アイムサラリーマン
それはまるで夢のような時間だった。
憧れの部長と飲みに行けるだなんて。
赤ちょうちんの居酒屋、やけに油っぽいカウンターに並ぶ、たかが原価の知れた安い料理と酒。
しかし彼にとってそこは、地上の楽園であった。
セブンスターに火をつけ、阿部部長は遠い目をした。
「伊藤、お前は今何歳だっけか。」
伊藤は持っていたジョッキを置き、阿部部長に顔を向ける。
「はい、今年で34になりました。」
「おう、若いな。まだ、何でもできる。
結婚とか考えてんのか。」
「いえ、その、相手もいませんし、何より...。」
「何より?」
じろりと阿部部長が伊藤の目を見つめた。
酒のせいか、白目はうっすらと充血していて、まるで獣のようだ。
「はい、何より、今は仕事が大好きです。」
がはは、と阿部部長は豪快に笑い、まだ吸い始めたばかりのセブンスターを灰皿に押しつけた。
「伊藤、ひとついいこと教えてやるよ。
仕事とはな、人生だ。」
阿部部長の大きな手が、伊藤の肩に乗る。
「はい、私も、そのように考えています!」
まるで新入社員のような嬉々とした目で、阿部部長を見つめ返す。
「だがな伊藤、人生は仕事じゃねぇんだ。」
少し低いトーンで阿部部長がそう言うと、一気にジョッキに残っていた少しばかりのビールを飲み干した。
「マスター、お会計。」
タクシーに乗り込む阿部部長を見送り、伊藤は歩いた。
この繁華街から伊藤の住むアパートまで、徒歩20分ほどである。
道中、様々な考えが脳をめぐる。
仕事は人生、だが、人生は仕事ではない。
つまりは、私生活も充実させろといったような教えなのだろうか。
以前他の上司にも言われた事がある。
所帯を持ってこそ一人前。
しかし、今の伊藤は結婚願望はおろか、空いている時間があればすべて仕事に充てたいほど、ワーカホリックであった。
出世こそが正義、仕事の早間こそが正義。
以前学生時代の友人に、「社畜」と呼ばれた。
どうやら、家畜のように会社にいいように雇われている人間を指す、ネットスラングらしい。
素晴らしいじゃないか、社畜。
会社の歯車となり、会社のために死ねるのなら、悔いなど見当たるはずもない。
仕事こそが私のすべてなのだから。
少し酔っているせいか、高揚した気持ちを抑えきれず、伊藤は握り拳を天に向けた。