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鋭希が、日比谷小町と初めて出会ったのは、風が強く吹きつける春の終わりの夜だった。
役目を終えた桜が惜しげもなく散っていく並木道の中に、小町はいた。
*
父方の祖父である剛太郎から、職が決まるまでの間、アパートの管理人をやらないかと誘われたとき、鋭希は断ることが出来なかった。
鋭希の母親は、鋭希が中学二年生の頃に、交通事故で亡くなっている。父親は鋭希が幼い頃に離婚している為、行方も知らない。だからこれまで、鋭希は都内に住む母の兄宅に居候させてもらうことで生活してきた。そうして高校まで出られたのだが、それ以上、叔父夫妻の世話になることが、鋭希には辛かった。叔父夫妻はお世辞にも裕福とはいえなかったし、彼らには鋭希だけでなく、まだまだ手もお金もかかる年頃の子供が三人もいたからだ。高校まで出させてもらえたことだけでも、鋭希は叔父夫妻に深く感謝していた。だからこそ、そこからは自分で稼いでいこうと思っていた。
しかし、世は未曾有の不景気で、職はなかなか見つからないのだった。
鋭希が進路先を見つけられないままに高校を卒業してしまったのには、超就職氷河期の問題だけでなく、彼のお人好し過ぎる性格にも原因があったかも知れない。鋭希は学業成績が良かったので、教師たちから(進学が無理そうならばせめてと)企業の推薦を勧められることも多かったのだが、「就職が決まらなさそうで困っている」などと泣きつく友人がいると、すぐにそれを譲ってしまった。そんなことを繰り返しているうちに、進路未定のまま卒業の時が来てしまったのだ。どうにも鋭希は、自分より他人の気持ちを優先してしまう、ある面では困った性格を有していた。自分の境遇など忘れてしまって、他人に配慮してしまうところがあった。
何はともあれ、叔父宅を出て行くといった以上は、自分で金を稼いで生きていく必要がある。進路未定であることを、鋭希は叔父夫妻には云えずにいた。叔父夫妻は、鋭希がでていくことを宣言したときに、ほっと肩の荷が降りたように安堵の表情を見せたからだ。それは鋭希が夫妻と共に暮らしてきて、初めて見た顔だった。 今更、行く当てがないと云えるわけもなかった。鋭希の性格なら尚更だった。
三月の卒業式。
満開の桜は、新たな進路へと旅立っていく学生たちを盛大に祝福していた。しかし鋭希は、その学生たちの輪の中に自分は入れないような気がしていた。我が世の春は今まさに始まったとばかりにはしゃぐ同級生たちを脇目に、鋭希はとぼとぼと叔父宅に帰った。来週にはもう出て行くことになっている叔父の家に。
鋭希宛の封筒が着ていた。
差出人の名前は書いていない。消印は、東京より西方の、とある地方都市のものだった。鋭希はそれだけでも訝しんでいたが、更にその中に入っていたものが、携帯の電話番号を書いた紙切れ一枚だったときには、その不審感は最高潮になった。
「よお、久しぶりだな、鋭希」
電話に出た第一声はあっけらかんとしたものだった。しゃがれているが、やけに力強く、勢いのある発声で、声だけでは年齢の判別がつかなかった。
「オレは灯屋剛太郎。お前の親父のそのまた親父だ。つうか知ってんだろ? 会ったことがあるもんな。お前が豆粒みてーにちっちゃいトキだったけどよ!」
「爺ちゃん……?」
それはうっすらと靄にかかった記憶だった。鋭希がごく小さい頃に両親と共に行った田舎の風景。思い出してくれば、瞬く間に鮮明になっていく。
物凄くエキサイティングでエネルギッシュな爺さんがいた思い出だ。鋭希ははっきりと思い出した。確かそのときは、ティアドロップのサングラスにレザージャケットを華麗に着こなした、父の兄といって十分に通じるような容姿だったような気がする。
「お前、そろそろ高校卒業だろ? これからどーすんの?」
突然の連絡は、自分を心配してのことだったのかと、鋭希は理解した。鋭希は、正直に、自分が置かれた境遇について説明した。卒業してからは、居酒屋やなんかのアルバイトで自活しながら、公務員試験の受験勉強をしようと思っている、と。
「どうせそんなことだろーと思ったよ!」快活な笑い声が電話越しに聞こえてきた。「オマエ、ちっちぇえトキから、すげえ控えめで一歩下がった、ヤマトナデシコみてーな性格だったからな! ツラも性格も女っていっても分かんなかったからなあ! ぎゃはは!」
特に愉快な内容を話したわけではないが、剛太郎がやけに楽しそうだったので、鋭希はつられて気持ちが明るくなった。
「じゃあさ鋭希」剛太郎は快活な様子で続ける。「オマエ、こっちに来る気ねえ? 実はよ、オレ、この年になってもまだまだ忙しくてさあ、今も猫の手も借りてー気分なわけ。んな大したコトでもねー、たぶん、オマエが勉強しながらでも出来ると思うからよ。ちょっと来いよ」
東京発の新幹線に乗って、ローカル線で乗り継いでいった先の駅に、鋭希はかすかな見覚えを感じた。かつてそこに来た記憶があった。しかし、記憶の中の駅前とは随分違う。駅前にはバスロータリーが整備され、中型の商業ビルも幾つか並んでいた。いくら十余年が経っているとはいえ、通常では考えがたい恐ろしい発展ぶりだった。かつての名残を感じさせるのは、近隣の小学校から寄贈されたというイチイの木だけだった。イチイは、今は大きく成長して駅前のシンボルとなっていた。
突如現れた白のランボルギーニが、鋭希の前で急停車する。中から、ヒューゴ・ボスのスーツを着こなした男が降りてきて、鋭希を見てニッと笑う。
それが灯屋剛太郎だった。
「爺ちゃん、忙しいって云ってたけど、いったいなんの仕事してんの」
「よく訊いてくれたな、鋭希! やっぱオマエの空気読むスキルは天下一品だわ! オレのライフワークはな、この街をでっかくすることだ! ゆくゆくは県一番の都会になっちまうくらいにな!」
確かに、疾駆するランボルギーニから眺める街並みは、鋭希がかつて来た頃と比べて一変していた。
鋭希は話を聞き、剛太郎が近隣でも有数の地主であることを知った。彼には野望があるらしい。地主の組合や、地元のゼネコンと組んで、自分の生まれ住んできたこの街を、一大都市にしてやるという野望が。
「でよ、オレはまだまだ忙しいからよー。オレが余生を送れるようになるまで、誰かに任せておきたいところがあるんだよ。あ、今の『余生』ってとこ、軽くギャグで云ったから」
剛太郎はからからと笑った。
「……それが、その『骨董荘』っていうアパートなの」
「ああ。オレのホームみてえなもんだよ」
ランボルギーニは鋭いフォルムで風を切って走る。剛太郎は窓から腕を出している。
「どうして、そんな大切なところを、僕に……?」
鋭希はサイドシートから、不思議そうに剛太郎を見た。
「オマエなら、信用出来ると思ってさ。オレって意外にオマエのことよーく知ってんだぜ?
だってオレ、オマエの爺ちゃんだし」
こうして鋭希は、骨董荘の期間限定管理人となった。
*
その夜、鋭希は運送屋のトラックに乗せられなかった貴重品などの荷物を持って、骨董荘へ向かって歩いていた。日中、引越し作業に忙しかったので、今、鋭希はコンタクトレンズをせず、赤いセルフレームの眼鏡をかけている。その眼鏡は、昔、母に買ってもらった形見のようなものだった。
桜の花びらが荒れ散る並木道を行く。その途中で、道の隅に蹲っている女の子が目についた。なんだか様子がおかしかったので、鋭希は少し気になった。
「大丈夫? 具合でも悪いの」
そう声をかけたが、少女は鋭希を見向きもせず、返事もしなかった。これは答えられないほど体調が悪いのかもしれないと鋭希は心配し、少女の腕をとろうとしたが、素早く振り払われる。少女は感情のない瞳で鋭希を睨みつけた。鋭希は思わずたじろいだが、少女の目が何かを訴えかけているように見えた。それが反発や抵抗の沈黙でないような気がしたのだ。
その姿は、いつかの自分と似ていると鋭希は思った。
鋭希も、中学二年で母が突然亡くなって、一時期、ショックでまったく声を出すことが出来なくなったことがあったからだ。
誰かに何かを伝えたい。けれど、その方法が分からない、どうすれば伝えることが出来るのか、その方法を忘れてしまった――
あの時の苦しさ、もどかしさを、鋭希は胸に痛みを伴いながら思い出した。
鋭希は肩にかけていた革製のショルダーバッグから、ボールペンとスケジュール帳を取り出した。スケジュール帳を一枚破き、ボールペンと一緒に少女に手渡した。
少女は黙ったままそれを受け取る。
しばらくそうしていたが、やがて自分が出来ることに気づいたかのように、さらさらと何かを書き始めた。そして紙の端で鋭希を突き刺そうとするかのように、鋭希の眼前にその紙を示した。
【蟻を殺しているの】
流麗な筆跡だった。「蟻」や「殺」もしっかりと漢字で書かれており、目の前にいる幼い少女がそれを書いたのだとは、鋭希はにわかに信じられなかった。
「蟻を、殺している?」
鋭希はそこに書かれているものを理解しようと、無意識のうちに読み上げていた。あまりに出し抜けすぎてわけがわからなかったのだ。その鋭希の声に、少女はゆっくりと頷いた。そして又、元の位置に戻った。鋭希が見れば、確かに少女は樹の枝を使って、桜の木の根元にある巣から出てきた蟻を刺殺しているようだった。
「そういうことは、やめた方がいいよ」
少女は、冷めた目で鋭希を見上げた。再び紙に何かを書き付けた。
【どうして?】
「意味なく生き物を殺すべきじゃないんだ。それに、そういうことをしている君自身が嫌な気持ちになるだろう」
少女は首をわずかにひねった。鋭希の云っていることが腑に落ちない様子だった。
【嫌な気持ち? どうして?】
「悲しかったり、可哀想だと思うような気持ちのことだ。それから君は、罪悪感だって覚えているはずだ」
【分からない。この虫からや木の枝からは、触れても何も感じられない】
「そうか……」鋭希には彼女の云うことがよくわからない。「仕方ないな。ねえ、家はどこ? 僕が送っていくから、いっしょに帰ろうよ。もう遅いし、親御さんも心配してると思うよ」
【駄目】
それまでの文章に上書きするように、ページいっぱいに大きく書かれた「駄目」を見て、鋭希は目を見張った。
「え?」
少女が紙を丸めて投げ捨ててしまったので、鋭希は又、スケジュール帳を一枚破って、彼女に渡した。それから少女がポイ捨てしたゴミも拾って回収する。
【私がいると皆が困るから、帰りたくない】
「……そんなこと、ないだろう。君がそう思っているだけだよ」
少女は首を振った。
【私には分かる】。少女は続けて書き付ける。【お母さんは私のせいで、いつも嫌な思いをしている】
「……そんなこと、ないさ」
少女は頑なに首を振り続ける。
鋭希の云うことに聞く耳を持ちそうにない。
鋭希は、
「子どもが親に迷惑をかけるのは当たり前だよ! 何を嫌がる必要があるんだ!」
随分と大きな声で云った。勢い、慣れずにかけていた眼鏡が路上に落ちてしまう程だった。自分でもそんな風に激昂してしまった理由がわからなかった。自分は何をこんなにかっかしているのだろうと恥じる思いが生まれ、すぐに「ごめん、云い過ぎたね」と謝った。
慌てて眼鏡を拾おうとしたが、しゃがんでいた少女が手に取る方が早かった。
「ああ、ありがとう……」
しかし、少女は鋭希の眼鏡を掴んだままだ。
そして眠ったように目を閉じ、微睡みから覚めたかのようにゆっくりと開いた。
【お母さんにもっと甘えたかったの?】
「な……」
鋭希はぞっとした。何の突拍子もなく、自分でも気づいているかいないか定かではないような、心の奥底をぴしゃりと言い当てられた。
【貴方のお母さんは、貴方と顔がよく似ている】少女は筆記し続ける。【もっと親孝行したかったのね。早く自分でお金を稼げるようになって、女手一つで育ててくれたお母さんに楽をしてもらいたかった】
「なんで……」
少女は何かに取り憑かれたような恐ろしい速度で筆記を続けていく。その文章を見て、鋭希は今度こそ本気で叫びだしたくなった。
【お母さんは深夜、看護師の仕事から帰る途中に、酔っ払った大学生たちの運転する大型ワゴンに撥ねられて死んだ。貴方は彼らを殺そうと思ったこともある】
「もう、やめて……」鋭希は膝をついていた。自分自身さえも忘れようとしていた過去を引きずりだされて、全身の力が抜けていくようだった。「もう、やめてください……」
少女は、ぴたりと書くのを止めた。
【ごめんなさい】少女は裏に大きくそう書いた。「貴方の眼鏡から視えてしまった。それで、貴方がさっき突然怒ったのは、その記憶が原因だと気づいたから、伝えてしまった」
「……いいんだ」鋭希は笑おうとした。くしゃくしゃの笑みだった。「全部、本当のことだから。でも、どうして君は分かったのかな……」
【私は、視える。物を視ると、そこにある記憶が読める】
少女の指が踊るように書き付けたその文字は、鋭希を驚愕させるのに十分過ぎた。
鋭希もテレビや本で聞いたことだけはある。
残留思念解読能力。
物体に遺った人間の思いを読み取る超自然的な能力だ。或いは、サヴァン症候群のような一種の超人的な才能が、驚異的な推理力や洞察力として発現したものとも云われている。
しかし、突然そんなことを伝えられても、どうしたらいいのか鋭希には分からない。急に信じるのも無理な話だ。ただ、まずは冷静に目の前の問題に対処しようと、深呼吸をした。
「……とにかく君の家へ行こう。僕は君をこんな寂しい場所に置いていけないよ」
【駄目】またも少女は大きく書き付ける。鋭希は新しい紙を渡す。【お母さんは怒る。私がいなくなると怒る。私のせいで困っているから、怒る】
そして少女は紙いっぱいに【怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒怒】……と書き連ねていった。
「それは違うよ。お母さんが怒るのは、きっと君のことが心配だったからだ」
それは鋭希の本心だ。なだめすかしではなく、本気でそう思った。
少女は【怒】の羅列を止めた。鋭希に手を伸ばして新しい紙を要求してきた。
【分からない。私が心配だと怒る? どうして?】
「大丈夫、いつか必ず分かることだから。さあ、行こう」
鋭希は少女の手を取って、立ち上げさせた。
「帰るのが怖いのなら、僕が一緒に歩く。怒られるのが嫌なら、僕が一緒に謝るよ。だから、お母さんを心配させるのはもうやめよう。ね?」
少女はその黒く澄んだ目で鋭希の顔を見つめていたが、やがてこくりと頷いた。
少女に連れられて、桜の並木道をずっと行き、狭い路地をくぐり抜けていった先には、暗闇に溶けた月見櫓を思わせるような、古めかしいアパートがあった。
鋭希はブロック塀の看板を見る。
「ここは――」
色褪せた「骨董荘」という三文字が、鋭希を待ちわびていたようだった。