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はじめて投稿します! とても緊張していますが、どうぞお手柔らかに……。
全8部くらいになるかと思います。
「最近、花泥棒が出没しているそうですねえ」
「泥棒、ですか」
日比谷早苗がいつものようにゆっくりとした敬語調でそう云ったが、その内容がいつになく物騒だったので、灯屋鋭希は食べていた冷やし中華の麺をテーブルにこぼした。
鋭希は今夜もまた、日比谷早苗・小町母娘の夕食に誘ってもらったところだった。鋭希が臨時大家として、この「骨董荘」に住み込みで管理をするようになってから、もう結構な回数になるだろう。早苗の作ってくれる料理は、自分が作る料理らしき何かとは天地の差があるため、鋭希は日々の空腹を専ら早苗の料理で満たしていた。今夜の冷やし中華も、鋭希には一週間ぶりのご馳走だ。鋭希はこの母娘に頭が上がらない。
アパート・骨董荘。
築五十余年にもかかわらず未だ倒壊の気配も見せないが、すきま風が縦横無尽に内部を駆け回るため、部屋にいながらにして四季折々の風情――まさに風の情を――を感じられるという、古風にして瀟洒な二階建ての木造集合住宅である。「日比谷」のネームプレートが嵌められたドアは、二階部の外付け廊下の一番奥にあった。
「ええ、そうです。山手の方に住んでいる山吹さんのところのコンテナが大量に盗まれてしまったそうなの。何だかお高い花だったそうですよ。それに谷原さんのところも生垣を折られたり、植木鉢ごと持って行かれてしまったなんて聞きますし……」
早苗が眉根を寄せて云った。早苗の小花ストライプ柄のマキシ丈ワンピースを着て、脚を重ねてゆったりと座っている。その表情には、少女のようなあどけなささえ介在していた。早苗はそのおっとりした母性溢れる性格と若々しい容姿から、骨董荘の一輪花のような存在であった。鋭希は早苗の年齢を知らないが、十八歳である自分とそう変わらないように見える。しかし、早苗の娘である小町が十歳だか十一歳だかと聞いているので、そんなことは有り得ないのだが。
「花泥棒ですか……。泥棒なんて僕がここに来てから、初めて聞きました」
鋭希、早苗、そして早苗の娘、小町の三人で冷やし中華を食べている。
初夏の夕暮れ時である。熱帯低気圧から来た生温かい風が骨董荘の中を走っていく。開け放した窓に吊るされた風鈴が、りいんと鳴る。
「そういえば、去年の今頃も、似たような噂がありましたねえ」早苗は、それからあっと小さく口を開けた。「ああ、でも鋭希さんは知りませんよね。鋭希さんが来てからまだ一年も経っていませんものねえ」
「僕は四月からここで生活させてもらっているので……」
「本当、もっと長くになるような気がしていましたわあ。鋭希さんは、すっかり骨董荘の住人に馴染んじゃってますから」
「はは、ありがとうございます。皆さんには良くして頂いてます」
「いえいえ。私こそ、鋭希さんにはいつも小町がお世話になっていますもの。ねえ、小町……」
早苗がそう云ったが、小町は何も答えない。二人の会話を意に介する事無く、冷やし中華の摂取に専念しているようだ。小町は膝を外側に折り曲げてぺたんと座っていた。カラスの濡れ羽のように真っ黒で長い髪が揺れている。その隙間から覗く、猫のように丸く大きな瞳には、麺しか映っていない。彼女の食べている冷やし中華は大量のマヨネーズで和えられて、およそ別の食べ物になっている。
鋭希はふと訪れた沈黙を破るように、
「この冷やし中華、とっても美味しいです。早苗さん、いつも夕食を御馳走して頂いてありがとうございます」
「いえいえ、どうしたんですか、そんな急に改まって。そんなの気にしないでください。私たちもこうやってみんなで楽しく食べられると嬉しいんですから」それから早苗は微笑んで、「もう、鋭希さんったら本当にいい子ですね。私の息子にしちゃいたいくらいです」
「爺ちゃんに、早苗さんに作ってもらったご飯の話をすると、毎回悔しそうに涙を流してますよ」
「あら、剛太郎さんが? あの方はいつまで経っても若々しいのですね」
「でもあの爺は見た目はあんなだけれど、内面はかなりの恥ずかしがり屋らしいんです」
「あら、そんないたいけな女子中学生みたいなお祖父様だったのですね……」
灯屋剛太郎は鋭希の祖父にして、この骨董荘の所有者である。鋭希は剛太郎に頼まれる形で、骨董荘の大家をしている。
【どうして、お花を盗むのかしら】
突然、小町が云った。いや、正確には云ったのではなく、「書いた」。小町は、手元に置いている星柄のメモ帳に、さらさらと凄まじい達筆と速筆で【どうして、お花を盗むのかしら】と書いて、二人に見せたのだ。それは小町にとっては通常のコミュニケーション手段だった。鋭希が見れば、小町は既に冷やし中華を食べ終えていた。
「どうして……?」
早苗はきょとんとしている。
「んー、なんでだろうね、小町ちゃん」鋭希は腕を組んだ。「まあ、ちょっとした悪戯心のようなものだったりするんじゃないかな」
【例えば、万引きのような?】
小町は更にメモ帳に書き足した。
「そうだね……。大事になりにくくて、発覚しても警察がなかなか動いてくれないってところは似ているかもね」
【では、犯行動機は安易なスリルを求めてということ?】
「どうだろう。そうとも限らないけれど、その可能性はあるかもね。谷原さんのところの生垣を折るなんていうのは、器物損壊罪だし、鉢植えやコンテナを盗むのは窃盗罪だ。もしかしたら犯人は、簡単にそういう『犯罪』が出来ることに興味を持つ人間なのかもしれないね」
【では、犯人は若い人間? 若い人間はスリルを求めやすくモラルも低いと聞くから】
「そうかもしれない。けどね、小町ちゃん。想像だけで誰かを疑ったりするような考え方は駄目だよ」
【そんなの、知ってる】
小町はそれだけ書いて二人に見せると、今度はメモ帳の別のページに何かを凄まじい勢いで書き始めた。大きな目を真剣そうに見開き、手は精密機械のように動いている。
「こらこら小町、ちゃんとご飯を片付けてからにしないと駄目ですよ。それにまだ、私や鋭希さんが食事を摂っているところでしょう。後にしなさい」
早苗の言葉は小町には全く届いていないようだ。早苗は小町の手をやんわりと止めようとしたが、ぴしゃりと払いのけられてしまった。
「……ごめんなさいね、鋭希さん。小町ったら……」
「そんなこと云わないでください。小町ちゃんの才能は、本当に優れたものだと思います。早苗さんも気にされなくていいと思いますよ」鋭希は慌ててフォローした。そして話を逸らそうとする。「けれど困りますよね、花泥棒なんて。うちの住人は、僕も含めて園芸やガーデニングが好きな方はいないから、あまり関係ないかも知れないけれど、好きな人にとっては切実な問題でしょう」
「そうですねえ……。骨董荘にも鉢植えはいくらかあるから、少し気をつけなければいけませんねえ」
「僕も注意して管理していくようにします」
【そういえば】
小町が、今度はメモ帳を一枚破ると、そう一言書いて早苗に見せた。
【お母さん、今夜の冷やし中華、とっても『楽しい』で溢れていたけれど、いったい何かあったの?】
「え?」
時折、小町の伝える不思議な言葉に、早苗はいつも戸惑わされてばかりいる。
【スーパーで材料を買うとき、家で料理を作るとき、『楽しい』気持ちだったんでしょう? どうして?】
「ああ、それはね……」早苗は立ち上がって、三人が食べ終えた食器を片付けながら云う。「これなら、小町がお腹いっぱい食べられるって思いついたら、嬉しくなったからよ」
小町は熱のあるものを食べることが出来ない。それは、小町の性癖というか、病癖のようなものの一つだった。小町は、そういった「心の制限事項」を数えきれないほど持っている。
【そう。本当にそれだけ?】
「え? どういうこと、小町」
早苗は二度驚いた。
小町は無表情のまま、メモ帳に美しい文字を書きつけていく。文字数の多さをまるで感じさせないような、超人じみた速度で。
【スーパーで買うときに、今夜は鋭希くんが来てくれると思ったからじゃないの。鋭希くん、可愛いもの。お母さんも、鋭希くんといっしょにご飯食べられるの、嬉しいでしょう】
小町はちらと鋭希の方を見た。もちろん、小町は何も云わない。確かに人から女性的といわれることの多い鋭希だが、いきなりそんなことを伝えられても、どう反応したら分からないので焦るばかりだった。
「そうねえ……鋭希さんは確かに格好いいわよね。それに皆でこうしてご飯を食べられることは、私も楽しいと思うわ」早苗は小町に優しく笑いかける。「でもね、小町。鋭希さんといっしょにご飯が食べられて嬉しいっていうのは私だけじゃなくて、小町自身の気持ちでもあるんじゃないかしら」
小町は、早苗を見つめたまま、変わらず沈黙を続けていたが、
【どういうこと? 意味が分からない】
破った一ページにそう書き捨てると、さっと立ち上がり、そのまま茶の間から出ていってしまった。自分の部屋に戻ってしまったようだ。
鋭希と早苗が茶の間に取り残される形になる。
「……鋭希さん」
「はい、早苗さん」
「いつも、小町の面倒をみてくれてありがとうございます」
早苗は丁寧に頭を下げて云った。
「そんな畏まらないで下さい」
鋭希はあたふたと両手を振ってこたえる。
「いいえ。本当に感謝しています。私の仕事が忙しいせいで、小町には寂しい思いをさせてしまっていました。あの子は、人の心がぴたりと見えるかのように振舞うこともあるのに、何も話してはくれませんでした。今は小学校にも通っていないからお友達もいないし……」早苗は少し俯き気味に云う。「だけど、鋭希さんが来てくれたお陰で、小町は人の気持ちが分かるようになりました。私にもいろいろと伝えてくれるようになって……前は、筆談もしてくれなかったけれど、今なら小町の気持ちが私にも分かります」
「僕の方こそ、小町ちゃんにはいつも気付かされてばかりです」
それは決してお世辞ではなく、鋭希の心からの言葉だった。鋭希は、この骨董荘にやってきて、様々に個性的な住人たちと出会ったが、その中でも、特に小町との出会いは、自分を変える大きなきっかけだったと確信している。
誰も見ていないのに点けっ放しだったテレビが、五分間ニュースを始めた。もうすぐ、夜の九時になるようだ。
「それじゃあ、僕はそろそろ……」
「ええ。お勉強、頑張ってくださいね」
早苗はテーブルに手をついて立ち上がる。そして奥の部屋に向かって、「小町、鋭希さんが帰るわよ」と云った。しかし、部屋の向こうからは、何の反応もなかった。
「冷やし中華、美味しかったです。今度は僕が何か作るので、是非来て下さい」
鋭希も立ち上がると、日比谷家の玄関へと向かった。並べて置いていた自分の革靴を履こうとすると、靴の中に、小さな紙切れが一枚入っていることに気づいた。
【また明日ね、鋭希くん】
鋭希は、まだ一度も小町の声を聞いたことがない。