残雪
雪が融けてしばらくになる。晴れた休みの日であった。バスに乗り、家から3キロほどのところにある山へ向かった。
バスの窓からは、遠くの山頂に雪の傘が依然として厳しい美しさを誇るのが望まれた。
登山口でバスを降り、山道に入った。スキー場へ続く山道である。
飢えたような気分であった。
この山道には、1度だけ来たことがある。もう何年も前のことだ。
前にここに来た時には、彼と2人でこの道を進んだ。何か楽しい話をしていた気がする。
雪の道をスキー板を背負って進んだ。その重さに、体は下を向いた。彼の足だけを見ていた。
そういえば、彼の足跡を辿って進んだ。自分で雪を踏みしめながら進むのはたいへんだったのだ。
何度も休みながら進んだ。稜線を外れて小さな谷川を超えるところが、雪が深く、一番きつかった。
足を取られつつも、腕を引かれながら進んだ。体が起こされ、彼の背に目が行った。カラフルのスキーウェアの背は、いつもよりたくましく見えた。
そして、遂に辿り着いたのだった。
スキー場までバスが行かないわけではないのに、どうして彼はそんな道を通りたがったのだろう。おかしな人だった。
彼は今どうしているだろう。
新しい相手を見つけただろうか。暮らしていけているだろうか。幸せだろうか。幸せであってほしい。
彼と別れて1年になる。
雪の無い今となっては、山道はよく整っている。スニーカーでも難なく進める。以前は雪の下で見えなかったのであろう、木製の階段もある。私はずんずんと進んだ。焦りがあった。
小さな谷川を超えてしばらくすると、山の中腹にあるスキー場に私は再びたどり着いた。
それはあまりにも近く、あっけない道のりに思われた。雪のある道というのは、やはりたいへんなのだったのだなと、思った。
視界が開けて木の無い斜面が見えたとき、私はしかしがっかりした。
スキー場はむしろ日が照り、雪を残していなかった。ただ草が生えた斜面が、まばらに土を晒しながら残るのみであった。
――雪も、人も無いスキー場というのは、うつろで、寂しいものだな。
あのときここは、笑い声が響く、幸せな空間だったはずだ。ゴーグルを外せば、どこを向いても白く眩しかったのに。
2人ともスキーはうまくなかった。彼も、よく転んでいた。照れくさそうに笑う彼の見せる白い歯が、一番眩しかった。
思い出すほどに、私はなぜこんなところに来てしまったのだろうという気分が強くなった。
錆びたリフトの鉄線が、僅かに揺れている。風が強い。にわかに身震いがした。
――帰ろう。
その場所にずっと居るほどに、心許なくなった。耐えられなかった。
歩けば、落葉に覆われた地面がざっと音を立てる。木の枝が折れる。
進んでいくと、やはり小さな谷川が目の前に見えた。なんとなく、足が止まった。体が熱い。
突然悟った。彼が今楽しくやっているかとか、誰と付き合っているかとか、私を覚えているかとか、もはやそんなことをを知ることも無いのだと。彼と連絡を取ることはもう無いのだから。
心の中にあった焦りが、急にしぼんでいく。
谷川の縁ある岩の間には、少し雪が残っているのが見えた。だがそれも、遠からず消え去るのだと、思った。