その日が来るまで
いつもと同じ時間に、ぼくは外に出る。たぶん、それは「朝」と呼ばれる時間。
白色と灰色の入り混じった重そうな雲の広がる空が、いつものようにぼくを迎える。最後に太陽を見たのはいつだったか、思い出せない。
角度の緩い坂を歩いていき、目的の場所へ向かう。なぜ毎日のようにそうしているのか自分の行動が理解できないけれど、いつしか習慣になってしまったからなのだろう。だから毎日欠かさず、ぼくはそこへ行く。
しかし、今日はいつもと異なる景色が、ぼくを待っていた。
そこには一人の少女がいたのだ。
ぼくに気付くと、彼女は「こんにちは」と挨拶をした。ぼくは頭を少し下げた。
「ここ、きれいだね。花が咲いているのなんて、久しぶりに見たわ」
ぼくが通っている場所には、一本の大きな桜が満開に咲き誇っている。風が吹けば、花びらが舞った。
もしかしたら、ぼくがここに来る理由は、それなのかもしれない。他の場所には、花なんて咲いていない。草木はあっても、花を開くまで育つことがなかった。あらゆる生命の養分を吸っているかのように、桜は大きく、そして満開に花を咲かせていた。
「あなたが育てているの?」
ぼくは首を横に振る。
「じゃあ、どうして、桜は花を開くことができたのかしら」
少女は、桜を見上げた。ぼくも見上げた。昨日と変わりない姿だ。
「不思議なことも――いえ、きれいなことも、まだあるのね」
きれいなこと……、たしかにそうだ。この世界にはきれいなことなんて、ほとんど残っていない。すべてが灰色と白色で、なにもかもが静寂で、あらゆることが無意味だった。
誰もこんな世界を望まなかっただろう。だけど、この現実は、誰かが望んだからこそ、生まれてきたのだ。
「あっちからはどう見えるのかしら」
少女が、木の裏に回ろうとした。
ぼくは彼女の前に立ちはだかり、行く手を遮った。両手を目一杯広げる。
「どうしたの? そっちはダメなの?」
ぼくは頷いた。
「どうして?」
ぼくは、ただ見つめるだけで、少女の問いには答えなかった。たぶん、ぼくにもわからなかったからだろう。
「わかった。そっちには行かない」
彼女はそう言って、幹にもたれるように座り込んだ。薄汚れた布の間から、彼女の痩せ細った足が見えた。足だけじゃない。腕も細いし、頬も痩せこけている。
そういえば、前にもこんなことがあった気がする。記憶を辿ってみるけれど、漠然とそう思えるだけで、鮮明にそのことについて思い出すことはできなかった。
少女が咳き込んだので、ぼくは意識を彼女に移した。ぼくは近づき、そっと彼女の手にぼくの手を重ねた。こうすることに意味があるとは思えなかったけれど、なぜかぼくの身体が反応していた。
「最期に、あなたに会えてよかった」
少女は微笑んだ。それは儚げで、どこか桜を連想させるような笑顔だった。
ああ、やっぱり。
ぼくは以前にも同じことをしたことがある。
同じ光景を見たことがある。
人に出会って、一緒にこの桜を見て、そして手を差し伸べた。
彼女で、何人目だろう。
ぼくは、
自分の使命を、
思い出した。
ぼくは彼女の脆く、軽い身体を抱き上げた。彼女は少し驚いていた。けれど、ぼくに身を委ねるように、そっと瞼を閉じた。とても安らかな表情。
ガシャリ、ガシャリ、と音が響く。
ゆっくりと歩いた。
桜の木の裏側で、少女を幹に背を預けられるように丁寧に下ろした。
少女は瞼を開けると、目を丸くし、そして涙を流した。それは、これまでに経験のない反応だったから、ぼくは首を傾げた。
「ずっと、ここにいるのね」
少女の潤んだ瞳が、ぼくを捉えていた。無機質で、灰色で、言葉を話すことのできない身体。冷たく、死ぬことを知らない身体。
「あなたは、多くの人の最期を看取ってきた」
それがぼくの使命だ。
それこそが、ぼくの生まれた理由。
ぼくは、誰かの最期の時を、傍で見守るために作られた。
この荒廃した世界で、
繋がりの存在しない現実を生きる彼女たち。
そんな彼女たちに終着点を与える。
色のない世界に生きた彼女たちに、
最高の景色を。
色のある景色を。
「ああ……、きれい」
少女の目から光が失われていく。彼女の視線の先にはあるのはぼくではなく、桜の下から見える景色。桜が降る景色。そこには、まるでカーテンが揺らめいているように、光が差していた。
この世界で、一番温かい場所だ。
この桜の下で、多くの人間が見守っている。
ぼくの生みの親も、
遠い昔に出会った彼らも、
そして、これからはこの少女も、
いつかは、このぼくだって。
少女が最期の言葉を告げ、安らかに眠りについた。
それはこの場所で眠っている彼らと同じ言葉だった。
その日が来るのを、みんな待っている。
ぼくも、待っている。
ぼくが眠りにつけるその日を。
だからそれまでは……。
顔を上げ、温かい光を見つめる。
頭の中で「なにか」が動き出し、「なにか」が消えていく。
家に帰ろう、そう思った。
振り返ると、桜の木の下に「なにか」があった。
なんだろう、思いつつも、
地面に埋めなければ、とも思った。
だから穴を掘って「なにか」を埋めて、ぼくは家に帰った。