中編『ハガネ、お泊り会に行く』(下)
「ん……」
鋼の意識が再び目覚め始めた時、瞼を開けるよりも先に感じたのは涼しい風の揺らぎだった。
誰かが鋼の顔に、涼しい風を送ってくれている。
鋼は目を開ける。そこに居たのは――
「起きたか?」
ミーシャさんだった。いつもの無表情で鋼のことを見下ろし、魔法で出したのか団扇に似た物を持って扇いでくれていた。
「み、ミーシャお姉様!?」
鋼は慌てて起き上がろうとして、
「いきなり起きるな」と制される。そのまま再び寝かされて、「ここはエルノアの部屋だ」
「す、すみません……」
鋼はどうやらエルノアさんのベッドの上に寝かされているようだった。
ミーシャさんはベッドの脇に腰掛けている。エルノアさんの姿は見えなかった。
「覚えているか? お前は、風呂でのぼせて倒れたんだ」
「はい、覚えてます。ご迷惑を掛けて、申し訳ございませんでした」
「気にするな。あれは主にエルノアとライトア様が、下らないことでお前を長い時間、風呂場に拘束していたせいだ。別にお前のせいじゃない」
「エルノアお姉様は?」
「お前の額に乗ってる濡れタオル用の水を入れ直しに行ってる。一応、メイドに頼まない辺り、責任は感じているんだろうな」
「そう、ですか……」
凄く申し訳無い気持ちになる。エルノアさんが悪いとは、鋼は思わない。倒れたのは、自身を管理出来なかった鋼の責任だ。
「……私も」
「え?」
ミーシャさんが鋼の目を見て言う。
「私も……悪かったと思う。少なからず、責任がある。お前の様子を見て、ちゃんと連れ出してやるべきだった」
「そんなことないです! 悪いのは私で! ミーシャお姉様はこうして私を看ていてくれたんでしょう?」
「責任を感じているから、こうしているだけだ」
ミーシャさんは無表情のまま言う。
そんなやりとりをして、鋼は言葉の裏にミーシャさんの感情を見た気がした。
お風呂場で、エルノアさんからミーシャさんの無表情が作られたものだと教えて貰ったから疑い無くそう思えるのだろうか。
いや、違う。団扇で今も風を送り続けてくれている行動を見れば、一目瞭然なのだ。
この先輩が優しい人だってことは。
……でも、だとしたら、ミーシャさんはどうして風呂場で怒っていたのだろう。
今は落ち着いていて、もう怒ってはいないように見える。
鋼は彼女の心が知りたくて、
「あの、ミーシャさん――」
扉が開く音がして、水の入った容器を持ったエルノアさんが部屋に入って来た。
「鋼ちゃん、起きたのね!」
鋼を見るなり、顔を綻ばせて早足で近くにやって来る。容器を床に置いてから、
「ごめんなさい。私とお母様達のせいで、倒れさせてしまって。気分はどう? 気持ち悪くない?」
「大丈夫です。こちらこそ、ご迷惑を掛けて申し訳ありませんでした」
「お母様達も反省なされて、ライトア母様は特にミーシャちゃんに叱られたのが効いたみたいだから、今日はもう変なことはして来ないと思うわ」
「エルノア」
キッと眼を鋭くするミーシャさん。
「別に隠すようなことではないでしょう? あのね、鋼ちゃんが倒れた時、ミーシャちゃんが私達に怒鳴ったのよ」
「そう……なんですか?」
鋼はミーシャさんの顔を伺う。
彼女は鋼から視線を逸らして、
「別に、鋼のことが無くても苛々が溜まってたから、いい加減にしろって口にしただけだ。私だって怒る時は怒る。お前にとっては、意外に見えるかもしれないけどな」
それからエルノアさんが鋼に向かって言う。
「とにかく、鋼ちゃんがもし許してくれるなら、明日お母様達に元気な顔を見せてあげて。それだけで凄く喜ぶはずだから。私からも……本当にごめんなさい。こんなんじゃお姉様失格ね」
鋼は首を横に振って、
「いえ、お風呂場で倒れたのは私自身のせいであって、お姉様のせいだなんてこれっぽっちも思ってません。それに、私はエルノアお姉様に感謝してます。こんなに優しくして下さって、感謝しても感謝し切れないくらいです。だから、そんな顔なさらないで下さい」
「鋼ちゃん……ありがとう」
エルノア様の表情に笑顔が戻る。見ている者を安心させてくれるふわっと柔らかい笑顔。
彼女が側で笑ってくれているから、ミーシャさんと頑張って接してみようと思えたのだ。
そして今、少しだけミーシャさんの心に触れられたような気がする。
「鋼」ミーシャさんが言う。「今日はもう、水を飲んで、そのままゆっくりと休め」
「あっ、大丈夫ですよ。もう起き上がれると思います」
「駄目だ。安静にしてろ。お前が良くても、周りが気を使う。特にお前が起きてると知ったら、またあのお母様方がやって来るぞ」
半日ここで過ごしただけでも、それは確かに、想像に難くなかった。
何よりあのミーシャさんがこうして心配してくれているのに、自分がわざわざ反抗してどうするのかと思う。彼女の優しさを無駄にしたくない。
「……分かりました。お姉様の言う通りにします」
「ん」
エルノアさんが立ち上がって、
「そうしたら私、飲み水を持って来るわね。あと、何か食べるものも少し」
その後、鋼はエルノアさんが持って来てくれた水を飲み、ビスケットと金平糖を少し食べて、歯だけ綺麗に磨く。
しばらく、ベッドに腰掛けたお姉様二人と話している内に、自然と微睡んで行った。
思っていたよりも気を張って疲れていたのかもしれない。
いずれにしても、とても心地の良い眠りだった。
私にとって、エルノアという女の子は、いつだって羨望と嫉妬の感情が同居している存在だった。
彼女はいつだってにこにこと笑って、華やかで、いつも誰かと一緒に楽しそうにしていた。
幼稚舎から高等部に至るまでの過程で、彼女が一人ぼっちだったことは一度も無い。
彼女が笑うと周囲も笑って、とても柔らかい空気になる。
まるで自分とは正反対の人間だと思う。私にはどうしても出来ないことだった。
笑顔を上手く作れないし、他人と上手く接することが出来ない。
いつからか無表情が取れない仮面のようになってしまってからは、一部を除き周囲は怖がって、近付いて来ようとしない。
……当たり前か。私自身、私のような無表情な人間と仲良くなりたいとは思わない。
だからといって、自身を変えようと思うような気概も特には無かった。
他の生徒達と談笑していたエルノアが、私の視線に気付いたのかこちらにやって来る。
「どうしたの、ミーシャちゃん?」
「いや、別に」
私はとてもじゃないが、どう足掻いたってエルノアのようには為れない。
可愛くて、愛想の良いエルノア・キュアード。
エルノアはいつだって私に優しい。彼女のおかげで一人ぼっちに為らずに済んでいる。そのことにはいつも感謝している。
いつも近くに居るのに、最も遠い女の子。
私はきっと、これからも彼女の後ろを歩き、憧れ、羨みながら生き続けて行くのだろう――。
ちゅんちゅんと静寂の中に鳥のさえずる声が聞こえて、鋼は目を覚ます。
大きな窓に引かれたカーテンの隙間から淡い光が差し込んで、室内の輪郭を映し出している。
そこは見慣れない大きな部屋で、そういえば昨日、エルノアさんの家に泊まったんだっけと思い出す。
窓の方に向けていた視線を落として行く……と、
「っ……!?」
目の前に数十センチの距離に息を飲むような美しい少女の顔があった。
――誰だこの美少女!?
とても安らいだ柔らかな表情を浮かべ、すぅすぅと穏やかな寝息を立てている。
距離が近いからか、女の子特有の甘い匂いもして、鋼の心臓が鼓動を早める。
しかし、何度も見直していると、鋼はそれが知っている人物だと気付く。
目の前に居るのは、ミーシャさんだった。
表情がある為、まるで別人のように見えてしまっていたが、顔のパーツ配置から考えられるのはミーシャさん以外に無かった。
(寝ている時は、こんな自然な表情をするのか……)
もともと整っている顔立ちだと分かってはいたが、そこに表情が加わるとこんなに魅力的になるものなのかと思う。
目の前の美少女に見惚れてドキドキしている内に、頭に血液が回って来たのか、
(というか、何故にミーシャさんが俺と一緒のベッドで眠ってるんだ!?)
その点に気付く。しかし、肝心のミーシャさんは未だに夢の世界なので、訊くことは出来ない。
とりあえず、このままミーシャさんが起きたら気まずいことになるのは間違いない。無防備に目の前で寝顔を晒してしまっているわけだし。
鋼はとりあえず、寝返りを打って反対側に顔を向ける。
が、そっちにも負けず劣らずの綺麗で色香のある美少女の顔があって、鋼の心臓が大きく跳ねた。
(エルノアさん!?)
普段から目を細めているエルノアさんなので、一瞬起きているのかと思いびっくりしたが、肩がゆっくり上下しているのでどうやら眠っているようだった。
しかし、それで鋼のドキドキが消えるわけでは無い。
(何で!? どうしてエルノアさんとミーシャさんに囲まれて眠ってるんだ俺は!?)
美少女二人に囲まれて眠るなんて、まるで夢のようだ。ただ、鼻腔をくすぐる甘い匂いも、耳に届く色っぽい寝息も、布団を通じて感じる人肌による温もりも、紛れなく本物だった。
夢のようなシチュエーションは、実際対峙すると、対応に困るシチュエーションでもあった。
「ん~、鋼ちゃあ~ん」
と、エルノアさんが目を閉じたまま言って、手を伸ばし、鋼の身体を掴んで抱き付いて来る。
むにゅっと鋼の身体にエルノアさんの柔らかな胸が当たって、
(ひゃあぁっ!?)
背筋にびびびっと電撃の流れるような感覚が駆け上がって来る。かろうじて、思わず上げそうになった変な声を飲み込む。
けれども、それで終わらず、エルノアさんは追撃と言わんばかりに鋼に頬擦りをしながら、
「柔らかくて……良い匂い……お母様に渡すくらいなら……私が……」
ふわふわの巻き毛が顔に当たってこそばゆく、エルノアさんの頬っぺたが柔らかくて、心臓がドキドキを通り越して、ばっくんばっくん言っている。
「何をやっている……」
背後から氷の張るような冷たい声が聞こえて来た。
鋼がエルノアさんにホールドされながらも何とか横目で振り返ると、そこには魔法で取り出したらしきハリセンを持った無表情のお姉様が起き上がっていて、
「み、ミーシャお姉様……!」
「起きろ!」
「あ痛っ!?」
ハリセンを振るって、べしこん! と思いっきりエルノアさんの顔面を引っ叩いた。
驚いて飛び起きたエルノアさんが大きく見開いた瞳をぱちくりさせながら、辺りを見回す。
「何!? 何事ですの!?」
ミーシャさんがため息を吐きながら、
「……今更ながら、お前はやっぱりライトア様の娘なんだなと思ったよ」
「寝起きから何か心外なことを言われた!?」
鋼はそんな二人を眺めて、苦笑いをしつつ朝の挨拶を口にする。
「と、とりあえず……おはようございます、お姉様方」
聞けば二人が鋼と一緒に眠っていたのは、最初にエルノアさんが鋼と一緒に寝ると言い出し、彼女が何をするか分かったものではないから見張りを兼ねてミーシャさんも一緒に寝ると主張したことによるものらしかった。
いずれにしても、鋼を心配してくれていたのだろう。
そのことはともかくとして、鋼はもう一つ気になっていることがあった。
ちらと横を見る。鋼と洗面台の前に並んで、ミーシャさんが歯磨きをしていた。
「……どうかしたか?」
彼女が視線に気付いたらしく、尋ねて来る。
鋼は首を横に振って、
「いえ、何でも無いんです」笑ってみせる。
そうしてまた沈黙が下りて、二人で歯ブラシをシャコシャコする音だけが響く。
「……さっきの朝食の時」ミーシャさんが口を開いた。「ライトア様とノワール様、嬉しそうで良かったな」
「はい」
鋼は頷く。
起きてしばらくしてからメイドさんが呼びに来て、鋼達は食堂に向かった。
そこにはライトア様とノワール様が居て、鋼の姿を見ると嬉しそうに近くへやって来た。抱き付いて来たライトア様は、本当に心配してくれていたらしく、触れられても神経が敏感になるようなことは無く、一児の母親らしい優しさを感じさせた。
対するノワール様は瞳をうるうるさせて、何度もごめんなさいと謝って来た。その後もわざわざ鋼の隣の席に座って、あれが美味しいとか、これがオススメだから食べてとか世話を焼いて下さり、鋼の方が困ってしまう程だった。何だかノワール様の母親らしい一面を垣間見た気がした。
そんな朝食を終えて、今はこうしてミーシャさんと二人の時間を過ごしている。
二人きりになったからか、鋼は今朝見た夢について思い出していた。
鋼が見たのは、ミーシャさんの夢だった。
それは何気ない日常の一コマで、彼女がエルノアさんを見て感じたことが、まるで自身が体験したことのように鮮明に伝わって来た。
ただ、あまりにも鮮明に覚え過ぎていて、本当にあれは夢だったのだろうかと思う。
――あれは、もしかして自分の魔法によるものなんじゃないか。
入学したばかりの時に、女子トイレで美飛さんとミカナエル先生の通信魔法が聞こえて来てしまったことがあったが、それと同じような現象なのではないか。
しかし、それを裏付けるものは無い。少なくとも鋼が眠っている間に起きたことだし、ミーシャさん本人に夢の話を聞けるわけもない。
仮に夢の話が本当だったとして、自分がミーシャさんだったら他人に内面を知られて嬉しいとは感じないだろう。
だからこれは、あくまで鋼が見た夢の話として、胸の奥に閉まっておくべきものだと思った。ひょっとしたらミーシャさんはそんなことを考えていたりするのかもしれない、程度のものとして。
「……鋼は」
不意に、ミーシャさんが水で口をゆすいでから言った。
「こっちの世界に来て、寂しくなったりすることは無いか?」
「え?」
「今朝、ちょっとした夢を見てな」
ドキリとした。鋼も口をゆすいで、
「どんな……夢を見たんですか?」
「ただの夢かもしれないが……お前が向こうの世界で、前の学校に通っていた時の夢だ。お前には仲の良い友達が居た」
「……はい」
「けど、こっちの学校に来てからはどうなんだ? お前はその友達と会ったりしているのか?」
「……いいえ。体質で、女の身体になってしまっているので」
鋼は首を横に振る。会えるはずも無かった。魔法のことを向こうの世界で言うのは、イルミエールのルールで基本的に禁止になっている。だから女の姿で会ったところで、自分が鋼であると明かすことは出来ないのだ。
「でも」と鋼は言う。「最初はやっぱり寂しかったですけど、中身が男だと知っていても、親しくしてくれる子が出来たんです」
「それは、六大家――レインバード家の……ピンク髪の三女か?」
「はい、美飛さんって言います。私は、彼女が居なかったら今頃凄く暗い顔をしていたかもしれません」
ブレイズ先生が居てくれるから、学校には頑張って通っていたかもしれない。
ただ、クラスではきっと笑顔の一つも浮べられ無かっただろう。
それだけじゃない。今日こうして、ミーシャさんのことを理解しようと隣に立って居られるのだって、そうだ。美飛さんが居なかったら、そんな風にはきっと思えなかった。
「……大切な友達なんだな」
「友達……」
その二文字を、鋼は反芻する。
美飛さん本人がどのように思ってくれているのかは分からない。ただ、
「そうですね。私は、大切な友達だって思っています」
彼女が自分と同じように考えてくれていたらいいなと思う。
「そうか」
「だけど、美飛さんだけじゃないんですよ。ミーシャお姉様やエルノアお姉様に対しても同じです」
鋼はそう言って、自分に向けられているミーシャさんの目を見る。
「こうして親しくして下さって、とても感謝しているんです」
「お前は……」ミーシャさんは視線を逸らしながら、「結構、クサい台詞を平然と吐くよな」
「え」
言われて恥ずかしくなる。顔がかあぁぁと熱くなった。
――そういうところは、俺が父さんの息子ってことなのかもしれない。
「しかしそれが、エルノアの言うように……お前の良いところなのかもな」
鋼は顔を上げる。ミーシャさんは相変わらずの無表情だったが、
「磨き終わったか? 歯」
「あ、ちょっと待ってて下さい」
鋼が歯を磨き終わるまで、何を言うでもなく待ってくれていた。
その後は、ドタバタと賑やかだった昨日と異なり、穏やかな時間を過ごした。
午前中はエルノアさんに連れられて、ミーシャさんと三人でキュアード家の敷地内にある森の中を案内して貰った。
途中で出会う動物や、見る植物の種類を教えてくれるエルノアさんはとても楽しそうで、活き活きとしていた。いつも山には通っているけれど、こんな風に落ち着いて自然の動植物に触れるのは一体いつ以来だろうと思う。
散歩するだけなのに、自分の知らない新鮮な発見が幾つもあって、とても有意義に感じられる時間だった。
午後はライトア様やノワール様からお茶会に誘われて、庭にある大きくない丸テーブルを五人で囲み、ゆったりと雑談を交わした。他愛の無い話ばかりだったけれど、二人がとても身近に感じられた。自分の母と同じだけ歳が離れているのに、まるで友人のように……と言ったら失礼だろうか。でも、鋼にとって二人はもう『学校の先輩の両親』という枠には収まらない存在となっていた。
昨日やって来た時は、時間は幾らでもあると思っていたけれど、終わってみるとあっという間のお泊り会だった。
日が傾いて空がオレンジ色に染まり始めた頃、そろそろお暇した方が、と思ってエルノアさんに切り出したら、ライトア様とノワール様からせめて夕食だけでも一緒にどうかと引き止められた。今はもうその楽しいひと時も終わってしまい、時刻は午後九時を過ぎようとしている。
玄関の外には既に宵闇が降りていた。
「昨日今日と、本当に色々お世話になりました。とても楽しかったです」
エルノアさん、ライトア様、ノワール様達、それから後ろに並んだメイドさん達に頭を下げる。
エルノアさんが少し屈んで、鋼と目線を合わせ、
「こちらこそ、鋼ちゃんを家に招待して正解でしたわ。まさかこんなに楽しいお泊り会になるとは予想もしてなかったもの。どちらかというと――」
両親に目をやってクスクスと笑うエルノアさん。
「お母様二人の方が楽しんでいらっしゃったように思いますけれど」
「本当にね」ライトア様も同じように鋼と目線を合わせて下さって、「鋼ちゃんを色々と困らせてしまったわね。ごめんなさい。エルノアやミーシャちゃんが羨ましかったのよ、私。こんな可愛い子とイチャイチャしやがって……ってね。正直、本音を言えばまだイチャイチャし足りないけれど――」
「お母様」
「はいはい、抱き付いたりはしないわよ。今ばかりはね。ね、鋼ちゃん」
「なんでしょう、ライトア様」
「お願いなんだけど、手を握ってもいい? 暴走したりしないから」
「ええ、どうぞ」
ライトア様がわざわざ確認の言葉を口にしなかったとしても、おそらく鋼は大人しく手を差し出していたと思う。今は別れ際なのだから。
「ありがとう」
柔らかくて温かい両手が鋼の手に触れる。
ライトア様はエルノアさんにそっくりな、ふわふわの優しい笑顔を浮べて、
「また遊びにいらしてね、鋼ちゃん。遠慮なく、いつでも会いに来て。私もノワールちゃんも待ってるから」
「はい。また近い内に是非」
「約束よ?」
続いて、ノワール様にお別れの挨拶をしようとすると、
「……っく……うえぇ」
鋼が目を合わせるなり、瞳を潤ませ、ぽろぽろと大粒の涙を零し始めてしまった。
「の、ノワール様……」
「ごめっ……鋼さんが居なくなっちゃうんだと思ったら、何か急に寂しくなっちゃって……ふぐっ――」
心配になった鋼が近くに歩み寄ると、
「うぇええぇええ――ん!」
ノワール様の堤防が決壊を迎え、鋼に抱き付いて来た。
「ひゃんっ、ノワール様!?」
「ふわぁぁぁーん、嫌だぁぁぁー! 別れるの嫌だよぉぉぉー! ひぃぃぃーん!」
また幼い少女のように泣きじゃくるノワール様。
ライトア様がそんな彼女の頭を撫でつつ、
「あーあー、もう、すっかり泣き癖が付いちゃって……。ごめんなさいね、ノワールちゃんが落ち着くまで、そのままで居てあげてくれる?」
「はい」
自分の為に泣いてくれているのだと思ったら、嫌な気などしない。
鋼はノワール様の背中を擦りながら、「大丈夫ですよ、また必ず会いに来ますから」と声を掛け続ける。
やがてようやく泣き止んだノワール様は、
「ごめんなさい……取り乱してしまって……」
泣いた後の恥ずかしさ故か、目元だけでなく頬も赤くして言う。
鋼は首を横に振り、笑ってみせる。
「いえ、嬉しかったです。泣いてまでくれて。私、また必ず会いに来ます、ノワール様やライトア様に。だってもう――」
先程ライトア様がしてくれたように、ノワール様の手を取って、
「また会いたいと思えるくらい、ノワール様やライトア様のこと、好きになってしまいましたから」
自分で恥ずかしい台詞を言っているという自覚がある。父さんのこと、もう馬鹿に出来ないな。
でも、ノワール様を安心させたかった。自分のことで泣いてくれた彼女に、真っ直ぐに応えたかった。だから。
ノワール様が鋼の手を握り返して来る。満面の笑みを浮べてくれて、
「……はい。私も好きです、鋼さん」
「ちょっ、ウチの奥さん、私にも見せたこと無いようなメスの顔してるんですけど!」
「ノワール母様がエロい! エロいですわ!」
別れ際まで色々あったけれど、キュアード家のお泊り会はこうして幕を閉じたのだった。
「ただいまー」
転移ゲートを潜って八島家に着いた鋼は、合い鍵で玄関の扉を開けて言う。
「おう、おかえりー」
母さんが返事をして、居間から顔を出し、玄関までやって来た。奥から父さんの「鋼、おかえりー」という声も聞こえて来る。水音が聞こえているので、台所で洗い物をしているのかもしれない。
「それにしても驚いたよ。まさかエルノアさんって先輩が、ライちゃんとノワっちの娘さんだったとはね」
「うん、ごめん。もっと早くエルノアさんに聞いておけばよかったよね」
今日の夕食もキュアード家で頂くということになった時に、携帯で母さんに連絡を入れておいたのだ。
その際に、ライトア様とノワール様のことを伝えていた。
母さんは悔しそうに、
「くそぅ、知ってたらもっと面白い粗品を送り付けてやったんだがなぁ」
知らなくて正解だったかもしれない。
「で? どうだった、肝心のお泊り会は?」
鋼は靴紐を解きながら、答える。
「色々あったけど――」
結局、ミーシャさんとも仲良くなれたと言い切れるのかは分からない。けれども。
「うん。楽しかったよ、凄く」
それだけは、心の底から思えた。
魔法少女学園に入学したばかりの時、ブレイズ先生が言っていたが、校内で噂が広まるのは本当に早くて。
「ねぇ、聞きまして? あの八島鋼さんが、エルノア・キュアード様のお屋敷にお泊りになったとかで――」
「きゃー、本当に?」
「ということは、お二人はそういう親密な仲ってことに」
「それが、噂だとアームネル家のミーシャ様も一緒に泊まったとかで――」
「そうなの? それって一体どういう……」
「エルノア様とミーシャ様が両者合意の上で、八島鋼さんをお迎えになったとか――」
「「「きゃーっ!」」」
登校時、教室に着くまでの間だけでも、既にそんな声があちらこちらから聞こえて来て、鋼は戦慄せざるを得ない。
教室に入ったらもっと凄かった。刺さるような視線の雨が鋼に降り注ぎ、そのまま教室の扉を閉めて、どこかに静かな場所に去りたい気分になった。
しかし、鋼の席の隣に美飛さんが座っているのを見て、思い直す。
「美飛さん、おはようございます」
鋼は席のところまで移動して、挨拶をする。
「……」
しかし、美飛さんからの返事は無く。
「美飛さん? どうかしたんですか?」
具合でも悪いのだろうかと様子を伺おうとすると、こちらに視線が向けられる。
「美飛……さん?」
酷く、冷たい視線だった。
ミーシャさんが時折見せるものとは質が違う。強い感情が露出した結果生まれるものだと分かる冷気が、大きな瞳の奥から見てとれた。
そして、どうしてと思う暇もなく、美飛さんの唇が動く。
「鋼さん、一つ聞きたいことがあるんです」
「はい……何でしょう?」
「一昨日の土曜日、ミーシャ・アームネル様と一緒に、エルノア・キュアード様のお屋敷に泊まったというのは本当ですか?」
静かだが、力強い口調だった。
鋼は頷いて、
「え、ええ。エルノア様からお泊り会のご招待を受けて――」
「そうですか」
すっと席から立ち上がる美飛さん。未だ冷たい光を瞳に留めたままに告げた。
「そういうの、私は良くないと思います」
「え?」
「不潔です」
吐き捨てるように言って、美飛さんは教室から出て行ってしまう。
「美飛さん……」
彼女の姿が消えた後も、鋼は呆然と教室の扉を見つめ続けていた。