第01話 復活・後編
* * *
突然だが、困ったことになった、と情也は思った。
今は一時間目の休み時間。机の上に置いた自分の通学鞄を見つめて、一人で頭を抱える。
彩ヶ森高校で始業式があったあの日から、既に一週間が経過していた。その後特に大きな出来事があった訳でもなく、高校の授業も通常通りに始まって、情也は順調に新しい生活に馴染み始めていた。
だがしかし、ココに来てひとつ大変なことが判明してしまっていた。
情也が鞄につけていたハズの、大切なキーホルダーが無くなっていたのである。
それも、ただのキーホルダーではない。十数年前から子供たちの間で大人気の怪獣キャラ「ゴジガメくん」を可愛らしくデフォルメした、限定生産五十個の超激レア物だった。しばらく前に雑誌の懸賞で運よく手に入れたのだが、高校入学にあわせて幸運のお守りにでもなればいいなと思い、通学鞄に取り付けておいたのである。
だがしかし、それはいまや影も形もなくなってしまっていた。一体いつ紛失したものやら、さっぱり検討がつかなかった。
情也は正直とても落ち込んでいた。せっかく手に入れたものなのに、と。
「――のぅ、」
何処かで落としたのか、あるいは盗まれたのかは不明だったが、こんな簡単に無くなってしまうぐらいであれば鞄につけたりせず、いっそ自宅の棚にでも飾っておけばよかったと、今更ながらに後悔した。
もし仮に誰かに拾われたとしても、その価値を知っていれば、そのままネコババされても不思議ではないだろう。やはり限定品というものは保管するのがセオリーなのである。
「――ぁのぅ、」
はぁ、と情也はため息をついた。入学早々、本当についてない事だらけだった。
そのまま机に突っ伏し、不貞寝しようとして、
「――あのうっ、すみ、ませんっ!」
いきなり耳元で大声がしたので、ビックリした。
情也は思わず椅子から転げ落ちそうになって、半分ずり落ちた状態から慌てて机にしがみつくと体勢を元通りにした。それからハッとなって自分の傍らを見やる。教室に残っていた三十名近いクラスメイトのお喋りがほぼ同時に止んだかと思うと、その好奇の眼差しが一斉にこちらを向いてきていた。
そこにあったのは、教室中から降り注ぐ視線の全てをその小さな背中で受け止めつつ、体を小刻みに震わせながら必死そうに情也を見つめてくる一人の少女の姿であった。
「あ、亜麻乃……でいいんだよね?」
情也は思わず確認してしまった。
そこに立っていたのは紛れもなく、亜麻乃倫その人であった。ウェーブがかった綺麗な髪の毛とくっきりした目元が特徴的であるが、相変わらず若干うつむき加減だったので、顔を確認するのに少々手間取ってしまった。ただでさえ情也は他人の顔や名前を覚えるのが苦手なので、そうされると非常に困ってしまうのである。
もっとも亜麻乃倫の場合、見た目よりも何よりも、常にその身を縮こまらせて怯えているという特徴があったので、彼女を彼女と認識させたのはむしろその言動であった。
それにしても一体何故、亜麻乃倫がこの教室にいるのだろうか。
「あの、これ、この間、の、」
「……あ」
そう言って亜麻乃倫が恐る恐る差し出してきたのは、なんと情也が無くしたと思っていたあのゴジガメくん限定生産キーホルダーであった。
永遠に失われたものかと思っていたら、まさかこんな形で返ってきてくれるとは。
「落し物、だと思ったから、返さなくちゃ、と、思って、その、」
「……もしかしてこの何日か、ずっと機会を窺ってたの?」
「あの、えと、それは、その、」
なんということだ。
このキーホルダー、おそらくは先日彼女と衝突した際に転げ落ちたのだろうが、そのことで結果的に、情也に亜麻乃倫と再会できるという幸運を運んできてくれたのである。幸運のお守り、などというのはこちらで勝手に付け足した設定でしかないというのに、なんという働きっぷりであろうか。
いやこの際、そんなことはどうでも良かった。
それよりも着目すべきは亜麻乃倫の親切心である。今この瞬間もその小さな背中を無数の視線に震わせつつ、情也にこんなちっぽけなキーホルダーひとつを渡すためだけにこの教室へとやってきてくれている。見るからに人が苦手そうなのに、だ。
これはもう、何かお礼をしなければ情也の気が済まなかった。
というか是非させてください。
とりあえず、この興味本位の野次馬どもから亜麻乃倫を遠ざけたほうがいいと思い、情也は立ち上がると彼女を促し教室の外まで歩いていった。終始何やら妙な視線が追跡してくる気配がしたが、一切気付かないフリをしておいた。
教室の後ろにあるドアから廊下に出ると、情也はさっそく亜麻乃倫に向かって頭を下げ、心の底からお礼を言った。
「ありがとうね。ワザワザこんな物のために」
「あ、あの、わたしも、たすけ、助けてもらった、から、その、」
「良かったら今度、何かお礼でもするよ。君ってクラス何処なの?」
と、情也はさりげなく亜麻乃倫との繋がりを保とうとしてみたりした。一応本心から出た言葉ではあったのだが、なんだかこれじゃ恋愛ゲームの主人公みたいだな、と情也は言った後でそう思った。
流石に積極的過ぎただろうか。ガラじゃないとは自分でも思うのだが。
「えと、あの、C組です、が。そんな、こっちこそ、お礼なんて、その、」
「あー……。まぁ、物じゃなくてもいいよ。何か困ったこととかあったら力になるからさ。この教室か、図書室来てくれれば、いつでもいるからね」
「あ、はい、その、ありが、ありがとうございましたっ!」
そう言って亜麻乃倫はぴょこりと頭を下げたかと思うと、急いで逃げるかのように自分の教室へと帰っていってしまった。
しかし、本当に可愛い。まるでハムスターでも見ているような気分だ。
とっとこ逃げるよ亜麻乃倫、なんて。
心底くだらない冗談を考えて一人で笑いつつ、情也自身も教室へと戻っていった。
そして、思った通りの面倒事が待ち構えていた。
情也がドアを開け中へと入った途端、さっきまで亜麻乃倫の背中を視線の雨で突き刺していた連中が、今度は一斉に情也のほうをチラチラと盗み見始めたのである。どうにも好きになれない視線であった。
別に悪いことをした訳じゃあるまいに。
そう思っていると、その中の一人がニヤニヤと笑いながら情也の元に近づいてきた。
「なんだよ霧島、お前高校入っていきなり告白されたのかよ」
戯言をほざいているその男は村岡といって、情也や仁と同じ中学校に通っていた知り合いの一人であった。なお、あくまでも“友人”と表現しないのは、単に情也がその男を好きではないからである。中学時代、村岡が目をつけたクラスメイトの一人に何をしでかしたか、情也は決して忘れることが出来なかった。
「いやいや、単に落し物届けてくれただけだから」
「照れちゃって、このこの~」
そう言って肘で小突いてくる村岡。
一見すると仲のいい間柄っぽく見えてしまうが、そのかつての言動を鑑みると、イマイチ素直に笑い返す気にはならなかった。如何にも作り笑いになってしまう。情也は感情を隠すのはあまり得意ではなかった。
それでもどうにか村岡のちょっかいを流しつつ、自分の席へと戻ってすぐ次の授業の準備でもしようかと考えていると、そこへまた誰か別の人物が近づいてくるのが分かった。今度はなんだよと思い振り返ったところ、情也にとっては少々意外な人物がいたので驚いた。
それはなんと、怪傑ラブこと日野愛理だったのである。
彼女は何やら難しい顔をしていた。自分の元へ来た理由がとんと分からず、情也が呆けたような表情になっていると、日野愛理は若干躊躇いつつも決心したように言った。
「えっと、アナタ……霧島情也、だっけ?」
「……そういうお前は怪傑ラブだっけ?」
「茶化さないで。真面目な話よ」
自分で名乗ったんじゃねえかよ、と情也は密かにツッコミを入れた。というか、いつの間に名前を憶えられてしまったのだろうか。不幸だ。
「で、俺に一体何の用だ」
「アナタ、倫にキチンとお礼言ったの?」
「倫……? って、ああ、亜麻乃のことか。それがどうかしたのか」
「いいから答えてよ」
「……何でお前に、そんな尋問されなきゃいけないんだ」
「心配して当然でしょ、倫はウチの部の一員なんだから」
「へぇ……って何⁉」
聞き捨てならない台詞を聞いた気がした。
ウチの部の一員? ということは、亜麻乃倫はもしや……。
「だから言ってるでしょ。倫は演劇部の仲間なの。心配するのは当たり前」
なんということだ。
事態が一気に面倒になってきた予感がして、情也は心なしか眩暈を覚えてしまった。それでも何か言わない訳にはいかないので、
「お礼ならちゃんと言ったよ……。あんな必死そうになってまで来てくれたのに、言わない理由がない」
「だったら良いのよ。ホント、この間からずっと教室の前で頑張ってたのに、何も言わないで受け取ったりしてたら、どうしてやろうかと思ったわ」
さり気なく物騒な発言をする日野愛理であった。
…………ん?
「おい、ちょっと待て、お前いま何て言った」
「だから、何も言わないで受け取ったりしたらどうしてやろうか、って」
「違う、その前だ」
「え、だから、この間からずっと教室の前で頑張ってた、って……」
「お前、それが分かってたなら何で俺に教えなかった?」
心配する、とか、頑張ってた、とか言うのだから日野愛理だって、亜麻乃倫が対人コミュニケーションスキルの高くないことぐらいは承知しているハズなのである。しかしそれなら何故、亜麻乃倫が数日前から情也に対して接触を図りたがっているということを知らせようとしなかったのか。ひとこと言ってくれさえすれば、情也が教室の外まで赴いてそれで話は済んだハズである。少なくともそうすれば、亜麻乃倫が大勢の好奇の視線に晒されることはなかっただろう。
すると日野愛理は、
「だって、一から十まで面倒見てあげちゃったら、あの子の為にならないでしょ。少なくともあの子は、もっと人前に出る勇気を身につけなきゃ駄目なんだから」
そんなことを平然と言ってのけたのだった。
ソレを聞いて情也は何故か、腹の底からふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。
「お前、何考えてるんだ。亜麻乃があんなツラそうにしてるのが分かってて、どうして放置なんか出来るんだよ。心配だってのは口先だけなのか」
「だから、そんな一時的に助けたって、本質的には何の解決にもならないでしょ。あの子は勇気を出せるようにならなきゃ、この世界で生きていけないんだから」
「人間に弱い部分があるのが、そんなに悪いことなのか。互いの弱い部分助け合うからこそ人間じゃないのか。それともなにか、大事だってのは部員としてのアイツだけで、声も出せないなら用は無いってそういうことか」
「誰もそんなこと言ってないでしょ、勝手に決め付けないでよ」
「お前にだけは言われたくねえよ」
「何よ!」
「何だよ!」
情也は日野愛理と激しくにらみ合い、バチバチと火花を散らした。
まさしく一触即発の事態であった。
これは後になってから気付いたことだったが、そもそも情也が感情むき出しで他人と言い争うなどということ自体、本来ならば天地がひっくり返ろうとも有り得ないような出来事であった。その違和感の存在を、もっと早く察知しておくべきだったのである。
それはともかくとして、
「……あー、そこの二人、いいかな」
急に教壇の方から声がして、情也たちはハッと我に返った。
気がつけば、亜麻乃倫のときとは比べ物にならないほどの注目が、情也たち二人の元へと集まってきていた。それもそのハズで、教室の片隅で新学期早々、男子と女子が大声で諍いを起こしていたら気にもなるだろうと思った。
しかも知らぬ間にチャイムが鳴っていたらしい。今は授業中なのだった。
「えー、何があったのかは知りませんが、生徒同士のケンカは休み時間のうちに終わらせましょう。では、号令」
などと言って、髪の生え際が後退した四十代半ばの数学教諭はひどく機械的に授業を進行しようとしていた。
確かに、これ以上周囲の連中を待たせてまで言い争い続けるのは気が引けたので、情也は大人しくそれに従ってケンカ相手と殆んど同じタイミングで「ふん」とそっぽを向き合うと、そのまま押し黙ってしまった。
それから放課後まで、二人は互いにひとことも口を聞かなかった。
* * *
「けっ、なんでぇなんでぇ」
などと適当な江戸っ子口調で不平を垂れつつ、情也は一年A組の方へと向かっていた。
アレから実質にして六時間ほど経過していたが、未だに情也の腹の虫は収まらなかった。
目の前に困っている人間がいたら、良い悪いなんて考えずにさっさと助けてやればいいのである。日野愛理自身だって、ついこの間はそうしていたハズだ。
それがなぜ、見知らぬ人間への恐怖心で立ち往生している人間を数日もの間放置する結論に達するのか。部活の仲間だというなら尚更である。情也には理解が出来なかった。
少なくとも情也は腕力がないと自覚している分、小さな親切心でどうにかなるようなことならいくらでも力を貸そうと考える性質である。それゆえか、もっともらしい大義を掲げて目の前の弱者を見捨てるような人間を見ると無性に腹が立つのだった。
先日は上級生をねじ伏せてまで理不尽を許さなかったくせに、今回はあの態度。日野愛理の思考回路はどうにも理解しがたかった。
「おぅ、ジョーヤ。何難しい顔してんだよ」
「あー、仁……」
いつの間にか目の前の教室からは、がっしりと背の高い親友の男が姿を現していた。
「あれ、お前鞄は?」
「いやー、帰る前に係の仕事しなくちゃいけなくってさ。ジョーヤ、お前のクラス担任どこにいるか知らない?」
そう言ってポリポリと頭をかく我が親友、大枝仁。なんでも世界史担当の教員に、明日の授業で何が必要だったかを聞きにいかないといけないらしい。
どこにいるかと聞かれたって、放課後なんだから職員室だろうと情也は思った。
「いや、職員室はさっき行ってきたんだけど見当たらなくってサ。ほかに、須田サンの行きそうな場所心当たりない?」
「心当たりったって……」
あ。
一箇所、あった。
余り思い出したくない情報だったが。
一年B組の担任こと世界史担当の須田淳一は、演劇部の顧問をやっていたのだった。
* * *
北校舎の最上階を訪れてみると、二人の前に差し渡し三十メートルはあろうかという長い廊下が出現した。ここらにもなると部室や特別教室ばかりになっていて、それらと無関係な生徒の姿は殆んど見当たらない。
その廊下の、情也たちがいる階段側から見て左方向にある引き戸のひとつに、『演劇部』と銘打たれたプラスチック製のプレートが掲げられていた。
不本意ながらも、とうとうココまで来る羽目になってしまった。
やはり何らかの意思が働いているということなのだろうか。
「はー、しかしヒトいないネ」
「その割には随分とやかましいけどな。あっちは音楽系の部活やってるみたいだし、こっちなんて生徒会室って書いてあるぞ」
「基本賑やかな連中が集まる場所ってワケだ」
「演劇部にはお似合いだろーよ」
そんなことを話しつつ情也は仁を伴って演劇部室の方へと歩いていくと、ドアの前で立ち止まって、若干薄汚れた木製のドアをコンコンと叩いた。
「はーい」
そんな澄み切った感じの声が聞こえてきた。おそらくは女子だろうが、日野愛理でないことだけは確かであった。まぁ、演劇部向きの声ではあると思った。
だとしてもごく最近、何処かで聞いたことのある声のような気がしたのだが、果たしてそれは情也の思い違いなのだろうか。
その答えはドアがガラリと音を立てて開けられて、すぐに明らかとなった。
そこに、瀬野宮優子が立っていた。
あの日野愛理の旧友らしき人物であり、そばかす持ちという若干ハンデのありそうな外見ながらも、非常に礼儀正しい態度で好印象を抱く一年B組の女子生徒の一人である。
彼女は情也の姿を見るなり、かなり驚いた様子であった。
「あ、えっと……」
「あぁ、突然ごめんね。ここにウチのクラスの担任いない? あの人、演劇部の顧問だよね」
「あっ……、こっちこそ驚いてごめんなさい」
そう言って相変わらず礼儀正しそうに、ペコリと頭を下げる瀬野宮優子。
謝ることはないと思った。むしろ驚くのは当然である。なにせ自分の旧友と朝っぱらから大ゲンカを繰り広げていたような相手なのだ。それも男子。見知らぬ人間なら猶の事、お礼参りか何かだと疑われても仕方ないだろう。多少警戒するぐらいが自然な反応である。
にも関わらず瀬野宮優子は、心の底から済まなそうな顔をしていた。
「まだちょっと、須田先生は来ていないんです。何か用なら、伝えておきましょうか?」
「いや、コイツがちょっと係の仕事でね……」
「どもー」
そう言って仁は、情也に紹介されるやいなや瀬野宮優子に対して軽い感じで手を振ったりしていた。こうして見るとひどく軟派な感じがしないでもない。思った通り、瀬野宮優子は対応に困ったのか遠慮がちに再度お辞儀を返していた。どう見ても警戒されていた。
こんな珍客ふたりを前に、他の部員たちは一体どういう反応をしているのだろうか。
情也は自分とあまり背丈の変わらない瀬野宮優子の前からちょこっとだけ体を横にズラすと、そっと部室の中の様子をうかがってみた。
小汚く、やたらだだっ広い室内には二名の女子部員の姿が見えた。
二人の部員のうち一人は、全く見知らぬ人物であった。おそらくは女子なのであろうが、純白の衣装に身を包んだ上で目の下辺りに黒い縁取りのメイクをしており、両手足と胴体には英国の博物館にでも飾ってありそうな銀色の鎧を装着していた。
その長い黒い髪の毛は全体的に後方に流されており、見方次第では黒いマントを羽織っているかのようにも見えた。カッコいいといえばカッコいいのだが、正直よく分からない格好だった。洋モノのファンタジーでもやるつもりなのだろうか?
それにしても、随分と凛々しい出で立ちの少女である。亜麻乃倫とはまるっきり正反対のタイプだな、と情也は思った。
そしてもう一人はというと、なんとこちらは先日図書室で遭遇した、あの銀髪無表情少女であった。意外といえば意外だったので情也は少し驚いた。名前はまだ知らないが、今現在も本を手にしていることから少なくとも読書好きなのは確定のようだった。
相変わらず無口を貫き通しており、椅子に座って微動だにしないまま、時折手元を動かしてはパラパラとページをめくる音だけを響かせている。実に無機質な印象だ。面白いとか、つまらないとか、せめてもうちょっと表情に出ないものだろうか。
ふと、銀髪無表情少女が顔を上げてこちらの存在に気が付き、それにつられて隣に座っていたファンタジー騎士風の少女までがこちらを見て、ハッとした表情になった。別に怪しいものではないです。
いささか情也が残念だと思ったのは、そこに本来いてもいいハズの亜麻乃倫の姿が、全く何処にも見当たらなかったことである。同じくこの場にはいない、日野愛理に連れ回されでもしているのだろうか。いずれにせよ会えない事に変わりはない。
情也は頭を振りつつ、諦めろと自分に言い聞かせた。別に再会できたところで、何か劇的なロマンスが待っている訳ではないのだ。そんな希望はとうの昔に捨て去っていた。
情也は瀬野宮優子に向かってもう一度謝ると、仁を連れてその場を立ち去ろうとした。
「じゃあ、お騒がせしました。亜麻乃が戻ったらよろしく言っといてください。それじゃ」
「え? ああ、はい。それじゃあ――」
「――お待ちくだされ、霧島どの」
そんな声がした。不意を突かれて、情也は驚きながら振り返る。
演劇部室の入り口前に、例のファンタジー騎士少女がこちらを見つめながら立っていた。ニッコリと微笑みながら情也を見るその視線は驚くほど真っ直ぐで、情也はそれを直視することに若干の躊躇いを覚えた。
いま、この少女は自分の名前を呼んだだろうか?
だとすれば、どうして名前を知っているのだろう。一応初対面のハズなのだが。
「霧島どの、先日は本当に感謝し申した。今朝かけてくれた言葉といい、そなたの親切心には心から尊敬の念を抱かされる。拙者、感激の至りでござる」
いきなりそんな風に言われて、情也は戸惑わずにはいられなかった。
感謝? 一体何の話をしているのだろう。それ以前にこの少女は誰なのだろうか。
分かったフリをして会話を続けるのも気が引けたので、情也は素直にそのことを口にした。
「あ、えっと……失礼ですが、どなたさま?」
「う、これは何ということ。先日からあれほど頻繁にお目にかかっているというのに、まだ顔も覚えて頂けておらぬとは。これというのも拙者の不徳の致すところ……」
何の話をしているのやら皆目見当もつかなかった。
こんな魔術戦争用に召喚される古代の騎士王の英霊みたいな格好の女の子に、自分はただの一度でも出くわしたことがあっただろうか。いや、絶対に有り得ない。秘密保持のために情也が記憶を抹消されたとかならば別であるが。
しかし尚も、ファンタジー騎士少女は未練がましそうに言うのだった。
「つい今朝方も、霧島どのに落し物を届けて差し上げたばかりでござるのに」
そう言った。
…………。
…………はい?
…………。
「亜麻乃⁉」
「おぉ、やっとお気付きになられたか。いやはや、一安心でござる」
「いや、普通分かんねぇよ⁉」
思わず声が裏返ってしまうほどの衝撃だった。
いやいや待て、一体コレは何の冗談なのだ。目の前のファンタジー騎士風味な格好をした少女が、あの亜麻乃倫? にわかには信じられなかった。
まず第一に、口調が違う。亜麻乃倫はこんな侍みたいな喋り方ではなかった。
そして第二に、こちらを見る視線の強さが違う。亜麻乃倫を特徴づけていたハズの、あのひどく気弱そうな態度が欠片も残さずに消え失せていた。
情也の知っている、あの小動物のような亜麻乃倫は一体何処へいったのだろうか。
情也はしばしの間呆然とし、現実を受け入れることが出来なかった。
いや、自信がついたこと自体は大いに結構なのであるが、その代償として元の人格が影も形もないというのは正直いかがなものなのだろうか。一体どうなっているのだ。
「うーむ、それが拙者にも分からんのでござる。それまでは霧島どのも知っておられるように周囲に怯え、不安で不安でたまらなかったのでござるが……何故かこの衣装を着た途端、拙者の内側から何か見知らぬパワーが湧き上がってござる」
「……それは……良かったね」
「うむ、これで霧島どのにも面と向かって礼が言えるでござるな。ありがとうでござる!」
そう言って亜麻乃倫(仮)は情也と目を合わせ、パァッと破顔一笑した。
確かに超可愛かったし、これはこれで一定の需要があるだろうと思った。けれども情也はその様子を見て、何故か一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
どうでもいいが、自分は一体何を独白しているのだろうか。
「ちょっと、人の部室の前で何やってんの?」
何やら呆れたような声がして、振り返ってみるとそこに日野愛理が立っていた。
こちらを見て怪訝そうな顔をしているが、別段昼間の出来事を引きずっているという感じではなかった。むしろ情也たちが部室の目の前で立ち往生している、そのことのほうが気に入らない模様だ。
情也は素直にすぐ道をあけたが、同時に亜麻乃倫(仮)のほうを指差して訊ねた。
「ええと……コレ、一体どうしたの?」
「ふん、だから言ったでしょ。倫はやれば出来る娘なの。ただ、勇気が出せないだけ」
「恐悦至極にござる」
「…………あ、そう」
胸元に手を当て恭しく礼をする亜麻乃倫(仮)の姿を見て、情也はもはや返す言葉も見当たらなかった。目の前を得意げに通り過ぎていく日野愛理に対しても、情也は何も言えずにただ見送るしかない。
そんな中ゆっくりと階段を登ってくる音がして、そちらに注目してみれば丁度探していた須田淳一教諭のご登場であった。
たぶん目的地はこの部室だろう。それまでただ会話を見つめていただけだった仁が、本来の目的を思い出したのか彼の元へと駆け寄っていく。情也はその後ろ姿を見ながら、深々とため息をつかされていた。
何だか今回、一番の被害者は自分だった気がする。
そんな風に思っていると、後ろから亜麻乃倫(仮)が声をかけてきた。
「霧島どの、霧島どの、」
「……なんでしょうか」
力なくそう答えた情也は、体の向きを反転させてすぐにドキリとした。亜麻乃倫(仮)がいつの間にか、ごく至近距離に立って情也のことを見上げてきていたのである。密着寸前となった彼女の髪からは、微かに甘い香りまで漂ってきていた。
「そんなに余所余所しくしないでほしいでござる。ときに霧島どの、来週のお時間はいかがでござるか?」
「へ……?」
「実は来週末、この下の教室を使って短編劇の上演をするでござる」
「へ、へぇ……。つまりアレか、部の存続のためには活動実績を、ってことか?」
「お察しの通り。四月中に何か劇を上演しなければ、演劇部が廃部になってしまうでござる」
「その派手な格好からすると、亜麻乃が主役なのか?」
「そうでござる! 拙者の晴れ舞台でござる! 楽しみでござる!」
そう言って、今までにないほどキラキラと目を輝かせる亜麻乃倫(仮)。やはり普段怯えたようにしている分、こういったかたちでも自分を表現できるということは嬉しいことなのだろうか。よほど解放感を覚えているんだろうな、と情也は思った。
「そういう訳なので、是非とも霧島どのにも観に来てほしいでござるよ!」
「あ、いや、俺もう演劇は、」
「後生でござる!」
すると亜麻乃倫(仮)はとんでもないことをした。情也の手をとって握り締めるやいなや、ぐっとその顔を近づけてきたのである。そんな超至近距離から顔を覗きこんでこられるのははじめての経験だったので、情也は不覚にも心臓が高鳴ってしまった。
いつもの亜麻乃倫とは違うハズなのに。
だがそれでも、半ば覗き込めるほどの位置で輝いていた彼女の瞳には抗えなかった。これ以上は理性が保てそうにない。情也はがっくりとその場にうなだれた。
「あー、分かったよ……気が向いたら、ね」
「ありがとうでござる! 待ってるでござる!」
亜麻乃倫(仮)は顔一面に花のような笑みを咲かせた。
その一挙手一投足が、情也の心中を着実にかき乱していた。やはりこの少女は他の何者でもなく、亜麻乃倫なのだ。情也の好みにど直球で突っ込んできた、女の中の女なのだ。それには逆らいようがない
「……ほら、倫。そろそろ部室に入って。練習始めるわよ」
彼女の背後から、何故か日野愛理の若干不機嫌そうな声がしてきた。亜麻乃倫はもう一度だけ情也に向かって頭を下げると、手を振りながら颯爽と演劇部室に帰っていった。
続いて顧問の須田が中へと入っていき、後から扉がゆっくりと閉まる。
廊下はようやく静かになった。考えてみれば、凄いことになっていた。
一体全体、演劇部の連中は何をやって亜麻乃倫のあんな側面を開化させたのであろうか。部室内の様子が否応なしに気になる情也だった。
情也がポカーンと口を開けたままその場で突っ立っていると、後ろから仁に肩を掴まれた。
「……ホレたな?」
「ばっ、黙れお前」
「いやー、ビックリだわ。ジョーヤにもこんなすぐに春が来るとはナァー……」
「だからそんなんじゃねぇっつーの」
「いっそ腹括っちゃえよ。部活なんかやらなくたって、あの子と付き合ってイチャイチャし続ける三年間ってのも充分に青春だと思うゼ?」
「だ、か、ら!」
何を言ってみても、仁はからかうばかりで一向に情也の言葉には耳を貸そうとしなかった。まぁ、大分真実も含まれていたので、反論しようにも出来なかったのだが。むしろ、いくら亜麻乃倫が可愛いとはいえ、これしきのことで楽観的見解を持ちそうになってしまっている自分が嫌だった。
そんな都合のいいことが、今更起こる訳が無いというのに。
それはそうとその後、仁に付き合ってもらって図書室へ行き、そこから昇降口に戻る途中の中庭で、発声練習に励む演劇部の一同を見かけた。日野愛理は勿論のこと、瀬野宮優子とそれから驚くべきことに、一応例の銀髪無表情少女も声を出していた。
クソやかましかったが、まぁ演劇部というのは本来こういうものだろうと思った。
問題は亜麻乃倫だった。
いつの間にか元の制服姿に戻っていた亜麻乃倫は、かすれたようになった声を振り絞り、
「あっ、えっ、い……いっ、うっ、えっ、おっ、あ……あっ、ぉーっ!」
滅茶苦茶必死そうだった。
大丈夫か、と思わず心配せずにはいられない姿であった。
どうして声が出せる騎士王コスのままやらないんだろう、と思ったが、よく考えたらあの日野愛理がそれを許すハズも無く、また仮に大丈夫だったとしても、中庭であの格好をするのは相当な覚悟が必要だろうと思った。
だが図らずとも、自分の知っているあの亜麻乃倫がまだキチンと健在であったことが確認でき、情也は人知れずホッと胸を撫で下ろしたのだった。
そんなわけであっという間に一週間が経過し、気が付けば演劇部の上演当日となっていたのである。
* * *
ホームルームを終えた情也は仁と待ち合わせると、二人で北校舎三階の奥にある多用途式の特別教室に向かった。そこで彩ヶ森高校演劇部による、再結成第一作『正義は風と共に』が上演されるのである。
顧問である須田教諭の提案から開催名目は新歓劇となっているらしく、数日前から学校のあちこちにポスターも貼り出されていた。情也のクラスでもたまに演劇部の話題が聞こえてくることがあり、日野愛理と瀬野宮優子はその都度対応していた。何気に注目は集めているようで意外だった。
ちなみに当の日野愛理たちはというと、本日のホームルームが終わるやいなや速攻で教室から姿を消しており、恐らくは大道具の配置や衣装のセッティングに忙しいのだろうと情也は推察した。
最初は、演劇部などというものに今更関わることになってしまってどうしようかと思っていた情也だったが、本音で言えば今日の劇ソレ自体は非常に楽しみにしていた。事前に日野愛理らから情報を仕入れていないので、ストーリーそのものに興味があるというのもそうであったし、何よりも主役を演じてくれるのが、
「良かったな、また倫チャンに会えることになってヨ」
「うるさい黙れ」
「素直じゃねえなジョーヤは。別に倫チャンが好きでも悪いことなんかないダロ?」
そういう問題じゃない。
あと、気安く倫ちゃんとか呼ぶな。
もっとも、村岡のときとは違って仁ならば多少からかわれても悪い気はしないから、その辺が親友とそうでない他人との差というものなのだろう。
という訳で、話している間にも会場となる特別教室に着いてしまった。まだ人影はまばらで、入場のために並ぶとかいった光景は見受けられない。問題の教室の中からは、ガタン、ドタンと、激しいとは言わないまでも大きな音が随時漏れ聞こえてきており、今も何かしらの準備をやっていることを窺わせた。
別に手伝う約束をしていた訳でもないので、情也は近くの壁に寄りかかると、鞄から図書室で借りた本を取り出して途中から読むのを再開した。こういう小まめな空き時間を活用できるかどうかというのが、読書が進むか否かのポイントなのだ。
そのときだった。
突然階上で悲鳴が上がると同時に、何か物凄い落下音が聞こえてきた。
情也は驚いて寄りかかっていた壁から飛び退き、咄嗟に辺りを見回して困惑の表情になる。
「な、なんだ今の?」
「上の方から聞こえたゼ……」
仁の言葉を聞いて情也は飛び出した。さっきの悲鳴には聞き覚えがあるのだ。情也は溢れ出す嫌な予感を押さえ込みながらも、数段飛ばしで目の前の階段を駆け上っていった。後ろからは仁も追いかけてくる。
そして四階へと続く踊り場に辿り着いたとき、その予感は現実のものとなっていた。
制服姿の亜麻乃倫が、床に倒れてぐったりとしていたのだ。辺りには最初に出会った時のように、上階から運んでいたと思われる細かな荷物が無残に散乱していた。
頭を使わずとも、彼女が足を踏み外して階下に転げ落ちてきたのだということが、一目でハッキリと分かった。情也は頭の中が真っ白になるのを感じ、倒れている彼女の元へと一目散に駆け寄っていった。
「亜麻乃⁉ おい、しっかりしろ、亜麻乃!」
パニくってしまった情也だったが、仁にも手伝ってもらって、何とか彼女を助け起こす。どうやら息はあるようで、幸い出血などもしていなかった。
うーん、という呻き声とともに目を瞬かせた後、その身を起こそうとする亜麻乃倫。
一瞬安心しかけた情也であったが、次の瞬間には事の重大さに気付かされる羽目となった。
「……きっ、霧島、さん……いったい、なに、が……ぁっ⁉」
小さな悲鳴と共に亜麻乃倫は身をすくませ、片方の足に恐る恐る手をやった。どうやら、落下の拍子に足首を捻ってしまったらしい。これでは劇の準備どころか、主役を務めることなども到底不可能であった。
「拙者の晴れ舞台でござる」と嬉しそうに語っていた先日の彼女の顔が思い出され、情也はチクリと心が痛むのを感じた。
そこへ階下から、ほかの誰かの駆け上がってくる音がした。
日野愛理であった。その長い髪の毛を揺らしながら踊り場に姿を現してすぐ、情也たちに抱き起こされている亜麻乃倫の光景を見て、驚愕に目を見開く。
「り、倫……何があったの、大丈夫……?」
「愛理、さん……」
亜麻乃倫は苦しそうにしながらもなんとか日野愛理のほうを向くと、半分虚ろになった目で申し訳なさそうに彼女のことを見つめ返した。頬を伝ってボロボロとこぼれ落ちる、無数の水滴が全てを物語っていた。
日野愛理も、それを目の当たりにしてすぐに状況を察した様子であった。
「ごめん、なさい……ごめんなさ、い…………」
「……もういいわ、気にしないでゆっくり休んで……ね?」
そう言って日野愛理は亜麻乃倫の前にしゃがみ込むと、その手を握って優しく慰めるように微笑んだ。その表情はこれまでとは比べものにならないほど慈愛に満ちたもので、情也は素直に驚かされることになった。
こんな顔も持っていたのか、というのが率直な感想であった。
一方で手を握られた亜麻乃倫の瞳からは、更に大粒の涙が溢れ出していた。
そのうち騒ぎを聞きつけた教師たちが現場に駆けつけてきて、彼らの手で亜麻乃倫は無事に保健室へと運ばれていったのである。
全てを見届けた後に、その場に残されたのは情也と日野愛理だけであった。
仁は教師を手伝って、亜麻乃倫とともに保健室へ。事情を聞いてやってきた瀬野宮優子と本名不明の銀髪無表情少女も傍にいたが、彼女らはどうすればいいか分からない様子でただお互いに顔を見合わせているだけだった。
階段の手すりに寄り掛かって一人うなだれる日野愛理の背中を、情也はじっと見つめていた。その心に去来する先ほどの優しげな表情。亜麻乃倫の涙。
仕方ない。情也はいよいよ腹を括ると、意を決してそっとその背中に声をかけた。
「……それで、どうするんだ」
「……どうって?」
「劇だよ。やらないと演劇部が廃部になるんだろ?」
「……この状況で出来る訳ないでしょ。主役の倫は怪我しちゃったし、あと三十分じゃ到底新しい内容なんて思いつけないわよ」
「じゃ、諦めるのか」
「そうするしかないでしょ! 何見てたのよ、馬鹿!」
「ギャーギャー喚くな。人の話ぐらい最後まで聞け」
こちらを振り返って自分まで泣きそうな顔をして叫ぶ日野愛理を手で制すと、情也はため息まじりになりながらも、物事の核心を口にしようとした。
「お前らの劇、上演時間は何分ぐらいだ」
「……それがどうしたのよ」
「いいから答えろ。長いのか、短いのか。台詞の量は?」
「……一応、上演時間は十分ってことになってる。台詞はそんなに多くない。殆んどナレーションで進む劇だから。初心者もいるし、準備期間も短かったから……」
不幸中の幸いだな、と情也は思った。
しかし日野愛理は未だに情也の意図が理解できないようで、益々怪訝な顔になっていた。
「でも、それがどうしたっていうのよ」
情也は深呼吸してから告げた。
「亜麻乃の役は、男でも代役が可能なのか?」
* * *
一体何をやっているんだか、と情也は自嘲気味にそう思った。
もう二度と、演劇などというものには関わらないと誓ったハズなのに。
決して他人のためには頑張らないと決意したハズなのに。
だが、仕方がないのだ。
大切な落し物を届けてもらった恩を返す、というのもある。だが決してそれだけではない。
亜麻乃倫のあんな悔し涙を見せられては。
日野愛理のあんな健気な態度を見せられては。
たとえ「甘い」と言われようが、助けてやりたいと思ってしまうではないか。
情也は覚悟を決めると、瀬野宮優子に即席で準備してもらった男版・純白の騎士の衣装を隅々(すみずみ)まで確認し、腰に下げた装備品の短剣がキチンと存在することを確かめて、スタッフ・キャストの待機用に設置されたついたての袖から、そっと客席の様子を覗いた。
照明を落としているためハッキリとは見えないが、そこに集まった三十人前後の観客たちが発する期待の空気だけは、痛いほど伝わってきた。
別に劇自体は上演されるだけでいい。大絶賛でなければ実績として認められない、などというルールも存在しないからだ。
だが、やるならば全身全霊、全力で。
それが観に来てくれた人間たちへの、最低限の礼儀というものだろう。
情也は頭の横についたスイッチを押して、脳内AR機能をオンにした。
たちまち客席のあった空間に、青空の下で無数のビルが立ち並ぶ『風の町』が出現した。高層ビル街の向こう側では、町のシンボルでもある巨大風車塔が聳え立っている。
「超変身」
情也は誰にも聞こえないぐらい、小さな声でそう呟いた。
次の瞬間、情也の身体は無数の粒子を纏って変形し、あっという間に地獄から舞い戻った不死身の騎士へと成り替わった。頭を覆うマスクの複眼部分が、黄色く不気味に光り輝く。
同時に背後で、愛理が上演をスタートさせる合図としてアナウンスを発した。
「これより彩ヶ森高校演劇部、新入生歓迎劇『正義は風と共に』を上演します」
舞台袖の狭苦しいスペースの中、愛理の隣にいた銀髪無表情少女が大きくて古いタイプのCDデッキのスイッチを入れ、何やらレトロな曲調のオープニングを流し始めた。
「『かつてあるところに、世界を旅してまわる“永遠”という名の騎士がいました。彼はあるとき噂を聞き、ひとり“風の町”を訪れます。そこでは日夜、悪がはびこっていました』」
日野愛理の滑舌のよいナレーションが教室中に響き渡る。
直後に銀髪無表情少女の操作で全ての照明が点灯し、情也はいよいよ舞台上に姿を現していった。
簡易的なセットに囲まれ舞台のど真ん中に立った情也こと永遠の騎士は、全身を覆う黒いマントを翻すと同時に腰の短剣を引き抜き、目の前でくるくると回しながら胸の前に構え、客席で自分を見つめる大勢の人々を見つめ返した。
――さぁ、舞台を楽しみな。