第02話 第五の部員・前編
《開幕》
『ほぉ、俺に仲間になれってか?』
若干薄暗い廊下の片隅で、ジョウヤは壁に寄り掛かったままそう言った。
彼のすぐ目の前には、彼を尋ねてやってきたアイリとユウコが並んで立っている。彼女らはジョウヤの身に起こった出来事を、詳しく説明して聞かせていたのだ。
ユウコは一歩前に進み出て言った。
『そう……貴方は既に演劇部員なの。その力を、みんなの居場所を守るために使ってほしい』
『……しかしよぉ、いっそのこと演劇部なんざ廃部になったほうがいいんじゃねえのか? 騒音公害に部活差別。確かに演劇部って愚かなもんだ』
『アンタ本気で言ってるの⁉』
するとそれまで黙っていたアイリが、ユウコの前に出てきて言った。
その顔には到底信じられないといった表情が浮かんでいる。
『部活を何だと思ってるのよ。そこに生き甲斐を見出す子だって沢山いるのよ』
『おぅおぅ、いい子ぶりっこしやがって。鳥肌が立つね』
『なによ!』
小馬鹿にしたようなジョウヤの物言いに、思わずアイリはいきり立って彼を睨み付ける。
二人の間の空気はまさに一触即発といった具合であった。
『いいか、これだけは言っておく。俺は今まで何かに所属したいと思ったことはねえ。これからも同じだ。俺は一人で生きていく。第一、俺はお前みたいなタイプは大嫌いなんだよ』
『アンタは何も分かってない!』
そう言ってアイリはジョウヤの胸ぐらを掴んだ。
ジョウヤのほうが若干背が高いので、強引に少し屈まされるかたちになる。
『女の子のピンチなのよ、個人的な感情なんて問題じゃないでしょ!』
『ハッ!』
ジョウヤはその顔に嘲笑を浮かべると、アイリの言葉を鼻で笑ってその手を払いのける。
もうこんな場所に用はなかった。
『まぁ勝手にやってな。あばよ!』
『待ちなさいよ!』
アイリは堪らずジョウヤの背中を追いかける。
まさしく犬猿の仲であった。その様子を傍から見ていたユウコは、思わず額に手を当て、呆れたように首を振る羽目になった。
こんなことで本当にやっていけるのだろうか?
《閉幕》
* * *
しかし散らかり過ぎだろう、と情也は周囲を見回しながら思った。
あの短編劇を上演した日から週末をはさんで数日後、情也は再び演劇部の部室へと足を運んできていた。同じ室内には日野愛理をはじめ、演劇部の面々が椅子に座って勢ぞろいしている。情也をここへと呼び出したのは、ほかでもない彼女ら自身であった。
口火を切ったのは日野愛理だった。
「とりあえず、最初にお礼を言わせて。本当に助かったわ……ありがとう」
「そりゃ、どういたしまして」
「それでなんだけど……」
「んじゃ、帰っていい?」
「なんでそうなるのよ! まだ何も話してないでしょ⁉」
「汚すぎて落ち着かねーんだよ、この部屋。掃除しろ、掃除」
情也の言い分もある意味もっともであった。
何せ部屋のそこらかしこに紙屑やら埃やら、大道具を作る際に生じたと思われる木屑やらが散乱しっぱなしになっているのだ。一応ホウキや雑巾をかけた形跡はあるのだが、それにしてはやっつけ仕事な感が否めない。
だが何よりも酷いのは、最初から部室にあったらしい古い小道具の数々であった。まるで倉庫かといわんばかりに、ありとあらゆるものが壁際に無造作に積み上げられているのだ。全く片づけをしている形跡がない。
仮にも女子高生四人が同じ部屋に集まっているというのに、この惨状はどうなのだろう。
「だ……だって仕方ないでしょ。あれから、ちょっとバタバタしてたんだから」
「少なくとも床に座れるぐらいにはしてほしいね」
「別にいいじゃない、椅子があるんだから」
「俺は床の上で胡坐かく方が好きなんだよ」
現に情也は、あてがわれた椅子の上で普通の体勢ではなく、わざわざ胡坐をかいて座っていた。本当は床の方がいいのだが、生憎汚れ方が半端ではないので座る気になれずにいる。
「ま、そんなことはどうでもいいんだが」
「だったら最初から言わな――」
「亜麻乃、足の方はもう大丈夫なのか?」
「――って聞いてよ!」
日野愛理は放置。
情也はその視線をすぐ隣に座っていた亜麻乃倫の元へと向けた。すると彼女は相変わらず頬を赤らめたりしながら、気恥ずかしそうに視線を床に逸らしてしまう。
情也は思わず頬を緩ませてしまった。
ああ、やっぱりこの娘は可愛い。誰かさんとは大違いだ。
アレだけ派手に階段から落下していたので割と本気で心配していたのだが、どうやら足の怪我以外は何ともなかったようで、その足首も、現在は軽く包帯が巻かれている程度の処置で済んでいた。大事に至らなくて本当に良かったと思った。
「あ、あの、えと、もう、大丈夫、です。ご迷惑を、おかけ、しました」
「いいの、いいの、気にしないで。あんなちっぽけなキーホルダーひとつ届けるために散々頑張ってくれたんだから。恩返しみたいなモンだよ」
「あ、あの、こちらこそ、ありがとうござい、ました」
そう言って、もう一度頭を下げてくれる亜麻乃倫。両手を体の前で組んでもじもじさせている辺り、本当に一生懸命なのが伝わってくる。こういう健気な娘がもっと増えればいいのに、と情也は心の底からそう思った。
「ちょっと、なんで倫にはそんな優しいのよ?」
「生憎、ギャーギャー喚く女は趣味じゃないんでね」
「どーゆー意味よ!」
「ちょっと、ちょっと愛理、落ち着いて。霧島くんが来てくれなかったら、私たちは今頃ここにいられなかったんだから」
「うっ……」
「ごめんね霧島くん、愛理はちょっと気が短いから」
そう言ってわざわざ謝ってきてくれたのは、長髪のそばかす少女こと瀬野宮優子であった。
日野愛理のことを速攻で宥めてしまうあたり、やっぱり付き合いは長いのだろう。扱いに手馴れているというか、相手の人間性を心得ている感じがする。他の人間にも同じ調子で接することが可能なら、そのうちクラス委員長にでもなるんじゃないかと、そんな印象を抱いた情也だった。
「……まぁ、からかった俺も悪いとは思うけどさ。日野が短気なのは否定できないね」
「なによ」
「お前、今日もまた上級生相手にやらかしたんだって?」
部員たちの注目が一斉に日野愛理へと推移する。
一同からの視線を浴び、日野愛理は憮然としたように口を尖らせて言った。
「だって……仕方ないでしょ。松葉づえ突いた人が立ち往生してるのに、廊下のど真ん中で気付きもせずにお喋りしてたんだもん」
「愛理……無闇にケンカしちゃ駄目だって、あれほど言ったのに」
「男三人に回し蹴り喰らわせたんだとさ。学校中で噂になってるらしいぞ、『一年の女子にとんでもない奴が現れた』ってさ」
「良かったわ、怪傑ラブの名は人々の間に広まりつつあるのね」
「良くねぇよ、バカタレ。どう考えても褒め言葉じゃねぇだろうが」
「それが悪への抑止力になるなら、どうってことないわよ」
「そういう問題かよ。もし同じこと男がやったら、僅か一ミリ秒で生徒指導室送りだぞ」
少なくとも今の日野愛理は、もっと行動に慎重になるべきだと思うのだ。聞けば彼女は、先日からこの演劇部の部長に就任したという。日野愛理本人が猪突猛進なのは結構なことであるが、今後はソレに亜麻乃倫や瀬野宮優子など他の部員たちが巻き込まれる可能性だってあるのだ。
仮にも一組織の指揮官なのだから、その言動が及ぼす影響を鑑みてほしいものである。
「そんなことより、まだ芽衣だけ自己紹介してなかったでしょ。ホラ、芽衣」
「話逸らすんじゃねぇよ」
「いいから聞いてよ。芽衣、名前教えてあげて」
そう言って日野愛理に半ば強引に自己紹介を促されたのは、図書室で出会ったあの銀髪無表情少女であった。そういえば機会がなかったとはいえ、この中で本名を知らないのは彼女ただ一人である。
銀髪無表情少女は初対面のとき同様、相変わらず無言で読書に没頭していた。ふと静かに顔を上げると、じっとこちら側を見つめてくる。この感じ、先日会ったときとまったく同じであった。
無言。終始、無言。それでいて情也の方を凝視してくる。本音をいえば、結構怖かった。その視線にずっと射抜かれていると、次第にやってもいない罪をも告白しそうになってくる。そういえばちょっとやかましくし過ぎただろうか。読書の邪魔をして誠に申し訳ありませんでした。
ちなみに情也の隣では、何故か亜麻乃倫が恐れをなしたように身じろぎしていた。何も君まで怯えんでも。
一方銀髪無表情少女は、自分の胸ポケットをごそごそとやると、そこから取り出した名札を情也に差し出して呟いた。
「…………大和芽衣」
たったそれだけ言ってまた名札をポケットにしまうと、再び読書に戻ってしまった。どういう訳か堪らなく緊張させられた情也だった。
「ああ、えっと、はい。大和さん、ね。どうも」
「…………どういたしまして」
返事が素っ気なく聞こえたのは気のせいだと思いたい。その妙な迫力ゆえに、情也にまで亜麻乃倫の話し方が感染ってしまっていた。
大和芽衣。二度とは聞かない方が良い気がするので、しっかり記憶にとどめておこう。
「……ふぅ」
「もう、いいかな。それじゃあ話の続きだけど、」
「帰っていい?」
「だから、なんでそうなるのよ! まだ本題に入ってないんだから!」
まだだったのか、早くしてくれ。
それはそうと大和芽衣が再び顔を上げてこっちを見つめていたので、情也は若干居住まいを正しておいた。黙れ、と言っているかのようにも見える。煩くて本当にごめんなさい。
というか大和芽衣は、一体何のつもりがあって演劇部になど入ったのであろうか。静かに読書をする、という意味では明らかに不適切な選択だと思う。
基本的に憶病である亜麻乃倫も含めて、ここに入部した者の動機はいまいち謎が多かった。
「で、本題ってのは?」
「演劇部に入ってほしいの」
「やだね」
考える間もなく即答してやった。薄々言われそうな予感はしていたのだが、まさか本当にそうなるとは思ってもみなかった。
おい、名前も知らん神サマ。アンタの企みには乗らんぞ。
「どうしてよ! この間の劇、代役とは思えないぐらい上手かったじゃない。脚本はあんな短い時間で覚えちゃうし。霧島、才能あるよ!」
「それでも断る」
「どうしてよ!」
「俺は演劇が嫌いなんだよ」
情也は頬杖をついて窓の外を眺めながら、核心部分の台詞を言ってやった。
あとちょっとで夕焼けの見れそうな四月末の空を、カラスが数匹群れを成して飛び去って行った。カーカーやかましいわ。
「正確には“演劇部”が嫌いなんだけどな。別にこのメンバーが、ってわけじゃないが」
「そんな……どうしてよ、あんなに上手いのに!」
「嫌いなものは嫌いなんだよ。演劇部には参加しない。そうでなくても、この間の劇でもう俺がここに入部したっていう噂が立ってるらしいからな。そんじゃ、あばよ」
「ちょっと待ってよ!」
鞄を持って立ち上がった情也の元に、日野愛理が慌てて駆け寄ってきた。しつこい奴だ。
「なんだよ」
「ウチ、見ての通り先輩が一人もいないの。霧島が入ってくれないと、部員が四人のままでボーダーラインぎりぎりになっちゃうの。部活が承認される最低人数は四人って決まってるらしいから……」
「じゃ、俺がいなくても一応は大丈夫じゃねえか。頑張ってくれ」
「そんなこと言わないでよ!」
「……あのなぁ、いいか? 俺がお前らに力を貸したのは、あくまでも亜麻乃に受けた恩を返すためだ。演劇部のためじゃない。もう、亜麻乃への義理は果たした。じゃあな」
「何が義理は果たした、よ。そんな簡単に返せると思ってるの?」
「そんなのは亜麻乃自身が決めることだ。大体いまのお前に、義理や恩を説教される謂れはねえよ」
「うぐっ……」
「じゃ、皆さんご達者で」
そう言うと情也はさっさと廊下に出て、後ろ手に部室の戸を閉めてしまった。実を言えば椅子を離れた瞬間から現在まで、ずっと亜麻乃倫の視線が背中を追ってきていることに気づいていたのだが、あえて振り返らずにいた情也だった。
正直情也だって、この程度で清算が終了したということにはしたくなかった。亜麻乃倫と繋がっておく口実は無くなってしまう訳だし、そういう意味でもしばらくの間は“恩返し”を続けていた方がよかっただろうと思う。
だが『演劇部』という存在に関わりたくないのもまた事実だったのだ。自分自身の過去に関することというのは、そう簡単に割り切れる類のものではない。
それに踏ん切りをつける、という意味合いもあった。いくら亜麻乃倫が可愛くとも、自分なんかと関係が進展するなんていうことは、未来永劫有り得ない。下手な希望を抱き続けるより、さっさと繋がりを絶ってしまった方が情也自身のためなのだ。
情也はため息をつきながら、一人寂しく階段を下りて行った。
一階の昇降口前までいくと、そこで親愛なる大枝仁が待ってくれていた。互いに軽く声を掛け合ってから、上履きを靴に履き替え共に帰宅の途に就く。
間もなく夕暮れであった。校門をくぐって外に出ても、時たま運動部の生徒が体操服姿でタタタと情也たちの脇を駆け抜けていく。学校を取り囲む四方の道は、全て彼らの外周ランのコースとなっていた。仁はそれらを眺めながら、適当に口笛を吹いたりしている。
「長かったナ」
「思った以上にね。しかも、演劇部に入らないかって勧誘されちまったよ」
「やっぱりかー。で、返事はどうしたんダ?」
「断ったに決まってんだろ。演劇部にはもう関わらない。関わってたまるか」
「でもナー、そうすると倫チャンに会いに行く口実がなくなるんじゃないのか?」
意地の悪い笑みを浮かべる仁。
だから、倫ちゃん言うな。
「そういう仁こそ、また卓球部にでも入ったらどうなんだ?」
「幽霊部員になること前提でイイなら、どんな部活だろうと入ってやるヨ」
「何のために入部するのか分かんねぇな、ソレ」
などと終始馬鹿な話で盛り上がっていた二人だったが、直後に全く予想だにしない出来事と遭遇することになった。
突然の事態であった。何処からともなく「どけ、邪魔邪魔!」という叫び声が情也の耳に聞こえてきたかと思うと、振り返った次の瞬間には情也の視界いっぱいに体操服姿の男子が飛び込んで来ていたのである。回避する暇もなかった。
時速十数キロのタックルをもろに浴び、情也はまるで紙屑のように跳ね飛ばされた。現実感の希薄な空中浮遊は一瞬にして終わりを告げ、コンクリートの床に叩きつけられた全身が絶え間なく痛み始める。転がった先の地面で呻きながら立ち上がろうとしている情也の元へ、仁が心配して駆け寄ってきてくれた。その気持ちは嬉しかったのだが、同時に激突してきた張本人の放った言葉が最悪だった。
「っ痛ーな! どこ見て歩いてんだ、死ね!」
余りにも一方的な物言いに、情也だけでなく仁までもが眉をひそめる。
一応情也は仁に促され、こういう事態が起こらないよう道の端っこの方を歩いていたハズである。にもかかわらずこれほどの勢いで衝突されたとなれば、明らかに走ってきた運動部員側の不注意であった。
いやそれ以前に、仮にも公道となっている場所で、これほどまでの速度で走っていること自体がおかしい。学校に関係のない一般人だって通行しているのだ。しかし、その運動部員男子は全く悪びれる様子もないばかりか、情也に向かって吐き捨てるように言った。
「ったく、演劇部のクセに道の真ん中歩いてんじゃねーよ。騒音だけでもうぜーのに、通行の邪魔までしやがって」
そのまま立ち去りかけた相手に、仁がとうとう舌打ちをかまして詰め寄ろうとしてくれた。だがしかし、情也はソレを片手で押しとどめた。
「いいよ、仁」
「……ジョーヤ、本当に大丈夫か?」
「平気、平気。いつもの事なんだからさ」
そう言って服に着いた汚れを叩き落とすと、情也は立ち上がった。
いつの間にか、運動部員男子は影も形も無くなっていた。結局一言も謝っていかなかったが、ここまでくればいっそ清々しいぐらいだと思った。
それにしても情也は、世間から完全に演劇部の一員と見做されたらしい。
まったく。
これだから、演劇部は嫌なのだ。
「……行こう」
再三心配してくれる仁に念を押し、情也はさっさと帰りの道を歩くことにした。
それでもやはり、表情が暗くなっていたのか。
仁は途中で見かけた屋台に立ち寄ると、その場で情也にたい焼きを奢ってくれたのだった。
人の思いやりが骨身にしみる、春の日の夕暮れであった。
* * *
彩ヶ森高校での生活も、もう間もなく四週間が経とうとしていた。
月は変わって既に五月。あと二、三日もすればゴールデンウィークである。
ここまで来ると、教師陣の個性もある程度は知られるようになってきていた。情也自身、どちらかといえば教師という人種はあまり信用しない主義であるが、とりあえずクラス担任の須田教諭は嫌いではなかった。笑顔に屈託がないのだ。
他にも、教科外でいいなら図書室の司書の先生も良い人のように思えた。ちなみにこちらはまだ顔だけしか覚えておらず、名前が頭に入っていない。
それにつけても問題だと思ったのは、いま目の前で国語総合を教えている、二十代前半の姉川とかいう女教師であった。
何がどう問題かというと、
「先生、ここでワラシが出てきたのって、ヒロシに後ろめたさがあったからですよね?」
「その方が話の展開上、都合がいいからです」
「先生、ヒロシが母親に怒っていた理由がよく分からないんですが……」
「先生にも分かりません。先生、人の心情を汲み取ることが出来ない人間ですので」
そのインパクトたるや、情也でさえ一発で顔と名前を覚えてしまうぐらいだった。
とにかく感情の籠らない声で、アンタそれでも国語教師か? と尋ねたくなるような返答ばかりを淡々と朗読するのである。熱血過ぎて教室中をうすら寒くしてしまうような教師も嫌だったが、ここまで淡泊でやる気がないのもどうかと思った。
「せんせー、彼氏いるんですかー?」
「欲しいとも思いません」
そうかと思えば村岡のバカは便乗し、余計な質問までしているし。いい加減にしろ、このアホンダラ。
無気力すぎる姉川教諭は、チャイムが鳴ると同時に足早に教室を去っていった。
昼休みになってすぐ、情也は隣のクラスの仁と連れ立って食堂へと向かった。
食堂のラーメンを注文した仁に対し、情也は昨晩近所のスーパー『ベルセルク』で買っておいた菓子パンと惣菜パンを口にする。食堂の隅にある売店でも同じパンが売っているのだが、ここで買うよりスーパーで買った方がひとつあたり二十円も安かった。
最後に昨日のお礼ということで仁にバニラアイスを奢り、情也自身も便乗して抹茶アイスを食べ満足すると、情也は仁と別れて再び一人図書室へと向かったのである。
食後に図書室へと直行する路程は、ここ数週間で完全に習慣と化していた。
物音のしない廊下を通り抜け図書室内へと入ってみれば、そこには相変わらず数人程度の利用者しかいなかった。もっともこれは情也が来るのが早かっただけで、あと十分もすればより大勢の生徒がここへとやってくるのである。
「あ、いらっしゃーい」
「どーもー」
司書の先生とすれ違ったので適当に挨拶を交わす。この短期間で、完全に彼女と顔見知りとなってしまった情也だった。入館後しばらくの間は壁際の新刊コーナーを眺めていたが、次第に飽きてくると、気まぐれに図書室の奥の方へと入っていくことにした。何か珍しい本があるかもしれない、というただそれだけの理由だったのだ。
だから大和芽衣と本棚の角を曲がったところで遭遇したのは、全くの偶然であった。
彼女はその短い銀髪を揺らしつつ、どういう訳かたった一人で床をホウキがけしていた。特に掃除の時間という訳でもないのに、一体何故こんなことをしているのだろう。
彼女が演劇部だという事実を思い出して少しだけ躊躇した情也だったが、結局放置するのも気が引けたので、遠慮がちに声をかけてみることにした。最初のうちは気付かれなかったが、何度目かの呼びかけでようやく動きを止め、こちらを向いてくれた。その表情は相変わらず『無』だった。だから怖いってば。
「えっと、大和、何してんの?」
「…………掃除」
そのぐらい分かるわ。
「そうじゃなくて、どうしてこのタイミングで掃除なんだ? 今まだ昼休みだぞ」
「…………先生が」
誰の事だ、と一瞬思ってしまったが、この場合はたぶん司書の先生だろう。
「先生がどうしたって?」
「…………そこですれ違ったとき、『この辺は埃が凄いよ』って私に呟いた」
「うん」
「…………」
「……え、終わり?」
「…………終わり」
「終わりかよ⁉」
「…………きっと、綺麗にしておいてほしいという婉曲的な依頼」
これには驚かざるを得なかった。どう見積もっても大和芽衣の早とちりである。
おそらく司書の先生が独り言のつもりで呟いた内容を、目の前の少女は自分への指示だと勝手にそう解釈したのだろう。いくらなんでも、委員でも何でもない生徒にいきなり掃除を押しつけるとは考えにくい。
「大和、それ絶対お前の勘違いだぞ」
「…………そうとは限らない。それにもし依頼を放置したら、気が利かない子だと思われるかもしれない」
「いやいやいや」
断言してもよいが有り得ない。そんな遠回しな指示があってたまるものか。
「…………少しでも可能性があるなら、やっておいた方が無難」
「お前なぁ……まさか、演劇部に入った理由もそんなんじゃないだろうな」
「…………」
「おい、そうなのかよ」
だがしかし、大和芽衣は無言で首を横に振るのだった。だったら何だというのだろう。
「…………中学校の頃、美術展で賞を貰ったことがある。それが理由で誘われた」
「ああ、なるほど。お前は裏方要員だったのね」
思えば先日の劇で使っていた舞台セットも、部室の荒れ模様からはちょっと想像できないぐらい綺麗だった気がする。あれはおそらく、大和芽衣が作ったものだったのだろう。
たった一週間程度でああいうものを生み出してしまうとは、素晴らしい腕前である。
「……でも、お前に入部するメリットなんてあったのか?」
「…………演劇のような格式ある部活動なら、私にもふさわしいと母さまが」
「実情を知られたら即刻退部させられそうな空気だな、オイ」
情也の目から見ても、この学校の演劇部は特別格式が高いようには思えなかった。むしろどっちかと言えば、かなり底辺の方を彷徨っている気がする。
それにしても「母さま」か。大和芽衣が、そういったことを気にするタイプの親を持っていたとは。噂に聞くことはあっても、今まで実際に身近にいたことはなかった。彼女は彼女で大変なんだろうなと情也はひとり勝手な想像で天井を仰ぎ見ては、この世の不条理に想いを馳せたりした。
すると大和芽衣は、そんな情也の腕をチョンチョンと突いてきた。何の御用で?
大和芽衣は例によって情也の顔を凝視していた。それから黙って後ろを向くと、そちらにあった一枚の貼紙を迷うことなく指さした。
『しずかに』
「いや、今更かよ⁉」
突っ込まずにはいられない情也だった。
その後情也は大和芽衣に別れを告げると前から興味のあった本を探し出し、それを借りて図書室を十分足らずのうちに出たのだったが、その際、貸出作業をやってくれた司書の先生に、本棚の向こうでの大和芽衣の行動を余すところなく報告しておいた。司書の先生は話を聞いて慌てて彼女のいた方向に走っていったぐらいだから、まさに大和芽衣の勘違いだったのだろう。気が利きすぎるのも考え物である。美点と言えば美点なのだが。
そう思うことにして、情也は静かに教室への道のりを歩いた。だが情也にとって、その日の事件はまだ終わりではなかったのである。
結論から言えば、亜麻乃倫と再会したのである。それは情也が借りた本を読みつつ、二宮金次郎のごとき姿勢で教室へと向かう真っ只中の出来事であった。
図書室のある北校舎から、一年B組がある南校舎二階へと続く渡り廊下に足を踏み入れたところ、そこで丁度一人の女子生徒が立ち往生しているのに出くわしたのである。その後姿に何やら見覚えがあると思ってそっと横顔を覗き込んでみれば、情也としては嬉しいことに亜麻乃倫その人だったのだ。
「おーい、亜麻乃ー?」
「わっ、きっ、霧島、さん?」
「どうしたんだ、こんなところで立ち止まって」
「あの、それが、えと、その、」
亜麻乃倫がおずおずと廊下の向こうに視線をやったので、情也も彼女につられてそちらを見てみた。するとどうだろう。情也と亜麻乃倫のいる十メートルほど先の廊下のど真ん中で、如何にも軽薄そうな面構えをした男子のグループがギャハハと大きく下品な笑い声を上げて、その空間全体を占領しているではないか。
お喋りするのは結構なことである。だが、場所ぐらいは考えてほしいというものだ。
おそらくあれは二年生の生徒だろうが、あんな図体のデカい男子が五、六人も群れて廊下の真ん中で固まっていたら、特に亜麻乃倫のような気の弱い人間は通り抜けることさえ出来なくなってしまうではないか。悪意があるとは思わないが、せめてもうちょっと周囲の人間に気を配ってほしいと思うのである。現に、情也もちょっと怖いと感じるし。
「邪魔な連中だなぁ……」
「で、でもあの、勇気を出せば大丈夫、ですよね、きっと、うん」
「いや、勇気って」
「よ、よーし……あ、あの、えっと、あ、ぁのっ……!」
涙ぐましい努力だったが、正直蚊の鳴くようなその声は、廊下の向こうでけたたましい声を上げ談笑する上級生男子たちの、ただ一人の耳にさえ届くことはなかった。亜麻乃倫の声が小さすぎるのか、上級生たちの話し声が煩すぎるのか、何の効果も得られないその光景を見ていると、情也は次第に居たたまれない気分になってくるのだった。
この状況、どうするべきか。情也は亜麻乃倫と同じように、採るべき選択肢が分からずに都合二十秒ほど右往左往した。そして、やがて決心をつけると徐に亜麻乃倫の腕を掴み、強引にその場から引き離すことを選択した。
当然、予期せぬ事態に驚いたのは亜麻乃倫のほうで、
「えっ⁉ あ、あの、えっと、そ、その……」
「悪いな。でも、こうした方が手っ取り早いと思うんだ」
情也は亜麻乃倫を力ずくで牽引すると、そのまま階段を下り、先日彼女らが発声練習をしていた一階の渡り廊下を通って、教室のある南校舎側へと戻ったのである。大きく迂回路をとる形になったが、少なくともあの上級生たちが話し終えるのを待っているよりはよっぽど建設的な案だったことだろう。
中庭に面した渡り廊下から、校舎内へと入ったところでようやく情也は、亜麻乃倫の手を離すことが出来た。余りにも突然の出来事に、亜麻乃倫はただただ茫然とした様子だった。正直情也だって、自分があんな強引な手段に出るとは思いもしなかった。
「ゴメンな、亜麻乃。でも、ああした方が早かったんだ」
「え、えっと、あの、」
「余計なお世話かもしれないけどさ、無理だと思ったら逃げればいいよ。回り道でも何でもあるんだからさ。無理して正面から行こうとして、大怪我したんじゃ笑えないからさ」
「……あ、ありが、ありがとう、ござい、ま、ますっ」
そう言ってピョコリと頭を下げる亜麻乃倫。これを見るのも何度目だろうか。
「亜麻乃は、本当にいつも一生懸命だよなぁ」
「ゆ、勇気を、出せるようになりなさい、って、愛理さんに、言われた、から」
「……あのバカ、まだそんなことを」
「で、でも、わたしが演劇部に入ったのも、そのため、だから」
そう言って俯き気味になる亜麻乃倫。それは初めて聞く情報だった。
勇気を出せるようになるため、演劇部に入る。例の騎士王コスになったときの彼女の様子を思い返せば、その意図は確かに間違ってなかったとも言えるだろう。だがアレは、いわばトランス状態のようなものであり、特殊なケースのハズだ。平常時にまで無理を強いるのを、情也はあまり勧める気にはなれない。
「……始業式の日、わたしのためにあそこまでしてくれた、愛理さんを見て、思ったんです。この人なら、わたしを、強く、してくれるかも、って」
「うーん、強くしてくれるっていうか、アレはあまり参考にしない方が良いような……」
「それより、も、」
「ん?」
「霧島さんは、どうして、演劇部に、入らないんですか」
「む……いや、その、」
「どう、なんですか」
直球の質問に、情也は少しだけ戸惑った。この少女に自分の過去を語るべきなのだろうか。
迷って思わず亜麻乃倫のほうをチラ見したところ、こちらをジッと見つめていたその視線が情也のソレと交わった。途端に頬を染めて顔を伏せてしまう亜麻乃倫。可愛かった。
はぁ、と情也はため息をついた。仕方ないなあ。重ねて、自分は甘いと思う。
「……まぁ簡単に言っちゃえばさ、中学で色々とあったんで、演劇部ってもの自体が好きになれないんだ。嫌なことが多くてね。ただ、それだけの話だよ」
「そうなんです、か」
「うん」
亜麻乃倫はまだ完全に納得した様子ではなかったが、煎じ詰めれば実際そんなところだ。少なくとも今ここで、長々と自分の過去について語りだす必要もないだろう。
すると少しの間考え込んでいた亜麻乃倫が、もう一度情也に向かって頭を上げてきた。
「ありがとう、ございました。きり――あの、じょ、じょ、じょ、」
「?」
「じょ、情也さんっ!」
「ん? ああ、どういたしまして」
「あの、情也……さん、わたし、決め……ました」
「へ?」
「わたし……情也さん、がもう一度演劇部に、来たいって思えるように、頑張りますから」
「あ、そ、そう? ありがとう……」
「それじゃ、えっと、さよう、ならっ」
そうして三度頭を下げてきた亜麻乃倫。それだけ言うと、ササッと階段を登っていって、情也の視界から去ってしまうのだった。なんだったんだろう。
「まあいいか」
そう言って考えるのをやめた情也だった。この際、嫌われたのでなければ何でも構わない。
少なくとも彼女は自分に、「情也さんが演劇部に来たくなるよう頑張る」とまで言ってくれたのだ。物凄く嬉しい言葉ではないか。これを収穫と言わずしてなんと――。
――待った、『情也さん』?