表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

リナリア

作者: れんティ

 目も眩むような光、甲高い絶叫と悲鳴が耳を劈く中、動かない体と軋む意識を抱えて、名前を呟き続ける。

 それは、日常が非日常へ、非日常が日常へ代わるきっかけになった時間。この体の中心に居座り、関わった人間の人生を様々に壊した最悪の出来事。平凡で、だけど幸せだった道筋を、歪で壊れた一本道にすり替えた、ありふれた、だけど遠い世界の出来事。


 ゆさゆさと体が揺れる。悪夢の最中にいたはずの意識は、急激に浮上を始めていた。

「起きろー! そーたー!」

 目を開ける。眼前に広がったのは、女性の顔だった。幼馴染として、二十年間ずっと見続けてきた顔。大人びた顔立ちに幼い怒りを浮かべたその表情は、少しちぐはぐだ。

「おはよう、由香里」

「由香里じゃなくて、ユカでしょ!」

引っ掻かれた。斬新な起こし方だ。というか痛いよ。

 そういえば、そうだった。どうも頭はまだ睡眠中らしい。何年も前に取り決められた約束がどこかへ行ってしまっていた。探さないでくださいなんて、探すまでも無く出てきたけどさ。

「ちゃんと約束したでしょ! うんとね、最初のデートで、モールに行った時に!」

「そうだったか?」

「そうだよ! ちゃんと覚えてるもん! そーたが言い出したんだよ!?」

……そうだったのか。

「そーたはそーたで、私はユカなの!」

もう一度、僕の顔面をユカの爪が襲う。さっきが左で今が右。そろそろ、漫画みたいに三本の傷がつきそうだ。

「わかったわかった、悪かったな。俺、あんまり記憶力良くないから、頭からすっぽ抜けてた」

「そーた、記憶力はいい方だって言ってたでしょ!」

そんなこと言ってたのか。無責任な奴だ。未来のことを何も考えていない。まったく、こっちの身にもなってみろってんだ。

「わかったら早く起きないと、遅刻しちゃうよ!」

またしても爪かと思いきや、今度は布団をはがされた。おお、見事なフェイントだ。

 ところで、由香里はいつの間にそんな技を覚えたんだ。単純な子だと思っていたのに、いつの間にそんな成長を遂げたんだ、お父さんは寂しいよ。

 なんて、馬鹿なことは心の奥底でシュレッダーをかけて。

 気を取り直して。

「おはよう、ユカ」

「起きたんだったら早く体起こす! ほら顔洗って寝癖直して、朝ごはんもすぐできるよ。……おはよう、そーた」

言われるがままに布団から起き、背中を押されて洗面所へ足を運ぶ。その途中、いまだ睡眠から覚めない脳みそが、僕の許可無く勝手に声帯を動かした。今、二回ほど痛い目を見たばかりなのに。

「……ユカって、姉ちゃんみたいだな」

「ふむ? そーたは一人っ子なのに、そういうの分かるの?」

そういえばそうだった。これもまた、脳みそから家出中だった。危ない危ない。

「いや? いたらこんな感じかなって思っただけだ」

「それは嬉しいけど、私はそーたの彼女だからね!」

そういえばそうだったこれも脳みそから以下略。そろそろ本格的に脳みその二度寝を疑うべきかも知れない。体を差し置いて二度寝を始めるなんてけしからん。

「……そうだな」

「むむっ、なんなの今の間は!」

「寝起きで頭が覚醒してないんだよ」

とりあえず、口からでまかせで誤魔化してみましたぁー、テヘっ! ……おえぇ。黒歴史に新たな一ページを加えてしまった。そんな精神汚染用ノートはパタンと閉じて鍵かけて、即封印。よし大丈夫。たぶん大丈夫。きっと大丈夫。……おそらくは大丈夫だろう。

 それにしても、二十歳になった今も書き加えられるとは、僕は黒歴史がいっぱいだな。

「シャンとしなさい! 金曜日なんだから、一日がんばれば週末でしょ!」

そういえばそうか。

 黙って脳内でカレンダーをめくる。今日の日付は……

 ああ、墓参りに、行かなきゃ。

「そーた! お弁当! 愛妻弁当をしっかり持って行きなさい!」

「まだ妻じゃないだろ」

「その予定でしょ?」

否定はしない。けど、肯定もしない。沈黙と言うのは便利なもので、黙っているだけで相手に都合のいいよう解釈してもらえる。沈黙万歳。

 そんなふざけたことを考えている間に、既に家を出なければならない時間になっていた。

「うお、行ってくるわ」

「むー、そーたと一日会えないなんて寂しい」

「今日終われば週末だろ」

「それもそっか!」

僕と同い年のはずなのに、妙に幼い言動をする由香里の頭を撫でて、僕は玄関を出た。

 五月晴れなんて表現がぴったり当てはまる、快晴。風も心地良い程度に吹いている、なんとも過ごしやすい一日だ。まあ、一日屋内でパソコンに向かい合う僕には、何の関係もないことだけど。


 コピー機やらパソコンやら書類やらが煩雑に詰まれたオフィスの中。定時になったというのに、周囲の人数はあまり減った様子が見えない。

 そんな、世間一般にありふれた会社。それが、僕の仕事場だ。

 「お、なあ北河」

「……どうかしたの」

「相変わらず冷たいねー。……なあ、今日皆で飲みにいくんだけど、お前も来ないか?」

そろそろ帰ろうかと考え出していた僕に話しかけに来たのは、同期の船岡だ。気さくで、周囲の評価も高い。高卒で入社した僕のことも何かと気遣ってくれるいい人だ。とはいえ、周囲が僕に関わろうとしないのは、他にも理由があるわけだけど。

「……いや、遠慮しておくよ。僕なんかが行っても盛り下げるだけだからね」

「そんなこと言うなって。たまには良いだろ? 実を言うとさ、お前ってけっこう他の部署の子から人気はあるんだぞ。だから、ちょっと顔出してくれればいいから。な?」

いい人なんだけど、ちょっとしつこいんだよな。どうも、僕を周囲と馴染ませたくて仕方ないらしい。僕が誰かの人気を獲得するなんて、今すぐ月の七割が蒸発するよりありえないんだから、これは方便だろう。どこまでも良い人だ。

 僕が真っ当な人と真っ当に仲良くするなんて、そんなこと、はなから不可能なのに。

 「本当にごめん。悪いんだけど、今日は早めに帰る約束をしちゃったからさ……」

「あー……そっか、お前彼女いたんだもんな。悪い、無粋なことした。じゃ、気をつけて帰れよー」

「あ、うん。ありがとう」

さて、会社内で僕とプライベートに会話してくれる唯一の人間が去ったところで。

 家に帰りますか。頬を膨らませて仁王立ちになった由香里が待っているだろう。玄関で。


 僕と由香里の家は、小さな町の主要駅からローカル線で四つ離れた駅の、更に線路沿いに一キロほど歩いた先にある小さなアパートである。一室だ。俗に言う同棲である。羨ましく、はないな。だったらもう少し便利なところに住みたいとつくづく思う、自転車の上である。ちなみにこれは実家から持ち出した、錆びきったママチャリだ。僕たちは間違っても裕福ではない。このご時勢、高卒会社員の給料で二人生活するのは結構大変だったりする。不自由だけど、不幸じゃない。そんな日々。

 この辺りは平地だから、使い古されたママチャリでも走りやすい。調子に乗って加速したら、五月の心地良い風が僕の髪と服の裾をはためかせた。線路沿いに点在するリナリアだか姫金魚草だかが視界の端を鮮やかに駆け抜けていくのを見送りながら、強くペダルを踏み込む。


 会社を出るときに予想した通り、玄関開けたら日本一多い苗字のついたご飯、ではなく頬を膨らませた由香里が立っていた。いつも通りだ。

「……おかえり」

「ただいま。どうかしたの?」

実は分かってるけどね。なんて、小学生みたいな自慢をしてみる。もちろん、心の中でだけど。説教の最中に余計なことを言うと更に長い時間説教されることは、それこそ、小学生のときに学んだ。まあ、いうほど説教をされていたわけではないけど。

「遅い! 今何時だと思ってるの!」

そんな母親みたいなこと言わなくても。言われたことはないけどさ。それにしたって、二十歳にもなって門限が六時よりも早いとは、いささか過保護すぎやしませんかね? 小学生じゃあるまいし。

「……六時半過ぎだな」

「そーたの会社から家まで、どんなにゆっくりしても一時間で帰ってこれるのはわかってるんだよ!? なのにどうして一時間半もかかったの?」

わーお、いつの間にそんなこと調べたんでしょうねこの子は。由香里は僕の会社に来たことないはずなんだけど。というか、由香里が家から出るのは、買い物と、買い物と……買い物だけだった。

 由香里……恐ろしい子……!

「ああ、ちょっと上司に呼ばれてな、一本乗り遅れたんだよ。悪かった」

誤魔化すように頭を撫でると、すぐに表情筋が弛緩する由香里。どうも単純すぎやしませんかね。だからこそ誤魔化せるというものだけど。そこに、さっきの由香里の恐ろしさは欠片も感じられない。どちらかと言うと、僕より由香里の方が小学生みたいだ。こんなことを言うと、また怒られそうだから黙っておくけど。

「それならよし。じゃあご飯にする? お風呂にする? それともわ」

「はいストーップ」

危険思想に走りそうだった由香里の口を塞いで止める。不満そうな目で僕を射竦めながらモガモガと何かを訴えるが、聞こえない振りを決め込んで黙殺。

「年頃の奴が、そんなこと簡単に言うなよ」

「むー、いいじゃんかぁ」

「それはそれ、これはこれだ」

まあ色々あるんだよね、これが。深くは聞かないで欲しい。

 ……誰に向かって話しているんだ僕は。

「ほら、ご飯できてんだろ?」

「そうそう、冷めないうちに食べよ?」

冷めないうちにってことは、一時間半も遅れたとか言いつつ僕が帰る時間を予測してぴったり夕飯を作り上げたってことか? 色んな意味で恐ろしい。恐ろしいんだか愛らしいんだか、わからなくなってきそうだ。いや、既に正常な判断力なんて望むべくもないか。

 なにせ僕は、親に勘当を言い渡されても間違いを認めない大馬鹿者だし。

「ほら! 丹精込めて作ったんだよ? 私にはそーたがいないとダメだから!」

これも色んな意味でね。とは口が裂けても言えるはずはないんだけど。

「俺にもユカがいないとダメだからな。嬉しいよ」

口から出るに任せていたら、とんでもないものが旅立っていった。何と、僕の脳みそは大丈夫なのか。一度医者を名乗る方々に弄くり回してもらった方がいいかな。……もっと悪くなる可能性も否めないし、第一そんなのじゃ分からないからやめておこう。僕が行くべきなのは、どちらかと言うと別のところだし。

 そんな阿呆なことを考えている間にも、由香里は話を進めていく。

「うんうんそうだよね!」

「そうそうそうだから」

よく分かってなくてもとりあえず流れには乗っておくものだという昨今の風潮に則ってみた。

 すぐに後悔が押し寄せてきた。穴があったら入りたい。ついでに上から蓋をしてくれるとありがたいかな。

「……いただきます」

「いただきまーす」

まあ、とりあえず目の前のご飯を胃袋へ送り込みますか。


 食事を終えて、台所で由香里が片付けをしている最中に風呂が沸いた。

「あ! お風呂沸いたね! そーた先に入る?」

「そうだな。俺が先でもいいか?」

「今日一日がんばって仕事してきたんだから、そーたが先でもいいよ! それとも、一緒に入る? 背中流してあげるよ?」

積極的なことは良いことだけど、同棲してても手を出せない超絶ヘタレな僕にはちょっと刺激が強すぎるんじゃないかな。想像しただけで鼻血が出そう……って中学生じゃあるまいし。小学生扱いされたり、中学生じみた行動だったり、僕は一体いくつなんだろうか。見た目は大人、中身は子供! 

 誇らしげに言うことじゃないな。要するに馬鹿ってことだし。

 「じゃあ、先に入らせてもらうぞ」

「はーい、ゆっくり入ってきなね」

言われずとも。この生活は結構肩が凝るんだ。後、頭も使う。


 真っ暗な部屋の中で、由香里の寝息だけが響いている、深夜。毎週金曜日の映画を見て、布団にもぐりこんでから数分。寝つきの悪い僕としては、まだ睡魔の訪れを待っているわけだが。どうも睡魔も若い女の子の方がいいらしい。不届き者め。この世の中は男女平等を謳った結果女尊男卑へと片足を突っ込んでいる気がしてならない。そんな訳もないか。

 目を閉じれば、浮かんでくるのはいつも同じ光景だ。

 それは、日常が非日常へ、非日常が日常へ代わるきっかけになった時間。僕たちの人生を様々に壊した最悪の出来事。平凡で、だけど幸せだった道筋を、歪で壊れた一本道にすり替えた、ありふれた、だけど遠い世界の出来事。

 種を明かしてしまえば、僕も、由香里も、交通事故に遭った。

 そこで、少しだけ壊れてしまったんだ。


 忘れもしないあの冬の日、残光すら消えた通学路。小さな交差点だった。点滅しかけた青信号を渡ろうと焦って飛び出した僕たちを、強烈な光が包んだ。

 恐怖で全身が硬直し、叫び声すら上げることも出来ないまま、近づいてくる巨大な影、泣き叫ぶタイヤ、ヘッドライトの明るさ、そんなものをただ漠然と受け取っていた。

 そんなとき。隣に立つ、由香里に気がついた。

 同じ様に目を限界まで見開いて迫り来る影を見ていた由香里は、おそらくあのまま轢かれていたならほぼ百パーセント死んでいただろう。何せ、特に運動をしていたわけでもない高校一年生の女子だ。

 けど、僕はそれを黙って見ていられなかった。

 背中を強く押されたように一歩前に出て、喉に何かが詰まったように由香里の名前を呼んだ。弾かれたように僕を見るその瞳は想像を絶するほどの恐怖に麻痺していたのを、今でも覚えている。そして、震える足に鞭打って由香里に飛び掛り、体当たりでもするようにして突き飛ばした。その矢先――――とてつもない衝撃に、体中が軋んだ。

 そこからはあまり覚えていない。誰かの悲鳴と、由香里の絶叫、僕が名前を呟く声。動かない体と痺れるような激痛、鮮やかな赤色。くるくる回るランプ。何かを呼びかける声。小刻みに上下に揺れる台に乗せられたところで、僕の意識は途切れた。

 次に目を覚ましたのは、真っ白な部屋のベッドの上だった。つんと鼻を突く臭いが、ここがどこなのか物語っていた。

 看護師さんが飛んで来て、医者に何か言われて、家族が泣きながら僕を抱き締めて、一週間意識不明だったことを告げられて。由香里の居場所を聞いた僕に教えられたのは、精神科の病棟だった。

 消毒薬の臭いがしない病室の中、ベッドに座っていた由香里は、色を失った瞳をしていた。その瞳で僕を見据えて、一言だけ呟いたのだ。「そーた?」と。僕が肯定すると、僅かだけど瞳に色が戻った。

 結果から言えば、由香里は壊れた。心に少し大きめの傷がついてしまった。心の成長が十六歳の冬で止まり、四年経った今もそのままだ。そのせいか、家族にも煙たがられるようになって、見かねた僕が世話をすることになった。そして、僕に対して過度な依存をするようになった。元々、僕は由香里が好きだったし、それは別に悪いことじゃない。一度失う怖さを知ってしまえば、甘えん坊で寂しがり屋で、でも大人ぶって強がりだった由香里の性格が、一方に大きく傾いてしまうのは仕方がないことだ。

 ちなみに、僕たちを引いたトラックはすぐに捕まったけど、即座に通報したこともあってそこまで重い刑じゃなかったとかなんとか。うろ覚えだ。そこに、興味は無かったから。

 高校を卒業して、すぐに就職できて、由香里を引き取って。今、恵まれた生活をしていると思う。心の底から、とは言えないけれど。まあ、それなりに。

 「……おやすみ」

すでに夢の世界に旅立っていった由香里に、一言投げかけて、ようやく訪れた睡魔に文句をたれながらも後を追った。


 土曜日。ぶーぶーと文句を垂れる由香里を宥めて、賺して、午前中に僕は家を出た。刺すような寒さが僕を襲うが、コートの前をしっかり閉めればなんてことは無い。ふはは、どうだ参ったか。冗談だ。逆上して露になっている部分を襲うんじゃない。防御方法がないじゃないか。卑怯者め。

 それはさておき、電車を二つほど乗り継いで、向かった先は小高い丘。そこに至るまでの道で営業している馴染みの花屋で花を買って、片道二十分の上り坂を上っていく。目的の場所はすぐに見えてきた。

 灰色と緑、それから少々の茶色で彩られたそこは、死者が横たわり続ける場所。墓地だ。

 微妙に形は違えど、灰色の直方体であることに変わりの無いそれらが立ち並ぶ細い道を抜けて、一つの前で立ち止まる。持ってきた花を簡単に生けて、両手を合わせた。目を閉じて、両手を合わせる。神様でもないのに拝むのは何故なのか知らないが、とりあえず念じておいた。感謝と、謝罪を。

 「……やっぱりいたわね」

唐突に背後から掛けられた声を聞いても、僕は何一つ驚かない。別に、今日誰がここに来ようとおかしくはないのだ。もっとも、その誰かは一応限定されているけど。その中でも、この声は最も聞き覚えのあるものだった。

「まあ、命日だしね。来るのが礼儀だし、義務じゃないかな」

仁王立ちで背後に立っていた人を振り返る。険しい顔が緩むかもしれない可能性に駆けて、肩を竦め、笑いかけた。

「ご大層なことを言っているわりに、随分おどけた仕草ね。相変わらずみたいで失望したわ」

出会い頭に、酷いことを言われてしまった。そんなに言わなくてもいいのに。僕だって、一丁前に傷つくって言うのに、まったく。僕をなんだと思ってるんだ。

 気を取り直して、背後の人を真顔で見つめる。詰めていた息に耐えられなくなって、小さく吐いた。

「……それにしても、一年ぶりくらいだっけ? 久し振りだね――――姉ちゃん(・・・・)

「そうだったかしらね。少し、話せるかしら? 良いわよね、――――――北河遼一君(・・・・)

久し振りの再会にも眉一つ動かさないなんて、薄情な人だ。もっとも、その原因は僕にあるんだけど。僕が取ったたった一つの判断に対して、姉ちゃんはずっと怒っている。それはもう、四年間も。怒りっぱなしだ。眉間の皺は相変わらず深いみたいで、僕も安心する。

 それらに対する引け目なのか、家族との再会から来る懐古なのかは知らないけど、僕は半ば自動的に頷いていた。


 姉ちゃんに連れられて入ったのは、墓地に程近い小さな喫茶店だった。他に客らしい客もいないそこは、三年間ずっと、年に一回のペースでここを訪れている僕も知らなかったところだ。いつ見つけたんだ。というか、よく潰れないなここ。

「それで、姉ちゃんから関わってくるなんてどういう風の吹き回し?」

「私もお墓参りに来たのよ。鉢合わせてしまったんだから声を掛けないわけにもいかないでしょう? そんなのでも一応弟なのよアンタは」

「やっぱりいた、とか言っておいて偶然とは、言うようになったね。精神科医の北河先生? 今日も、その関係で来たんだよね?」

そう、僕と八歳ほど離れた姉ちゃんは、精神科医だ。それも、僕と由香里を担当した先生でもある。知り合いなら心も開きやすいため治療が容易だと考えられたのだとかなんとか。結果は最低最悪だったけど。

 またしてもおどけるような僕の問いかけに、いかめしい顔の姉ちゃんは眉一つ動かさずに頷いた。

「……ええ。単刀直入に言うわ。まだ、由香里ちゃんと一緒にいるの?」

「うん、そうだよ」

「まったく。あれだけ言ったのに。アンタだって治療が必要なのよ」

そう、事故で壊れたのは何も由香里だけじゃない。僕だって、由香里ほどではないけれど壊れている。それほどまでの破壊力が、あの事故にはあった。

 口を開こうとしない僕に対し、姉ちゃんが初めて表情を動かす。それは、憂慮と呆れ、それから諦念だった。

「あのね。この際だから言うけれど、アンタも由香里ちゃんも頭の螺子が緩んでしまっているの。当たり前よね。高校生っていう多感な時期に、幼馴染が(・・・・)死ぬ瞬間と(・・・・・)死体を目の(・・・・・)当たりにし(・・・・・)ちゃったのだから(・・・・・・・・)。そんなものを見せられたら、どんな大人だって多かれ少なかれ気が狂うわ」

そう。何も、トラックに轢かれたから、もしくは轢かれかけたからここまで壊れたわけじゃない。それだけなら、ここまで狂うこともなかった。けど、あの事故にはもう一つ、自らが轢かれるよりも辛いことが付随している。

 それは、身近な友人、もっと言えば幼馴染の死。その瞬間を、僕と由香里は見ていた。


 僕と由香里に加えて、もう一人幼馴染がいた。名前は奏太。苗字はよく覚えていない。家も近く、馬も合った僕たちは、常に一緒だった。遊ぶのも、宿題するのも、学校での班活動も、部活だって。

 けれど、いつまでもそのままの関係性を保つのは難しい。それぞれが、それぞれに成長していくのだから。世の中のほとんど全てがそうなんだと思う。そして、僕たちの場合、それは高校に入ってすぐのことだった。

 奏太と由香里が、付き合い出したのだ。

 当時、僕も奏太も由香里のことが好きで、競ってアピールした。けど、結局は告白という一歩を踏み込んだ奏太が勝ったのだ。もっとも、それによって疎遠になったりすることはなかったけど。でも、三人で出かけていた休日の外出に、僕は二回に一回のペースで誘われなくなって、けど僕はそれを受け入れていた。

 そんな中で、事故が起きた。

 部活が遅くまであった日で、すでに星が瞬いていた。通学路としていつも通っていた大きな道路の、小さな交差点だった。小学校の頃なんかは、よく「運転手が気づかない可能性があるので、あまり使わないようにしましょう」なんて注意されるような。もっとも、そこでただの一度も事故が起きたことはなかった。

 点滅を始めた信号に、僕たち三人は焦って左右の確認もせず飛び込んだ。それが、結果的に最悪を生むとも知らず。

 そして、歩行者がいないことにかまけて信号無視を行おうとしていたトラックと鉢合わせたのだ。大はしゃぎしながら歩いていた僕たちは、近づいていたそれに気がつかなかった。

 クラクションと、タイヤがアスファルトで擦れる音が耳を劈き、眼前に巨体が迫る。乗用車なんか目じゃないくらいの大型トラックで、ヘッドライトに眩んだ目じゃなくても、きっと運転席は見えなかった。

 由香里を守るために突き飛ばしたすぐ後、僕も体を弾き飛ばされ、道路を落ち葉のように転がった。激痛を通り越して痺れた身体で、軋む意識を抱えながらも、僕は見ていた。

 奏太の体がトラックのタイヤに巻き込まれ、踏み潰されるのを。

 身の毛もよだつような断末魔が脳を揺らし、そして、唐突に途切れた。喉を物理的に潰されたような、不自然な終わり方だった。

 そして、その後に残ったのは、トマトケチャップだった。人目で死んでいることが分かる、目に留めれば脊髄反射で嘔吐してしまうような死体。事実、僕は怪我による激痛に苛まれながら吐いた。

 不幸なことに、その一部始終を目撃したのは僕だけじゃなかった。僕が突き飛ばしたおかげで轢かれずに済んだ由香里も、それを見ていた。

 つい今しがた耳にしたブレーキ音のような絶叫。涙を流して、それなのに生理的嫌悪からか奏太だったものには近寄らず、由香里は叫び続けた。そして、唐突に崩れ落ちた。糸の切れた操り人形のように。けど僕は由香里に駆け寄ることも、奏太の死体に駆け寄ることもできず、激痛を伴う呼吸を繰り返す合間に名前を呼んだ。奏太と、由香里の。それくらいしかできなかったから。

 次に由香里と会ったのは、消毒薬の臭いがしない病院だった。その感情の消え去った瞳は、今でもまだ、奏太と共に夢に見る。

 怪我のせいで一ヶ月ほど会いにいけなくて、心配で胸が張り裂けそうだった僕に、由香里はこう問うた。「……そーた?」と。それは、三人のときに呼ぶイントネーションとは微かに、それでいてはっきりとは違う、あだ名としての名前。おそらく、二人きりのときに呼んでいたのだろう。

 そこで、僕は囁いてきた悪魔の誘いに乗って、魂を売り渡した。肯定したのだ。はっきりと、言葉で。

 もしかしたら僕は、そんな小さなイタズラを、笑い飛ばしてくれることを期待したのかもしれない。「そんなわけないじゃん」って。そして、奏太の身代わりとしてでも、由香里の傍にいられるかもしれないことを望んだ。でないと、由香里が壊れてしまうから、なんて言い訳して。

 僕の願いとは裏腹に、そしてその通りに、由香里は僕のことを奏太だと思い込んだ。自分が愛し、愛された彼氏だと。自分が依存すべき対象だと。そして、僕はいないものにされた。奏太の死は完全になかったことにされ、その後釜に僕が座った。

 その後は、知っての通り。僕を奏太だと思い込み、依存する由香里を家族は煙たがり、奏太の振りをする僕を姉ちゃんは殴り飛ばして、親は勘当だと言い放った。そして、僕たちは二人での生活を始めた。


 最悪な回想を振り払って、言葉を搾り出す。

「……だからといって、由香里と離れる気は無いよ」

「ダメよ。精神科医の立場から言っても、二人が一緒にいるのは治療を遅らせるだけ。悪影響だわ」

そんなもの。ただ、価値観を一方的に押し付けているだけじゃないか。あの時もそうだった。どれだけ僕たちが幸せなのかを懇切丁寧に聞かせても、ろくに聴きもせず「お前は錯乱している」「そんなものが幸せなわけがない」「もう一度よく考えて訂正しろ」の一点張り。自分たち一般の人間から見て、頭の螺子が緩んだ人間の言うことはすべて間違い。そう信じて疑わない人たちは、無自覚に、無意識に、それが正しいと信じて僕たちを不幸にする。それが当たり前だと言わんばかりに。自分たちが間違っているとは微塵にも思わない。自分たちの主張こそが正義であり、未来永劫人類普遍の正論なのだと思い込み、僕たちの主張はすべて悪であると決め付ける。人にはそれぞれ譲れない正義があって、などと謳っても、相手の主張が正しいとは思いもしない。

 まあ、そう言っている僕もそうなのかもしれないけれど。

「何を言われても、僕は今の生活をやめるつもりは無い。僕たちは今幸せだからね。それを邪魔するなら、姉ちゃんでも容赦はしないから。それじゃあ」

一方的に話を切り上げ、御代を置いて立ち上がった僕を、姉ちゃんが引き留めた。

「分かったわ。だけど、アンタはどれだけそれを続けるの? いつか絶対に限界が来るの。偽りの上で成り立っている生活なんて、絶対どこかで破綻するのよ」

脳裏を過ぎるのは、昨日の朝、名前を呼び間違えたときの記憶。引っ掻かれた痛み。

 あの一瞬の困惑。それによって刻まれた小さな爪痕は、きっと近い将来致命傷にまで広がるんだろう。

 けど。だけれど。それでも。

「たとえ世界中の人間に間違っていると言われても、僕はやめない。たとえいつか破綻しても、また一から積み上げてみせるよ。何度も、何度だって」

それが、由香里を引き取ったとき、この胸に刻んだ決意。由香里を騙すからには、とことん騙してみせる。それこそ、一生騙し通すくらいに。騙された人は、騙されたと分かるから悔しいのであって、そうと気づかなければ何も思うことは無いのだから。

「そんなの……」

「間違ってない。僕はそう信じてるから」

何度でも、何千回でも、何万回でも、嘘をついてついてつき続けてみせる。『奏太』が死んだ現実より、『そーた』のいる幻想の方が由香里は幸せだから。たとえ頭の螺子が緩んでいようと、抜け落ちて無くなっていようと、由香里は由香里だ。僕が恋焦がれた幼馴染だ。『そーた』として由香里を支えられるだけで、僕は幸せなんだ。

 そのために、口調も、一人称も、考え方も、癖も、名前も。およそ個性と呼ばれる全てを殺し、模倣し、『自分』を(うしな)ったとしても。

「……じゃあね、姉ちゃん」

 人気の無い店内を横切って、店を出る。今度こそ、姉ちゃんは何も言わなかった。


 姉ちゃんと話し込んだおかげで、帰宅予定時間から一時間ほど遅れての帰宅と相成った。当然、由香里は怒っているわけで。玄関で仁王立ちだった。なんだか、今日はやけに仁王立ちに縁がある日だ。僕も仁王立ちで由香里と話した方がいいのかな。やってみようかと半ば本気で思ったけど、なんだかもっと怒られそうだからやめておく。

「おそーい!」

「悪い悪い、電車に乗り遅れて。ただいま」

「むー、抱き締めて。それで許してあげる」

「……はいはい」

抱き寄せた由香里の香りが、鼻腔をくすぐる。柔らかな感触が、脳を撫でる。それをどこか遠くに感じながら、僕は姉ちゃんに突きつけた言葉をもう一度思い返していた。

 たとえ世界中の人間が僕を糾弾しようが、今まで積み上げたものがすべて崩れ去ろうが、僕は由香里の傍にいる。それがたとえ間違いだとしても、後戻りはしない。由香里がこれ以上壊れないように、僕がこれ以上壊れないように、依存する。依存しあう。僕だって、由香里に依存されることに依存しているのだから。

 たとえ奏太の代わりでも、『僕』を見ていなくても、僕の存在が記憶から抹消されていても、由香里の視界には偶像しかなくても、僕は由香里を支え続ける。偶像だろうが身代わりだろうが、詐欺師だろうが偽者だろうが、何にだってなってやる。

 僕がそうすることで、由香里が幸せになれるなら。安っぽい言葉だけど、その幸せは僕の幸せだから。

 だから、僕は演じる。『そーた』を、由香里が望み、求め、愛する偶像を。何度破綻しようが、僕がズタズタに傷つこうが、由香里が笑っていられるなら。それだけで、僕が生きる理由は十分だから。

 奏太が護ってくれた人生を、僕は由香里のために全てを捧げることで全うする。本来なら、僕も、僕たちもあの時死ぬはずだったのだから。奏太が、最後に背中を押してくれなければ。

 だから、僕は奏太の分まで生きて、奏太の分まで由香里を護る。奏太では無い僕が出来る、一番の方法で。

「……そーた、大好き」

()もだ」

 遼一ではなく、「そーた」として、由香里を笑顔にするんだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ