第05話 555つの顔、1つの心・前編
《開幕》
学園の中央広場が、一体の怪人によって占拠されていた。全体的にモノトーンをした、虎によく似た姿の怪人だ。怪人は額からアクセントのように飛び出た金色のトサカにも見える髪を撫でつけると、脅しつけるようにゆっくりと標的たちの元へと近づいていった。
リン、ユウコ、メイの三人は広場の隅でひとかたまりになっていて、怪人が近づくと怯えたように後ずさりした。だがしかし、彼らに逃げ道はない。袋小路だ。
一方、地面に這いつくばっていたアイリが顔を上げた。その視線の彼方で、リンが恐怖のあまり自分の台本を取り落とす。それでも怪人は容赦なく前進し、何十もの詳細な書き込みが為された、思い入れある、これまでの努力の表れを踏みつけようとする。
アイリは叫び声をあげ、全力で怪人の身体にぶつかっていった。けれど力及ばず、怪人の足の一振りで簡単に蹴散らされる。また再び地面に転がったアイリを、あざ笑うかのように怪人は笑った。
『ふん……所詮貴様は文化部にも運動部にもなり切れぬ、哀れな存在よ』
『うるさい……っ』
『間もなく、脆弱な文化部は全て滅びる。そして、そのとき我ら運動部の時代が来るのだ』
『……ッ! それでも……それでも……っ!』
アイリが半泣きで握った拳を地面に叩きつけたその時、突如自転車のベルの音が広場中に鳴り響いた。怪人や、アイリやリンたちが周囲を見回すと、一人の男が自転車に乗って颯爽と現れ、怪人を軽く跳ね飛ばすと広場の端で停止した。ジョウヤだった。
ジョウヤは自転車から飛び降りると、石畳の上で顔を伏せたアイリの元に黙って、しかし優しげな表情を浮かべて歩み寄った。それを見た怪人が立ち上がって嘲笑する。
『出来損ないの文化部を庇うのか?』
『文化部だ、運動部だ、なんてのは関係ない……。こいつはただ、自分の信じた正義を守り通したかっただけだ』
そう言ったばかりのジョウヤと、アイリの視線が交錯する。潤み出す彼女の瞳をジョウヤは正視した。仕方ないさ。これが、本当にお前のやりたい事なんだよな、アイリ。
すると怪人はますます馬鹿にしたような声を上げて笑った。
『そんなちっぽけな……』
『ちっぽけだからこそ、守らなくちゃいけないんだろっ!』
怪人を見据えてジョウヤは吼えた。傍らでアイリの表情が目まぐるしく変化したかと思いきや、最後には涙交じりの笑顔に変わる。彼女は自らの目元を拭うと、決意の表情を浮かべ立ち上がった。ジョウヤとアイリ、二人の戦士が共に並び立つ。
怪人はその様子を見て、ジョウヤに訝しげに訊ねた。
『貴様……何者だ?』
それに対し、ジョウヤは今度こそ、ハッキリとこう宣言してやった。
『通りすがりの演劇部員だ……覚えておけ!』
懐から自分の台本を取り出すとパララと広げて、ジョウヤは叫んだ。
『いくぞアイリッ!』
『ええジョウヤッ!』
『『――変身っ!』』
台本から光が放たれる。ジョウヤとアイリの全身が光に包まれると、リンたちの目の前で戦う者の姿に変わっていった。
《閉幕》
* * *
情也が学校側に証言しに行ったのは、部室の大掃除を敢行した日の出来事だった。
その日、集まったゴミを捨てにひとり部室を出た情也は、学校裏手のごみ置き場に向かう途中で須田本人と遭遇していた。大掃除の話を聞いた須田は何故か急に狼狽する様を見せたかと思うと情也が段ボールに詰めて運んでいたゴミをひとしきり漁った末、慌てて部室へと飛んできて全員に廊下へ出るよう指示し、当時の印象としては珍しく小言を言った。
部室を掃除しろと情也が要求したあの日、確かに須田もその場に居合わせていたが、その後実際に大掃除を行ったのは、告知した実施日よりも数日繰り上がってのことだった。それが須田にとっては誤算だったのである。
急な決定のため、須田はその連絡を受けていなかった。予定のない日に大掃除をやって、校内の他の教職員や生徒に迷惑をかけたらどうするのかと結構真面目な様子で説教を垂れていた記憶がある。その後、須田は一度部室に入って何故かすぐに出てくると、今日はいいが以後はこういう事のないように、と釘を刺してその場を去っていった。
思えばあの時、部室に来る際にはなかった膨らんだ小さな茶封筒が、須田の手に握られていたような気がしたのである。おそらくそれが、部室に隠していたというデータの類だったのだろう。本当なら大掃除前にこっそり回収する予定が、日程が早まったせいで発見される危険が生じ、それであんなに慌てたのだろうと情也は予想したのだった。
情也の証言を元に警察が須田を問い詰めた結果、その日小脇に抱えていた封筒の中身が、校内で撮った画像や映像のデータを溜めたUSBメモリやSDカードの類だったと判明した。なんと隠し場所は、昔使われた脚本等を収めた、あの本棚の裏側であった。
ともかくソレで、事実上演劇部の不関与は証明された。部の人間が一人でも須田の所業に加担していたというのであれば須田があれほど狼狽えるハズもないし、そもそも日程の繰り上げ自体が彼の耳に届いたハズだからである。
こうして演劇部は晴れて潔白となり、今日この日から活動を再開したのだった。
* * *
「……みんな、今までホントにごめんなさい」
まさか、愛理の口からこんな殊勝な台詞の聞ける日が来るとは夢にも思わなかった。そう思う情也だが、確かに今、目の前で頭を下げているのは愛理その人だった。
演劇部が活動を再開したその日、部員を全て部室に集めた愛理は開口一番、一同への謝罪の言葉を口にし、ついでに自分がどうしてあのような言動をしてしまったのかについても、言い訳臭くならないよう慎重に言葉を選びながらではあるが、自分の口から語ってくれた。
もっともその内容は優子が情也に語ってくれたことの半分にも満たぬ、要点だけを挙げた簡素なものだった。実際こういう釈明は、あまりダラダラと続けると次第に胡散臭くなってくるものなので、既に真相を知っていた身としては充分すぎるぐらい反省の念が伝わってくるのだった。それに対する皆の反応は、
「……うむ、そういう事情なら仕方ないでござるよ」
と、倫。ちなみに侍モード。
「…………誰にでも失敗はある。もう二度と同じ過ちを繰り返さないよう気を付ければいいだけの話」
と、芽衣。
「私も力になるからね」
これは優子。
最後に、愛理がチラリとこっちを見てきた。考えてみれば彼女は、情也が優子から事情を聞かされていると知らないのだ。リアクションが気になるのは無理からぬことだろう。それに元々、愛理がムキになった原因の半分は自分にもあるのだし。
「……まあ、俺も悪かったしな。今までのことは水に流すからさ、今度こそ完成までもっていこうや、ひ――」
と、そこまで言いかけて、情也は愛理の妙な態度に気が付いた。こちらを不満げな目つきで睨み付け、これ見よがしに膨れっ面をしている。まさか愛理にそんな顔を見せられるとは思わなかったので、情也は思わず視線をそらし、それでもまだ愛理がこっちを見ているのを知って諦めるようにうなだれ、言った。
「――じゃなくて……あ、愛理」
ん、と愛理が頷いた。まるで、それでいいのよ、と言わんばかりの態度だ。正直、かなり小っ恥ずかしい。
「……なあ、やめにしないか、これ?」
「ダーメ! これは仲直りのシルシなんだから」
愛理に文字通り一蹴される。そう、これは部室についた直後、愛理によって提案された手打ちの条件のひとつなのである。すなわち今後は信頼の証として、お互いに名字ではなく、下の名前で呼び合うこと。
何度考えても愛理がこんな条件を出した意味が分からなかったが、それで関係を修復してくれるというのであれば、安いものだった。それにしても、女子とそんな仲になったことが情也にはないので、未知のゾーンというか、ひたすら心がむず痒かった。
そして、真っ先に情也を下の名前で呼んでくれていた倫はといえば、何故かとても微妙な表情をして一人で唸っていた。アンタも一体何をしてるのさね。
とにかくこれで、やっと演劇部としての活動が出来るようになった。問題は、今日が中間テスト前最後の活動日であるということ。すなわち、明日から来週の中ごろを過ぎるまで、一切の練習が出来ないということである。テストが終われば、実質的な期限は一週間ちょいしかない。せっかく活動再開できたのに、これは結構ヤバい状況だった。
「テスト勉強なんて後回しよ! ……って訳にもいかんだろうしなぁ」
「それはそうよ。テストの出来が悪くて補習なんかになったら、それこそ練習時間削られるからね。このテストは絶対に落とせないのよ」
「えーと、あ……愛理。一応聞いとくが、お前って勉強大丈夫なのか?」
「正直、自信は全然ないわ」
「ダメじゃねえかよ」
情也のツッコミに、愛理が素直にしょげ込んだ。
「まあ、あんな状況だったもんね……愛理じゃなくても、身が入らなくて当たり前だよ」
「そういう優子どのは、どうなのでござるか?」
「うーん、聞こえた内容は出来る限りノートに写したけど、正直あんまり頭には入ってないかな。集中出来なくて、まだ走り書きのままになってる部分も多いし」
要するに殆ど書き写しただけの状態なのだろう。優子も優子で大変だったようだ。
「よし、決めたわ!」
愛理がいきなり自分の膝を叩いてそう叫んだ。前にもこんなことがあった気がする。
「情也、優子、三人で勉強会しましょう。ほら、三人寄れば文殊の知恵って言うでしょ?」
「……それ、使い方違うからな? まあ、言おうとしてる意味は分かるけどさ」
要するに、それぞれの分からないところをカバーしあって、テストに備えようということなのだろう。個人的には大賛成であった。仮に分からないところが出てきたとしても、あのクラスメイトどもに訊ねるのは死んでもゴメンだし。
「……その勉強会、是非とも拙者も加えてほしいでござる」
「…………」
倫が急に前に進み出てきて、参加を表明し始めた。芽衣もなんだかもの言いたげにこっちを見ている。
「微妙にテスト範囲違う気もするが、大丈夫か?」
「拙者も、此度の騒動ではひどい目に遭わされたでござる。どうか御三方と共に巻き返しのチャンスを頂きとうござる」
「…………」
懸命に参加を希望する二名。ここまで言われては断る理由もなかった。
「愛理……亜麻乃と大和も、参加して構わないよな?」
「もちろんいいわよ。あ、ただし……」
愛理が突然思い出したように言った。
「倫が参加するのには、ひとつだけ条件があるわ」
「な、なんでござるか?」
そこで倫は警戒心を露わにし、半歩後ずさった。
「魔王の役を譲れと仰られるか? イヤでござるよ⁉」
「……どうしてそう思ったのか分からないけど、違うわ。もっと単純なことよ」
あれ、と情也は思った。なんだろう。気のせいかもしれないが。以前にも何処かで、似たようなやり取りを聞いたような気がした。なんだこの既視感。
しかしそれには構わず、愛理は続けた。
「参加するなら、鎧は着ないこと。勉強はちゃんと素の状態でね」
「トホホでござる」
倫の可愛さメーターがMAXになって振り切れた瞬間だった。
* * *
結果だけ先に述べてしまうと、この愛理主催の演劇部テスト勉強会は大変に有意義なものとなった。本当ならば順を追って出来事を逐一説明したいところなのだが、ここでは中でも特にユニークだった一部分のみを紹介することにする。
まず、開催場所であるが、時間のロスを最小限に抑えるためにもここはひとまず、学校の図書室でやろうという話になった。初めて図書室に入った日にも見た、例の自習コーナーである。まさかこんな早くに利用することになるとは予想していなかったが。
情也としては、また無遠慮な視線に晒されるのではという懸念があったのだが、そこは事情を察した司書の先生がうまく取り計らってくれて、図書室の隅の方の、あまり目立たない位置にあるテーブル席を前もって都合してくれた。なんでも女史いわく、芽衣が久々に顔を出してくれたのが嬉しいのだという。
「学校のある日は毎日来てくれてたのに……あんな事があったからだろうけど、急に姿見せなくなっちゃって、心配してたのよ」
司書の先生のその言葉を、芽衣はじーっと黙って聞いていた。
「安心していいからね。ここにいる間は、あなたは誰にも遠慮せず本を読みに来なさい」
そのなんとも力強いお言葉に芽衣は、
「…………ん」
いつも通り、やや無表情気味に呟き、頷いた。でも、その様子が何処か嬉しそうに見えたのは情也の気のせいではあるまい。
こうして、当面の勉強場所が確保された。
* * *
いざ勉強が始まると、情也たちは各自の知識と記憶を総動員して、互いの抜け落ちている部分をバンバン埋めていった。どちらかといえば情也は日頃単独で勉強するタイプだったので、こんな大勢で集まって集中出来るものかと当初は不安に感じていた部分もあったのだが、部を潰させまいとする一同の結束が予想以上に固かったのか、驚くほど集中力を保ったまま勉強会は継続された。無駄口をたたく暇はないという認識が全員にあったのかもしれない。
そんな中ユニークだったのが、勉強会二日目にして、英語の試験範囲をおさらいしていたときのことである。
「Zorro is a thief, but he is a hero of the justice…」
「瀬野宮、発音うまっ!」
「そ、そんなことないよ? 私じゃなくてもこれぐらい出来るって」
情也が優子の英語能力に素直に驚嘆の意を表していると、その隣では愛理が何故か困ったような顔で唸り声をあげていた。
「うーん、分かんないわ……」
「どうした愛理。分からんとこがあるなら言えよ。あ、でも第四文型と第五文型の違いとかは俺もちょっと――」
「あ、違うの。勉強の話じゃなくって」
「何?」
「ゾロのことよ」
そう、一体何の因果か、英語の教科書で今回の試験範囲とされたページの題材は、愛理が敬愛してやまぬ、かの『怪傑ゾロ』だったのである。
愛理もおそらくゾロのストーリーは把握しているだろうし、英語単体では無理でも日本語のストーリー進行と照らし合わせていけば内容の理解も早いだろうと思ったのだが、どうも彼女が悩んでいるのはそういうことではないらしい。
「ずっと前から気になってたのよね……どうしてゾロって、ううん、ゾロに限らないでも、どうしてヒーローってみんな仮面をつけたがるのかしら。アタシ、何度考えてもよく分からないのよね。正義を守ってるんだし、もっと堂々としててもいいと思うんだけど」
「そりゃお前、決まってるだろ」
情也は迷わずに言った。
「連中にだって自分の暮らしがあるんだよ。悪と戦うってことは、それだけクソ野郎に恨みを買うってことだからな。ひどい場合だと、身内が狙われるケースだってあるんだし」
悪事に立ち向かうということは、それだけリスクを背負うということなのだった。
ちなみにだが、情也が演じる勇者サイバーは鎧をつけても顔は隠さないヒーローだった。今思えば、その辺は愛理のこだわりなのかもしれない。
「怪傑ゾロだって、公的には盗賊ってことになってるしな。正体バレたら犯罪者扱いだぜ。民衆を守って絞首刑になったんじゃ堪らないだろ」
「ふうん……そういうものなのかな」
「つーか、怪傑ゾロが好きだってんなら、それぐらい知ってても良さそうなもんだけどな」
「仕方ないじゃない、映画だって一度見たっきりなんだから」
「…………え?」
情也がキョトンとした顔になる。待て、一体それはどういうことだ。
「……あれ?」
不可解そうな表情を読み取ったか、愛理が若干冷や汗交じりな顔で言った。
「……もしかして、何か勘違いしてない? アタシ、怪傑ゾロは一回映画で見たっきりで、それ以上のことは知らないわよ。どっちかって言ったら特撮ヒーローの方が詳しいし」
「え~っ⁉」
情也は遠慮なく驚きの声を上げた。なんだそりゃ、どういう訳だ。
怪傑ゾロよりも特撮ヒーローの方に詳しい? それなら、先日のケンカは一体何だったというのだろうか。その疑問の答えは、愛理からすぐさま提示された。
「ホラ……この前話したでしょ、ウチの中学時代の先輩たちの話。その中にアメリカンヒーローの大好きな人がいて、言われたの。『特撮ヒーローなんてダサいもの、早く卒業しなきゃダメだよ』って。そんなことないってアタシは言ったんだけど、笑われるだけで……。その所為で、ここ何年かは観てないんだけど」
「お前んとこの先輩は、つくづく腹の立つ連中だな」
情也は遠慮することもなく率直に述べた。
好きでもないものの話を延々とされたことが原因でオタクを嫌いになる人間は多いということだが、おそらくそれとは逆の、何かを嫌いになれと強いてくる行為もまた、同種の所業であり、された側にとって不愉快であることに違いないだろう。
「あ、勘違いしないでね。ゾロは本当に好きなのよ……あんま覚えてないだけで」
「……考えてみりゃ、最初のアレも何かおかしかったよな、怪傑ゾロにしちゃあ」
「え、あんな感じじゃなかったっけ、ゾロって?」
刻印を刻む件ぐらいしか、合ってなかったように思う。当人としてもうろ覚えで再現していたというのなら納得だが。考えてみれば、『怪傑ラブ』を名乗り『Z』の刻印を残すというその二点が強烈に印象に残っただけで、他の部分では左程ゾロマニアなアピールがあった訳ではないのだ。すっかり勘違いしていたとはいえ、熱心なゾロファンにはあまりにも申し訳の立たないオチだった。
情也はあきれ顔で愛理に訊ねた。
「……じゃあ、なんでまたそんなにゾロが好きになったんだ? 殆ど無理やりだった上に、たった一度見たっきりなのに」
「うーん、弱い人を救うのが、素直にカッコいいと思ったからかな。それに、アタシが一番最初にハマった特撮ヒーローと同じでシンボルマークが『Z』だったりするし」
……ん?
オイ待て、もしや。
まさかとは思うが。
「……愛理、ケーリンズバイダーって知ってる?」
「当ったり前よ! 今言った、最初に好きになったヒーローが彼だもの!」
新事実発覚。
愛理のヒーロー原体験は、情也と同じくケーリンズバイダーだった。なんということだ。
情也はためしに、禅問答もとい特問答をかけてみることにした。
「『天が呼ぶ、地が呼ぶ』……?」
「『人が呼ぶ』!」
情也の問いかけに、愛理が即座に応じる。それは、ケーリンズバイダー登場時の、有名な前口上であった。
「『悪を倒せと』……」
「『俺を呼ぶ!』」
「『聞け悪人ども』」
「『俺は正義の戦士』」
「「――『ケーリンズバイダー』‼」」
仕舞いには、情也と愛理の声がハモる形になった。何故だろう? 情也の内側で何か熱い想いの込み上げてくるのが分かった。この胸の高鳴りをどうしたらいい?
ふと愛理を見ると、こちらを見てニマニマしているのが分かった。愛理が右手を目の前にかざしてきたので、情也も思わずソレに応じて手を突き出した。パチーン! という小気味よい音が鳴り響く。
「「イェーイ!」」
ハイタッチ。とりたてて深い意味もないが、謎の一体感があった。
「……ズバイダー電ゲキック、イカすよな」
「そうよね、そうよね! 当時はまだCGが試行錯誤的だったけど、それも味よね!」
「去年の映画でズバイダーが客演したとき、最新のエフェクトで再現されてたぞ」
「ホントに⁉」
「今度BD貸してやろうか」
「お願い!」
愛理が机の向こう側から、めっちゃ身を乗り出してきた。すげえ、本物だ。
まさか身近に、こんな奴がいたとは。どうして、もっと早くに気付けなかったのだろう。気付いていれば、あれほどまでに関係がこじれることもなかっただろうに。
情也が愛理の嬉々とした顔を見返し深いシンパシーを覚えていたそのとき、脇からチョイチョイと服の袖を引っ張られて情也は我に返った。すぐ隣を見ると、倫が何故か顔を伏せたまま情也の腕を引っ張っていた。その頬がやや紅潮している。あれ、なんだこの雰囲気。
どうも隣から呼ばれたのは愛理もだった様子で、そちらは芽衣がいつも通りの無言無表情で倫同様に、愛理の袖を引っ張っていた。この二人、心なしか似てきた気がする。
それはそうと、何の用事だろう。
「どうしたの、亜麻乃?」
「芽衣?」
「あ、あの、その、あ、あれ……っ」
「…………」
そう言って倫と芽衣が指差したのは、同じところに貼ってある張り紙だった。
『しずかに』
「「………………すみませんでした」」
愛理と情也は似た者同士、殆ど同時に反省の言葉を述べると、席について勉強を再開した。そうとも、ここは図書室だったのだ。
せっかく司書の先生の配慮で目立たない席を貰ったというのに、いまや恐ろしいほどに人々の視線が情也たちに向かって集中していた。どう見ても愛理と情也が原因だった。
その後余計なお喋りは慎むよう心掛けて、なんとかテスト勉強は終わったのだった。
* * *
やがて到来したテスト期間中の、とある日の午後のことだった。
その日は午前中三時間で試験が終了し、まっすぐ家へ帰ろうとしていた情也はその前に、愛理につき合わされて学校近くの公園にやってきていた。公園には遊具の密集したスペースのほか、普段は少年サッカーチームなどが練習によく使っている、スポーツ用のだだっ広いグラウンドが備わっている。そのグラウンドの両端に、情也と愛理はそれぞれ立っていた。情也の元には反対岸から、「あめんぼ赤いなあいうえおー!」などという愛理の声が伝わってくる。それは普段の演劇部でやっている、発声練習そのものだった。
大きく手を振ってやると、発声練習を終えた愛理が向こう岸からタタタと駆けつけてきた。何だか妙に嬉しそうな様子で、しかもかなり素早く走ってきたので、情也は思わずちょっと笑ってしまった。
「情也、どうだった? よく聞こえた?」
「うん、声の伝わりは良いけど、すげー不審」
今も情也と愛理の周りには、その時間公園で遊んでいた子供たちからの視線が一挙に集中していた。これが倫だったら、恥じらいで死にかけるようなレベルである。それらを見回しながらも、愛理は当然のように言った。
「……だって仕方ないじゃん、テスト期間終わりまで学校の中じゃ練習できないんだもん」
「だからって公園でやらなくても……まあいいけどさ」
「あれ? ねえ情也、あれ見て」
突然愛理の指差した方向を情也も見てみると、そこには四、五人で固まりタバコを吸っている集団の姿があった。吸い殻を足元に捨てまくっているのもいただけなかったが、もっと悪いのはその服装と容姿がどう見ても中学生ということだった。よろしくない光景だと情也は思ったが、思うだけでそれ以上の行動はしない。絡まれたら面倒だし、情也でなくたってそうすると思う。おいやめろケーリンズバイダー、お前は引っ込んでろ。
だがしかし、それを放ってはおかないのが目の前の少女であった。愛理は恒例の、何かを飲み込むような動作をしたかと思うと、
「情也、ちょっとコレ持ってて」
と、鞄を預けた上で、よせばいいのに中学生たちの元につかつかと歩み寄っていった。
こらアンタたちやめなさい。文句あんのかコラァ。という定番のやり取りののち、メンチを切ってきた中学生らをまたたく間にノックアウト。彼らに吸い殻を集めさせ、終わるなり速攻で公園から蹴り出した愛理は、公園中の子供たちに拍手喝采を浴びながら、意気揚々と元の場所に戻ってきた。
「おまたせ♪」
「……怪傑ラブが久々に大活躍だったな」
「えへへ」
などと言って照れくさそうに笑う愛理。ブレない女だった。
そこで情也はふと、以前から疑問に思っていたことを聞いてみた。
「なぁ愛理、お前ってそんなに強いのに、どうして演劇部にこだわってるんだ? そんだけ強けりゃ、演劇以外だって自由に活躍できそうなもんだけどな」
それを聞いた愛理は何故かフフッと可笑しそうに笑うと、空を見上げて言った。
「何か勘違いしてるみたいだけど……アタシ、本当の力はみんなと大して変わらないわよ。多分、情也よりも弱い。それにどっちかって言ったら、憶病な方だし」
「何の冗談だそりゃ」
情也は思わずそう言ってしまう。愛理でさえも憶病だというのなら、世の中に勇敢な人間なんて一人もいないことになるだろう。すると愛理は笑ってタネ明かしをしてくれた。
「勇気と力が湧く、秘密のおまじないがあるのよ」
「おまじない……?」
「ホラ、さっき情也の目の前でやってみせたでしょ」
もしかして、何かを飲み込むような動作をしていたアレか。先日、渡り廊下でハゲ丸たちを蹴散らした時にもやっていたが、アレがそうなのか。
「てっきり、危ないクスリでもやってるのかと」
「失礼なこと言わないでよ⁉」
「で、そりゃどんなおまじないなんだ?」
「そうね……じゃ、情也にだけは特別に教えてあげるわ。ここだけの秘密なんだからね」
そう言って内緒話をするように、愛理は情也を招き寄せる。
情也が愛理に顔を近づけると、向こうもそっと顔を寄せてきた。不意に、髪が風に流れて情也の鼻の頭をくすぐった。倫とはまた違う、温もりを秘めた甘い香りが情也の鼻いっぱいに広がる。あれ、と違和感を覚えて情也がちょっと顔を上向けると、愛理と真っ向から目があった。気が付けば、お互いに吐息のかかりあうような距離だった。リップでも塗っているのか艶やかな愛理の唇が目に飛び込んでくる。情也の心臓が不覚にもドキリと鳴った。
違う、何を考えているんだ自分は。情也は自分の中に降って湧いた感情を押し殺すと、頭の隅に追いやった。余計なことを考えるんじゃない。
「じゃ、教えるわよ」
「あ、うん」
愛理の表情に目立って変化のないのが唯一の救いだった。今のは一瞬の気の迷いだということにして、情也は大人しく愛理の言葉に耳を傾けた。でも唇からは意識的に目を逸らしておく。
「いい? あのね、手の平に」
「うん」
「『Z』って描いて飲み込むの」
「……………………お前らしいな」
せめて漢字にしとけよと思う情也だった。
それまでの感情が一気に冷めていくのを感じたが、同時に奇妙な愉快さも覚えた。
愛理がまた微かに笑って言った。
「アタシはね、情也……この世界に正義はあるんだっていうことを証明したいの。どんなに理不尽なことだって、最後には打ち負かせるんだって。そのためには、舞台の上に立つのが一番だと思うの。だからアタシは演劇を始めたのよ」
そう言ってから愛理は若干恥ずかしげな表情を見せて、
「まあ、中学ではいろいろあって上手くいかなかったけど……」
「……お前なら、現実に真っ向勝負挑んでも勝てると思うんだけどな。でも、そういうことなら大丈夫だよ。昔はともかく、今は俺達がついてるんだからさ。証明してやろうぜ、お前の信じる正義ってやつを」
「……うん」
情也の言葉に愛理は小さく頷いたが、それが先日、彼女をハゲ丸たちの包囲網から救出したときと同じ表情に見えて、情也は少し違和感を覚えた。何故かは分からないが、最近愛理の感情は乱高下が激しい気がする。ナイーブになる原因が山積みなのは確かだったが、一抹の不安を感じずにはいられない。
買い物途中だったのを思い出してその場はとりあえず別れを告げた情也だったが、公園を出る際に何度もグラウンドの愛理を振り返った。グラウンドの向こう岸に戻っていく愛理の姿はだだっ広い荒野の中にひとりポツンと立っているようで、妙に寂しげだった。
* * *
こうしていくつかの出来事がありつつも、中間テスト自体は滞りなく終了した。今度こそ本当に部活動再開のときである。この日をどれだけ待ちわびた事だろう。学生の本分とやらを無事やり遂げた演劇部一同は、テスト終了後真っ直ぐに部室へと集合していた。
「みんな、お疲れ様!」
「……どうにか終わったな」
愛理が先日とは打って変わって晴れやかな表情をつくり、部室の全員にねぎらいの言葉をかけるのを見て情也はちょっとホッとした。元気のない愛理など、あまり見ていられるものでもなかったからだ。
最後の試験は、つい三十分前に終わりを告げたばかりだった。現在は十二時ちょっと前。テストは午前中のうちに終了したので、午後は丸々練習に使えることになっていた。遅れを取り戻す絶好のチャンスである。
そう思っていると、一同の前に進み出て愛理が言った。
「今日はまず、みんなで新しい顧問の先生に挨拶に行こうと思います」
「あ、新しい、こもん?」
倫が驚いたように目を丸くして言う。そういえば、倫と芽衣はまだ知らないんだったか。それを察したのか、愛理が大きく頷いてから補足説明に入った。
「ホントは先週のうちに決まっていたらしいんだけど、うっかり伝え忘れたんだって今日、本人から言われたわ」
それを聞きながら情也は、自分でも表情が苦いものに変わるのが分かった。アレは果たして「うっかり」と呼ぶべきものなのかどうか。どっちかといえば「興味がなかった」という類のものではないかと思った。
「あ、あのそれで、顧問の先生って、だれ、なんですか」
「……ウチの新しい担任だよ」
情也が代わりに言った。倫がより驚いた表情になるのが分かる。無理もないと思う。
「じゃあ、えっと、」
「……姉川さんだよ」
情也はため息交じりにそう答えるのだった。
* * *
姉川玲子。二十五歳独身。縁なしメガネに三白眼。そして無気力。
判明しているプロフィールの、それが殆ど全てであった。ただ、とにかく最後の『無気力』という部分のインパクトが強烈で、以前も言ったように情也でさえ速攻で名前を覚えてしまうほどの凄まじさを発揮している。彼女の担当する国語総合の授業は既に、聴くものと聴かないものとで授業中の態度が真っ二つに分かれてしまっていたが、どちらに転んでも大して彼女の中の評価は変わらないだろう、というのが生徒たちの共通認識だった。自分の授業の内容にさえ興味がない、とまで言われているぐらいである。
「……で、先生のとこにわざわざ挨拶しに来たって訳?」
「あ、はいっ」
愛理が直立不動の姿勢で答える。緊張しすぎとちゃうか。
「律儀だね、あんたらも」
ここは今、職員室である。愛理の言った通り、一同揃って職員室に出向き、姉川の目の前に並んでこれからお世話になります、と頭を下げたのがつい先刻のことだった。それに対し姉川は、ヤスリで爪の先をカリカリとやりながら、聞いているんだか聞いてないんだかよく分からない表情で、ボーっと情也たちを眺め回しているだけだった。せめて手ぐらいは止めてくれてもいいと思うのだが、当人は一向にお構いなしである。
そんな彼女にも、愛理は大層真剣な面持ちで言うのだった。
「こんな状況の中でも、顧問の立場を引き受けてくださった姉川先生には、本当に感謝しています。絶対に結果を出しますので、待っていてください」
「……いいよ、そんなの別に。顧問だって、担任の仕事と一緒に勝手に押し付けられただけなんだし」
「あ……そう、ですか」
愛理が目に見えてショボンとするのが分かった。まあ、元々やる気のない人だと分かっていても、これは結構落ち込まされるだろう。椅子を回転させて、そのまま演劇部一同に背を向けてしまう姉川の姿を見ながら、この顧問もハズレか、と情也は諦観にも似た思いを抱きかけていた。
「……それで、」
と、背中越しに姉川が言った。
「あんたら、一体何時まで練習すんの?」
「え?」
「時間よ、時間。なんか切羽詰まってるっぽいけど」
「あの、今までは……」
「貰った資料だと練習時間は六時までってなってるけど、それでいいの? まあ、さっさと終えてくれるなら、先生も早く帰れて楽でいいんだけど」
「いえ、あの……」
何か言いたげに口をモゴモゴさせている愛理。こいつ、こんなに殊勝なキャラだったか? と思いつつも、情也はポンとその肩に黙って手を置いてやった。愛理がこっちを見たので、無言で頷いてやる。好きなようにやれ、ということだ。
愛理にもその気持ちが通じたのか、すう、と深呼吸すると努めて冷静な声で自身の希望を口にした。
「もっと、遅くまで練習がしたいです。出来るなら、八時か九時ぐらいまで」
「ふうん、九時ぐらいねぇ」
姉川がジッと、向こうの壁にかかっている時計を眺める。何を考えているのか、その表情からは窺い知れなかったが、やがて軽くため息をつくようにして、彼女は首を振った。
「分かったよ、やりたきゃやんな」
「あ、ありがとうございます!」
愛理が心の底から礼を言い、頭を下げる。情也たちもソレに倣う。一同のお辞儀を見せつけられて、姉川が面倒臭そうに言って手を振る。
「いいよいいよ、そんなの。ただし、何かあっても先生、責任取んないよ。最近、バイクに乗った変なのが学校の近くに出てるって話だし、襲われても知らないからね」
何やら聞き覚えのある話だった。
もしかして、いつぞやの話題に上がった『殺単』とかいう暴走族だろうか。
やっぱりこの界隈は物騒なのかもしれない。
そう思ったが、愛理は今度こそハッキリとした口調で言うのだった。
「大丈夫です。何が出ても、アタシがこの手でやっつけますから」
「……ま、精々頑張りな。帰るときは忘れずに、ひとこと先生に言うんだよ」
そう呟くと、姉川は再び背を向けて、それっきりこっちを見ようとしなかった。
* * *
こうしてめでたく練習時間の延長を許された演劇部だったが、実際そうでもしないと間に合わない程にスケジュールの遅延は大きく、劇の完成度に響きかけていた。
そのことを一番認識していたのは他でもない愛理である。そんな彼女の判断で、今日から劇の練習の大半は学生講堂のステージ上、すなわち部活コンペの実際の会場にて行うことになっていた。部活停止期間中に既に会場使用の予約は入れてあったようで、本日の午後三時以降は目いっぱい会場を使えることになっていた。何とも手回しのいいことだが、よく考えたら、もしもさっき練習時間延長を許可されなかったら、折角の予約もあまり意味を為さなかったかもしれないのだ。そう思えば、随分な賭けでもあったのだろう。
「情也が背中押してくれたお陰だよ……ありがとう」
「まったく、お前はいつからそんな奥ゆかしいキャラになったんだ?」
呆れ気味に言う情也にも、愛理は楽しげに笑うだけだった。本当に、最初のころと比べるとよくもまあ、こんな関係になったものだと思う。隣にいる倫がこっちの様子をチラチラと窺っているのが、若干気にはなったが。
「予約時間まで何する? 俺はとりあえず、全体の流れを再確認しとくべきだと思うんだが。音響のタイミングとかもあるし、その方が会場行ってからスムーズに練習できるだろ」
「そうね、一時間ぐらいはそれに費やそうかしら。あとは必要な小物とか大道具のチェックもしとかないと。大丈夫だとは思うけど、警察の人たちが一度部室を漁ったわけだし」
そう語る愛理の表情が一瞬だけ陰ったが、すぐに元の調子を取り戻すと、近くにいた芽衣を呼んで言った。
「芽衣、練習の前に小道具と大道具を、一度全部確認しておいてもらっていい?」
「…………分かった」
芽衣がコクリと頷いた。
その後ろでは、優子が不安げな表情をしていた。
「あ~、久々の練習か……大丈夫かな、私」
「俺もちょっと怪しいな。言われた通りに、台本読みは毎晩必ずやってたけど、舞台の上で問題なくやれるかどうか」
「わ、わたし、も、ちょっと、ふあんで、」
「……大丈夫よ」
一同の不安の声を聞いた愛理が、今度は不敵にフフンと笑ってみせた。本当に、いつの間にこんな表情をするようになったのだろうか。
「レベルの高い役者が一人いれば、それだけで全体の士気は上がるモンよ。その点、アタシたちにはとっておきの秘密兵器があるじゃない」
「おい、まさか」
「たぶん、霧島の予想通りよ。この際、小うるさい台詞は抜きにするわ」
小うるさい自覚があったんかい、という情也の内心のツッコミはスルーして、愛理は倫の頭にポンと手を置くと、ニッコリと笑った。
「倫、アナタの真の力を発揮してもらうときが来たわよ」
「そ、それじゃ……っ」
倫が抑えきれない興奮を覚えたのか、目を輝かせて愛理を見る。
「ええ、そうよ――魔王の衣装を解禁するわ」
* * *
愛理の話によれば倫の体格に合わせ、既に魔王の衣装は考えてあったのだという。流石にイチから作り出す余裕はなかったので、部室の衣装のストックの中からベストの組み合わせを選択して作り上げたとのことだったが、魔王を最優先にしたのはやはり倫のポテンシャルの高さを見込んでのことらしい。
そんなわけで、たった一人の男子部員たる情也は倫が着替え終わるまでの間、ピッタリと閉められた部室のドアの外で待機させられていた。待っている間に読み進めようかと思って文庫本を一冊手にして出てきたのだが、室内から時たま聞こえてくる衣擦れの音が気になって仕方なく、結局情也はそれ以上読もうとするのをやめてしまった。扉越しに聞こえてくる音で、倫のあられもない姿を想像している方がよっぽど健康的というものである。
やがてその音も途絶え、愛理の呼ぶ声がした。
「入っていいよー」
その言葉を信用してガラリと戸を開ける。次の瞬間、その目に飛び込んできた光景が情也から全ての思考を奪い去っていった。
「……ふおぉぉ……」
自分でも知らないうちにそんな声が出てしまっていた。俯き気味だった倫の肩がビクッと反応する。その漆黒の髪が波打って目元を覆い隠しているが、是非とも一目その顔を見せてほしいと思う。
不思議な魅力がそこにあった。漆黒のドレスを基調としつつも、胸当てとフリル、そして髪飾りに入った無数の銀のラインが全身の輪郭を際立たせ、着替えのためカーテンを閉めて薄暗くなった部室の中でも、その姿をハッキリと浮かび上がらせている。
しかしそれではまだもの足りぬとでもいうのか、片手には節くれ立った木製の杖のようなものまで携えていた。ラメでも塗ったのか、あるいは透明なビーズを埋め込んだのか、杖は所々キラキラと光り輝いていた。
そして駄目押しとでもいうか、その背中には大きな羽根のような飾り物を背負っていた。ソレと杖があることで、小柄なハズの倫の身体が本来よりも大きく見えて、当初懸念されていた体格差による迫力の減退を絶妙なラインで防いでいた。
ゴスロリでも、魔法少女でもない。暗黒を着込んだ魔女。
今の倫の状態を言い表すには、その言葉が相応しかった。
「……すげぇ」
ようやく零れたその言葉に、倫の隣に立っていた愛理がそっと耳打ちした。
「倫、情也が、似合ってるって」
「……っ!」
倫が息を呑むのが確かに伝わってきた。
次の瞬間、バサアッと前髪を跳ね返すようにして仰け反った倫が、その素面を白日の下に晒して笑った。たった一瞬のことだが、その口が耳元まで裂けているような気がした。
「――オォォォォォォォォォォォォッホッホッホッホッホッホッホ!」
「「「⁉」」」
全身を貫くような、不気味なぐらい妖艶な笑い声。
それを聞いた途端、情也は背筋がゾクリと粟立つのを感じた。その場にいたほぼ全員が、知らず知らずのうちにもと立っていた場所から後ずさりさせられる。
なんだ。一体何が起こったというのだ。
部員一同の理解を置いてけぼりにしたまま、突然スイッチの入った様子の倫が再び正面を向くと、そこには歪んだような笑みが浮かべられていた。その瞳に見据えられた情也は急激に全身が麻痺してきて、一瞬本当に魔法にかけられたのかとさえ思った。
ドン、と音を立てて倫が杖で部室の床を叩く。
「……お待たせしましたわ、皆さま。わたくしは今ここに、満を持して降臨します。宇宙に君臨する暗黒の支配者……我が名は大魔女ヘドリューマッ!」
超展開すぎてついていけなかった。
これは何か? 侍モードに続く、新たなモードが覚醒したと考えていいのだろうか?
困惑していたのは愛理たちも同様だったようで、優子はポカンとしたまま表情を固めていて、芽衣は変わらぬ無表情ながらも全員に聞こえるレベルでボソリと呟いてみせた。
「…………へドラ女王。明らかに」
情也も同じことを考えていた。今の倫はどう見ても、先日読んでいた本の悪役そのまんまである。長らく衣装を着られないまま焦らされていて、それが一気に爆発したというのか?
一方そのころ、愛理は慌てた様子で倫に話しかけていた。
「り、倫? 一応この前決めた通り、魔王の正式名称はグラン――」
「お黙り小娘っ!」
「こむ……っ⁉」
愕然とした表情で固まる愛理の様子が、何故か面白かった。小娘て。
と、そんなことを言っている場合ではなかった。倫は愛理を一喝してから、にんまりとした笑みを浮かべて情也のほうを見つめてくると、ススッと床の上を滑るようにして近づいてきた。体の自由は奪われたままだった。今の倫は、もしや冗談抜きに魔力を有しているのではあるまいか。
すぐ目と鼻の先までやってきた倫は、情也のことを見上げると目を細めて言った。
「……情也さん?」
「は、はいっ⁉」
「見ての通り、わたくしは魔王となりました。これで情也さんと存分に戦えますね。手加減はしませんことよ。よろしいですわね?」
どう返事をしたらよいものか本気で分からなかった。
これ、倫自身は大丈夫なのだろうか?
「あ、えっと、亜麻乃……」
「情也さん?」
「はいっ!」
どうしよう、抗えない。そう思った。間違いない、倫の声には魔力が宿っていた。少なくともそう思わせるだけのパワーが今の倫にはあった。倫はますます目を細めてくると、妙に優しげな声でこう告げた。
「この際ですから……今後は、わたくしのことも『倫』と下の名前で呼んでいただくことにしましょう、そうしましょう」
「あ、あま――」
「返事をなさいっ!」
「――はい、倫さま!」
「……よろしい」
ニッコリと笑みを浮かべる大魔女ヘドリューマこと、倫。もしや大御所ベテラン女優の霊にでも憑かれているのではないかと、そう思わせるような迫力だった。やっぱり自分は倫には逆らえない。そう再認識した情也だった。
それはそうと、愛理が未だに茫然としたままなのが面白かった。おーい、戻ってこーい。
「……そういえば、大和さんはさっきから何してるの?」
「…………日野愛理に頼まれた通りに、部室にある大道具と小道具のチェックをしている。今のところ、全体の三割ほど」
「一応言うけど、今回の劇に使うものだけでいいんだからね?」
「…………てっきり、部室にある全ての大道具を確認しろという意味かと」
「日が暮れちゃうよ⁉」
部室の端っこで優子と芽衣が繰り広げるコントも地味に面白いと思う情也だった。
* * *
そのうち予約時間となったので、部員一同はいよいよ学生講堂へと赴いていった。
ちなみに倫は部室の外を歩くときですら、魔王の衣装そのまんま。彼女が言うところの、大魔女ヘドリューマに完全になり切っていたため、道中で受ける奇異の視線が半端な量ではなかった。
同じ部活コンペの参加者として、直前までそこで練習していたチアリーディング部と入れ替わるようにして、一同はだだっ広いステージの上へと上がる。愛理を筆頭にして、一同はそこで横並びになりながら一度観客席の様子を眺めた。
本当に広いと思う。学生講堂は、体育館とは別に催し物などで利用可能な大型ホールで、二学年分に相当する四百名の生徒を一度に収容可能だった。現在ステージ上以外は全て電気が消されていて薄暗闇に包まれていたが、それでも学生演劇の上演場所として比較的大規模なのは全員が認識できた。当日は審査する教職員のみならず、一般の生徒たちも観覧自由である。部の予算云々を差し引いても、半端なものを見せるわけにはいかないという想いが、愛理や情也の心には渦巻いていた。
「じゃあみんな、始めるわよ。所定の位置について頂戴」
愛理の号令で一同が最初の待機場所に移動する。折角本番と同じステージが使えるようになったということで、今日は劇の最初から最後まで、一通り全部の練習をする予定だった。勇者の剣や小さめのハリボテなど、一部のセットと小道具は劇中同様に使用する。そもそも部室でやっていたのと実際のステージ上でやるのとでは見え方が違ってくるので、それらも今回の練習で可能な限り把握しなければならなかった。
「…………音響設備のスイッチを入れていいか分からないが、どうすればいいか」
「ラジカセ持ってきたでしょ。今日はそっち使って音出して。設備のことは、アタシが先生に明日までに聞いておくわ」
「…………じゃあ、照明設備も?」
「照明は、ステージ上だけだったら、点けたり消したりは自由のハズよ」
「…………複雑なルール」
芽衣が若干困った様子を見せていた以外は特に問題もなく、程無くして劇の練習は開始された。最初の場面から順を追って、パートごとにステージ上での見え方、声の響き方などを把握しつつ動きを修正していく。ちなみに劇全体は、全部で八つのパートに分かれていた。
○パート1《導入部・囚われの姫の祈り》
「『嗚呼……いつか夢見し、我が心の勇者よ。貴方が現れるのはいつのことぞ。早く、早く、我が囚われの心を救いたまえ』」
「『なんという可哀想な姫君か。救って差し上げたい。勇者はいずこぞ』」
「……改めて思うが、凄ぇ声量だよなぁ……愛理も瀬野宮も」
○パート2《村人サイバーの日常生活》
「『くはぁ、今日もいい天気だぁ。平和っていいもんだなぁ』」
「『のんきだねぇ、サイバー。近頃じゃ、世間ではかの悪名高い大魔女が暴れまわっているというじゃないか』」
「『俺はこの畑さえ守れれば、かま――』」
スポッ。カランカラン。
「「「…………」」」
「わー、オラの大事な鍬の刃が抜けちまっただー……」
「……芽衣、後で直しといて貰える?」
「…………分かった」
○パート3《大魔女ヘドリューマの暴虐》
「『オホホホホホホホッ! この村はわたくしの支配下に置きますわ!』」
「『うわあ、大魔女ヘドリューマだ! 早く逃げろ!』」
「オホホホホホホホッ! そこの村人、お待ちなさい。あなたはわたくしと共に、我が城に来るのです。気に入ったので、わたくしの夫にして差し上げますわ!」
「待った倫! そんな台詞なかったよな⁉」
○パート4《妖精王の出現とサイバーの決意》
「『戦うのです、サイバーよ。この鎧には妖精族の力が封じられています。この力を使って、悪の大魔女ヘドリューマを倒すのです』」
「『……分かった、俺は戦う。戦って、この世界に平和を取りもろふっ!』」
………………噛んだ。
○パート5《大魔女の悪だくみと姫の幻影》
「『勇者さま、どうか助けてくださいまし!』」
「『オホホホ! その小娘は幻影! 助けたくば、我が城に来ることです!』」
「『おのれヘドリューマ!』」
「『オホホホ! 我が城まで来るのです、サイバー坊や!』 そして……わたくしと結婚するのです!」
「だから、そんな台詞ないだろ⁉」
○パート6《魔王の城への入城》
「『入城クイズ? 壁画の分際で面白いじゃないか!』」
「『では問題! “この世で一番美しい女性は誰だ”! 十、九、八、七、六、五……』」
「『えーと……あ~……分かった! それはおま――』」
ガン! パタン。
「「「…………」」」
「……殴って開く扉なら、最初からそうすれば良かったな」
「芽衣……これも後で直しといて」
「…………分かった」
○パート7《最終決戦・サイバー対大魔女》
「『オホホホホホッ! 覚悟おし、サイバー坊や! オーッホッホッホッホッホ!』」
「情也、もっと前に出て。腰が引けてるよ!」
「『オホホ! オォーッホッホッホッホッホ! オーッホッホッホッホ!』」
「怖え! 倫が怖えんだよぉ!」
「……あ、うん」
○パート8《終幕・勇者と姫の再会》
「『お待ちしておりました……私の勇者さま』」
「『姫……なんというお姿に』」
「『勇者さまをお待ちしたこの数年間は、無駄ではありませんでした』」
「髪は飛び跳ね……声までもガラガラに……」
「……ほっといてよ、久々に長丁場で練習したんだから」
「のど飴でも舐めて治しとけよ」
阿鼻叫喚、という単語がこれほど似合う状況もないと思った。
通せば二十分という中篇劇、パート毎で言うなら精々二~三分ずつしかなかったが、一度熱中すれば時間を忘れるのが人間の性である。一つのパートに時間を掛けすぎると後がつっかえてしまうので、程よいタイミングで愛理を促し次のパートに進ませるよう気を配る情也と優子の気苦労も絶えなかった。
こうしてどうにかこうにか劇を最後まで終えたとき、時刻は既に午後八時を回っていた。一パートにつき四十分近く費やしている計算である。これでもまだ足りてないというぐらいだから恐ろしいものだが、あれだけトラブル続きで練習が遅れていれば、愛理が力を入れるのも無理からぬことであった。
ステージ中央に集合した一同は、主に愛理からの意見や要望を中心に次回練習で修正していくべき部分などを話し合っていた。愛理に限らず、そのパートで出番のない者はなるべくステージから降りて、客席からの視点で演技を観察することになっていた。こういったことは演劇に限った話ではなく、作品全般の完成には客観的視点が必要不可欠である。本来なら顧問がその立場を引き受けてくれるものなのだが、姉川は当然そんな面倒を引き受けたりはしてくれなかった。
「……一番の問題は、クライマックスのこの部分ね」
愛理はそう言って、難しそうな顔をして自分の台本に目を通した。
「客席から見てみたけど、やっぱり何か物足りないのよね。普通に戦ってるだけって感じで」
「音楽の件は片付いたのに、つくづく悩みの種だな、ここは」
愛理のぼやきに情也が応じる。ケンカして、更に和解して以降、自分で全決定する態度を反省したのか、愛理は音楽面の判断を完全に情也に委ねていた。もちろん『ビームソードのテーマ』も再採用である。あるいは単に情也のことを信頼してくれた結果かもしれないが、それだけに応える必要があると思っていた。
「自分で書いたはいいけど、どう演出するか考えてなかったから……ゴメンね、無計画で」
「いやぁ、そこをみんなで考えるから楽しいんだろ」
情也がフォローしてやると、他の部員たちも乗っかってきた。
「助け合ってこそ、ですわね。うふふ……」
「そうだよ、私たちがいるんだから」
「…………少なくとも、選択肢は広がる」
それを聞いた愛理は感無量といった顔つきになると、素直に頷いた。
「うん……ありがと」
その様子を眺めていた情也は、何とも言い難い、喜びとも、悲しみともつかない不思議な感情を覚えた。上手く形容できないが、確かに胸の奥から湧き上がってくるこの想い。情也はようやく、今まで抱いていた違和感の正体に気付きだしていた。
最初からずっと疑問に思っていたのだ。
何故、情也が愛理にだけは感情的になることが出来るのか。答えは簡単だった。
愛理は、情也の妹によく似ていたのだ。
そもそも情也は、自他ともに認めるヘタレだった。もっと正確に言えば、仁が言っていた豆腐メンタルなのだった。ちょっとしたことですぐにイライラし、ちょっとしたことですぐナイーブになる。それでも、それらの感情を明確に表に出すことはしない。何故なら、表に出したところで受け止めてくれる人間は誰もいなかったからだ。からかったりなどして露骨に見下してくるか、あるいは薄っぺらな正論ばかりを並べ立てて知ったような顔をするか、今まで情也が接してきたのはそんな人間ばかりだった。
情也は感情を表に出すことを恐れていた。仁や倫のように、おそらく自分のことを慕ってくれている人物にさえそうである。信頼していない訳ではない。ただ、対等だと思っていた相手に見下される経験を幾度となく繰り返してきた情也にとって、それは万が一にも傷つくことを避けるための一種の予防線だったのだ。
しかしそこにきて、愛理という人間は特殊な存在だった。なにせ、バカだったからだ。
常に迷わず行動するクセに、大概その行動は感情まかせで理屈が通っていない。正義などという言葉をこのシビアな現実の世界で連呼する薄ら寒い人間のクセに、頭がいいかというと全くそうではない。学をひけらかすでもなく、権威を振りかざすでもなく、ただ単に自分が正しいと信じたことを力任せに押し通す。その様子が、今まで散々見下され続けカーストの最下層にいると信じていた情也にさえ見下せるほどに、バカだったのだ。
そしてその姿は、情也にとっては自身の妹の言動に重なって感じられた。
情也には二、三歳しか違わない実の妹がいた。情也は妹とはよくケンカをしたが、それも妹が情也に対し自分の主張を通そうとするクセに、それを裏付ける根拠を毎度の如く何一つ提示できないからだった。理屈にならない理屈を必死で喚き散らす様は、情也にとっては妹の言動そのものだった。
情也にとって愛理は、同い年の妹のようなものだった。だから情也も、他の人間相手では考えられないほどに感情のハードルを下げることが出来たのだ。
そのことを情也はいま、一同から励まされて頷く愛理の姿を見て、ようやく自覚することが出来ていた。時たま落ち込んだ後の極端なナイーブさと素直さもまた、情也の妹そっくりな言動だったのである。
大きな妹・愛理は時計の方を見て時間を再確認していた。
「もう、話してたらこんな時間になっちゃった。今日は終わりにしましょう」
「そうね、時間も遅いし」
「異議はありませんわ、うふふ」
そんなわけで、ステージでの初練習は無事終了となった。一同は台本を持って立ち上がると、舞台袖の階段から客席側に降りていった。芽衣はその前に、電気を消しに一人別の方向へと向かう。
階段を一歩一歩降りながら、情也は愛理の顔を後ろから見つめて、何とも言えない複雑な心境に陥っていた。そんな中、急に愛理が思い出したように言った。
「そうそう、明日も練習はこっちでやるけど、みんなその前に、ちょっとだけ早めに部室に集合してね」
「ああ、大道具とかセットの類を全部、こっちに移動させるんだっけか?」
「そうよ。明日からは、完全に本番と同じ状況にして練習したいから」
「練習のない間、しまっておく場所は?」
「それならあの、隅っこにある倉庫の中を使わせてもらうわ。許可もとったし」
「ふぅん、ならいいけど」
情也はとりあえず納得した。いつでも使えるよう講堂内に置いておく必要はあるが、部の置かれた状況的に、下手に野ざらしにしておけば悪質なイタズラの標的にもなり兼ねないので、その辺は細心の注意を払うべきだと思った。
「問題は人手よね……前の時もそうだったけど、あんまり少人数で無理して運ぶと事故の元になり兼ねないわ。大きいセットもあるんだし」
「……その節はご迷惑をおかけしましたわ」
階段から落下したのを思い出したのか、倫が若干しょげる様子を見せた。落ち込む大魔女というのも、実にシュールな光景だった。
「男子がもう一人いればいいんだけどね……運動部に頼む気も起きないし」
「まあ、アテがないこともないぞ」
「えっ、本当?」
愛理が情也の言葉に食いついてくる。
「いるんだよ。力あって、その上普段からヒマな奴がひとりな」
* * *
そして、翌日の放課後。
「つぅワケで、コイツに手伝ってもらうことになった」
「どーもー、大枝仁です。ジョーヤが世話になってます。よろしくネ」
情也が連れてきたのは、仁だった。身長百七十二センチで、広い肩幅に太い腕、着崩した制服と、典型的な体育会系スタイル。終始薄笑いを浮かべているので実にチャラチャラして見えるが、根は真面目で信頼のおける人物である。
考えてみれば、彼を優子以外の演劇部員と対面させるのは初めてのことだった。
「部長の日野愛理です。こちらこそ、今日はお世話になります」
「いやいや、気にしないで良いヨ。どうせヒマなんだしネ」
折り目正しく頭を下げた愛理に、仁は手を振って気楽そうに言った。気を遣っている訳ではなく、実際に部活などを一切やっておらず暇人なのだ。だからこそ、情也の急な頼みにも応じられたのだった。
一方愛理とは別に、優子もちょっと控えめに挨拶を交わしていた。
「あの……この前はどうも」
「あ、キミだけだよネ。この中で喋ったことがあるノ。お久しぶりィ」
「あの、どうも」
優子が若干引き気味になって見えたが、まあ仕方ないだろうと思う。勉強も出来て正統派の真面目っ子である優子からすれば、仁の見た目と態度はどう見ても不良のようにしか思えないだろう。実際、街中を歩いていてもたまに間違われるらしいし。
しかし慣れきっているのか、仁は構わずに部室の奥にやってくると、置いてあった巨大なセットを見上げて感心したようにため息をついた。
「で、オレが運ぶのってコレ? 随分でっかいハリボテだねェ」
「元から部室にあったものを改造しただけだけどね。魔女の住むお城のつもりなんだけど、考えてみたら会場まで運ぶことを全然想定してなくって」
「教室のドアから出せるのが唯一の救いって感じかな」
情也が補足説明する。魔王の城のセットは三分割できるようになっており、劇中での場面転換の際は、それぞれのパーツを舞台にいる部員全員で出し入れすることになっていた。
ちなみに演劇の場面転換でセットなどを移動する場合、作業は必然的に真っ暗なステージ上で行われることになる。それでいて設置場所の正確さは勿論のこと、スピードを出しつつ極力無音が求められるなど、意外に慣れと技術が必要になる部分だった。
発声と場転の練習は、演劇というものを完成させる上で基礎中の基礎なのである。
「さぁて、そんじゃいっちょ頑張りますかねェ」
仁の協力を得て、演劇部一同は大道具と小道具の運搬を開始した。
実際に本番でセットを出し入れするのは情也たち演劇部員だから、当然力のない人間でも持ち上げられる重さにはなっているが、それは運ぶ距離が数メートル前後の話だった。校舎の最上階から一階までそれらを持って上り下りし、更にまた少し離れた場所にある学生講堂まで持っていかねばならないとなると、事情は変わってくる。その点、部員二人分ぐらいの力が優にある仁がいれば、事もサクサクと進むのであった。
例によって大勢の視線を跳ね返しながら、講堂内にある倉庫まで大道具を運んできた愛理以下演劇部員と仁は、運搬物を着地させるやいなや大きく息を吐いて汗をぬぐった。短距離ならともかく、やはり長距離を運ぶのは重労働である。仁がいてくれて、本当によかったと思う。彼の協力のお蔭で、舞台セットの移動は極めて短時間で終了した。
「やー、運んだ運んダ」
「みんなお疲れ様。ちょっとだけ休憩しましょうよ」
「……ナァ、このデカいハリボテって、倉庫の中にこのまんま置いとくノ?」
仁が突然そんなことを訊いてきた。
「んー、一応他の小道具とかと一緒に、暗幕で隠しておくつもりよ。ホコリ被るといけないから」
「そーか、なら、その方がいいヨ」
「……どうしたの?」
「ほら、ジロジロ見てた連中の中には、性質悪いのもいるだろうしサ。こういう状況だし、目立たないようにしといて損ないと思うんだヨ」
仁にしてはかなり的を射た発言だったと思う。情也も同じことを思っていたし。
愛理も同じく、意外そうな顔をしていた。
「それが心配だから倉庫に入れようと思ったんだけど、充分じゃないかな?」
「まァ、考え過ぎだとは思うけどナ。でも、用心に越したことないヨ。人間って、一度火がつくとヤバいこと平気でやるからネ」
そう言った仁は一瞬、どこか遠い目をして虚空を見つめた。情也はその表情を見て、暗い気分を甦らせる。そこから何かを察したのか、愛理は笑顔で頷いて言った。
「……心配してくれてありがと。でもね、大丈夫よ」
「ンー?」
「もし一線を踏み越える奴がいたとすれば、その時はアタシが許さないわ。怪傑アタックで海の藻屑にしてやるんだから」
……ここは一応、海のない県と言われて久しいのだが。
相変わらずトンチンカンなことを言っている愛理に苦笑していると、仁が情也の方を見てニヤニヤと笑ってきた。
「お前んとこの部長、案外面白いナ」
「……面白すぎるのも考えものだよ」
呆れ顔をする情也だったが、多分本心では頼もしいと感じていたと思う。
こうして運んできたセットもフル活用して、連日のように練習は行われた。そしてついに本番を明後日に控えるまでになっていた。




