中編『ハガネ、お泊り会に行く』(上)
鋼が魔法少女に覚醒したその日。
「――黒月……?」
「そう、それが鋼ちゃんを襲った組織の名前よ」
イルミエールの病院で一通りの検査を終えた鋼に、母さんは言った。
「私達人間と敵対している魔法少女の集団ってところかしら。正確には大半が『魔族』っていうので構成されてるんだけど……とにかく、鋼ちゃんを今日襲った『魔女』は、その黒月の一員ってわけ」
「まだよく分からないけど……母さんは、そいつらと戦ってるの?」
「そうね、他にも色々居るけど、黒月は気を抜けない相手ね。今回は私を脅す目的で、鋼ちゃんを誘拐しようとしたみたい」
病室のベッドの上で鋼は思い出す。魔法少女に覚醒した直後のことを。
あの鎌を持った褐色の魔女が再び襲い掛かって来て、そこへ魔法少女姿の母さんが駆け付けてくれた。魔女は舌打ちをして撤退し、鋼は窮地を脱したのだ。
「そういえば母さん、魔法少女って皆、俺みたいに十歳の女の子に変身するんじゃ無かったっけ?」
「ええ、そうよ。どうかしたの?」
「いや……俺を襲ったあの魔女ってさ――」
自分を襲った相手だ。嫌でもその姿が鮮明に思い出される。
黒々とした巨大な鎌、光を放つようなブロンドヘアー、妖艶な褐色の肌。
「どう見ても大人の女性だったと思うんだけど」
「ああ、そのことね……」
「魔法少女と魔女って違うの?」
「いいえ、同じよ」
母さんは首を横に振ってから言う。
「あれは魔法少女が、特殊な魔法アイテムを使ってなってる姿なの」
「魔法アイテム?」
「グロウギア。私達の間でそう呼ばれているアイテムよ」
母さんは声色がそこで真剣なものに変わり、
「鋼ちゃん」
「なに?」
「もし今度、また魔女に襲われるようなことがあったら絶対に戦っちゃ駄目よ」
母さんは鋼の目を見ながら言った。
「魔女と魔法少女は、まさに大人と子供くらい力の差があるから」
――次元の違う化け物よ。
鋼は覚醒した日のことを思い返す度、その言葉も思い出す。
鋼が魔法少女学園に入学してから一ヶ月が経とうとしていた。
「それでは、今日は飛行魔法の実践練習を行っていきたいと思います」
飛行魔法の講師であるスピーリア・トールド先生が綺麗な銀色の箒を片手に言う。長いマントとポニーテールの格好良い、男っぽい印象を受ける女性だ。
日本の気候と同じように四季が存在する魔法世界イルミエールの五月は、肌に心地良い暖かな陽気をしている。
本日の空は青く、雲一つ無い快晴。
が、その一方で、鋼の心は曇り空となっており、一足先に梅雨の時期を迎えようとしていた。
というのも――
「この中で、既に飛行魔法を使える人はどれだけいますか?」
先生の質問にクラスの少女達が手を挙げて行く。鋼以外、全員だった。
周囲の視線が、自然と鋼に集まる。
「すみません、私、飛行魔法の心得がございません……」
「そうですか……なら、鋼さんはまず、初歩からですね」
「はい……」
他の魔法実践でも言えることなのだが、クラスの女の子達は個人差はあれど、総じてどんな魔法も当然のように使ってみせるのだった。
とにかく全員が全員、優秀なのだ。実践でなくとも、座学でもその優秀さは揺るがず、鋼は付いて行くのがやっとの状況だった。
母さん曰く、力の強い魔法少女は十歳より以前に覚醒して魔法が使えるのだとかで、各家では『お嬢様』としてのお稽古事の中に『魔法の勉強』や『魔法の実践』があるのだそうだ。
つまりは、魔法少女になって一ヶ月とちょっとしか過ごしていない鋼とは、経験値の差がまるで違うというわけで。
クラスメイトの子達が、現実世界の漫画やアニメで良くみる魔女のように箒に腰掛けて、『自習』という名の空中散歩を優雅に楽しむ中、鋼は飛行魔法に関する知識を一から教わることになり、一対一で先生の声に耳を傾け、教本と向き合う時間を過ごす。
そうして授業時間の半分くらいが終わると、先生は他のクラスメイトに指導をして来るとのことで、今度は鋼が自習の時間を迎えた。「今日はまず教本を読み込んで、基礎知識を増やしなさい」との指示だった。
これが静かな教室の中とかだったらもっと集中出来るのだろうが、ぽかぽかとした陽気の中、空から楽しそうな声が聞こえて来たりすると、どうしても興味と視線は上に向いてしまう。
青い空を自由に舞う、色彩豊かで煌びやかなドレスに身を包んだ魔法少女達。そのスカートは長くても短くても大きく翻ることはなく、美しく緩やかにはためいている。
不思議なもので、魔法少女のスカートというのは、ドレスの中でも一番防御力が高い部位らしく、光や重力などの影響を一切受け付けないのだった。その為、いつ何時、どんな角度から見ても乱れることなく上品さを保ち続けていた。
魔法少女達との共同生活をしている鋼にとっては、目のやり場に困らない仕様で助かっている。
それはともかくとして。
(良いなぁ……)
自由に飛び回る彼女達を見ていると、鋼は純粋に『空を飛べる』ということを羨ましく思う。
魔力の制御は早く何とかしたいところではあるけれど、せっかく魔法が使える身体になったのだから、空は飛べるようになりたい。
それはきっと、これまで感じたことのないような、心踊る体験だろう。
「鋼さん」
と、名前を呼ばれて振り向くと、ピンク髪に大きなリボンが特徴の女の子がこちらにやって来るところだった。
「美飛さん」
未だ馴染めているとは絶対に言えない一年椿組のクラスメイトの中で、鋼に仲良くしてくれている女の子。
彼女はぴょこぴょこと小動物を彷彿とさせるような足取りで駆け寄って来ると、嬉しそうな笑顔で、
「えへへ、鋼さんが自習の時間になったみたいなので、やって来ちゃいました」
「見に来てくれたんですか? といっても、私はすぐに飛べるわけじゃないので、この後も教本読んで、覚えるだけになっちゃうんですけどね。ところで……美飛さんの持ってるそれって何です? 大きなぬいぐるみみたいですけど」
彼女は丸くて黄色い、巨大なぬいぐるみを抱きかかえていた。彼女の背丈が同年代で小さめのこともあって、その巨大が際立っている。
「これ、実は私の箒なんですよ」
「えっ、箒ってこんな形のもあるんですか!?」
「はい。私の箒型ゴーレム――ヒヨコさんです!」
デーン、とちっこい羽と嘴を生やした一頭身のヒヨコっぽいぬいぐるみを見せ付ける美飛さん。
話すようになって知ったことなのだが、彼女の家――レインバード家は『魔法少女八大家』と呼ばれる名門の一つであるらしく、自動人形『ゴーレム』に関する魔法を得意としていた。
そして、『ぬいぐるみ』という媒体が好きな彼女は、自身の従えるゴーレムを全てそれで統一しているのだった。
「ヒヨコなのに……飛ぶんですか?」
「はい、飛びます!」
花咲くような笑顔を浮かべてから、「それでなんですけど」と美飛さんは続ける。
「鋼さんも今すぐ空を飛んでみたくはありませんか?」
「え?」
「下から見ているだけじゃつまらないでしょう? だから、私と一緒にヒヨコさんに乗って、空中散歩でもどうかなと思いまして」
「それは凄く嬉しいですけど……ヒヨコさん、大きさ的に二人はちょっとキツくありません?」
かなりの大きさを誇るヒヨコさんだが、乗るものとして考えると一人が座るクッションくらいのサイズだ。
「その点ならご心配なく。ちょっと待ってて下さいね」
美飛さんはそう言うと、「ふぬぬっ」という声と共にぎゅうぅっと力強くぬいぐるみを抱き締める。
「ちょっ……大丈夫ですか? そんなに強くしたら、中身の綿が出ちゃいません?」
「いえ、これはぬいぐるみに巨大化の魔法を使っているんですよ。見てて下さい、ほら」
ヒヨコさんの黄色い身体がもこもことパンをオーブンに入れて膨らませるかのように大きくなり、やがて直径二メートル以上はある物体へと変化を遂げる。
「こ、こんなことも出来るんですね。凄いです、美飛さん」
ちょっとびっくり。さすがは名家の生まれだ。
「これでも一応お嬢様なので、魔法が使えるようになる前から基礎知識とかは家庭教師の先生に叩き込まれていたんです。だから、そんなに大したことではないですよ」
と言いつつ、さりげなく跳躍の魔法を使って、ふわりと上品にヒヨコさんの上に跨る。ほとんど無意識だったのだろうが、魔法を手足の延長のように使える美飛さんはやはり優秀だと思う。
「さぁ、鋼さんも乗って下さい」
「は、はい。少し待ってて下さいね」
鋼にはそんな細かい魔法の組み合わせは出来ない。というか、それが出来ないからこそこの学校に通っている。
なので、ヒヨコさんの上に乗るだけでも悪戦苦闘する。
と、そのことに気付いたらしく、
「あっ、ごめんなさい。自分の感覚で考えちゃってましたけど、鋼さんはまだ、魔法を使い慣れてないんですよね。掴まって下さい」
美飛さんが手を差し伸べてくれる。
「面目ないです……」
鋼は情けない気持ちになりつつも、美飛さんに感謝して手を取り、魔法でヒヨコさんの上に引き上げて貰う。
「それじゃあ、飛びますよ」
「わわっ!?」
ヒヨコさんが両側面に付いてる小さな羽を一生懸命羽ばたかせ、ふわふわと空中に浮き始める。
魔法の力で浮いている為か、変な振動があったり、バランスが崩れたりするような事は全く無いが、それでもぐんぐん高度を上げて行く。
地面が離れて行くにつれ、鋼は少し不安になる。魔法少女になったとはいえ、鋼はまだ空を自由に飛べるわけではない。落ちたらどうしよう、とネガティブなことばかり考えてしまう。
ふと、美飛さんが後ろを振り返りながら言った。
「鋼さん、怖くないですか?」
「え?」
「怖かったら、私のお腹とか肩とか掴んでくれてもいいですよ」
「い、いや大丈夫です」
そんなこと言われても出来るわけがない。十歳とはいえ美飛さんは女の子で、自分は男なのだ。
意識すること自体いけないのかもしれないが、意識させられてしまうくらいには、美飛さんは可愛らしい女の子だった。
話すようになって、近くで彼女を見る機会が増えたが、美飛さんは十二分に美少女と言える容姿をしていると思う。睫は長く、丸く大きな瞳は目を合わせると、吸い込まれそうな程に綺麗で愛らしい。肌は白く柔らかそうで、桃色の髪はいつもサラサラふわふわで良い匂いがする。
最近女性と接する機会が増えたからなのかもしれないが、女の子ってどうしてこうも良い匂いがするんだろうかと疑問に思う。フェロモンとかが出てたりするんだろうか。
(って、何考えてるんだ俺は! 十歳の女の子を意識してどうする……!)
こういうことを考えてしまう自分を、やはり好きにはなれない。
「鋼さん、地面を見ようとするんじゃなくて、遠くの景色を眺めるようにしてみて下さい」
「遠く?」
「はい」
美飛さんの言葉に誘われて、顔を上げる。
いつの間にか地面から数百メートルは離れた上空に居て、鋼は目の前に開かれた景色に思わず、
「うわぁ……っ!」
息を飲んだ。魔法世界の山、森、海、街と広大な景観が目に飛び込んで来た。
魔法で制御しているのか、空高いのに風の勢いは緩やかで、肌をくすぐる程度。視界を阻むものは何も無く、三百六十度地平線の彼方まで見渡せる。
見たことも無いような圧倒的景観に、鋼は身体が震えた。
「凄い……!」
「空を飛ぶのって素敵でしょう?」
「はい、感動しました!」
「私もお姉様の魔法で飛ばせて貰った時、凄く感動したんですよ。だから、鋼さんにもその感覚を味わって欲しくて」
「これはあれですね、早く飛行魔法を覚えたくなりますね」
「分かります。私もその後頑張って、一番最初に飛行魔法を覚えたんですよ」
「美飛さんはもう、こんなに高い場所でも怖くないんですね」
「鋼さんもすぐに慣れますよ。空を飛んだ時の感動を一度味わってしまえば、飛行魔法を覚えるのもすぐです」
「ありがとうございます、美飛さん。こんな素敵な景色を見せて下さって」
「えへへ、鋼さんが楽しんでくれたなら嬉しいです」
両手を頬に添えて、照れた笑顔を見せる美飛さん。
――本当に良い子だよなぁ。こういう妹が居たりしたら、今頃俺はシスコンになっていたことだろう。
などと考えていると、広大な景観の中に、鋼は気になるものを見つけた。
「あの、美飛さん、あれって何でしょう?」
「うん、どれですか?」
「学園から森と湖を挟んだ向こうにある、大きな建物が幾つも立っている場所なんですけど。あれも何だか敷地が凄く大きいですよね」
「あれは……」
言葉を詰まらせる美飛さん。彼女の横顔を見ると、何だか言い辛そうな、言葉を選んでいるような表情に見えた。
やがて、彼女は言う。
「あれも……学園です」
「学園? あれも魔法少女学園の敷地ってことですか?」
「正確には、同じ学園でも分校というか、通っている生徒の層が違う場所です。こっち側の生徒は、あの場所を『第二学園』って呼んでます」
「生徒の層が違う……?」
「鋼さんは、ダークエルフとか、魔族って言葉はご存知ですか?」
「え? ああ、はい。私はブレイズ先生と知り合いなので……」
美飛さんの言葉で何となく察しはついた。
「そうですよね。それで、私達人族と呼ばれる側と、魔族やダークエルフは、あまり仲が良く無くて……向こうにも魔法少女に変身出来る方達は居るんですけど、一緒の場所に通うと何かと問題があるってことで、学園の敷地が二つに別れているんです」
「そんな場所があったんですか……」
今日まで知らなかった。こうして空を飛ばなければ今後も気付かずに過ごしていただろう。
鋼は美飛さんの横顔を見ながら、彼女はダークエルフや魔族に対してどのような感情を抱いているのだろうと思った。
優しくて良い子に見える美飛さん。しかし、それはダークエルフや魔族に対しても不変のものだろうか。
――そういえば俺、男の姿で美飛さんと話したこと、まだ一度も無いな。
ふと、そんな考えが頭を過ぎって、少し怖くなった。
鋼は今日まで、彼女と話す時、『十歳の少女』という自分を演じて来た。初めて会話した時がそうだったから、そのまま続けて来たのだ。
本来の自分――男の自分を鋼は一度も曝け出してはいなかった。
だって相手は十歳の少女だ。加えてお嬢様で、住んでいた世界も違う。おまけに相手はこれまで男と接したことが無いのだ。気を使うなという方が無理な話だった。
もし鋼が男の姿で美飛さんに接しようとしたら、彼女は先程みたいな笑顔をみせてくれるのだろうか。
「鋼さん」
「あっ、はい。何でしょう?」
「そろそろ降りましょうか」
「え、ええ」
考え過ぎなんだろうか。でも……美飛さんには男の姿を見られたくないと、そんな風に思ってしまった。
その肝心の『男の姿』についてだが。
鋼はブレイズ先生との訓練で、およそ一分間は姿を維持出来るようになっていた。
「くはっ……!」
魔力に酔って苦しくなり、集中が切れると身体は勝手に魔法少女へと変身してしまう。
衣装の一部である白いマフラーが、俯いた首から地面に向けてだらりと垂れた。
「はい、あと二回。一分休憩したらまた変身解除」
訓練場の亜空間内で、近くの岩に腰掛けた先生が、ノートとペン片手に言う。
ちなみにノートに何を書き込んでいるのかと尋ねたら、「明日の授業内容をどうするか考えてるんだ」という答えが返って来た。
そうして、変身と解除を繰り返す訓練を終えた後に十分程休憩を貰ったので、鋼は聞いてみる。
「ブレイズ先生」
「ん、何だ?」
「俺、本当に男の姿で生活出来る日が来るんでしょうか」
先生はパタンとノートを閉じる。
「どうした急に。不安になったのか?」
「……少し。これでも結構、真面目に訓練した来たつもりだったんです俺。この一ヶ月。でも、一ヶ月で五十秒しか変身解除の時間が伸びなかった。他の授業でもそうです。魔力砲以外の魔法は一つも上手く使えない。どんなに術式を覚えて頭の中で描いても、上手く魔法が発動してくれない。感覚がまるで分からないんです。魔法を使うってどういうことなのかが、実感として全然……!」
そこまで話すつもりでは無かったのだが、一度口にしてしまうと胸の奥にしまっていたものがボロボロと言葉になって剥がれ落ちて来た。
少しどころじゃ無い。鋼は色んなことが不安だった。
ブレイズ先生は少し考えるように前髪を弄ってから、
「この一ヶ月、私なりにお前を見て来たつもりだ。正直言って、私は教師になってたかだか二年だ。だから教え方が下手というのもあるかもしれない。お前がそう感じてたなら、申し訳ないと思う。それでも言わせて貰うなら、お前はちゃんと進歩しているよ。事実、一分間魔力炉を停止していられるようになった」
「でも、一ヶ月で一分じゃ、普通に生活出来るようになるまで一体どれだけ掛かるか分かりません」
「そうだな。けど、諦めさえしなければ、ある日訓練の成果が出て、一気に長時間変身を解除して居られるようになるかもしれない」
「諦めなければ……ですか」
先生は頷く。
「何の保障があるわけでも無いよ。何せ数百年に一度の特異体質だ。正直分からないことだらけさ。でも、ここでお前が諦めて訓練を止めてしまったら、それこそいつまで経っても男の姿には戻れない。要するに、お前がどっちを選びたいかだ。このまま諦めて、その可愛らしい姿で生活するか、辛くても訓練を続けて、男の姿を一秒でも長く保てるように踏ん張るか」
「……」
どっちなんだろう。鋼は自分の胸の内に問い掛けてみる。
「今のは両極端な話だけどな。すぐに決められなければ立ち止まるのも良いんじゃないか。まだ十五歳なんだから、じっくり考えればいい。答えが見つからないなら、今みたいに私に相談すればいい」
「はい……ありがとうございます、先生」
そう言って貰えて、心は随分と楽になる。
明確な答えが出るわけではないけれど、それでも鋼はすぐに答えられることがあった。
「……俺、訓練は続けます。不安はありますけど、どっちにしても前を向いていたいので」
「そうか」
先生はふっと柔らかな笑顔を見せてくれる。
「なら訓練を再開しよう。次は魔力砲のコントロールだ」
そう言って、先生は魔法少女に変身する。
「はい!」
「いつも通り、魔力砲の撃ち合いをする。準備しろ」
先生と距離を開けて対峙する。互いに魔力砲の陣を展開する。
この訓練は、魔力砲を撃ち出す際に放出する魔力を制御して、細く一点に凝縮し、威力を増大させるというもの。
実際にやってみると、こうだ。
「はっ!」
鋼と先生が同時に魔力砲を撃ち出す。
互いの魔力がぶつかり合う。先生が上手く魔力を調節して、鋼の魔力砲と拮抗する威力にしてくれる。
「よし、鋼、魔力の制御を始めていいぞ」
「はい、行きます!」
最初にこの訓練をやった時、意識したら単純に放出する魔力量だけが少なくなってしまって、先生からは「水道の蛇口の取っ手を捻るのではなく、そこから続く、水の出るホースの口を小さく絞るイメージだ」と教えられた。
鋼は細く鋭く放出する魔力を圧縮し、砲撃の光を中心の軸に束ねて細めてゆく。
魔力の密度が向上して、先生の魔力砲を押し返し始める。
「集中しろよ。こっちも行くぞ!」
今度は先生の魔力砲が細くなって、鋼の魔力砲と再び威力を拮抗させる。
「ぐっ……!」
魔力の重さが増す。気を抜けば、吹き飛ばされてしまいそうだ。
一呼吸してから、鋼は更に魔力を圧縮して細く鋭くして行く。
先生が無言がそれに応え、威力をまた合わせて来る。
そこからもう一度、魔力の圧縮を行おうとしたところで――
(駄目だ、崩れる……!)
集中が途切れてしまい、鋼の魔力砲の光が一気に太くなる。その中心を、先生の作った高密度の魔力砲が貫いて来て、鋼に当たる。
「うあっ!」
自動で発動した防御魔法を破壊され、鋼は後方に吹き飛ばされる。亜空間の安全装置が機能していて、痛みを感じたり、傷が出来たりはしない。
地面を数十メートル転がって、それから起き上がる。白いドレスはたった一度で泥だらけだ。
「やり直しだ鋼。立てるか?」
「はい」
これも一ヶ月近くやって来た訓練で、鋼はもう慣れていた。
口元に付いた泥を拭う。魔法があればこの白いドレスも一瞬で綺麗に出来るのかもしれないが、鋼にはまだそういう便利な魔法は使えない。
集中しろ、と自分に念じて、再び一から魔力砲を細く鋭く作り直して行くのだった。
思い返せば、この一ヶ月、目を逸らし続けていたことがあったように思う。
昨日の訓練でブレイズ先生に、諦めてしまったら進展は無いということを言われたからだろうか。
登校中にとある二人組が歩いているのを見かけて、何となく話し掛けてみようかなと思い立った。
鋼はすぅっと深呼吸してから、
「ごきげんよう、お姉様方」
「あら?」
先に振り返ったのは、ふわふわ巻き毛のいかにも優しそうな美少女――エルノアさんの方だった。
「エルノアお姉様、お久しぶりです」
「まあっ、鋼さん! 驚きました、鋼さんの方から話し掛けて下さるなんて!」
嬉しそうな笑顔を見せてくれるエルノアさん。
一方、いつ頃気付いたのだろうか、少しの間を空けて、もう片方のお姉様がゆっくりと振り返る。
エルノアさんをふわふわとした『柔』という字に例えるならば、その人は正反対の『硬』という字に例えられるだろう。
整った顔立ちだが、無表情で冷たいオーラを纏っている少女――ミーシャさんが鋼を見た。
「……」
彼女は何も言わない。ただただ、その瞳に鋼の姿を映していた。一ヶ月前、このシーズンの並木道で出会った時のように。
目が合って一瞬、ドキッとさせられたが、今日は視線を逸らさず向き合う。無表情故に何を考えているは全く読めないけれども、落ち着いて見ると少なくとも今は怒っていないように思えた。
エルノアさんがにこにこしながら言う。
「私達、てっきり鋼さんに嫌われてしまったんじゃないかと思っていましたのよ」
「え?」
「この一ヶ月、何度か校内で擦れ違ったことがあったでしょう?」
「確かに……そうですね」
鋼は思い出す。
近くを通る度、ミーシャさんと目を合わすのが怖くて「ごきげんよう」と会釈だけして通り過ぎたり、見掛けた際に会わないよう避けてみたり。
誰とでも仲良くなれるわけではないからと、どこか諦めていたと思う。
「でも、私がお二人を嫌っていたなんて、そんなことはありません。この前、ミーシャお姉様を怒らせてしまったようだったので、その……ちょっと怖くて。会って話すのが」
「そうよね。怖いって思っちゃうわよね。……ということなのだけれど、ミーシャちゃん。どうするの?」
「え……」
話を振られたミーシャさんが、無表情ながら困ったように鋼から視線を逸らす。
エルノアさんはそれを見て、「あらあら」と肩を竦めて、
「ミーシャちゃんがそういう態度を突き通すならそれでもいいけれど、私はもうそれには付き合わないわよ? 一ヶ月も待ったんですもの、私はこれから鋼さんと仲良くさせて貰いますからね」
「なっ、エルノア……!」
「怒ったって駄目よ。どうしても許せないなら、ミーシャちゃんが自分で選びなさい。これからどうするか」
そう言われて、ミーシャさんは目を伏せて黙り込んでしまう。
エルノアさんが鋼に向き直り、「ごめんなさいね」と口にした。
「ミーシャちゃんはともかく、私も本当はね、鋼さんともっと早くお話をしてみたかったの。だから、これから改めてよろしくね、鋼さん」
「あっ、はい。こちらこそ、よろしくお願いします。でも……」
鋼は視線をミーシャさんに向ける。ミーシャさんはエルノアさんといつも仲良く一緒に居るから、やはり気にしてしまう。
それを見て、エルノアさんは考えるように人差し指で自身の唇をなぞり、やがて「そうですわ」と両手を合わせる。
「鋼さん、今日の放課後は空いていますかしら?」
「放課後ですか? 身体の事情で魔力制御の訓練はありますが……はい、時間を作ることは出来ますよ」
「そうですか。でしたら、空いてしまった一ヶ月分の代わりにってわけではないのですけれど、私の家に遊びに来ませんか、鋼さん」
「え……お姉様のお家に、ですか?」
純粋に女の子同士だったら何の問題も無いが、中身が男なので鋼としては戸惑ってしまう。
すると、ミーシャさんが大きな声で、
「エルノア! いくら何でもそれは……!」
「あら、ミーシャちゃん、何か問題でも? 私はただ、鋼さんとの親交をじっくり深めたいだけですわ」
「問題あるだろう。親交を深めるだけなら、別の場所でも出来る。それをわざわざ家に呼ぶ理由は――」
「じゃあ、鋼さんに訊いてみましょうか」
エルノアさんはあくまで優しい笑顔で、鋼に問い掛ける。
「鋼さん」
「あ、はい!」
「鋼さんは、私の家に来るのはお嫌かしら?」
「えっと……」
ミーシャさんの顔を伺う。無表情で、何を考えているかは分からない。ただ、鋼と目を合わせ、じーっと見て、「行くな」というオーラを醸し出している気がした。
だから素直な気持ちを答えることにした。
「私は……ミーシャお姉様が嫌だと仰るなら、エルノアお姉様のお家には行かないことにします。エルノアお姉様と仲良くしたいと思っておりますが、それと同じくらいミーシャお姉様と仲良くしたいとも思っております。なので、ミーシャお姉様に嫌われるようなことはしたくありません」
エルノアさんは目を丸くする。それから、ふっと笑って、
「驚きましたわ、鋼さん……とっても素直ですのね。俄然興味が湧いて参りましたわ」
言ってから、ミーシャさんに視線を向ける。
「ならこうしましょうか。ミーシャちゃんも私の家に来て、三人でじっくり親交を深める。これなら何の問題もないでしょう?」
「……」
「聞いてる? ミーシャちゃん?」
それにも応えず、ミーシャさんは先程からずっと、鋼をじーっと見つめ続けていた。もちろん無表情で。何かに視線を縫い付けられたように、鋼から視線を外そうとしない。
鋼もさすがに居たたまれなくなって、ちらちらと見返しつつも、視線の行き場を探して泳がせてしまう。
何だろう、未だにミーシャさんが何を考えているのか、どんな人なのか分からない。
エルノアさんが「ミーシャちゃん、おーい、ですわ」と視線を遮るように手をひらひらさせるが、反応無し。
「……これはあれですわね、ミーシャちゃんも了承ってことですわね」
「了承って……え?」
「三人でじっくり親交を深めるということについてですわ」
「で、でも、ミーシャお姉様、先程から全く反応してませんけど……」
「心配なさらず。ミーシャちゃんの顔を見れば、是か非かくらい分かりますわ」
「分かるんですか!?」
ミーシャさん、出会ってこの方、ずっと無表情なんだけれども。
「幼馴染みですもの。そんなわけで鋼さん、我が家に遊びに来るに当たっては、しっかり着替えを持って来て下さいね」
「着替え? どうしてですか?」
「どうしてって、明日は学校、お休みでしょう?」
「確かに休みですけど……」
今日は土曜。明日は日曜日だ。
「ですから、今日から明日にかけてじっくり遊べますわよね? 泊まりで」
「え」
一瞬、思考が完全に停止する。
エルノアさんがやたら色っぽい笑みを浮かべて、
「ふふっ、今夜は寝かしませんわよ?」
「え……えぇええ――っ!!?」
大声を上げずにはいられなかった。
土曜日の授業は午前中までなので、これまで通りならば、午後は夜までブレイズ先生と訓練をすることになっていたのだが、さすがにそれだとエルノアさんのお宅に訪問するのが遅くなり過ぎてしまうと思ったので、先生に事情を話すことにした。
「なんだ、そういうことなら、それなら別に気にする必要は無い。今日の訓練は無しにして、心置きなく遊んでくればいい」
職員室の席に座りながら聞いていたブレイズ先生は、笑って言う。
「いや、無しにまでして頂かなくても……」
「私は学生時代、そういうのには無縁だったからな。楽しめる時に楽しんでおかないと損ってもんだぞ、そういうのは。訓練はいつでも出来るわけだし」
そう言われると、何も言い返せなくなってしまう。
ふと思ったのだけれど、ブレイズ先生は昔、どちらの学校に通っていたのだろう。今はこうして第一学園の方の教師をやっているわけだが、昔は第二学園に通っていた可能性もある。
とても聞けはしなかったが。
代わりに、朝からずっと悩んでいることについて吐露する。
「あの、先生」
「ん、どうした?」
「何というか、相談っていう程重い話ってわけでもないんですけど、ただこの世界の常識的にどうなんだろうって思うことがあって……」
「うん? どういうことだ?」
「先生は、俺――」と、すぐ近くを別の先生が通り掛かったので、「ではなく、私が」と一人称を言い直す。「同年代の女子生徒の家に泊まるのって、どう思いますか?」
先生は金色の瞳をぱちくりさせてから、
「えっと……それはつまり、自分が男だから、女子生徒の家に泊まるのはマズイんじゃないかってことか?」
「はい」
はっきりと断れず、なし崩しに泊まることになってしまった。しかし、鋼の持つ常識観では簡単に了承してはいけないことのように思う。
先生は言葉を探し、手に持っていたペンの尻でトントンと机を叩いてから、「前も言ったかもしれないが」と口を開く。
「この世界は、認知されている限り女性しか存在しない」
「ええ」
「それでだ。この学校に通う生徒ってのは、魔法少女としての技能、教養を身に付けることは勿論だが、家の将来を守る為に伴侶を見つけることも一般的な目的としている場合が多い。言い換えると、この学校に通う生徒にとって、周りは全員、同性でありながら異性でもあるんだ」
イルミエールでは、女性同士で結婚するのが一般的だというのを思い出す。未だに実感は湧かないけれども。
先生はそこで声の大きさを落として、
「で、初等部から高等部まで通っていると、あんまり大きな声では言えないが、間違いを起こしてしまう生徒も少なくない」
「ま、間違いって……」
「若さ故の過ちってやつだな」
「言い直さなくていいです!」
「ちなみに安心しろ、私は正真正銘、処女だ」
「訊いてないです!」
「とにかくだ。そういう間違いが引き起こすかもしれない悪い事態を防ぐ為に、この学校に入学するに当たって義務付けられていることがある」
「い、一体何をです?」
「それはだな」
先生は椅子から立ち上がると、鋼の後ろに回り込む。
何をするのかと思いきや――
「これだ」
ブレイズ先生が鋼の上着の裾を掴み、ぴらりと捲り上げた。
「ひゃんっ!?」
「可愛い声出たな、今」
「~~っ!」恥ずかしさで顔が一気に熱くなる。「い、いきなり何するんですか先生! 驚くじゃないですか!」
先生はポンポンと鋼の腰を軽く叩いて、
「入学時、この腰の辺りに魔法を掛けて貰っただろう。自身では見辛いが、これは『避妊結界』と呼ばれている」
「ひ、ひにっ……!?」
「だからまぁ、あれだ」
先生は事も無げに言う。
「この学校だと、食う食われるは割と有りがちなことだから、そんなに気にする必要は無いってことだ」
それを聞いた鋼は、しばし呆然としてしまった。
おそらくこういうのをカルチャーショックと言うのだろう。
ブレイズ先生はああ言ったけれども、すんなりと受け入れるわけにも行かず、家に帰って両親に相談することにした。
母さんは、父さんが注いでくれたお茶の湯飲みを持ちながら、
「ふぅん、エルノアさんって先輩の家にお泊りねぇ……」
「うん」
母さんはお茶を一口飲んでから告げる。
「別に良いんじゃない? 行って来れば」
満面の笑顔だった。
「軽い!」
思わず鋼は椅子から立ち上がってしまう。
家族会議的な感じで母さん父さんとテーブルを囲んで話し合っていたのに、この雰囲気の軽さ。
母さんは小首を傾げながら、
「だって、鋼ちゃんはそのミーシャさんって人と仲良くなりたいんでしょう? だったらエルノアさんの誘いはチャンスじゃない」
「そうだけどそういうことじゃなくて! 未成年の男女が一つ屋根の下で泊まるのって色々と問題あるでしょ! こっちの世界では!」
「でも、場所はイルミエールなんでしょう?」
「俺は日本で育った人間なの!」
ばんっと机を叩く。結構悩んでいるのに理解して貰えない。母さんやブレイズ先生がイルミエールの人だからか。
「私は、鋼が後悔しない方を選べばいいと思うな」父さんが口を開いた。「守るべき一線としての結界はちゃんとあるわけだし、仮にそういう事態に陥っても、鋼が選べばいいだけの話だしね。続けるか、止めるか」
「地味に凄いこと言うね、父さん……」
「私もこっち生まれの日本人だから、積極的なことは言えないよ。増してや相手が実の息子だしね。でもさ、私思うんだけど――」
「うん?」
「鋼、実は結構、遊びに行くの楽しみにしてるんじゃないか?」
「そ、そんなことないよ!」
ドキッとした。……待て、何でドキッとした?
――ひょっとして俺、楽しみにしてるのか?
「鋼は今さ、望まずに女の子の身体になってるわけじゃないか」
「う、うん」
「でも鋼の心は男のままだから、色々悩んじゃうんだろう? 何が正しくて、何が駄目なのかって」
「……うん」
鋼は自分の湯呑みに視線を落とす。お茶には自分の偽りの姿――少女の顔が映っている。
ただ今は、偽りなのにこちらの姿が本物みたいになってしまっている。
男と女の線引きはいつだって迷う。イルミエールの習慣は日本と異なるから、更に迷ってしまう。
「今の鋼は、男でもあり女でもある。男らしく振舞わなきゃならないし、女らしく振舞わなきゃならない。逆に男に出来ないことも出来るし、女に出来ないことも出来る。他の人より選択肢が多いってことだ」
父さんは鋼の目を見て言った。
「だからこそ私は、鋼が後悔しないような選択をすればいいと思う」
「俺は……」
鋼がエルノアさんに誘われた時、どう思っていたのかと言えば。
戸惑いはしたけれども、同時に嬉しさもあって。ミーシャさんと仲良くなれるかもしれないことに対する期待と不安が入り混じっていた。
だからもし、選んでいいというのなら――
「えっと……」
鋼は椅子に座り直す。何だか無性に恥ずかしくて、両親に目が合わせられないまま続ける。
「その……今日、エルノアさんの家に泊まりに行って来てもいいですか……?」
少しの間があって、
「うん、行っておいで」と父さん。
「せっかくだもの、楽しんでらっしゃい」と母さん。
それから着替えやら、シャンプーやら、歯ブラシやらお泊りセットを準備して、玄関に立つ。
見送りに来た母さんが「あ、そうだ」と悪戯を思い付いた時の顔をして、鋼の耳元で囁く。
「もし食われる事態になったら、後で体験談を聞かせてね」
「ならないよ! というか、俺を食われる側にしないで!」
「だって鋼ちゃん、一分間しか男の子に戻れないじゃない」
「え」
「あれ、違った? もっと長かったっけ?」
「い、いや……」
違わない。せいぜい保って一分ちょっとだ。
「だよね。それに鋼ちゃん、生やす魔法はまだ使えないし」
「生やす!? 生やせるものなの!?」
「うん。イルミエールだと女性同士で結婚するわけだし」
「……」
「どうしたの、鋼ちゃん?」
別に暑いわけじゃない。しかし、鋼の身体からやたらと汗が出て、だらだらと流れる。
「もしかして鋼ちゃん――」
母さんは言った。
「自分が捕食される側になるとは思ってなかった?」
鋼は学校の校門前でエルノアさん、ミーシャさんと待ち合わせてから、エルノア家に向かうことになった。
校門前に立つエルノアさんの私服はフリフリのスカートで、学校の制服を着ている時よりもずっと上品に見え、お嬢様の風格というものを感じた。
エルノアさんは鋼を見つけると、
「まあ、鋼さん! なんて可愛いらしい!」
嬉々として鋼の服装を三百六十度周りながらチェックして来る。
どんな服装かと言えば、鋼の魔法少女ドレスに合わせた白色の一張羅で、白ウサギをイメージしたファーや耳付きフードの付いた奇抜なセンスのオーダーメイド品だ。ミニスカートは多段のフリル付きになっており、その下には白色のニーソックスを履いている。
日本のカジュアルな服装と、イルミエールの貴族が着る上品なドレスの意匠を取り入れて作られたのだと、母さんは熱く語っていた。
「その、これからエルノアお姉様の家に行くに当たって、母が用意してくれたのですが……ドレスコードとかは問題ありませんでしょうか」
正直不安だ。
「ドレスコードなんて気にしなくていいのよ。ただ、その服はとても素敵だと思うわ。さすがはガーディア様ね」
「そ、そうですか……」
苦笑いしつつ、安堵する。
母さんの友人で、イルミエール出身のファッションデザイナーに作って貰ったものらしいが、そのセンスはちゃんと通用するものらしい。
エルノアさんが横に立っているもう一人のお姉様に尋ねる。
「ねぇ、ミーシャちゃんも素敵だと思うわよね?」
「ん……」
鋼はちらとミーシャさんの様子を伺う。彼女の鋭い視線は、ここに来た時から既に感じていた。
変わらず感情を見せない無表情で、
「まぁな」
言ってから視線を逸らす。本心ではどう思っているのか、さっぱり分からない。
エルノアさんが腰を屈めて、にこにこと微笑みながら鋼に尋ねて来る。
「鋼さん、ミーシャちゃんの格好はどう? なかなか可愛いと思わない?」
ミーシャさんは学校の制服を着ていた時とは異なる雰囲気で、ボーイッシュな格好をしていた。
白色の上着に黒のベストを羽織って、下は短めの黒スカート。そこから覗く健康的な太腿が眩しく見えて、鋼も何となく視線を逸らしてしまう。
「その……凄く似合っていて、良いと思います」
「ですって。良かったわね、ミーシャちゃん」
「うるさい」
「うふふ」
「笑ってないで、もう行くぞ。三人揃ったんだから」
「はいはい」
ミーシャさんは目の前に手をかざし、転移魔法のゲートを作り始める。
(もう少し、良い言い方があったかもしれないな……)
一応褒めたつもりではあったけれど、気恥ずかしさが前面に出てしまって、嘘を言っているように聞こえてしまったかもしれない。
――上手く行かないな、中々。
「鋼さん、今まで話せなかった分、今日はいっぱいお話ししましょうね」
不意にエルノアさんが横に来て、耳元でそっと言った。
鋼はドキッとして、
「は、はい! その、お手柔らかにお願いします……」
「うん? お手柔らかにって?」
「あっ、いえ、何でも無いんです。あはは……」
捕食というワードがつい頭の中を過ぎってしまったが、エルノアさんはきっと大丈夫。優しそうな人だし、そんなことにはならないだろう。ミーシャさんだって居るわけだし。
「着きましたわ。ここが私の家です」
転移ゲートを潜った先、案内されたその場所を見て、鋼は感嘆の声を上げずにはいられなかった。
「お、大きい……!」
魔法少女学園がそういう所だから、エルノアさんの家もそうなんじゃないかと予想はしていた。しかし、実際に見ると予想以上の規模だ。
そもそも門からして大きく、門の向こうに見える広大な敷地の最奥にそびえる屋敷は、一国の城なんじゃないかと思えるような作りをしていた。
エルノアさんはにこにこしながら、
「無駄に大きいでしょう? いつもこんなに大きくなくてもと私は思ってしまうのだけれど。お庭が広くて自然が沢山あるから、それを楽しめるのは嬉しいかしらね」
門を通って、ミーシャさんが前を歩きながら、口を開く。
「……門から屋敷までが遠いのも、難点だな」
「ねー」
言い方から察するに、ミーシャさんの家も相当に大きいということなのだろう。恐るべし、お嬢様。
「でも、鋼さんの家の方がずっと大きいでしょう?」
「え? いえ、私の家は全然。お恥ずかしながら、一般家庭なので」
「一般家庭? でも、グランアイゼン家は……」
「ああ、私は母の実家に住んでいるというわけではないので」
「あっ、ごめんなさい。そうでしたわね。今は向こうの世界に住んでいるのでしたわね」
「はい。そこで小さな花屋をやってます」
母さんの旧姓である『グランアイゼン』は、魔法世界で『八大家』と呼ばれる有名な家の一つだと聞かされている。
父さんと結婚する際に勘当されたのだとかで、鋼は一度もグランアイゼンの家に行ったことが無かった。故に祖父母の顔も知らない。イルミエールの習慣から考えれば、祖父母は両方女性ということになるわけで、そこは気になっている。
とはいえ、母さんを差し置いて一人で会うような度胸は、とてもじゃないが無かった。性別が男だから、どんな風に思われているか分かったものではないし。
玄関先まで歩いて行くと、一人のメイドさんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
「ただいま戻りましたわ。わざわざ出迎えてくれてありがとう」
「ようこそいらっしゃいました、ミーシャ様、鋼様」
メイドさんは微笑んで、ぺこりと頭を下げる。清潔感のある黒色のショートヘアーが良く似合う、二十代半ばくらいの美人さんだ。
生まれてこの方、知識はあっても本物のメイドさんと出会うのは初めてのことで、鋼は内心、驚きと感動を覚えていた。
「ど、どうも」
お辞儀を返すと、メイドさんはもう一度ぺこりと頭を下げて、
「これはご丁寧に。お嬢様の言っていた通り、鋼様はとても見目麗しい方でいらっしゃいますね」
「でしょう?」
「ええ」
エルノアさんと笑い合う。それから、屋敷の扉を開けて、
「どうぞ中にお入り下さい。ライトア様とノワール様がお待ちになっております」
「良かった、ノワール母様、間に合って下さったのね」
エルノアさんが首を傾げる。
「はい。魔法で連絡をして置きました」
「ありがとう。これで一安心ですわ」
「それでは客間まで、ご案内致します」
屋敷の中に入ると、ロビーや廊下に他のメイドさん何人も居て、横を通る度に会釈をしてくれる。
そんな光景が新鮮で、周囲を気にしている間に、イルミエールの言葉で客間と書かれたプレートの場所に着く。
メイドさんがノックをして、返事を待ってから扉を開ける。
室内では二人の美女が待っていた。
「ミーシャちゃん、いらっしゃーい!」
「どうも。本日もお世話になります、ライトア様」
「いいのよー。今日は楽しんで行ってね」
嬉々として近付いて来たのは、『ライトア様』というエルノアさんがそのまま成人したかのようなふわふわ巻き毛のロングヘアーが綺麗な女性だった。
常ににこにことして目を細めているところも良く似ている。
「それで、こちらが例の鋼さん?」
ライトア様が細めていた目を開けて、鋼に視線を向ける。その瞳は綺麗なエメラルドグリーンの色をしていて、見ていると引き込まれそうになる。
エルノアさんが頷いて、
「ええ、そうですわ。ガーディア様の実子でいらっしゃる八島鋼さんです」
「そう……」
「八島鋼です。エルノアお姉様にはいつもお世話になっております。どうか以後、お見知り置きを」
とりあえず、失礼の無いようにスカートの両端を持って淑女の挨拶をする。ミニスカートである為、いつもより少し恥ずかしいが、やらないわけにはいかない。
下げていた頭を上げると、ライトア様のエメラルドグリーンの瞳は依然として鋼の姿を映していた。
何かと思っていると、その瞳がキラキラと輝き出したように見え、次の瞬間、
「かーわーいーいーッ!」
「はわっ!?」
ライトア様の手が目にも止まらぬ速さで鋼の身体を掴み、抱き寄せた。
「はうー! ぷにぷに! いい匂いー! 抱き心地が最高じゃなぁーい! ふにゃあぁぁぁーん!」
「あ、あの、ま、待って下さ……んんっ!?」
ライトア様の豊かな胸が顔に押し付けられる。マシュマロのような柔らかさと温かさ。ただそれだけではなく、何故かそれが全身に広がって行く感覚があって、何とも言えない心地良さに背筋がゾクゾクする。
見れば、ライトアさんの身体が淡く緑色に発光している。接触した鋼にもその光は伝わって、包み込まれて行く。
これはもしかして魔法、と気付いたところで、
「はあぁん、良い気分になって来たわぁー。はぁはぁ……んー、うふふっ……」
ライトアさんの両手が背中を、頬を、肩を、首筋を優しく撫でて行き、思考が中断される。
「ふあっ……ひぃんっ! あぁっ……やんっ!? はあぁ……ふぅん……!」
その手が肌を離れる度、とても切ない気分になって、また触れられると待ち焦がれていたように、その場所の神経に電撃が走る。
それを繰り返されて、思考は次第にとろけていって、その感触を求めることばかりに夢中になって行く。
いけないと分かっているのに求めずにはいられない、全身を肌触りの良い毛布で包まれるような安心感と幸福感。
それが時間を経る度に大きくなって行く。どうしてか、全身の感覚が敏感になっているのだ。
「あうぅ……!」
ライトアさんからする甘い匂いも、柔らかい感触も、声も、仕草の一つ一つさえも心をくすぐって、興奮に変わって行く。
駄目だ駄目だと思っているのに、抵抗出来ない。少しでも抵抗したら、この感覚が終わってしまうかもしれないからだ。
――ああ、どうしよう、凄く気持ち良い。ずっとこの感覚に浸っていたい。
頬擦りをしていたライトアさんが顔を離して、至近距離から鋼を見つめて来る。
ぺろっと艶かしく舌舐めずりをしながら、
「ああ、素敵よ鋼ちゃん……幼い顔でそんないやらしい表情……私、もう……」
エメラルドグリーンの瞳が潤んで、ゆっくりと近付けられる。柔らかそうな唇が鋼を優しく啄ばもうと控えめに突き出される。
同時にライトアさんが片手で鋼を抱き寄せる。温かい手の平で背中をなぞられ、鋼は思わず「はあぁ……」と熱く震えた声を漏らしてしまう。顔が熱い。頭の中が沸騰する。
もう片方の手が鋼の頬に添えられる。大丈夫、怖くないから、とでも言いたげな優しい撫で方に安心感を覚える。その一方で興奮は高まって、もうこの感覚に対して、完全に身を委ねてしまってもいいんじゃないかという気にさせられる。
――ああ、もう。
近付けられる唇が遅く感じられてしまって、鋼が堪えられずにライトアさんを抱き寄せようとした、その時。
「はい、そこまで」
「きゃん!?」
ライトアさんの首根っこを掴んで、鋼から引き離す人物が現れた。
接触が断たれると同時に、全身を包み込む感覚がスッパリと消え去り、鋼は我に返る。
「はっ!? な、何がどうなって……」
「大丈夫でしたか鋼さん!?」
横を見れば、心配そうな顔で鋼の身体を支えているエルノアさんの姿。その後ろで何故かゴツい槍を持ったミーシャさんが相変わらずの無表情で、小さくため息を吐くのが見えた。
そして、ライトアさんの首根っこを掴んでいるのは、
「ごめんなさいね、鋼さん。妻が変なことして。興奮すると見境無くなっちゃうんだ、こいつは」
室内で待っていたもう一人の美女だった。タキシードのようでありながら窮屈そうには見えない中性的な服装をしたショートヘアーが似合うご婦人。エルノアさんのもう一人のお母さん。
「申し遅れました、エルノアの母で、一応キュアード家の当主をやっているノワール・キュアードです。妻の行動で不快な思いをさせてしまって申し訳ない。当主として深く謝罪致します。すみませんでした、鋼さん」
「い、いえ! 決してそんな不快とか……」
むしろあれは……と頭の中を過ぎったところで、先程自身が晒していたであろう痴態を思い出す。
ぼっと顔が燃えるように熱くなって、恥ずかしくて俯いてしまう。
「おーかーあーさーまー!」
普段優しい表情ばかり浮かべているエルノアさんが、見ているこっちが震え上がるような怖い笑顔で、ライトア様の頬をぐにーっと引っ張る。
「ほへんははひ、はっへははへひゃんははんはひひほははひいほんはははら」
「ノワール母様を呼んでおいて正解でしたわ! 中身が男だからとか言って散々否定しておきながら、結局鋼さんに手を出して! この性欲魔人! 信じられない!」
エルノアさんの手を振り解き、ライトア様が頬っぺたを擦りながら叫ぶ。
「だって実物見たら、思ってた以上に可愛いかったんだもん! 不可抗力だもん!」
「次、鋼さんに同じようなことしたら、私だけでなくミーシャちゃんも怒りますからね!」
「いや、私は別に……」
ミーシャさんは首をふるふると横に振りながら言う。
「とにかく、お母様は鋼さんと会っちゃ駄目です! 退去です退去!」
「そんなぁー!」
エルノアさんはメイドさん達を呼んで、ライトア様を部屋から連れ出させる。
メイドさん達に両腕をガッチリロックされながら、ライトア様は「鋼ちゃん! 人肌が寂しくなったら遠慮せずに甘えに来てねー!」と手の平を振り続けていた。
ライトア様が扉の向こうに消えてから、はあぁ~とエルノアさんは大きなため息を吐く。
「ごめんなさい鋼さん。お母様には鋼さんに変なことをしないよう、固く言い付けて置いたのですが……。何とお詫びしたらいいのか……」
ノワール様も申し訳無さそうに頭を下げて、
「私からも本当に申し訳ない。すぐさま妻を止めるはずだったのですが、まさか防御魔法まで発動させる程に興奮するとは思わず……」
未だ痴態を晒したことの恥ずかしさは拭えないが、鋼は何とか笑ってみせる。
「だ、大丈夫です、私の母もちょっと似たようなところがあって、慣れてますから」
エルノアさんも色々苦労しているのだなぁと思い、少し親近感が湧いたのだった。
「ライトア母様は、何と言ったらいいか……気分が高まると触れた相手の気分も昂らせる魔法を発動してしまう、特異体質なんですの。キュアード家は代々、回復魔法を得意とする一族なのですが、ライトア母様は良くも悪くもその才能に恵まれていて……落ち着いている時はいいんですけど、一度興奮するとあのように力が暴走してしまって」
広々とした廊下を歩きながらエルノアさんは語った。
その横顔には少し元気が無く、落ち込んでいるようだったので、鋼は何とかフォローを試みる。
「私以外にも特異体質の方っていらっしゃったんですね。制御が出来ない感覚というか、自分じゃどうしようもないっていうのは、よく分かりますよ」
「そう言って頂けると救われますわ。ただ、あの人は……」
エルノアさんは呆れたようにため息を吐いて、
「どう考えても、自身の性欲に正直なだけですわ」
「だ、だとしても、自身の体質を積極的に受け入れられるのは凄いですよ。それに――」
冷静に思い返すと、嬉しかったことがあって。
「ライトア様は私が男だって知ってるのに、平然と受け入れて下さいましたし。やっぱり素敵な方ですよ。もちろんノワール様も」
「鋼さん……」
エルノアさんは元の優しい笑顔に戻って、
「ありがとう。でも、ライトア母様の前ではそんなこと口にしちゃ駄目ですよ。また興奮しちゃいますから」
「はい、気を付けます」
鋼とエルノアがそんな会話をして、笑顔を向け合う後ろを歩きながら、ミーシャは冷めた目で鋼を見続ける。
「……」
ダークエルフのブレイズ先生とも友達のように親しく言葉を交わし、エルノアにもあっという間に気に入られ、どんどんと距離を縮めて行く。
まるで自分とは正反対の少女。いや、中身は『男』なんだったか。
――男……ね……。
実物は見たことが無い。
女の自分から見ても神々しく感じてしまう容姿を持つこの少女が、一体どのような姿に変わるというのだろう。
クラスの女子が、まるで化け物ようだとか、この世のものとは思えない醜さだとか、そんな噂をしているのを聞いた。
この少女が本当の姿を晒した時、自分は一体どんな感情を抱くのだろう。
嫌悪感……だろうか。
ふぅ、とミーシャは小さくため息を吐く。
それが聞こえたのか、鋼がちらと振り返ってこちらを見た。
――また、目が合った。
そうしてしばらく廊下を歩き続けて、エルノアさんの私室に辿り着く。
「そんなわけで、ここがお泊り会の場所ですわ」
エルノアさんが部屋の扉を開けて、中に案内してくれる。
生まれて初めて入る、同年代の女子の部屋。
白色の壁と天井、茶色の家具が配置された、少なくとも二十畳以上はある広い部屋。シックな感じで広さに反して落ち着きがあるのは、いかにもエルノアさんっぽいと思う。
エルノアさんは部屋の片隅から大きなクッションを三つ持って来て、花柄の毛布が印象的なベッドの近くに置く。
「ここへどうぞ」と手招きをされて、鋼はミーシャさんと一緒にクッションを敷いて座る。
エルノアさんはにこにこと微笑みながら、
「さて、今回のお泊まり会の趣旨は、鋼さんと親交を深めるということなんですけれど、何から話しましょうか」
「決めてなかったのか」とミーシャさんが言う。
「だって今朝、唐突に思い付いた企画だったんですもの」
鋼もなかなか話題が思い浮かばずに、
「改めて話そうって思うと、なかなか出て来ませんね」
「そうよねー」
「……」
ミーシャさんは何も言わない。
「あっ、そうだ」とエルノアさんが両手を合わせて、「自己紹介をしましょうか。鋼さんはともかく、私達はまだちゃんと鋼さんに挨拶してなかったと思うのだけど」
「……今更やるのか?」
「もう、何言ってるの。初対面の時にミーシャちゃんが私と鋼ちゃんとの会話を遮ったんじゃない」
「……」
ぷいっとそっぽを向くミーシャさん。
「じゃあ、私から」とエルノアさんは鋼に向き直り、「改めまして、高等部二年、エルノア・キュアードです。得意魔法は、回復魔法。好きなことは、自然散策です。なので、良かったら今度一緒にピクニックでも行きましょう。オススメスポットを教えちゃうから」
「はい、是非。山とかは結構好きなので」
「えっ、鋼さん、山が好きなの? 意外!」
「毎朝トレーニングで、母と一緒にイルミエールの山を登ってるんですよ。といっても、魔獣が出る山なので、エルノアさんが想像している山とは大分違うかもしれませんけど……」
「魔獣が出るの!? 凄い! どんなのが出るの!?」
「蛇とか狼とか……あと多分、山の主だと思うんですけど、筋肉の塊みたいな熊が」
もうかれこれ七、八年の間柄にもなる、腐れ縁というか、天敵というか。魔法少女になった今でも、まるで勝てる気がしない。
エルノアさんがその熊の話題を気に入ったらしく、小一時間くらい思い出話をしていると、瞳をキラキラと輝かせる。
「鋼さん、今度是非、その山に行きましょう! その熊さん、実物が見てみたいですわ!」
「や、止めといた方が……話が通じる相手じゃ無いですし」
「ああ私、ワクワクして来ましたわ。きっと大自然を体現したかのようなワイルドさなのでしょうね……!」
意外過ぎる反応だった。楽しいピクニックが生き死に懸けたサバイバルに変貌しそうだ。
エルノアさんはがっしりと鋼の両手を握って、
「近い内に本当に行きましょう! 出来れば来週にでも!」
――どうしよう。本当に行く気だ、この人。
「そ、そうですね。来週はどうか分かりませんけど、近い内に……」
「ええ、来週に」
駄目だ、笑って誤魔化せない。どうやら来週末の予定は決まってしまったようだ。
……山が好きとか言うんじゃなかった! いや、子供の頃から慣れ親しんでて好きは好きなんだけど、わざわざあの熊の皮を被った悪魔に会いに行きたくねぇ!
どうしたものか、と周りを見回して、ミーシャさんが視界に入る。
違う意味でどうしようだった。
すっかりミーシャさんそっちのけで、どうでもいい熊の話を長々と続けてしまっていた。
ミーシャさんは無表情で、温度の無い瞳をエルノアさんに向けている。怒っているようには見えないが、退屈なように見える。そう見えるだけで、実際は何を考えているか分からない。
エルノアさんに向けられていた視線が何気なくこちらに向けられる。少し後ろめたくて、ドキッとしてしまう。
――なにやってんだ俺。こんなのばっかだな……。
俺は本当にこの人と仲良くなれるんだろうか、と不安なことばかり思ってしまう。
エルノアさんが「……と、長くなってしまったわね」とミーシャさんに視線を向けて、
「ごめんなさいミーシャちゃん、待たせちゃったわね。話が楽しくなってしまって」
「私は別に……というか――」
ミーシャさんは鋼と目を合わせて、告げる。
「わざわざ自己紹介をする必要はあるのか?」
こちらに問い掛けているように見えた。
鋼は一瞬、気圧されてしまいそうになる。「いえ、わざわざいいですよ」と笑顔を作って言ってしまいそうになる。
でも、ここでそれを言ってしまったら何も始まらないじゃないか。
まずは一歩を踏み出さなくてはと思う。諦めてしまったら、それ以上どうにもならない。
だから目を逸らさず、ミーシャさんに言う。
「お願いします」
ミーシャさんは何気なく前髪を弄ってから、
「……分かったよ」
そうして一呼吸置いてから口を開く。
「高等部二年、ミーシャ・アームネルだ。得意魔法は、収出魔法」
「シュウシュツ魔法?」
鋼が首を傾げると、エルノアさんが説明してくれる。
「収めると取り出すって意味での『収出』よ。空間操作系の魔法ね。具体的には亜空間に物を収める場所を作って収納したり、そこから自由自在に物を取り出したり出来るの」
「なるほど……」
「で、ミーシャちゃんの実家、アームネル家は昔から収出魔法を得意としている一族でね、知ってる人からは『暗器使い』って呼ばれているの」
「じゃあ、亜空間に収納している物って」
「魔法アイテムとか、武器よ」
そういえばライトア様とノワール様に会った時、ミーシャさんはどこから出したのか大きな槍を持っていた。あれは亜空間から取り出した物だったということだ。
「それでね、魔法戦闘で収出魔法を使うに当たって、古くからアームネル家に伝わる技術があってね」――」
エルノアさんがそこから先を言おうとしたところで、
「むぐっ」「そこまでだ」
いつの間に動いたのかも分からないスピードで、ミーシャさんが右手を伸ばし、エルノアさんの口元を塞いでいた。
「むー?」不思議そうに瞬きするエルノアさん。
ミーシャさんは鋼に言う。
「これはアームネル家秘蔵の技術だ。だからお前には教えられない」
「そ、そうなんですか?」
「ああ」
エルノアさんが「ぷはっ」とミーシャさんの手を解いて、
「そんなわけないでしょ。アームネル家の伝統的な技術で、かなり有名じゃない」
「えっ、そうなんですか?」
ミーシャさんと言っていることが違う。どっちが本当なのだろうか。
「だからといって、鋼が知る必要は無い。何故なら……知ってもどうにもならないことだからだ」
意味深に言うミーシャさん。
「要するに、どうしても言いたくないのね、ミーシャちゃん」
「そういうわけではないが、とにかく知ろうとするな。分かったな、鋼」
ミーシャさんが無表情な顔を近付けて来る。
近い距離で見つめられると新たな発見があって、無表情なんだけど、作り物のようには見えないというか、息を呑むような整った顔立ちをしていた。おそらく男女関係無く思うであろう、そんな美しさ。
見惚れて返事を出来ないでいると、ミーシャさんが強い口調で繰り返す。
「分かったな、鋼」
瞳が研ぎ澄まされた刃のように鋭く、冷たい。ミーシャさんなりの意思表現に思えて、鋼は頷くしかない。
「わ、分かりました」
エルノアさんが呆れたように、ため息を吐く。
「全くもう、仕方ないわね、ミーシャちゃんは。そこまで嫌なら黙っててあげるけど、その代わり条件があるわ」
「条件?」
「これって一応、自己紹介なんだから、『好きなもの』くらいはちゃんと言って貰うわよ」
「……いいだろう。私が好きなものは……そうだな、昔から魔法アイテムを弄ってからかもしれないが、それらを集めるのは好きだな。あと、強い奴と戦ったりするのも好きだ。ワクワクする」
そこでミーシャさんは「それでだが」と前置きをして、鋼に向き直る。
「さっきお前が言っていた、トレーニングに使っているという山に出る熊なんだが」
「え」
まさかの熊の話題復活。嫌な予感しかしない。
「聞く限りかなりの猛者に思える。そこで一度、自身のトレーニングも兼ねて手合わせをしたいと思うのだが……駄目だろうか?」
「えっと、それって……今度、その山に行こうってことですか?」
「ん」
無表情を崩さず、こくりと頷くミーシャさん。
そんな馬鹿な、と思わずにはいられなかった。
エルノアさんだけでなく、ミーシャさんまでもがあの熊っぽく見える別の何かに興味を持つとは。
「エルノアの誘いは冗談だとしても、私は本気だ。その熊に会ってみたい」
「で、でも……ミーシャさんの期待に応えられるような強さかどうか分かりませんし」
「それは私が実際にこの目で見て、判断することだ」
ミーシャさんは無表情に反して、言葉を強く押し続ける。
しかし鋼はどうしても気乗り出来ないので、なかなか頷くことが出来ない。
するとミーシャさんは、鋼の様子を察してか、柔らかい口調で問うて来る。
「……駄目か?」
「いえ、その……」
どうしよう。あの熊には微塵も会いたく無いが、ここで断ればせっかくのミーシャさんと仲良くなるチャンスを不意にしてしまう。
『熊への恐怖』と『ミーシャさん』が天秤に掛けられて、揺れる。
――しっかりしろ俺、ここで迷ってどうする。嫌でも毎日、あの熊とは顔を合わせてるじゃないか。今更何を躊躇することがある。男だろ俺、覚悟を決めろ。
「い、行きましょう。ミーシャさん」
ああ、言ってしまった。
「そうか」
「その内、時間がある時に」
「なら、来週の日曜日などどうだろうか」
「あ、空いてますよ」
逃げ場が無い! 避けられない未来の事象が確定した瞬間だった。
と、エルノアさんがミーシャさんの服の裾を引っ張って、
「ちょっとー、ミーシャちゃん、来週の日曜日は私が先に約束したのよ?」
「……お前、本気で鋼と山に行くつもりだったのか。わざわざ熊を見に」
「それはミーシャちゃんだって同じじゃない」
「私は熊を見に行くのでは無く、熊と戦いに行くんだ」
「いや、似たようなものでしょ」
……どうやら来週は、三人で出掛けることになりそうだ。
出来れば穏やかで楽しいピクニックになりますように、と願わずにはいられない鋼なのだった。