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第05話 555つの顔、1つの心・後編

    * * *


 その日の講堂での練習は、夕方六時を過ぎてからのことだった。それも、ただの練習ではなく本番同様の態勢で頭から終わりまで演じる、いわゆる『通し稽古』というやつである。どうして開始がこんなに遅くなったのかというと、部活コンペ本番が近づいたことで演劇部以外にもステージ使用の予約を入れてくるところが多くなったため、その日はどうしても、その時間帯になってしまったのである。

 本番が迫るにつれ、演劇部への奇異の視線は徐々に少なくなってきていた。事件からある程度日数が経過したこともあるだろうが、それ以上に演劇部と競り合っている連中が自分のことで手一杯になり、演劇部に構っていられなくなったというのが実態だった。

 外がすっかり暗くなった頃、本番と完全に同じ条件で上演した二十分間の劇の末、それを観客の立場で見学していた仁がパチパチと、広い講堂内に拍手の音を響かせた。芽衣の操作する暗幕が完全に下がり切ってから、衣装を着たままの一同は早速客席にいる仁のところに向かって、感想を求めた。


「どうだったよ?」

「いやー、中々良かったヨ。多分このぐらいなら、飽きずに観てくれると思うヨ。なんだったかナ、お姫サマだっけ? 離れてるのに、声がよく聞こえたヨ」

「ふふ、ありがと」

 姫の衣装を身に纏った愛理が、額にかいた汗を軽く拭いながら、清々しげな表情で感謝の言葉を口にする。姫の衣装は中世を思わせる、フリルがついた純白のドレスだった。結婚式で着るウェディングドレスのようにも見える。彼女のトレードマークでもあるポニーテールは器用に結い直され、普段よりも高い位置に出来ていた。男の情也にはよく分からないが、ポニーテールというのは通常、つむじの高さに作るものらしい。普段の愛理は面倒がって、かなり低い位置で髪を結んでいるので、こうして結び目の高さを変えただけでも随分印象が変わってしまうのである。いつもはマフラーをたなびかせる男勝りのヒーローは、今日だけは文字通りの可憐な少女となっていた。


「あァ……あと、最後の戦闘シーン。アレカッコよかったネ。倫チャンの演技も凄いケド、必殺技っぽいのも迫力あったヨ」

「オホホ、お褒めに与り光栄で御座いますわ」

「フフン、あれは中々良かっただろ」

 大魔女バージョンの倫と、銀色の甲冑を身に着けた勇者姿の情也が同時に胸を張る。

 愛理が演出に困っていると先日ボヤいていた場面は、愛理と情也で話し合った末に、所謂『必殺技』の表現をしようということになった。方法自体は、ステージ上の照明設備を利用しただけの実に単純なものだったが、それを実現に至らしめたのは正確無比のタイミングで音響と照明を操作する、芽衣のテクニックにほかならなかった。

「芽衣の協力があったからよ。当日もお願いね、芽衣」

「…………努力する」

 芽衣は恒例の無表情。でも少しだけ嬉しそうに見えた。実際、芽衣の技術が無ければこの演出方法は不可能であった。裏方全般を引き受けてくれたこともあるし、彼女は今回の陰の功労者だと情也は思う。


「まァなんダ……見込みあると思うヨ、コレだったラ」

 仁はそう言って講評を締めくくった。仁は演劇に関しては素人だが、それゆえに先入観のない、ストレートな感想をくれる。余りお世辞を言うようなタイプでもないので、そっちの意味でも信頼がおけた。彼を観客代表に選んで正解だったと思う。

 というか、本来観客代表を務めるべき人物は一体何をやっているのか。

「先生、どうでしたか……?」

「……まあいいんじゃないか。先生も大枝と大体同じ意見だよ。じゃあな」

 それまで少し離れた場所に座って話を聞いていた姉川は、それだけ述べるとさっさと立ち上がって講堂から出て行ってしまった。本番直前というのもあって今日だけは流石にやって来たようだが、相変わらずのやる気のなさだった。何のための顧問か分からない。

 その後ろ姿を見つめる情也たちは何とも言えない気分になった。やはりあの人にとっては自分たちの顧問の立場は、ただ押し付けられただけのものに過ぎないのだろうか。演劇部のことに限らず、いつもどうしてあんなにやる気がないのか、未だに分からなかった。

「……それじゃ、もっかいはじめから練習しよっか」

 それに対し愛理は何も言うことなく、素直に一同に号令をかける。その横顔が、何となく寂しげに見えた情也だった。


    * * *


「愛理……俺、この部に入って良かったと思うよ」

「えっ?」

 練習後の片づけの最中、情也はふとそんな言葉を口にした。講堂の端にかかっている時計は、既に夜の八時を数えている。あれから細部の微調整のため、部分的な練習を繰り返したのだ。制服姿に着替えなおした一同で城のセットを倉庫に運び込んだ直後、情也は何故か急に愛理にお礼を言いたくなったのである。

 だが当然、愛理の方は何が何だかよく分からないという顔をしている。


「……どうしたの? 急に改まっちゃって」

「実は俺さ……中学校でも演劇部にいたんだよ」

 唐突な告白に周囲で聞いていた倫や優子が目を丸くしていたが、愛理は左程驚いた様子も見せず、ひとり納得したように頷いていた。

「そっか、やっぱりね」

「やっぱりって、愛理気付いてたのか?」

「そりゃあね、初心者にしては随分演劇について詳しいと思ったし。それに『演劇が嫌いだ』なんて言ってたのも気になったし、薄々はね」

 そうか、やはり気付かれてしまっていたか。しかし元はといえば、情也自身は本音を隠すのが苦手なタイプの人間である。遅かれ早かれ勘付かれると予想はしていた。


「……そっちも、部活で何かあったの?」

「まあね」

 そう言って情也は、軽くため息をついた。何となくだが、愛理以外の人間も興味を持ったような雰囲気だった。こっちを向いていないのは芽衣ぐらいだが、それはいつものことだ。ちなみに最初から事情を知っていた仁は、最初の通し稽古が終わってすぐ帰宅の途についてもらっていたので、今この場にはいない。

 情也は記憶の糸を手繰るようにして、ひとつひとつゆっくりと話していった。

「俺も愛理と同じでさ……証明したい事があったんだよ。現実の方はあまりにも救いようがないから、せめて作品の中ではって思ってさ。小説なんか書いてるのも、それが目的みたいなモンだし。……だから、最初に演劇部を見つけたときは『やった!』って思ったんだぜ。『みんなで理想の物語を作ろう』なんて勧誘まで受けたしな」

「ああ……何だかすっごく分かる気がするわ」

「うん」

 愛理が目元に手を当て、優子が苦笑交じりに頷く。彼女らもまた、似たような経験があるのだろう。倫だけは不思議そうな表情をしていたが。


「最初の一年ぐらいは、とにかく演技することに夢中で何も思わなかったんだけどな。でも時間が経つにつれて、だんだん違和感覚えてきてさ。で、ふとした拍子に気が付いたんだ。連中が必死になってたのは、演劇なんかじゃないって」

「……どういうこと?」

「部員の殆どが女子ばっかりの宿命っていうのかな……勢力争いが酷かったんだよ。誰サンと誰チャンは仲が良いとか悪いとか、裏切ったの裏切らないのって、そういうのな。女子のお前らなら、なんとなく分かるだろ?」

「あぁ……」

 愛理と優子、そして倫までもがどこか納得したように遠い目になる。おそらく、彼女らの中で情也の話に合点がいったのだろう。要するに、そういうことなのだ。


「誰も建設的な議論なんてしやしない……仲良しこよしのグループの中で、無理やりにでも同じ意見だけを言わせて、凝り固まって……。劇を良くしようと思ってどれだけ真剣な提案しても、対立グループに有利そうなら考える前から否定だからな。そのうち意見を言うのが馬鹿馬鹿しくなったよ」

 愛理たちは、その話を黙って聞いていた。いつの間にか、片付けの手が止まっている。

「俺自身、元々そういうのに敏感じゃなかったせいか邪魔者扱いだったしな。二年の、夏の地区大会の時だったかな……他の学校の劇を評価するカードに率直な意見を書いたら、その時の部長だった先輩に読み上げられて、聞こえよがしにバカにされたこともあったよ」

 情也はワザと卑屈っぽい笑みを浮かべて言った。

 倉庫には完全に沈黙が訪れていた。


「結局な、奴らのやってたのは演劇じゃない。薄っぺらな政治ごっこだ。その上、部活の外に出ても待ってるのは偏見と差別だった。もう、どうしようもないよ」

「え、差別って何の話?」

 愛理が今度こそ分からないような顔をしていたので、情也は軽く説明してやった。

「お前らの中学じゃどうだったか知らんが、俺の中学じゃ、演劇部ってとことん差別される存在だったんだよ。発声練習してるだけで通りがかった連中からは野次飛ばされるし、外周走ってりゃコースの被った運動部どもには罵声浴びせられるしな」

「それって酷くない? 発声もランニングも、演劇の基礎練なんだから仕方ないのに」

「分かんねーんだよ、連中には。そもそも文化部が筋トレするってこと自体、理解されないからな。役者の基本で足腰と肺活量鍛えなきゃいけないんだって説明しても、真面目に話を聞く奴なんか最初からいなかったし。部の中も外も同じでな、言うだけ言っても茶化されて終わりなら、ハナっから何も言わない方がマシだったんだよ」

「……それなら、辞めちゃえば良かったんじゃないの?」

「辞められなかった」

 愛理が口にした至極真っ当な疑問に、情也は即答した。


「正確には、辞めるなって自分に言い聞かせつづけた。今はツラくても、最後まで頑張ればきっと何か報われる結果が待っているって、そう信じてたから。結局、無駄骨だったがな」

「……情也」

 愛理が何だか、居たたまれないという顔つきになっていた。

 彼女はいま、ようやく理解したのだ。何故目の前の少年が、当初あれほど演劇部への入部を拒んだのか。「演劇が嫌いだ」と語ったのか。その理由がこれなのだ。

 夢があって、叶えたい理想があって、何かに所属する。けれどもソレは現実という存在に簡単に踏みにじられる。あえて現実を変えるのではなく、架空でも構わないから理想の世界を描こうと試みるのに、実際は“描くこと”さえも邪魔される。その苦しみは、愛理自身が一番よく分かっているハズだった。

「それは……ツラいよね」

「うん、まあな。それで……あれ、ちょっと待った。そもそも何の話だっけ?」

「霧島くんがこの部に入って良かったと思う、その理由の話だよ」

 わき道に逸れてよく分からなくなっていたところを、優子が助け舟を出してくれた。


「ああ、そうだった瀬野宮、ありがとう。だからな愛理、結局何が言いたいかっていうと、俺はお前の演劇部に入って正解だったっていうこと。最初はともかく、今は後悔してない。そりゃケンカもしたし、色々困ったことも多かったけどな、それは部活の醍醐味ってモンだ。中学の時はクソみたいな結末になっちまったが、この演劇部なら今度こそやれる気がする。それも、舞台の上だけなんてチャチな話じゃない。現実そのものを真っ向から変えられるんじゃないかってな。愛理を見てると、そんな感じがするんだよ」

 そこまで一気に言い切ると、目に見えて愛理の表情が変わるのが分かった。急速に明るくなるとまではいかないが、若干の陰りが消えていくような気がした。

 情也の話の影響もあったろうが、元々何となく重苦しい顔をしているように見えた愛理に元気が取り戻されていく。それだけで情也は嬉しかった。もしかしたら急にお礼を言いたくなったのも、姉川の件で落ち込み気味に見えた彼女を励ましたいという想いが、それとなく作用していたのかもしれない。認めるのは恥ずかしいが。


「そう……」

 やがて愛理が、情也に向かって微笑んできて言った。

「ありがとね、情也」

 しかし愛理のその様子は、何故かどこか無理をしているように見えてならなかった。

 その時、ガチャリと音を立てて講堂の入り口から姉川が入ってきた。出ていった時と変わらずひどく面倒くさそうな顔をしている。

「お前たち、いつまで待たせるんだ。そろそろ終わってもいい頃だろ」

「あ……ごめんなさい、先生」

 姉川の言葉に尻を叩かれるようにして、一同は慌てて片付け作業を再開しだした。それを見ていた姉川は、心の底から面倒くさそうにため息をつく。

「まったく、付き合わされる方の身にもなってくれ。まだ仕事が残ってるのに、お前たちを送り届けなきゃならないんだぞ」

「えっ?」

 愛理の言葉に誘発されたかのように、全員が一斉には姉川の方を振り向く。

 一瞬言葉の意味が分からなかったが、よく見ればその手にはキーチェーンのついた小型のカギのようなものが握られていた。それをカチャカチャと鳴らしながら、姉川はつまらなそうに言った。

「もう遅いからな。今夜だけは、先生が車で送っていってやる」


    * * *


 暗く狭い車内から窓の外に広がる町並みを眺めて、情也は目を細めた。

 六月半ばの浅い暗闇の中にポツポツと灯かりがともって見える。その一部は住宅街のもので、もう一部は商店街のものだった。ひと昔前ならこの時期はしとしととダルい雨が延々と降り続くのが常だったが、今では八月半ばの夕立かと思うような突発的豪雨ばかりが頻繁に襲い来る。風情もへったくれもあったものではないが、それでも何日もの間、雨の中に閉じ込められているよりはマシかもしれなかった。


 姉川の運転するその車は、比較的スタンダードな印象の軽自動車だった。車体全体が海の如き深い青色に染まっていて、割とカッコイイ。本来の定員は四名だそうだが、現在の車内には運転席と助手席に一名ずつ、後部座席に三名と計五名が若干キツキツの状態で搭乗している。しかし運転手の姉川を除いた四名の中に、部長である愛理の姿だけがなかった。どういうわけか「ひとりになりたいから」と、自分だけ徒歩で帰宅したのである。

 というか情也も本当は歩いて帰った方が早いので遠慮したかったのだが、いいから乗れと姉川が言うので仕方なしにその場にいた。考えてみれば、何故愛理だけは呼び止めなかったのだろうか。後部座席にいる情也の右隣では、倫と優子がスヤスヤと気持ちよさそうな顔を見せて眠っていた。二人とも練習で疲れきっていたのだろう。それを見た情也は、不思議と気持ちが穏やかになるのを感じた。


 それはそうと、情也のすぐ隣に座っている倫は先程から情也のほうにもたれかかってきており、体温が直に伝わってきてかなりドギマギとさせられた。最初こそ動揺もしたが、いまではこの至福の時が永遠に続けばいいのにと思う。ちなみに前方の助手席には芽衣が座っていたが、彼女だけは情也同様寝ていない様子で、終始何を考えているかも分からない表情で車の進行方向だけをじっと見つめていた。

 その隣では我らの顧問・姉川が黙々と車を運転していた。あれだけ面倒くさがりなのに、今夜に限って部員を全員車で送迎するとは一体どういう風の吹き回しなのか。その横顔も、何だかあまり感情がうかがい知れず、こうして並んで見ると芽衣とはまるで親子のようにも見えた。ふと姉川が、バックミラー越しにこっちを見て言った。


「……羨ましい体勢だな、霧島」

「ああ、いえ、あの、あー……」

 情也は言葉に詰まってしまった。まあ嬉しいか嬉しくないかと聞かれれば確実に前者なのだが、芽衣が明らかに起きていて聞いているため、ハッキリそのことを口にするのは躊躇いを覚えるのだった。

「お前が主役だそうだが、勝算はあるのか?」

「五分五分ってところですかね。まあ、出る結果は所詮、勝つか負けるかの二択ですから。全力でやる以外にないですよ」

「ふ……それは、そうだな」


 それからまた長い沈黙に入ってしまう姉川。それにしても、すぐ隣に芽衣が座っているのに、どうして情也にばかり話しかけてくるのだろうか。いや、それ以前に、彼女はここまでお喋りな性格ではなかったハズだ。どうして今日だけこんなに饒舌なのか。

 その答えが出る前に、それまで高速で動いていた車が急速に速度を落としたかと思うと、やがてガクンという反動と同時に、小さな広場のある町の駅前で停車した。情也が目の前の座席に顔面をぶつけて混乱している間にも、構わず姉川は芽衣に向かって言った。

「ほらよ、着いた。ここで降りるんだろ?」

「…………ありがとうございました」

 芽衣は静かな、しかしハッキリとした声でお礼を言うと、そのまま車から降りて一礼し、すぐに駅の中へと歩いて消えていってしまった。彼女はこれから電車に乗って、隣町にある自宅へと帰還するのだ。道中が無事であることを祈る。


 その様子をしばらく見守っていたが、やがて姉川の動かす車はバックターンしてフロントガラスを来たのと逆方向に向けると、再び発進した。次は倫の家だった。線路沿いに続いている道路を車で走ると、やがて情也が住んでいるのとは別の、こじんまりとした市営団地が見えてきた。予め聞かされていた棟の前で車を停めると姉川は情也に、倫を起こすようにと命じた。言われなくともそうするつもりである。

 情也は倫を起こそうとして、自分にもたれたその髪の甘い匂いに鼻孔をくすぐられて一瞬クラッとしたが、すぐさま気を取り直し、その肩を優しくゆすって名前を呼んだ。倫は目をパチクリさせながら情也のことを見上げて、そしてすぐに慌てた様子で飛び退ると、しどろもどろに礼を言って車から飛び出した。やけに慌てていたため鞄を忘れていこうとし、情也が即座にその背中を呼び止める羽目になった。


「あの、ありが、ありが、ありがとうございまし、たっ!」

「……気をつけてな、倫」

 顔面を上気させて頭を下げる倫に、情也は小さく微笑んで手を振って別れた。相変わらず可愛らしかった。

 それから車は真っ直ぐに来た道を戻り、駅前を通過して学校の近くを通り、そして優子の家がある方向に向かった。比較的大型のマンションの傍まで来るとひとりでに目を覚ました優子がそこらで停めてほしいと姉川に告げ、そのままお礼と別れを言って去っていった。

 こうして、とうとう車内に残ったのは姉川と情也だけとなった。

「……」

「……」

 正直、何をしゃべったらいいか分からなかった。情也の住む団地に向かって走っているのは確かなのだが、それ以外に情報がない。姉川も姉川で、時たまバックミラーをチラチラと覗くばかりで、自分からは一向に話しかけてこなかった。

 そして、あと十分ほどで目的地に到着するとなったそのとき、初めて姉川が口を開いた。


「……霧島、部活は楽しいか」

「はい、充実してます」

「そうか」

 思った通りのことを言う。簡単な応答。それから、またしばらく沈黙が流れる。

「霧島、」

「はい」

 姉川は情也の名を呼んでから少しの間、何かを躊躇するかのように口をつぐんで先を言わなかった。振り向かなくても何となく分かる。そして、とうとう本題を切り出した。


「この際だから伝えておく。学校は、初めから演劇部を廃部にするつもりだ」

「ええ、知ってます」

 その日生まれて初めて、情也は姉川の驚く顔を見た気がした。

「……出来レースだと、いつから気付いていた?」

「気付いたっていうか、どうせそんなことだろうなって思っていただけですよ。大層な理屈掲げりゃ子供の想いを踏みにじるなんて、大人たちが平気でよくやることですから。大方、須田が起こした事件の最後の火消しってワケでしょ?」

「……賢いな、お前は」

 姉川は再び前を向いて、運転を続けながら言った。


「まあ先生のような人間が顧問に選ばれた時点で、おかしいとは思っていたがな。佐藤先生は『少しの間の辛抱ですから』なんて言いながら笑っていたし、コンペの審査に関わる連中はどうせ全員グルなんだろう」

 明後日に行われる部活コンペの審査員は、校長や教頭をはじめ、各学年主任の教師などである。観覧した生徒からの人気投票も考慮には入れられるらしいが、最終決定権を握る側が結託しているとすれば、おそらく大した効果は望めないだろう。

「……でも、どうしてこのタイミングで俺に?」

「あらかじめ知っておけば、その時になってショックも小さいだろうと思ってな」

 姉川はこちらを見ずに言った。

「それにお前、あの状況下で入部届を出してきただろう。大方、自分以外の誰かのためなんだろうが……日野か、亜麻乃か、大体そんなところだろ」

「まぁ、否定はしません」

 情也はその辺はお茶を濁しておいた。改めて他人から指摘されるというのも何だが、自らハッキリと口にして認めるのは恥ずかしい部分もあった。


「先生からの頼みだ、霧島。日野のやつを支えてやってくれ」

 姉川が懇願するようにそう言ってきたことが、情也には驚きだった。果たしてこの人は、本当にただやる気がないだけのダメ教師なんだろうか?

「……なんでまた、急に?」

「あいつはどうも昔の私――先生の姿にそっくりな気がするんだ。真っ向からぶつかれば、世の中のどんなことだって解決できると思ってるように見える。だが、それは危険なんだ。理想に裏切られたと分かった瞬間、反動で有り得ないほどどん底に叩きつけられる。下手をすれば先生のようなダメ人間が出来上がってしまう」

 やる気満々の姉川や終始無気力な愛理を想像して思わず吹き出しかけた情也だが、考えてみれば今の発言はかなり重要なポイントだった。つまり姉川は、今の自分の態度がどう見られるか、理解した上でやっているということなのだ。


「だからな霧島……もしもの時は、お前があいつらの傍についていてやれ。誰かが傍にいるだけでも、きっと少しはマシになるだろうからな……」

 そう言い終えた瞬間、車が止まった。窓の外の暗闇の中に、情也が住む県営団地の一角がそびえ立って見える。姉川はハンドルを握ったまま、ガラスの向こう側を見つめて言った。

「霧島、さっきのはウソだ。本当は、先生がひとりで抱え込んでいるのが耐えられなかったからお前に明かした。本番の直前にあんな話するなんて、先生最低だよな」

「いえ……」

 少なくとも情也は、今ようやく姉川を一人の『先生』と見なせるようになっていた。こちらに背を向けっぱなしの、その不器用な様子を見つめながら情也は考える。やはり、先生という存在は単なる『先に生まれた者』であってはならない。自分たちよりも前に様々なことを経験し、それらをフィードバックしてくれる『先を生きた者』であってほしいのだ。情也はその日初めて、姉川に『先生』としての尊敬の念を抱いた。

 それから間もなくして、姉川の車は静かに発進しその場を去っていった。

 最後の最後まで、姉川がこっちを振り向くことはなかった。


    * * *


 夜の闇に包まれた彩葉町を、情也は自転車を走らせながら考えていた。どうして自分は、あんな無責任な発言をしてしまったのだろうかと。

 現在時刻は夜の十時過ぎである。何故こんな時間に外に出てきているのかというと、ここの所あまりに忙しかったせいで夕飯の買い出しを忘れてしまっていたのが原因である。この時間帯ならば惣菜関係が安くなっているので、慌ててベルセルクに向かって自転車をこいでいる真っ最中だったのだ。

 それにしても、と改めて後悔する。どうして自分は、「お前なら現実を変えられる」などと無責任なことを言ってしまったのか。落ち込んでいるように見えた愛理を励ましたかったとはいえ、数日後に待っている結果を見れば、むしろ逆効果ではないか。

 姉川に『知ってます』などと答えたはものの、改めて演劇部の排除が秘密裏に計画されているのだと分かると、心にくるものがあった。


 結局、自分たちのこれまでの努力と苦労はなんだったのだろうか? 不祥事の火消しで部がとばっちりを受けるというのは、腹は立とうが頭では理解できる。だがしかし、どのみち廃部にするつもりであるならばこんな風に生き残りのチャンスがあるようには見せかけず、最初から潔く解散を言い渡してくれた方がよっぽどマシだったように思える。やるだけやらせておきながらそもそも真面目に審査する気がないなど、偽りの希望を抱かせる分だけ遥かに残酷ではないか。

 情也にとってそれは、茶化すことが前提でありながら「説明してみろ」と命じられるあの感覚に近いものだった。不快さは天井知らずである。

 教師たちはよく『正直者が馬鹿を見る世の中にしてはいけない』などと口にする。しかし学校という小規模なコミュニティの中で、一番正直者に馬鹿を見せているのはおそらく彼らなのだ。『大人の事情』『社会に出る訓練』という大義名分のもと、約束などは平気で反故にしておきながら、対外的な体裁だけは異常に取り繕う。それを批判する者は『甘ったれ』であり、理不尽な振る舞いは『社会では当然のこと』なのだ。


 結局のところはそこに帰結する。差別というのは要するにいじめと同じで“される側”にとってのみ存在するものであって、“する側”にとっては『当然のこと』でしかない。だから差別もいじめも、永遠になくなりはしない。

 悔しさと自己嫌悪からくる考えは、ぐるぐると巡り続けて終着点が見えなかった。

 ところが延々続くかと思われた思索の時は、ある時一瞬にして、断ち切られるかのように終わりを迎えた。


 突如として、通りがかった目の前の公園の中から、凄まじい怒号が響いてきたのである。その声に情也はビクッと身をすくませて自転車を停め、おそるおそる目の前に広がる暗闇の向こうを覗き込んだ。よく見ればそこは、先日愛理の発声練習につき合わされた、あの公園だった。

 こんな遅い時間に、一体誰がこんな凄まじい声を発しているのか。情也は恐れを抱きながらも、気付けば公園の敷地内へと足を踏み入れてしまっていた。声がしたのは、例のだだっ広いグラウンドの方からである。音を立てないように遊具コーナーの前を通り抜け、グラウンドの入り口に差し掛かった時、情也は信じられない光景を目の当たりにした。


 グラウンドの真ん中に、一人の男と少女がいた。少女の方はすぐに愛理だと分かった。学校で別れた時の制服姿そのままだったのと、その特徴的なポニーテールとで、背後からでも容易に判別が出来たのである。

 問題は、その前に一人の男が立ちはだかっていることだった。情也たちと同年代ぐらいに見えるその男は、歪んだ笑みを浮かべながら愛理のことを見下ろしている。闇に溶け込むような真っ黒なシャツに、蜘蛛と髑髏を掛け合わせたようなおぞましい絵柄がプリントされ、蛍光塗料でぼんやりと光っていた。その手には長大な金属バットが握りしめられ、背後には大型のハーレータイプのバイクが停車している。


 情也の心臓がバクンと鳴った。そんな、まさか本物か? アレはもしや噂に聞く『()(タン)』という暴走族ではないのか。特徴からすれば明らかにそれ以外考えられないが、にわかには信じられなかった。そもそも、どうして殺単が愛理の前にいるのだ。

 その答えも明白だった。きっと誰かが、あの男を雇ったのだ。噂によれば、殺単は金さえ受け取れば誰でも襲撃するのだという。ここ最近、学校の周辺にバイクに乗った不審な男が目撃されているということだったが、これが真相だったのだ。演劇部の存在を目障りに思う何者か――あるいは今まで愛理に鉄脚制裁を喰らった中の誰かが、殺単に金を払って愛理を襲撃させたのだ。


 このタイミングで愛理を一人にするべきではなかった。今更後悔しても遅いが、とにかく愛理を救い出そうと思う。彼女はいま、目の前の殺単に向かって何かを語りかけている様子だった。詳しい内容までは分からないが、努めて冷静に振舞おうとしているように見える。何故、得意の足技を使って蹴散らしてしまわないのだろう? そんな疑問が一瞬情也の頭をよぎったが、それ以上考えている暇はなかった。戦って勝てる見込みなどないが、この状況で何もしないという選択肢はあり得ない。

 情也は愛理のもとに駆け寄るべくグラウンド内に足を一歩踏み入れて、


「――ゴチャゴチャ言い訳してんじゃねえぞ、ボケがァ!」

 ドスの利いた声で吼える殺単が、突然愛理の胸ぐらを掴んで引き寄せた。その光景を背後から目にした瞬間、情也の体がビクンと反応してそれっきり動かなくなった。激しい動悸とともに、冷え切った血が全身を駆け巡る。思考が漂白され始めていた。

 一方、当の愛理は何故か全く抵抗の素振りを見せていなかった。ここからではその表情は窺い知れないが、一体どうしたというのだ? その足を振り上げれば、武器を持っているとはいえあの程度の男は一撃の元に沈められるハズなのに。


「怪傑ラブだァ? 笑わせるな、演劇部の貧弱女がァ!」

 殺単が吼え猛る。その声が幾度も響き渡る中、愛理はされるがままになっていた。助けに入りたかったが、情也は先ほどから同じ場所に立ち尽くしたまま、ガタガタと身を震わせるだけだった。知らぬ間に、恐怖で歯の根が合わなくなってきている。

 情也は自分の脚を必死になって叩いた。

 どうして動かない。

 こんな状況で一体何をしているんだ。馬鹿じゃないのか。

 助けに入れなければ愛理がどうなるか、簡単にわかる。お前は愛理を見捨てるのか。


 だがしかし、情也の意思に反して体は言うことを聞いてくれなかった。ただひたすらに身が震え、息がつまり、動悸が激しくなる。とにかく、目の前の光景が怖かった。アレは校内で出くわすハゲ丸などとはわけが違う。放っておけば、愛理の命をも奪いかねない存在だ。いつも以上に、助け出さねばならない。

しかしどんなに自分を鼓舞しても、襲い来る恐怖に抗うことは出来なかった。

『……助けに行かないのか』

「う、うるせえな! 分かってるけど……分かってるけど、体が動かないんだよ!」

『そうか……』

 ケーリンズバイダーはただ腕を組んで、傍で情也の苦闘を見守っているだけだった。その無責任さに、とうとう情也の堪忍袋の緒が切れた。


「いい加減にしろよ、いつもいつも! 勝手なことばかり言うくせに、口ばっかりでお前は何もしない。お前は正義のヒーローじゃなかったのかよ? お前が助けにいけよ!」

『それは無理だ。私は、お前の頭の中の存在だからな』

 ケーリンズバイダーが核心部分を口にした。

 情也の、頭の中だけの存在。

 ああ、知っていたさ。そんなことずっと前から。だけど、それがどうしたというのか。

 重要な場面だけ顔を出してきて、そのたびに偉そうなことばかり言って、自分は何もせず去っていく。そんな無責任な存在なら、初めから出てこなければ良かったのだ。


「チクショウ……どうして俺はお前なんかに憧れたんだよ! この無責任野郎!」

『さあな……この私を現実世界に呼び出しているのは、いつもお前自身だ。私に聞かれても分からん。だがこれだけは言えるぞ、情也。お前は私になりたがっている』

 ズバイダーが言った。殺単の吼え声がどこか遠くの方から聞こえてきた。

『悪に立ち向かうのが怖いのは当然だ。誰だって怖い。例えそれが校内の不良だろうと、町の暴走族だろうとな。だが情也、お前はそれを乗り越える力も、もう知っているハズだぞ』

「無理だ、そんな――」

『――愛理のおまじないがあるじゃないか』

 情也は自分でも息が詰まるのが分かった。

 そしてその言葉を最後に、何故かズバイダーはすうっと虚空に消えていってしまった。

「…………」


 情也は目を伏せ、静かに唇を噛んだ。おまじないだと? そんなのデタラメだ。

 人間には限界がある。勇気を出す、なんていう曖昧な台詞ひとつで恐怖や身体のハンデが乗り越えられるなら、誰も苦労はしていない。そうだ、無茶なことはするべきではないのだ。

「――なんとか言えってんだよ、潰すぞゴラァ!」

 自分は愛理とは違うのだ。

 相変わらず体の震えは治まらなかったが、今すべきことだけはハッキリと分かった。情也は必死に足を動かして停めてあった自転車のところまで戻ると、サドルにまたがり、可能な限りスピードを出して公園の前から走り去った。


    * * *


「――うおおおおおおおおおおおお!」

 情也は絶叫と共にフルスロットルでペダルを踏み込み、殺単と愛理の元に向かって自転車を突っ込ませながら思った。嗚呼、なんて自分は馬鹿なんだろう、と。勝ち目なんて無いと分かっているのに。こんなのは無謀だと理解しているハズなのに。

 それでも、やらずにはおけなかったのだ。

 叫び声を挙げながら猛スピードで突っ込んでくる情也の姿に、愛理の胸ぐらを掴んだまま金属バットを振り上げた殺単がようやく気が付いた。だが、もう遅――、

「――何だテメーはァ!」

 胸と肩に凄まじい衝撃が走り、限界ギリギリまで加速していた自転車から、情也は地面の上に思い切り投げ出された。全身がグラウンドに叩きつけられる寸前、情也は思った以上にリーチの長かった金属バットが振り切られ、外灯の光を受けて暗闇の中で煌めくのを見た。恐怖で冷え切った全身を激痛が支配した。息をするのが苦しい。どのぐらいの衝撃があったのか分からないが、肺が潰れたのではないかとさえ思った。


 ……そうか、コイツ幹部クラスだったのか。そう気付いた時にはもう遅く、愛理から手を離した殺単が地面に転がる情也の元へとやってきていた。前動作が一切ないまま再びバットが体の上に振り下ろされ、情也は一瞬内臓が飛び出るかと思うような衝撃を味わった。

「ぐふ……」

「割り込んできてんじゃねーよ、俺が話してんだろォ⁉」

「やめて!」

 殺単が再びバットを振り上げたその時、目の前に愛理が飛び込んできた。視界がぼんやりとしてよく分からないが、その目尻には光るものがあった。まさか泣いて……いるのか?

 だがそれを確認する間もないまま、またも鈍器が振り下ろされる。情也は咄嗟に愛理の腕を掴んで引き寄せると、そのか細い体を自分の体の下に入れて庇った。後頭部と背中に幾度となく硬いものが叩きつけられ、瞼の奥では火花が散った。それでも情也は、地面に押し倒した愛理が標的にならぬよう、渾身の力で抱きしめつづけた。


 愛理はしばらくの間情也の腕の中で身を縮こまらせていたが、やがて情也の身体に限界がきたことを悟ったのか、何かを言おうとした。情也はそれには構わず愛理から飛び退くと、残る力を振り絞って殺単を殴り飛ばそうとした。けれども立ち上がった直後にまたすぐ金属バットの殴打を受け、情也は力ない人形のように遠くに投げ出された。

 地面に転がった情也は、再び立ち上がろうとして殺単の方を見て、息を呑んだ。世にも恐ろしいことが起こっていた。それまで確かに人間だったハズの殺単の外見が、いつの間にか醜悪な怪物のものへと変貌していたのだ。


 ケケケと笑うその顔は、完全に骸骨のような外見に変わっていた。真っ黒な身体のそこらからは毒蜘蛛のような毛むくじゃらの足が何本も飛び出し、不気味に蠢いている。その手に携えたバットは鬼が持つ金棒のような形状に変化していた。

 また脳内ARが故障したのか? そう思いかけて、情也ははたと気が付いた。これは決して妄想を糧にして発動する拡張現実などではない。これは、紛れもない現実なのだ。ただし、情也にとっての、という条件付きの。

 それは、情也の抱いた、恐怖の生み出した幻覚だった。幻覚であり、しかし確かな現実であった。言葉が通じず、暴力に酔い、他人が傷つく姿を見てはケタケタと笑う。情也にとってそれは、まさしく怪物の姿だったのだ。理解の及ばない、人間と見做せる範囲の外にいる存在だったのだ。怪人サタンは、キキキと不気味な甲高い声を上げた。


 その時、情也の元に再び愛理が駆け寄ってきた。サタンと対峙しようとする情也を、愛理は縋り付くようにして押しとどめた。その眼には、確かに涙が光っていた。

「情也、もういいよ! このままじゃ死んじゃう!」

 そうしてから愛理は、怪人態と化したサタンに向かって懇願するように言った。

「お願い、もうやめて! 約束する……明後日のコンペは棄権するって約束するから!」

「下がってろ愛理……」

 情也は何とか愛理を自分の体の陰に隠すと、口の中に溜まった血を目の前の地面に吐き出した。正直、立っているだけでもやっとだったが、それは気取らせないようにしてサタンの前に立ち塞がる。意識が朦朧としていた。

「こんな奴に……こんな卑怯な連中にお前や演劇部が屈するなんて、俺は絶対認めない! 俺達は正々堂々勝負して……必ず部の存在を認めさせるんだろうが!」

「そんなの無理なのよ!」

 愛理のその言葉は、殆ど絶叫に近かった。


「演劇部は劇の出来に関係なく廃部にされるの! 頑張ったって無意味なのよ!」

「お前、気付いて……⁉」

「分かってる……分かってるのよ! この世に本当は正義なんて無いんだって! 理不尽な現実には大人しく従わなきゃいけないんだって……アタシ、知ってるのよ!」

 愛理は俯き唇を噛みながら、絞り出すようにしてそう言った。

 情也はその時はじめて、愛理の繰り返していた苦しげな表情の理由が分かった気がした。おそらく愛理は、ずっと以前から気付いていたのだ。この現実は変わらないということに。自分たちが守っている想いや努力は、最初から踏みにじられているということに。

 愛理は誰よりも現実を知っていたのだ。だからあえて、そんなものはものともしない風に振舞ってきた。『演劇部員』らしく本心を押し隠し、気丈な性格を演じることで。


「……愛理」

 一方、それを聞いていたサタンはさも愉しそうに笑い声を上げていた。

「ハハハ、おめーらに正義なんかあるわけねーだろ、ボケがァ! 盗撮と騒音公害で充分に迷惑掛けといて、その上正義だァ? 笑わせんな、差別主義者どもがァ!」

「……なんだと?」

 情也は今度こそハッキリとサタンを睨み付けた。敵のしゃれこうべのような頭部は、先程からずっとカタカタと音を立てて笑っていた。

「だってそうだろがァ? てめーらに都合の悪い相手次から次へと蹴飛ばしておいて、何が正義だっつーんだよォ? だったら、民意で動く俺の方がよっぽど正義だってのォ!」

 サタンのその言葉に、愛理が何も言わず顔を伏せた。本当に、こういうことには弱いんだと分かり、情也はいま自分が置かれている状況さえも忘れて微笑ましくなった。

 だから、そこはあえてハッキリと口にしてやった。

「ふざけんな、クソ野郎!」

 情也は叫んだ。しゃれこうべのカタカタが止まり、愛理が涙に濡れた目を丸くした。


「差別? ああそうさ、確かに正義なんてモンは一歩間違えりゃただの見下しで、一方的な暴力だよ。でもなぁ……少なくともコイツの正義はそんな薄っぺらなモンじゃねえ! ただ目の前で苦しんでる人間が見過ごせないってだけの、バカだけど最高にピュアで筋の通った正義なんだよ! 民意だと? ふざけんなバカ野郎! そんな言葉ひとつで……人ひとりをいたぶってゲラゲラ笑えるような連中に、正義を名乗る資格なんか無ぇんだよ!」

 すぐ後ろで、愛理が息を呑むのが分かった。

「愛理、よく聞け! お前は俺が今まで出会った中でも、最高級に堂々としてて公明正大な奴だ! その気になりゃ簡単にぶっ飛ばせるのに、こんなクソ野郎相手にも、絶対に自分のためには力を振るわない! 出来もしない論戦に挑んでまで、自分の力がただの暴力になることを恐れてる! そんな態度の貫ける奴は他にいねえ……お前は迷わず正義を名乗れよ、愛理!」


 情也はまくし立てるようにして、一気に言った。意識が朦朧として歯止めが利かない分、もしかすると言わなくてもいいことまで言ったかもしれない。だがしかし、これは紛れもない本心なのだ。この際、ぶちまけてやれと思った。

 ハゲ丸を前にしても、サタンを前にしても、愛理は決して一度も力づくで押し通ろうとはしなかった。愛理はおそらく、自分がやっていることの本質を一番よく理解していたのだ。

 一歩間違えればただの暴力。それでも、誰か他の人間が苦しめられれば迷わず鉄脚制裁を下す。愛理はきっと、そういう気持ちのいいタイプのバカなのだ。

 だが結局、胸クソ悪い方のバカは情也の台詞の理解を放棄したようだった。

「…………なんだよそりゃあ? ナメてんじゃねーぞ、ゴラァ!」

 サタンが情也の発言にキレて、自慢の金棒を振りかざしながら突っ込んできた。

 情也は愛理に向き直ると、その涙に濡れた頬を指で拭ってやった。そこからは不思議と、時間の流れが止まったように感じられた。その中で情也は言った。


「愛理、俺を守ってくれ。正直、このままだと死んじまいそうだ」

「え……?」

「お前、自分のためには戦えないだろ? だから、俺のために戦ってくれ。大丈夫だ、お前が身勝手な理由で力振るわないのは、俺が一番よく知ってるから。だから、思う存分やれ」

「……無理だよ、そんなの。アタシ弱いし、現実なんてひとつも変えられないし」

「……そうでもないよ」

 そう言うと情也は俯く愛理の手を掴み、胸の前に持ち上げて手の平に指を這わせた。その表面をなぞった軌跡が『Z』の文字を描く。こちらを見つめ返した愛理の目が、たちまち光に満ちていくのが分かった。情也はそれを見て微笑んで言った。

「……お前にもらった勇気、返すからさ」

 次の瞬間、間近に迫ったサタンが二人の頭上に金棒を振り下ろした。

「死ね、偽善者がァ!」

 それに気づいた情也は、慌てて咄嗟に目をつむった。直後、間近でガキンという鈍い音がした。金属が叩きつけられる音だった。


 ……………………あれ?

 いつまでたっても、殴打の衝撃はやってこなかった。情也が恐る恐る目を開ける。

 するとそこには、驚くべき光景があった。なんと愛理が、拳ひとつでサタンの金棒を受け止めていたのである。それも凄いことに、金棒の衝撃を喰らいながら愛理の全身は微動だにしていなかった。思わずまじまじと、愛理の後ろ姿を見つめた。

「――ありがと、情也」

 そんな声が聞こえた瞬間、愛理の片足が勢いよく振り上げられた。ギィィン、という金属の響く音が暗闇の中にこだまし、サタンの金棒が瞬く間に宙に舞った。持ち主の手を離れた金棒が、遠くの地面に落下してすぐ元の金属バットへと戻った。

「なっ……⁉」


 状況が呑み込めず茫然としていたサタンの後頭部に、一寸遅れて跳躍した愛理の回し蹴りが命中した。クリーンヒット。サタンは悲鳴と共に体ごと吹っ飛ぶと、どこか遠くの地面に落下して転がった。優雅に着地した愛理が、フッと息を吐いて呟いた。

「……これは情也の分」

 情也は即座に愛理の前に回り込んで、顔を覗き込んだ。

「ただいま……情也」

 その瞳に太陽の輝きが戻っていた。流した涙は、熱ですっかり蒸発したようだった。

「……おかえり、愛理」

「――ふざけんなぁっ!」

 サタンが遠くの地面で起き上がってきた。その口は歯ぎしりするかのように、ギリギリと噛みしめられている。突然の事態の推移に、未だに理解が追い付いていないようだった。


「どうなってんだよ! なんで急に強くなった? 何なんだおめーはァ⁉」

「天が呼ぶ! 地が呼ぶ! 観客が呼ぶっ!」

 敵に向かって悠然と歩を進め出した愛理が、魂のままに宣言した。その全身から青い稲妻が迸り始める。電流の流れた腕が、足が、胸が、腹が、見る見るうちに戦士のソレへと変貌していった。

「悪を倒せとアタシを呼ぶ! 聞け悪人どもっ! アタシは正義の演劇部員――」

 その頭部が稲妻を帯びたかと思うと、あっという間に複眼と一本角を持つ、昆虫型をした鎧のようなものに変わった。最後に自慢のポニーテールが風にたなびくマフラーへ進化し、制服姿の女子高生はとうとう完全に、真紅のボディを持つヒーローの姿になった。

 彼女は体の前で大きく『Z』の文字を描くようなポーズをとり、宣言した。


「――ケーリィィィィィィィィィィン! ズバイダァァァァァァァァァァァッ!」

 もう、脳内ARは必要なかった。それは紛れもない現実だったからだ。

 目の前には、確かにかつて憧れたヒーローの姿があった。

 それを見て情也は不敵に笑った。一方でサタンは、憎しみが頂点に達したようだった。

「ワケ分かんねえこと……やってんじゃねェーッ!」

 サタンが喚き散らしながら突っ込んでくる。もはやこちらを絞め殺すような勢いだった。だが奴は分かっていない。感情任せの突進は、幹部クラスであれ死亡フラグなのだ。情也の耳にはいつの間にか、ケーリンズバイダーの主題歌が聞こえてきていた。


「とうっ!」

 ポーズをとったケーリンズバイダーが天高く跳躍した。前方目掛けて空中で一回転すると、波動のような虹色のエネルギーをその全身から迸らせた。その勢いのまま、右足を思い切り突き出して敵に突貫する。次の瞬間、技名が叫ばれた。

「ズバイダァァァァァァァァァァァ! 『演』ゲキィィィィィィィィィィィック‼」

 ……なんだその謎の必殺技は。

 電磁加速した弾丸のような蹴りがサタンのボディを捉えると、その爪先から史上最大級の電撃が炸裂した。その一撃を喰らったサタンが大きく仰け反ってぶっ飛び、敵を蹴った反動で宙返りしたケーリンズバイダーが情也のすぐ隣に着地する。

 サタンは背後に止めてあった自身のバイクに激突した挙句、青白いスパークと共に悲鳴を上げて大爆発を起こした。夜闇を切り裂く爆炎が辺り一面を照らし出し、その中から人間の姿に戻った殺単がよろよろと這い出てくると、バッタリと倒れて動かなくなった。

 情也の隣でも同じく変身が解除され、真紅の戦士は元の愛理の姿に戻っていた。こっちを見つめる少女の笑顔が、今までで一番清々しく感じた情也だった。

「……これで決まりね」

「おう」


 互いにそう言って、情也と愛理はどちらからともなくハイタッチを交わす。相棒、そして以心伝心。最近のヒーローはそれがトレンドなのだ。

 情也と愛理が互いに無言で見つめ合っていると、何処からともなく数台のパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。絶妙過ぎるタイミングに、愛理が驚いたように辺りを見渡す中、情也だけは冷静でいた。

「……あとは警察だなぁ」

「もしかして、これ呼んだの情也?」

 愛理の疑問に、情也は素直に頷いて笑った。

「ま、あの野郎に自転車で突っ込む前に、ちょいとね。駅前の交番までひとっ走り」

「……それで、逃げたと思ったらまた戻ってきたのね」

「あ、気付いてた?」

「あの時は、本気で見捨てられたかと思ったわ……っていうか、そもそもケータイで呼べば良かったんじゃないの?」

「俺、ケータイ持ってないんだよ」


「………………こっから駅までって、一キロぐらい離れてるよね? 一旦逃げて帰ってくるまでに三十秒もなかった気がするんだけど」

「頑張った」

「頑張ってどうにかなるモンなの⁉」

「俺だって驚いたがな。勇気出すだけで、現実の理屈を真っ向から捻じ曲げちまうような女だっているんだ。そんなに不思議な話じゃないだろ」

「……そうね」

「納得しちゃうのかよ」

 情也のツッコミにも愛理は微笑むだけだったが、ふと真面目な顔になって訊ねてきた。

「それじゃあ……どうして、あんな無謀なことしたの? 警察が来るって分かってたなら、いつもみたく逃げた方が良かったかもしれないのに」

 その問いに、情也はちょっと考え込んだ。よく考えると、何故なのだろう?

 少なくともいま思いつく答えは、ひとつきりしかなかった。おそらくは、


「不器用なバカが感染っ――」

 言いかけたその時、情也の視界がぐにゃりと歪んだ気がした。あれ、変だな。そう思ったときには既に遅く、情也の体は地面に向かって倒れていた。愛理が悲痛な叫び声を上げて、咄嗟に情也に駆け寄る。しかしもはや、情也は意識を保つことが出来なかった。

 ――ああ、そうか。俺、結構無理したもんなぁ。

 薄れゆく思考の中でそんなことを思いつつ、情也は生まれて初めて深い満足感を味わっていた。きっとようやく、後悔しない選択が出来たからに違いない。

 気を失う寸前、情也は自分を抱き起して涙ながらに呼びかける愛理と、その背後に立ったケーリンズバイダーの姿を見た気がした。愛理の言葉はどこか遠くの声のようでハッキリとは聞き取れなかったが、多分情也の名前を呼んでいるのだということだけは分かった。一方ズバイダーは、情也に向かって盛大にサムズアップをかましていた。最後の最後まで行動の読めない奴だったが、今回ばかりは許してやろうと思う。大事なものは守れたのだ。

 情也の意識はこうして途切れた。

 と同時に、それが幻影のズバイダーを見た最後の日となった。決して憧れを失ったわけではない。必要がなくなったのだ。

 幻影などではない本物のズバイダーを。自分が生きていく上で指針とすべき存在を。

 情也はこの現実世界に見つけたのだから。


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