第01話 復活・前編
《開幕》
大きな教会が炎上していた。
メラメラと燃えさかる灼熱の炎の中、ジョウヤはバイクを駆り、いまや真っ赤に染め上げられた教会の壁へと向かって突進する。火災で建材が脆くなっていたのか、壁は簡単に破壊され、突破できた。
しかし達成感に胸を躍らせる暇もなく、最高時速のまま更に前進。ジョウヤは体当たりで次々と聖なる壁をブチ破り、教会の奥の方へと向かっていく。
やがて礼拝堂と思しき空間に出たとき、そこに目当ての人物はいた。
刑事の格好をしたその人物は、衣服に燃え移った火に巻かれて、床を必死に転げまわっていた。そこにゆっくりと近づいてくる、正体不明の不気味な人影。
それは、怪人であった。半裸の肉体にコウモリのような翼を持ち、鉤爪の生えた足でひたひたと歩く魔の存在。
それが牙だらけの口元をニヤニヤと嫌らしそうに吊り上げながら、ジョウヤが探していた人物に襲い掛かろうとしていた。ジョウヤは躊躇うことなく突っ込むと、わざとバイクを横転させ、横滑りする車体をそのまま怪人の体に激突させて薙ぎ倒した。
悲鳴を上げた怪人が祭壇のほうまで吹っ飛ばされると同時に、気化したバイクの燃料に火がつき大爆発が起こる。死ぬとまではいかずとも、怯ませることぐらいは出来たに違いない。
ジョウヤは慌てて立ち上がると、床を転がっていた人物の元に駆け寄った。
『刑事さん!』
『な……。き、キミは何でこんなところに!』
『グギェギェギェ!』
上着で火を消そうと躍起になっていたジョウヤの耳に、異様な唸り声が聞こえてきた。
見れば、あの怪人が立ち上がってこちらに近づいてきているではないか。
咄嗟に身をかばったジョウヤだったが、怪人の振るった腕の一撃で呆気なくやられ、刑事の男と共に無様に床に投げ出される。
だがしかし、ジョウヤは諦めなかった。
気持ちを奮い起こし、懸命に体を持ち上げて身構え、怪人の前へと立ちはだかる。
『俺……戦います!』
『まだそんなことを⁉』
『ギェーッ』
刑事の男の驚きの声も、怪人の攻撃によってかき消される。殴られたジョウヤは刑事の男を巻き込んで床を転がり、しかしそれでもまた諦めずに立ち上がった。
ジョウヤは目の前に仁王立ちする、悪魔の形相をした怪物を睨みつけて言った。
『こんな奴らのために……誰かの涙は見たくない! 皆に笑顔でいてほしいんです!』
それは本心からの言葉だった。
こんな、他人を傷つけることでしか喜べない連中に負けてはいけない。
理不尽な暴力を、当然のことであるかのように振舞う連中を野放しにはしたくない。
同じ言葉を使いながら、まともに会話すら成立しないような連中に、一方的に蹂躙されるなど許せない。
こんな文字通りの怪人どもに、人間がいたぶられるなど黙ってはいられない。
だから。
『だから見ていてください…………俺の││』
よし、いいぞ!
ここで、最高にカッコいい台詞だ!
『――俺の、演劇!』
…………………………………………あれ?
《閉幕》
* * *
スズメたちのチュンチュンという鳴き声が、道のそこらかしこから聞こえてくる。可愛いといえばそうなのだが、正直相当やかましい。しかし制服を着た大勢の学生たちはそんな声など気にも留めず、一路学校を目指して朝の遊歩道をぞろぞろと歩いていた。
その中に、霧島情也の姿はあった。
「昨日見た夢の中にさ、仁が出てきたんだよ」
「へぇ?」
そう言って情也は何でもない風に、昨晩見る羽目になった奇妙な夢の話を、すぐ隣を歩く親友に対して話して聞かせていた。
「なんか刑事の格好したお前が、火事になった教会で怪人に襲われててさ」
「何でだヨ⁉」
すかさずツッコミを入れられる。何でと言うが、聞きたいのはむしろ情也の方であった。途中まではともかく最後の決め台詞が謎過ぎた。
現在は四月の初旬。桜満開。花いっぱいであった。
希望に満ち満ちて、などと書けば聞こえは良いが、実際はむしろ不安に包まれていることの方が大多数であるこの季節において、情也たちは人生初となる高校への通学路をのんきに会話しつつ歩いていた。
その日は情也が入学した、市立彩ヶ森高校の始業式の日であった。先日行われた入学式を除けば、高校へと通うのは本日が初となる。
情也はきたるべき退屈な時間に備えて朝の冷気で目を覚ましつつ、右隣を歩く無二の親友の顔を見上げた。
彼の名は大枝仁。情也と同じ中学の出身で、これまた同じく彩ヶ森高校の新入生である。身長百七十二センチ、体重七十キロと非常にガッシリした体格の持ち主で、如何にもな体育会系男子だ。実を言えば、昨晩の夢に登場した刑事の正体もこの男であった。
どうして刑事なんぞに扮装して情也の夢に出演してきたのかはサッパリ不明だったが。
「にしても、最後の決め台詞が『演劇』ねェ……」
意味ありげにこっちを見てくる仁。だが情也自身はただ、ため息をつくだけだった。
「新学期早々だってのに、嫌な夢見ちまったよ。まったく」
「ジョーヤ、森高での部活どうすんノ?」
“森高”とは『彩ヶ森高校』の略称である。仁が勝手にそう呼ぶことにしたらしい。
急にちょっと真面目な表情になった仁を見て、情也は静かに首を振った。
「さぁな。多分、どこにも入らないんじゃないかな。文芸部でもあれば話は別なんだけど、正直もう部活自体が面倒くさいっていうか」
「分かるぜ、そのキモチ」
仁は心底共感するといった風に、うんうんと頷いた。
「そういう仁はどうするんだよ」
「訊かなくても分かってんだロ?」
「……まぁね」
情也は納得して一人頷いた。
そうこう言っている間にも、二人はもう学校のすぐ目の前までやってきていた。生徒たちでごった返す正門が目前に迫ってきている。
返す返すも、小汚い学校だと情也は思った。
市立彩ヶ森高等学校は、情也が在住するこの政令指定都市の、比較的田舎といわれる町に横たわる公立高校である。
生徒人数は千人ほど。擁するのは普通科のみという、文字通りの『普通』な高校だった。
ともすれば今どきそんな学校があるものかと疑ってしまいそうになるが、実際はアニメやマンガの影響でそう感じるだけであって、県内の公立高校ともなれば七割は普通科のみだった。現実とは実につまらないものである。
自宅より徒歩二十分。それが情也にとって彩ヶ森高校の、何者にも勝る魅力である。
それはさておき校門をくぐった情也と仁は、二人一緒に昇降口を目指していた。周囲にはこれから数年間を共に過ごす、まだ友好的かどうかもよく分からないような連中が所狭しとひしめき合っている。
彼らの中には上級生はもちろん、情也と仁のように新入生でも顔見知り同士の者たちも大勢いて、その声はワイワイガヤガヤとスズメの声など屁でもないぐらいにやかましかった。さっさと人ごみを抜け出してしまおうと、情也たちは心持ち足取りを速めた。
すると突然、情也たちの前方から、「きゃっ」という小さな悲鳴が聞こえた。
不審に思った情也が足を止め、人ごみの合間から前方を覗いてみると、昇降口に続く段差のすぐ手前で、一人の小柄な少女が地面に手をついて倒れていた。
その周囲には文具やらノートやらといった持ち物が散乱している。どうやら同じ一年生のようである。すぐ傍にいる坊主頭の上級生とぶつかった拍子に、鞄の中身を全部ぶちまけてしまったらしい。入学早々気の毒に、と思った情也だったが、状況の酷さをより一層際立たせたのは、むしろぶつかった上級生側の対応だった。
「あ、ごめんごめん」
彼が口にしたのはその一言だけであった。感情が籠っておらず反省の念が感じられないのも驚きだったが、あろうことかそのまま立ち去ろうとしたのである。情也はソレを見て心底むかっ腹が立つのを感じた。
下級生の、それも見るからに非力そうな女子を転ばせておいて、助け起こすどころか散らばった荷物を拾おうともしない。いくら上級生とはいえ、その態度は有り得なかった。
咄嗟に、その背中を呼び止めようとする。
情也は上級生に向かって手を伸ばし、声をかけようと試みた。
ところが悔しいかな、何故かその意思に反して、情也の口からは声らしい声が全く出てこなかった。何かを言おうとしているにも関わらず、その“何か”が明瞭な言語にまで昇華されてこないのである。結果、喉の奥から漏れ聞こえてきたのは途切れ途切れの、意味不明な呼吸の音だけであった。
自分の情けなさに情也はますます腹が立った。
仕方がないのでその上級生を呼び止めることは諦め、情也はまだ地面に倒れていた少女の元へと駆け寄っていった。「大丈夫?」と声を掛けるのと同時に、俺には関係ないとばかりに過ぎ去っていく他の生徒たちの足元から、踏みつけられる前にシャーペンやケシゴム、ノートや手帳といったものを救い出してやる。
ふと横を見れば、仁も無言でそれを手伝ってくれていた。頼りになる親友だった。
一方見ず知らずの男子生徒に救いの手を差し伸べられた少女は、地面に倒れたまま、まだ状況がよく飲み込めていないようだった。
「あ、あの、えと、あの、」
「大丈夫、大丈夫。気にしないで」
「えと、ありが、ありがと、うござい、ます、あの、」
ひどくたどたどしい喋り方だった。思わぬハプニングで動揺しているということもあるのだろうが、それにしても気の弱そうな印象を受ける。ただでさえ小柄な少女だというのに、その周囲から滲み出す不安に満ちたオーラの影響なのか、余計に体が縮こまって見えていた。本当に新学期早々気の毒なことだった。
だが、奥ゆかしい女子は嫌いじゃない。
そう思った矢先の出来事であった。
突然地面にしゃがみ込んでいた情也たちの脇を、バサァ、という謎の音を残して別の何者かが通り抜けていった。その人物は、先ほど目の前の少女を放置していった坊主頭の上級生にあっという間に追いつくと、何も知らないその肩をいきなり掴んで立ち止まった。
「え、何――痛だだだだだだ!」
その上級生が発した悲鳴で、不意に周囲のざわめきが停止した。
情也も、仁も、先ほどから地面に座ったままでいる小柄な少女も、その声を聞いて顔を上げると同時に、思わぬ光景に目を見張ってしまった。
そこに、ポニーテールをした一人の少女が立っていた。背丈も情也と左程変わらないその少女は、件の上級生の腕をねじり上げると地に膝をつかせていた。少女の長い髪の毛は風に揺られ、まるで変身ヒーローのマフラーの如く真横にたなびいていた。その余りに衝撃的な光景を情也たちのみならず、その場にいた全員が呆気に取られて見つめていた。
「な、何だよお前、誰だいった――痛だだだだ!」
再び上級生の悲鳴が響き渡る。
迅雷の如く現れたそのポニーテール少女は、なおも坊主頭の上級生の腕を離さぬまま、如何にもといった強気な目線でその慌てふためく様を見下ろすと、まるで己の使命を果たすかのように悠然と言い放った。
「……悪行を重ね非道を尽くし、自分が転ばせた女の子にきちんと謝りもせず、あまつさえ無関係を装ってその場から立ち去ろうとしたハゲ丸……絶対に許さん!」
やたら仰々しい口上だった。
悪行とか非道って一体何の話だ。いやそれ以前に、ハゲ丸って何だ。坊主頭には違いないだろうが。ツッコミどころが満載だった。
どうやら困惑していたのは言われた当人も同じのようで、
「は? は? 何だよハゲ丸って――っ痛ぇぇぇぇぇぇぇっ⁉」
三度こだまする悲痛な叫び声。
「罪もない少女を傷つけておきながら、居直ろうとは不届き千万……!」
「分かった! 分かったから! 俺が悪かったから! お願いだから許して!」
口先などではなく、腹の底から湧き出てきた感のある命がけの懇願だった。ここまで必死な様子を見せられると、流石にちょっと可哀想になってくる。その気持ちが伝わったのか、ポニーテール少女もようやく手を離してやっていた。
が、それは単に腕をねじり上げる行為をやめただけであって、今度はその上級生の襟首を捕まえると、すぐさま情也たちのいるところまで引きずってきたのであった。情也たちは思わず少し後ずさりしてしまう。彼女は上級生の体を、集め終えた荷物を胸に抱え立ち上がったばかりの被害者の目の前に放り出すと、その場で仁王立ちになって言った。
「その少女に謝りたまえ。誠意を込めて」
もし逆らいでもしたら、そのまま殺されそうな雰囲気さえあった。
坊主頭の上級生はぶつかった小柄な少女に向かって即座に土下座すると、許しを請うた。
「もうしません! お願いです許してくださいごめんなさい!」
「あ、あの、えと、はい、ごめん、なさい、大丈夫、です」
元々の被害者であった小柄な少女は、その命乞いと見紛うような全身全霊の謝罪を受け、例によってたどたどしいながらも上級生に放免の言葉を掛けてやっていた。そしてそのままペコリと頭を下げると、脱兎の如く駆けてその場からいなくなってしまった。
しかし何だか情也には、彼女が助けに入ってきた(?)ポニーテール少女に恐れをなして逃げ出したように見えて仕方がないのであった。
こうしてひとまずは一件落着と相成った訳であるが、情也たちが本当に驚かされたのはここからであった。
坊主頭の上級生を成敗した謎のポニーテール少女であるが、そのまま立ち去るのかと思いきや、一体どこに隠し持っていたのかサッと赤いマジックペンを一本取り出すと、あろうことかその上級生の額にでかでかと『Z』の一文字を刻印したのである。
これには流石に上級生も仰天し、抗議の声を上げようとしていた。
そんな彼を即座に視線で黙らせると、ポニーテール少女はまるで剣を突き上げるかのように持っていたマジックを太陽に向かって掲げ、こう高らかに宣言した。
「この刻印は我がシンボル。民が不当に虐げられし時、我は必ず現れる。諸君も覚えておきたまえ……このマーク在りしところにこの我――『怪傑ラブ』ありと!」
思わず目が点になった。
どうやら仁をはじめ周囲の人間も情也と全く同じ思いだったようで、その場にさっきとは違う種類の沈黙が漂うこととなった。少女のポニーテールがはためく音だけが、ただ静かに一同の耳を打つ。話の全容がとんと掴めてこないのだが、とりあえずその場にいた全員が、総じて目の前でドヤ顔をするポニーテール少女から痛々しい空気を感じ取っていた。
もっとも情也は情也で少し気になったこともあって、ためしにツッコミでも入れてみようかと一瞬思ったりもしたのだが、視界に入る人間がほぼ一斉に係わり合いになるまいと立ち去っていくのを見て、自分自身もその場から退散しようとした。
それなのに、であった。
「ちょっと待ちなさい」
呼び止められた。
気がした。
その瞬間背後からした声というのはほぼ間違いなく、たった今体育会系風な上級生の男子をぶちのめした、凶暴で痛々しいポニーテール少女のものと同一であった。
若干違和感を覚えるのは、今の今まで芝居がかったボーイッシュな口調だったのが、急に女っぽい口調で話しかけてきたからだろう。正直、それだけでも結構印象は変わる。
情也は一縷の望みをかけて、恐るおそる後ろを振り返った。
「そう、アナタよ。アナタに言ってるの」
望みは完全に潰えた。
情也は諦めて、真正面からそのポニーテール少女と向かい合うことにした。
彼女の身長は情也より若干小さいぐらいのものであった。体型は全体的にスレンダー、髪は真っ当な黒で、一目でそれと分かるポニーテールだ。だが何よりも彼女を特徴づけていたのは、その妙に意思強靭そうな眼差しであった。人によってはガンを飛ばされていると誤解するかもしれない。そんな人物が一体自分に何の用だというのだろうか。
「ねぇ、どうしてさっき、呼び止めるのを躊躇ったりしたの?」
嫌な質問だった。
「……えっと……いや、別に俺は……」
「そんなビクビクすることもないでしょ。アタシ一年生なんだから」
自分よりも図体のでかい男を屈服させておいて、警戒するなというほうが無理な話だった。
というか、同じ新入生というのが驚きだった。尚更怖いわ、と情也は思った。
仁に助け舟を出してもらおうかと思ったが、彼はいつの間にか校舎内に退避していて、影も形も見当たらなかった。あいつめ、面倒ごとを避けて自分だけ逃げやがったな。
前言撤回。
肝心なときに頼りにならない親友だった。
「それで? 何で呼び止めるのを迷ったの? 別に悪いことするわけじゃないでしょ?」
「…………そんなにイケナイことか、躊躇うのが。代わりに、落ちたもの拾う手伝いしてたじゃんか」
「そうね。だけど、悪党を見逃す理由にはなってないでしょ。もしかして怖かったの?」
余計なお世話だ、と情也は思った。
大体、何故だ何故だと根掘り葉掘りされたところで、どうしてそうなってしまうかなんて情也自身が一番よく分からないのだ。ただ、頭の中ではこうしようと思っていても、実際に行動に移すとなると途端に全自動でブレーキがかかってしまうだけである。頭で考えるのと体を動かすとでは訳が違うのだ。
もっとも目の前の自称・怪傑ラブはその境目をいとも簡単に乗り越えてきたわけで、情也は若干の羨望と悔しさを抱きつつ、自分からも一発ジャブを放ってみることにした。
「俺からも、ひとつ質問していいか」
「何よ?」
「お前がさっきやってたの、アレって『怪傑ゾロ』の真似だよな?」
「…………よく分かったね」
やっぱりか、と情也は思った。
怪傑ゾロ。発表時の原題を『カピストラノの疫病神』。
アメリカ人作家のジョンストン・マッカレーによって一九一九年に執筆され、後に映画化や舞台化までされた大衆文化のヒーローで、所謂『勧善懲悪もの』の典型である。
主人公は大地主の息子ドン・ディエゴ。しかしてその正体は、黒いマスクと衣装に身を包み、日夜サーベルを振るって虐げられし者のために戦うヒーロー『ゾロ』である。
彼が出現した、あるいはこれから出現する現場には、決まってZorroのイニシャルである『Z』の刻印が刻まれている。
それが仮面をつけて巨悪と戦う、ヒーローのシンボルマークなのだ。
情也もかつて、有名俳優でハリウッド映画化されたものを見たことがあるが、あれは中々に痛快な活劇だと思った。
「要するにアレは大々的なお芝居で、今喋ってるのがお前の素の口調ってことなんだよな」
「……だったら何? 悪いの?」
「いいや。ただ、男装趣味のボクっ娘なんてのが現実にいるわけねーよな、と思ってさ」
「余計なお世話よ」
お前が言うな、と情也は思った。
ついでにもうひとつ、聞きたいことがあったのだった。
「ところで、どうして『怪傑ラブ』なんだ?」
「馬鹿にしないでよ!」
「いや、別にネーミングセンスなんざどうだっていいんだよ。ただ、それでなんでトレードマークが『Z』なのか気になってさ。『怪傑ラブ』と一ミリもカブってねーじゃんかよ」
「……だってその方がカッコイイし」
そんな理由でいいのか、トレードマークが。
この女、実は単にゾロの真似がしたいだけなんじゃなかろうかと、思わず勘ぐってしまう情也であった。義侠心に満ち溢れた姉御肌女、という第一印象がガラガラと音を立てて崩れ去っていく気がした。
「と、とにかく、そんなことはどうでもいいのよ! さっきの話だけど、女の子が困ってたんだから躊躇したりせずに助けてあげなさいよね。アナタ男でしょ!」
情也は思わずムッとした。
別に情也だって、犯人を取り逃がしただけであって被害者を見捨てたわけではない。あの場で誰かが手を貸さなかったら、ぶつかられた少女の落とした物品の数々は今ごろ踏みつけにされ、ボロボロになっていたことだろう。
そうでなくとも、「男のくせに情けない」みたいな理屈には自然と腹が立った。何でもかんでもその一言で片付けられるなら世話はないのだ。
見ず知らずのポニーテール少女に対して反発心を抱いた情也は、気付けばガラでもないのに反撃の言葉を口にしていた。
「……ふん、力任せに解決することだけが全てだとでも思ってんのかよ。大体、話が通じるような連中だったら、ハナからあんな態度取るわけねぇだろが。お前だって、それが分かってたから実力行使に出たんだろ?」
「なによ、うじうじ言い訳しちゃって男らしくないわね」
「お前こそ、女らしいって言えんのかソレが」
「ど……どこが女らしくないってのよ、変態!」
「そんなニュアンスじゃねえよ⁉」
ポニーテール少女が急に自分の胸元を隠して恥ずかしそうにこっちを睨みつけてきたので、思わず情也は突っ込む羽目になった。
何だか段々、やりとりが本来の話題からかけ離れ始めていた。これだから人と議論するのは嫌いなのだ、と情也は思った。いつの間にか本来の目的を忘れて、果てしなくあさっての方向に逸れていく。情也はその過程を見るのが大嫌いだった。
「あー、君たち。もうすぐ始業式だから、そろそろ校舎に入りなさい」
突然、画面の端から入ってくるようにして、校門前に立っていた教師が割り込んできた。もう見るからに面倒くさそうな顔をしている。言われてみれば、他の生徒の姿は周囲に殆んど見えなくなっていた。
それを聞いてひとまず諦めたのか、ポニーテール少女はプイッとそっぽを向くと、情也を置いて一人だけさっさと行ってしまった。なんて身勝手な奴だと情也は思った。
この場合、助かったと表現するべきなのだろうが、せめてもっと早く来いよと情也は教師の横顔を見ながら思った。
最初、あれだけ坊主頭の上級生が叫んでいたのに、一体今までどこで何をしていたのだ。普段散々偉そうにしているクセに、肝心要のところで人を助けてくれないのは万国共通かと情也は苦々しく思った。
本当に、入学早々散々であった。そう思っていたら、
『……確かに、彼女ぐらいの勇気は欲しいものだな』
何処からか急にそんな声が聞こえた。情也は咄嗟に周囲を見回したが、そこに見えたのは先程の役立たずの教師ひとりだけだった。少なくともこいつの声ではない。
いや、本音を言えば大体の検討はついていた。だがそれを認めるのは癪だったので、情也は軽く舌打ちをしただけで、黙ってそのまま校舎内へと入っていった。
* * *
そんなこんなで始業式が終わった。
そんなこんなは、そんなこんなである。換言すれば特筆すべきことなど何も無かったということなのだが、それとは別に重大な問題がひとつ発生していた。
それは主に、情也の右斜め後方の席に存在した。
背中側を振り返り、チラリとそちらを盗み見る。
何の運命のいたずらだろうか。そこには怪傑ラブを名乗った、あのポニーテール凶暴少女が着席していたのである。
彼女は今、机の脇に立っている別の女子生徒と歓談に興じていた。どうやら情也と仁同様に、前の学校で一緒だった友人同士らしい。会話の様子がお互いとてもフレンドリーだった。
情也は内心、頭を抱えていた。
まさか同じクラス、しかもこんな近傍にいようとは。数日前の入学式の際にもこの教室のこの座席に座っていたのだが、今の今まで全く気が付くことがなかった。
なんということだろう。
もしもこの場に仁がいれば盛大に愚痴ることも出来たのだったが、生憎と彼のいる教室は隣の一年A組であり、情也とは離れ離れであった。
そのときふと、こちらを向いたポニーテール凶暴少女の目が、その様子を観察していた情也の目と合った。一瞬お互いに沈黙したが、やがて少女の方からプイッと不機嫌そうに顔を背けてしまうのだった。文句が言いたいのはこっちの方だった。
大体情也が彼女に対して不穏なイメージを覚えるのは、今朝の昇降口前での出来事だけが原因ではなかった。ソレは主に現在、彼女がしおりを挟んでいる本の内容にあった。
ここからでも読める、机の上に置かれたその派手な装丁の本の題名はというと『世界演劇大全』だったのである。
露骨といえば露骨過ぎるそのタイトル。何だか情也は、たまらなく嫌な予感がしていた。
せめてもの救いだったのは、彼女とそれまで会話していた長髪でそばかすの女の子が、こちらに対してさも申し訳無さそうに会釈を寄越してくれたことである。友人のポニーテール凶暴少女とは違って、大分礼儀正しそうな人物であった。
こういう女子こそ報われるべきだ、と情也は本心からそう思った。
さて、そんなことを考えている間にもチャイムは鳴り響き、あっという間に全員が着席していった。これは別にクラスの連中が真面目だとかそういう訳ではなく、ただ単に入学したてで緊張しているからだろうと情也は推察した。どうせあと一ヶ月もすれば、この中の大半が授業のチャイムなどものともせずに出歩くようになるに違いない。
やがてこのクラスの担任となる教師が前方のドアから入ってきて、挨拶。
大して間を空けずに、新入生恒例の自己紹介タイムが始まった。
手始めに自分から口を開いた担任教師は、「須田淳一」と名乗った。
仁と同じぐらいの背の高さで、三十七歳。担当は世界史。
とまあ、先日の入学式の際にも聞かされた既存の情報であった。パッと見ではあるが須田は誠実そうな印象を受ける人物で、黒縁メガネの下に終始人の良さそうな笑みを浮かべている、何とも話しやすそうな教師であった。
続いて、出席番号一番の男子から順番に立ち上がっては「小田」「金子」「鬼島」などと、各自名乗っては出身中学や趣味などを簡単に紹介していく。中には落語が趣味という者までいた。中々に個性的だった。
やがて自分の番が来てしまったので、情也は立ち上がると名前に出身中学、そして読書が趣味だということを簡潔に伝え、それから再び席に着いた。本当はもっとのめり込んでいることだってあるのだが、いちいち教えてやるほど情也はまだこの連中を信用していないので、あえて今は黙っておくことにする。
それから情也の背後に座っていた男子二名も速攻で自己紹介を終え、隣の列へ。世間曰く花も恥らうという、十六歳女子たちの自己紹介が始まる。
この学校では、男子と女子の席が一列ずつ交互に並んでいるのだった。
一人、二人と順調に終わり、三人目に立ち上がったのはあの礼儀正しい、長髪でそばかすのある女の子だった。情也はガラでもなく他人に興味を持ち、自分の右斜め前に立つ相手の背中を見つめた。
「瀬野宮優子です。北森中学から来ました。皆さんよろしくお願いします」
そう言ってペコリと頭を下げるそばかすの女の子。
本当に礼儀正しい子だった。誰かさんとはえらい違いである。瀬野宮優子。覚えておこう、と情也は密かにそう思った。
その後更に二人の自己紹介が終わって、とうとう例のポニーテール凶暴少女の番になる。
「日野愛理です。北森中学出身です」
凛とした、クラス全体によく通る声で少女はそう言った。
ああなるほど、だから『怪傑ラブ』だったのかと、情也は一人勝手に納得していた。
でもソレだったら『ラブサンシャイン』とか、あるいは『アタシは太陽の子!』とかでも良いんじゃないだろうか。いやまぁ、そんなことはどうでもいいのだが。
問題はその後だった。
「好きなものは、演劇です」
よりにもよってハッキリと宣言してくれた。
最悪だった。
その瞬間、観測史上最大の激震が情也の心中を襲った気がした。道理で、相性が悪かったはずである。
しかも衝撃はそれだけでは終わらず、なんと担任教師の須田が俄然興味を惹かれたようになったかと思うと、「日野さんは演劇に興味があるんですね。先生は演劇部の顧問ですので、日野さんのような人が入部してきてくれれば、先生としてはとても嬉しいです」と言った。マジか。
これだけ出揃った状況となると、どうにも何者かの作為的なものを感じずにはいられない情也だった。悪意と呼んでも差し支えないかもしれない。
情也を何としてでもこっちの方面に引きずり込んでやろう、という大いなる意思のようなものが垣間見えた気がして、情也は死んでも抗ってやろうと思った。
演劇などというものに、もう二度と関わり合いは持ちたくないのだ。
そんな風にしているうちに「藤田」「堀口」「村岡」などと進んでいって、あっという間に自己紹介の時間は終わっていた。
* * *
その日、全ての予定が終了したことを告げるチャイムが学校中に鳴り響いた。
これにて彩ヶ森高校、一学期初日は放課となる。
まるで嵐のような一日だった、と情也は思った。もっともソレは情也個人に限定した話であって、周囲のほかの人間は大体が皆、これからどうやって三年間を過ごそうかなどと期待に胸を膨らませた表情をし、そこら中で明るい空気を振りまいていた。
いい気なもんだ、と情也は勝手にそう思った。
ふと教室の前方を見れば、そこでは怪傑ラブこと日野愛理が、同じ中学から来たという瀬野宮優子を引き連れて、クラス担任かつ演劇部顧問の須田と話し込んでいた。なにやら真剣そうな眼差しだった。
「――先生、演劇部の部室はいったいどこに――」
「――それがねぇ、実はいま部員が一人もいない状態でこのままじゃ――」
「――四月中に、何らかの活動実績を――」
「――ならいっそ新入生歓迎劇という名目でやるのが一番――」
途切れ途切れにだが、そんな感じの会話が聞こえてきたのだった。
だからなんだ、と情也は思った。無関心を決め込み、机の上から鞄を取ってその場を後にする。そんなに演劇がやりたかったら、彼女らだけでやっていればいいのである。
そこにたとえ何らかの意思が介在していようが、自分は関係ない。そう思うことにした。
差し当たってひとつ、これからの学園生活に向けてやっておくべきことがあった。図書室の場所の確認である。
情也は週に一度は必ず読んでいる本が別の内容へと変わるので、恒常的に、それも無料で書籍を収集できる環境が必要なのだ。基本的には学校の図書室がソレである。
ちなみに速読法などをマスターした人間にとって、週一冊というのは遅すぎると思われるかもしれないが、情也の場合は内容を噛みしめながらのんびりと読むほうが性に合っているので、現状でもさほど問題には感じていなかった。
そんな訳で、これより図書室探しの旅へいざ、と意気揚々と教室を出たまではよかったのだが、その矢先に誰かと勢いよく衝突してしまい、鞄の中身が全部床に飛び散ってしまった。何だか知らないが、本当によくトラブルに見舞われる一日だった。
慌てて拾おうとしゃがみ込み手を差し出すが、その拍子に目の前へと伸びてきた別の誰かの手が情也の手と触れ合う。
ビックリして顔を上げると、そこには一人の小柄な少女が立っていた。その姿を一瞥して、たった今ぶつかった際に腕に感じた柔らかな感触の正体が、少女の胸元にある膨らみであると知る。こうしてハッキリと視認できるぐらいには大きかった。若干気恥ずかしい。
それにしても何だか見覚えがある顔だな、と思ってじっとその少女の顔を見つめてみる。考え込むこと数瞬、情也の脳内記憶回路が光の速さでダッシュし繋がっていった。
「……あぁ、今朝昇降口の前で会った子か。ごめんね、大丈夫だった?」
「あ、あの、えと、その、」
相変わらずたどたどしいにも程がある少女だった。若干ウェーブがかった黒髪ロングヘアの下に見える、ややくっきりとした目元がいかにもな動揺を見せている。
この小柄な少女、相当に臆病であった。
だが何度も言うように、こういった奥ゆかしい性格の人間は情也は嫌いではない。少なくとも、やたらめったら喚き散らす女よりは百倍マシであった。
それは置いておくとして、その小柄な少女は尚もオドオドしていたが、やがて決心をつけたような表情になるとさっと廊下にしゃがみ込んで、情也の傍らで散らばった荷物を集める手伝いを始めてくれた。
朝の礼のつもりなのだろうか。何にせよ、協力してくれることは非常に助かる。
そんな中、衝突した際に外れかかっていたのか、少女の胸ポケットに装着されていた名札がポロリと床に落ちて音を立てた。情也はそっとソレを拾って、そこにある文字を読む。
「亜麻乃 倫」
ソレが彼女の名前であるらしかった。チラリとその顔に視線を向けてみれば、彼女は急に動揺したようになって物を取り落とし、慌ててそっぽを向いてしまった。
その頬が何故か若干朱に染まっていた。
ソレを見て思わずドキリとする。
こんなことを情也が感じたり、素直に思ったりするのは極めて珍しいことなのであるが、ただ純粋に「可愛い」と表現したくなるような少女であった。恐らく本人はなんら意図してはいないのだろうが、それでもごく単純に怯えるその様子が、そこから滲み出る自然な挙動のひとつひとつが、まるで狙い済ましたかのように次々と、情也の好みのストライクゾーンど真ん中にぶち込まれてきていた。
作ったようなあざとさがない分強烈で、正直かなりヤバいと思った。
その全身から、絶え間なく過剰なまでの“抱き締めたいオーラ”が発散されていた。
まぁ現実でそんなことをやったら即刻痴漢認定で生徒指導室かブタ箱送りなのであるが、とにもかくにも亜麻乃倫の守ってあげたい感は半端ではなかった。ここが教室のど真ん前であることが悔やまれるぐらいである。
まあそんなことを考えていても仕方がないので、情也は素直に拾った名札を亜麻乃倫の手に返してやって、代わりに自分は集めてもらった荷物を受け取って立ち上がった。
「それじゃ、手伝ってくれてありがとね。またいつか」
「あ、あの、わた、わたし、わたしこそ、」
朝の礼でも言おうとしているのだろうか。その必死に言おうとしている感が、また堪らなく可愛いのだった。
しかし情也には時間がなかった。
情也たちのB組と違って、仁のいるA組では未だにホームルームが継続しており、情也はこれが終わるまでに図書室の場所を確認して帰ってこなければならなかった。それは大きく見積もっても、十分かそこらが限度というところであった。
名残惜しいが、という言い訳を自分の中でしつつ「じゃあね」と手を振ると、情也は亜麻乃倫に別れを告げ、急いでその場を離れていった。
後ろではまだ何か言い足りないのか、亜麻乃倫がポツンと立ったままこちら側を見つめていた。
* * *
階段を歩いて一階に降り、渡り廊下から北校舎に向かったところ、思ったよりも簡単に図書室の場所は見つかった。美術室や何かが並ぶ閑寂とした廊下の一番奥のところに、ポツンと二枚のドアがあるだけの、中々に質素な雰囲気であった。
あまり音を立てないようにして中へ入ってみると、すぐに大小さまざまな本棚が立ち並ぶ広々とした空間が出現した。まるで過去から現在まで、全ての地球の記憶が詰まっているかのようだと情也は思った。
情也はその静けさを体中で堪能しながら、のんびりと本棚の隙間を歩いていった。
奥の方までやってくると、そこには毎度お馴染み学習スペースがあった。今は数人の生徒しか見当たらないが、受験シーズンともなれば連日押しかけてくる大勢の受験生によって、この場は埋め尽くされることになるのだ。
ひとまず館内の配置は見てまわったので、情也は最後に確認のため、手近な場所に設置されていた館内検索用コンピューターの元へと向かった。コレさえ見ておけば中学時代によく借りていた本の有無は勿論のこと、今月入荷した新刊のタイトルなども容易にチェックすることが可能である。
ところが学習スペースの合間を通り抜けようとしたところ、何の手違い、いや足違いか、片足が折りたたみ式パイプ椅子の足に引っ掛かってしまった。その勢いで椅子がテーブルの端にぶつかり、ガチャンという大きな音が立てられる。
まず誰よりもビックリしたのは情也自身であった。
幸い図書室内に殆んど人はいなかったので、左程注目を集めることもなく、情也は慌てて自分の足を椅子の隙間から引き抜くと、そそくさとその場を後にしようとした。
が、不意に近くから視線を感じ、情也は不審に思って右脇を向いてみる。
いた。
そこに、くすんだ銀髪の少女が座って、じっと情也のことを見つめていた。
銀髪の、というのはパッと見の印象であって、よく見ればそれは若干色あせて灰色っぽくなっただけの、普通の黒い髪の毛であった。黒髪と白髪の中間とでも言えるかもしれない。
とにかくそんな珍しい髪の毛をした少女が、一メートルと離れていない椅子の上から情也の顔を黙って見上げていたのである。
加えて銀髪少女は、やけに無表情だった。自分を見つめるその視線は怒っているのやら、怖がっているのやら、いまいち判然としなかった。手元では本が一冊半開きのまま待機させられているようだが、それも銀髪少女の感情を読み取る材料としては不足している。
思わぬシチュエーションに、情也は果てしなく戸惑わされた。
すると突然、銀髪少女がそのボブカットを揺らしつつ、近くの柱を見やった。情也も何となしにその動きにつられ、同じ方向を見てみる。そこにはこう張り紙がしてあった。
『しずかに』
そうして銀髪少女はまた無表情なまま振り向くと、じっと情也の顔を覗いてくるのだった。
言わんとしていることはよく分かった。確かに自分が悪かったです。
情也は銀髪少女に軽く頭を下げ小さな声で「すみません」と言うと、自分が足に引っ掛けてしまった椅子を元あった場所に戻して、気を取り直してコンピューターの前へと向かった。
「あら? もしかして君、新入生の子?」
背後からそんな声をかけられた。無視する訳にもいかないので振り向いてみる。
図書室の司書担当の先生であろうか。大体三十代の半ばから四十代前半あたりと思われる女性の教諭が、飾り気のない笑顔を浮かべてこちらを見つめていた。その腕の中では十数冊もの本が、いかにも運搬中という感じで縦方向に積み上げられている。
「もし借りたい本があったら、もう今日から貸し出しできるからね」
司書の先生はそんな嬉しい情報をくれた。
「あ、本当ですか?」
「うん、今年新しく入ってきた子たちのバーコード表は、もうそこに置いてあるから」
そう言って貸し出しカウンターの端っこを指差す司書の先生。そこには確かに、十数枚の紙を綴じ込んだ金具式のファイリングノートが置かれていた。
この学校では、図書室の貸し出しは全冊バーコード形式だった。生徒各個人に出席番号と対応して割り当てられたバーコードと併用し、全ての蔵書を貸し出しから返却まで一貫して管理できるのである。中々に先進的だった。
情也はカウンターまで行ってファイルを手に取ると、一年B組のバーコードが掲載されている部分を探してペラペラとページをめくった。
「これって、一人何冊まで借りられるんですか?」
「長期休暇以外は、一度に三冊までよ。たくさん借りていってね」
情也は心の中でガッツポーズをした。これは読書好きにとっては有難い条件だ。
ここに入学したのは正解だったかもしれない。
そう思っていると、
くいくい。
……制服の裾を、後ろから無言で引っ張られた。振り返るとそこには、例の銀髪無言少女が殆んど無表情のまま立っていた。
少女はすっと右手を上げたかと思うと、自分の後方を指差し、
『しずかに』
「いや、今のは仕方ないだろ⁉」
幾らなんでも機械的すぎるその判定基準に、情也も流石にツッコミを入れることとなった。
どうにも神経質なのではないかと思った。
「てか、それだったらあの人はどうなるんだよ」
そう言って情也は、カウンターの向こうで作業中の司書の先生を指差した。
先程まではともかく、たった今情也が口を利いたのはそもそも彼女が話しかけてきたからである。返事をするのも駄目だというならば、彼女も確実にアウトだと思うのだが。
銀髪無表情少女は少しの間じっと黙って司書の先生を見つめていたが、やがて、
「…………あれは必要悪」
「使い方間違ってないか⁉」
何だか妙に大げさな話に聞こえるのだった。
というか、この少女が言葉を発したこと自体、情也には驚きであった。口が聞けないとかそういうことではなく、ただ単に無口なだけのようで安心した。むしろ一度聞いてしまえば、黙っているのが勿体無い位の綺麗な声であった。
図書室の中だったからなのだろうか。
などとそんなことを考えているうちに、いつの間にか時間が来てしまっていた。残念ながら今日は本を借りていく暇が無いようである。おのれディケイド。
「じゃあ悪いけど、俺はこの辺で」
「…………図書室では静かに」
君も既に喋っちゃってるじゃないか、と情也はツッコミを入れたくなったが、面倒そうなのでやめにしておいた。
情也は去り際に司書の先生に軽く頭を下げると、出来るだけ音を立てないようにしてドアを開閉し、そのまま図書室を後にした。
校舎を移動し階段を登ると、一年B組の教室前で仁が待ってくれていた。
どうせなら亜麻乃倫ともう一度、鉢合わせしないものかと若干期待した情也だったが、そのようなラッキーイベントは二度は起こらなかった。そりゃそうである。
情也は仁と一緒に昇降口を出ると、正午前の日差しを浴びながらその日の昼飯は何にするかなどとしょうもないことを話しつつ、比較的平和裏に帰宅の途についたのであった。