緒にいたあたしもいた方が、取り調べとか、色々と面倒でない気がするしね」
エディンさんのあとから、イファもついて出て来る。
一瞬、待っていなさい、と声をかけようか迷ったが、あんなことが起きた後だから、一緒にいた方が安全な気がした。
エディンさんの勧めで、私たちは後部座席に乗り、警察署へ向かう。
濃霧の影響で、道の先が全く見えなくて、徐行で進んだ。
年季のある車らしく、時々タイヤの軸が軋むような音がするのが不安だった。
それをイファも感じているらしく、こちらに身を寄せて来る。
見た目といい、行動といい、年頃に見えないので、幼稚園生に見られてもおかしくはないなとも思った。
それを甘やかしてしまう、私も問題なのだが。
「おかしいねぇ…」
エディンさんが、不穏に呟いた。
「どうしたんですか?」
「いやあね…。気のせいだとは思うんだけどね…。
さっきから全く人通りがないんだよ。」
言われてみれば、そうだった。
車に備え付けのデジタル時計を見てみると、もう8時を回っている。
いつもなら、ジョギング中の若者や、出勤やら何やらに向かう車を見かけるところなのだが、今は全く見られなかった。
濃霧のせいで、視界が悪くなってはいたが、それにしても人影がなさすぎるのである。
「まるでゴーストタウンだ」
何かの映画から抜き取ったような言葉を、イファが呟く。