8(完)
小町が目を覚ましたとき、鋭希はどれだけ自分の顔が喜びに染まっていたか分からない。
「小町ちゃん!」
鋭希はあの後、片手に小町を抱き、もう片手には植木鉢を、それから肩に仁村からもらった、まるでお中元のようなお詫びの品の包みまで下げて、骨董荘に帰ってきた。既に時は夜だったが、早苗がまだ仕事から帰ってきていないようだったので、とりあえず自分の部屋へと戻り、小町を布団に寝かせていた。
「良かった、気がついたんだね……」
安堵する鋭希をよそに、小町は起き上がり人形のように勢い良く上半身を起こし、きょろきょろと辺りを見回した。鋭希は静かに彼女のメモ帳を差し出した。
【花は?】
その字には、いつもの達筆さはなく、少し丸まった少女らしいものだった。さすがに起きたばかりということらしい。
「大丈夫、持って帰ってきたよ」
既にイングリッシュローズは元の場所に戻してあった。
「小町ちゃん、きっと花の匂いにやられたんだね。あれは、かなりひどい匂いだったからね。塀が高いせいで外にはあまり漏れてないみたいだったから、ますますこもっちゃってて……」
【違う】
「え?」
【あの場所で視えた記憶が強烈過ぎたから、耐えられなかった。鋭希くんに抱き上げられていたから、私、地面に触れていなくて、だからあの時まで気付かなかったんだわ。頭が変になりそうだった】
「……どういうこと」
小町は静謐な眼差しのまま、恐るべきことを星柄のメモ帳に書き記した。
【殺人の記憶が視えた】
「え――」
【あの庭には、人が埋められている】
その言葉が、鋭希の脳に沁み込むのに、多少の時間を要した。
その事実は、鋭希の理解を超えていたからだ。
【埋まっているのはあの人の夫ね】
仁村夫人の――夫。
「確か、単身赴任をしているって……」
【それは嘘。あの人は、暴力を振るわれていた。家庭内暴力。DV。私はあの家の敷地に入った時から、不明瞭な痛みや苦しみを感じていたから、おかしいと思っていた。気持ちが悪かった】
鋭希は小町が、仁村家に入ってから殆ど何も伝えてこなかったことを思い出す。
【強く念じられた記憶は、物体から放射されることもある。あの家は――悲しみで塗込められている】
「……それじゃあ、仁村さんのお母さんが痴呆だって云うのは……」
【あれも嘘。一緒に住んでいるのは本当。けれど、その母が、あの人の夫を殺したの。彼女はそれを庇って嘘を吐いていた】
「けれど、けれどさ……」
鋭希はとっさに反駁するような質問ばかりを並べていた。とても信じられなかったからだ。鋭希は、仁村家に入る際、自分が嘘を吐いたことを思い出している。嘘を吐くことは簡単だ、そう思った。その自分がこんなにも真実からかけ離れた嘘を吐かれていた。お笑い種だ。
【あの人とその母は共犯。二人で、あの庭に夫を埋めたから。私があそこで視たのは、その記憶よ】
二人は共犯――その言葉が鋭希の脳裏で反芻されると、足元から寒気が昇り立ってくる。
「それじゃまさか、花を盗んだ理由って云うのは――」
小町に教えられるまでもなく、鋭希には予想が出来ていた。
【カモフラージュ】
「そう……そうなんだね」
【死体の匂いを消したいという気持ち、その強迫観念が、彼女たちを窃盗に走らせた】
鋭希にある考えがよぎる。
盗まれた植物の共通点が閃く。
それらは夏に咲く植物であり、匂いが非常に濃いとされる強香種ばかりだ。或いは、元より匂いを楽しむための植物、ハーブ類などだった。
「早苗さんが云ってた……去年の今頃も、同じような事件があったって……」
夏。
それは温度と湿度が上がり、腐敗が進行する季節。
匂い立つ季節だ。
空っぽの庭を見ていて、あの二人は不安になったのだろう。そこから、死者の匂いが立ち上ってくるような気がしたのではないか。それは強迫観念的な「思い」だ。自分たちの罪が地の底の地獄から沸き上がってくるような恐怖が滲んできたのではないか。
「殺したのは、去年の夏だったのかな……」
【たぶん。少なくともそれほど昔ではない。あの記憶は比較的新しかったから】
小町が、山吹宅で読み取ったことを鋭希は思い出す。
犯人は、怯えている、恐怖している、追い立てられている、と。
「罪が露見することは恐ろしいことだよね。けれど、あの二人にとって、それは花泥棒の罪なんかじゃなかった。殺人の罪が露見することだったんだ。追い立てられるような気持ちになったのも、その罪の隠蔽が念頭にあったから……」
小町は頷いた。
小町が筆記していく。寝起きのせいか、いつもより時間がかかっている。それを待つ間、鋭希の胸にはぞわぞわとしたものがこみ上げてきて止まらない。
【きっと去年の夏。母が衝動的に殺した。娘が日夜殴られているのに耐えられなかった。どうしたらいいかと二人で悩んだ。女手二人では、どこかの山に死体を埋めに行くのは難しい。けれど、早くしないと暑さで死体が腐敗してしまう。それで仕方なく、自宅の裏庭に埋めた。それが地獄の始まりだった】
彼女たちは、また夏が巡るたびに、花を盗みに夜の街を徘徊するのだろうか……。
夏という季節に怯え続け、病的なまでに、花泥棒として闇を走り続ける……。
鋭希はその様子を想像すると、とても哀れで物悲しい気分にさせられた。
「どうして……」鋭希は額に手を当てる。「どうして仁村さんは、僕たちにあんなにも簡単に、裏庭を見せてくれたのだろう。そんな重大な秘密を隠している場所に……」
【本当は、誰かに知ってもらいたかった、とか。私の想像だけど】
「……誰かに自分たちを止めて欲しかったって? だけどそれじゃ……」
それでは、あまりに悲愴過ぎる。
けれど、その真相は分からないのだ。
【人の心など、分からないけれどね】
小町の文字を見て、鋭希も同意する。
他人の本心など、分かりようがなかった。
心は、移ろい続ける。どこかに留まった思いなどは、所詮は過ぎさった記憶でしかないのだから。
殺人犯が、『誰かに止めてもらいたい』と願っていると思うことなど、善人が殺人犯に対して、『そう感じていて欲しい』と思う願望に他ならないのではないか。
鋭希は、疲労によって回転数の下がってきた脳髄でぼんやりとそう考えた。
気づくと、小町は、布団の上からいなくなっていた。
小町は、テーブルの上に置かれた、仁村からの「お詫びの品」に触れようとしていた。
触れて、すぐに熱いものにでも触ったかのようにぱっと手を離した。
「どうしたの」
【殺意】
小町の文字は震えている。
【この箱から、うっすらと殺意を感じる】
「そんな……」
【きっとあの人は覚悟していた。あの時、もしも最悪の事態に陥ってしまったならば、私たちを殺す覚悟をしていた】
「そんな覚悟を……」
【家の中には母が待機していたみたい。それに、きっと鋭希くんのことを女の子だと思っていた。だから、なんとか出来ると思っていたんだわ。未遂に終わったけれど】
窓から入る夏風にそよいで、りいんと、風鈴が鳴った。
鋭希の思考は窓から飛び立てずに、部屋の中を旋回し続ける。
仮に仁村が殺人犯であったとして、自分にそれを糾弾することが出来るのだろうか。
論理的な推理や、明白な証拠によって、彼女を犯人と断定できたわけでもない。全部、小町の異能による成果だ。あの庭を掘り返せば、きっとその「記憶」は出てくるのだろう。
けれど、
『それでも止められないの。これが――私の親孝行だと思っているから』
最初のうちこそ、母が痴呆症という嘘に惑わされて勘違いをしていたが。
殺人犯となった母を庇い続ける娘。
あの言葉は――そんな彼女にとって、ある面における真実だったのだろう。
そして。
『だからどうか、私たちを赦してくれませんか』
あの言葉は――
あの言葉は、いったいどんな「思い」を僕たちに伝えようとして――
急に、小町が布団の横に座っていた鋭希の胸に飛び込んできた。猫が丸くなるように、鋭希の膝に俯せになるように頭を寝かせた。
それは、涙を隠そうとする仕草だということに、鋭希は気づいた。
「小町ちゃん……」
鋭希は、小町の頭を優しく撫でた。
二人の間に言葉はなく、小町のメモ帳はテーブルに投げ出されたままだ。だがそれでも鋭希には小町の気持ちが、その熱すぎるくらいの体温を通じて伝わってくるような気がした。
それは、言葉にならない悲哀だった。
罪を犯した人間も、犯された人間も、傷をつけた人間も、つけられた人間も、誰もが救われなかったということ、誰もが悲しみを抱いたままであるということ。
小町には、それが物体に遺された記憶を通じて、はっきりと分かってしまう。
誰よりも深く感じ取ってしまう。
そうして知る思いは、きっと鋭希の想像などを遥かに超える鮮烈さなのだろう。
小町にしか理解することのできない「思い」がそこにはあるのだ。
だからこそ、鋭希は強く願う。
顔の見えない小町の背に、暖かな手を置いた。
日比谷小町は、誰よりも深く他人の思いを知り、他人の思いを感じ、そして誰よりも深く「想う」ことの出来る女の子だ。
小町はこれからもきっと、誰よりも深い悲しみや苦しみを経験することになるのだろう。
そんな時には、自分が傍にいて、その痛みを半分だけでも肩代わりすることができたらと、鋭希は願う。
そしてきっと、そんな小町だからこそ、誰よりも大きな喜びを、何よりも大きな愛を味わえる時があるはずだ。
彼女がいつか、そんな日を迎えることが出来るまで、彼女を照らす優しい灯りになりたいと、鋭希は願う。
(了)
はじめまして! 天尾友哉です。
冒頭にも書きましたが、この作品は、昨年15年度の電撃小説大賞に応募して、3次選考で落選した作品です。
送付された選評シートによれば、2次選考通過は4580作品中202作品。二人の編集者さんによる総合評価は「B+」と「A-」になっており、コメントは意訳すると、「短編にしては設定を詰め込み過ぎ。短編連作の一作目みたい。長編か短編連作で応募して下さい」ということでした。
うーん……!。むずかしい……!
電撃文庫大賞さんは、原稿枚数制限が意外に短いので、長編を出してみたいとは思っているのですが、未だかつて出せたことがないんですよね。
確かに、この短編のみだと死に設定が多過ぎますね。鶴川さんとか絶対いらないし。
でも、この「なろう」さんなら、いくらでも載せられますし、気が向いたら彼ら少しふしぎな二人の物語の続きを書いていこうと思います。
その時は、どうぞよしなに!
そんなわけで「日比谷さんちのサイレントキティ」を読んで下さった方、どうもありがとうございました。
大変おそまつさまでした。