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短編No.61-

No.65 曖昧な二人の〇〇〇

作者: 藤夜 要

 ――アイツとの距離、コンマ六メートル。十六年間そのまんま。

 これ以上開くことがない代わりに、それ以上縮まることもないこの距離を、オレはいつから歯痒く思うようになったんだろうって、最近思う――。




未来也(ミキヤ)ッ! 未来也ーッ!! ほら、早くしなさいっ。美彩ちゃんが呼びに来てくれたわよーッ!」

 朝からうっさいババアの声で、オレは嫌でも夢の世界から叩き起こされた。

「……誰も呼びに来てくれとか頼んでねーし」

 オレは渋々身体を起こす。梅雨明けと同時に嫌がらせのような炎暑が続いてから半月以上が過ぎている。この頃のオレは、機嫌が悪い。全部この炎暑のせいだと思いたい。

「あぢぃんだっつの。ガチで勘弁してくれよ」

 バケツの水をかぶったような、びしょ濡れのTシャツの裾を鼻先に持ち上げながら独りごちる。

「くっせ!!」

 不機嫌度が二百割増した。オレは着替えを引き出しから見繕いながら、図々しく我が家の如く階段を上って来るであろう美彩――ミャアに向かって怒声を飛ばしておいた。

「ミャア! 部屋まで来んなッ!」

 ミャア――自分の愛称を呼んでいるのか、彼女独特の返事なのか解らない声が、扉の向こうからギリで返って来た。

「でも、ミキちゃん。早くしないとサマスタに遅れちゃうよ?」

 ミャアがいつまでも小学生のガキんちょみたいな甘ったるい声で、カリカリと部屋のドアを爪で引っ掻きながら、偉そうに説教をかまして来た。

「そう思うなら先に行け。何も一緒に行く必要ねえだろが」

「独りじゃつまんないもん。ミキちゃん、一緒に行こ?」

「その呼び方もやめろっつってんのっ」

「ミャア……」

 力ない声が扉の向こうからかすかに部屋の中まで忍び込んで来る。ズキリと痛んだ何かが、不機嫌全開だったオレを、別のなんかに変えてしまった。

「あ~……おふくろにジュースでも出してもらって待ってろよ。シャワー浴びてから行く」

「うんっ」

 ……くっそ……っ、ゲンキンな奴!

 鼻歌混じりで階段を降りるミャアの足音を聴きながら脱力した。


 そもそもオレは、こんなめんどくさいヤツといつまでもつるんでいられるほどマメなタイプじゃないはずなのに。

 オレがミャアを中途半端に避けるようになったのは、中二か中三辺りの夏、だと思う。

『ミキちゃん、なんか、におう』

 アイツがそう言ったから、ということだけは鮮明に覚えている。

 確か部活のあとの、帰り道でだったと思う。炎天下でのサッカーの試合、いい感じにリーグ戦を勝ち進んでいたときで、スタメンじゃないオレにも出番があって、とにかく張り切っていた反面、すっげえ疲れる毎日でもあったんだ。

 おふくろにぶつくさ文句言われながらも、それくらい耐えてやらあ! ってくらい、疲れてた。何を文句言われていたかと言えば、まあ汚ねえ話なんだが、風呂、こいつがチョーメンドクセー。疲れる。

 で、ミャアのその発言なわけだ。かなりショックを受けたオレは、今では陰で“潔癖症”という皮肉なあだ名で呼ばれているらしい。

 ヤロウどもに言わせれば、それほどでもないって言われてる。女子には……訊けるかァ!

 でも、ダチトモの彼女に、ぼそっと言われた。

『でもそのミャアちゃん? って子もデリカシーがないよねえ。普通言わないよね。それかもっとオブラートに包むとかさあ』

 ダチトモに神経質だと忠告された話の流れで、ソイツの彼女が一緒にいるにも関わらず、ついウッカリ口を滑らせ、そんなエピソードを語ってしまった。自己正当化したかっただけなんだが、彼女の発言に対し、オレはなぜか無性にカチンと来てしまった。オレを庇ってくれてるにも関わらず。気づけば必死になってミャアのフォローを入れてるオレと、唖然とした顔でオレの顔をしげしげと眺めてるダチトモとその彼女がいたりなんかした。

『なぁんだ。そういうことだったのか。ゴメンごめん』

 ふたりしてオレにそう言い、ニヤニヤと笑った。オレにはまるで意味不明。

『聞かなかったことにして』

 ダチトモの彼女はそう言って、今度ミャアとダブルデートしよう、とかほざいてた。

 あの頃は、オレもガキんちょだったんだ。丁度声変わりしてたころでもあり、保体の授業もろくすっぽ聞いてなくて、輝けるゼロ点を取っていたり。

「いわゆるニジセーチョーって奴だったんすね」

 体臭がきつくなるのも、声が変わるのも、急にミャアを見下ろすような背丈になったのも。まあ、あとあんま言葉には出来ないアレとかソレとかコレとかも。


「未来也ーッ! あんたいい加減にしなさいよッ! 講習代、幾ら払ってると思ってるのォ!!」

 おふくろの怒声で我に返る。オレの右手はいつの間にか、下着とTシャツを左手にしたまま、ハーフパンツを出す作業をサボっていた。時計を見ると、さっき確認した時間からいつの間にか十分も過ぎている。

「ダーッ! うっせ解ったよババア!!」

「なんですってッ?! ちょっと、あんた今すぐ降りてらっしゃいっ」

「あ、おばちゃん、私が呼んで来てあげる」

「来ンなあああああ!!」

 あ~、もうメンドクセー。朝からマジでくたびれた。

「も、マジでミャアを自分ちの娘みたいに家ン中で勝手にうろつき回らせるなっつうの」

 せっかくオイシイ夢を見てたのに。あともうちょっとだったのに。こうして目を閉じてみれば、瞼の裏には鮮明な映像が流れるほどのパラレルな世界が復元されるのに。それらが全部、おふくろの怒声で吹き飛んだ。

「クソババア……ちっくしょ……うッ」

 オレのやり場のない憤りと漲るアレなアレは、結局憎悪に変換されておふくろに向けられた。


 どうしてオレの家にも関わらず、ミャアの動向を探りながらコソコソ浴室に行かにゃならん。――と思いながらも抜き足差し足忍び足で、バスルームの扉をそっと開ける。引き込み戸をそっと閉めて、浴室乾燥機の付属品らしい物干し竿(すげぇ細くて心許ない、アレよ)をつっかえ棒にして簡易施錠。急いでシャワーで汗を流し、クール系のボディソープで身体を洗って頭も洗って。

「おぁ~、未来也、入ってんのかよ。風呂長ぇぞ、お前」

 浴室と脱衣場を隔てる薄いプラスチックドアの向こうから、弟、将来也(マキヤ)の文句が飛んで来た。

「だー、てめえも起きたのかよ。つか、どうやって入ったぁ?!」

「あ? つっかえ棒か? あんなん力技で吹っ飛ばせるぜ」

「……」

 だからおふくろがキレたのか。何回も買い直してる、誰もあんたの粗チンなんか見たくないよ、とか言ってたのか。

(つか、粗チンとか息子に言う台詞じゃねえだろ!)

「あと一分待てや」

 マキヤはどっかの誰か(うるせー! オレだよ、どうせオレのことだよ!!)と違って、中二のくせに彼女がいやがる。で、確か昨夜、デート、とか言ってた。中坊のガキんちょがデートとか、一体どこ行って何してんだかって感じだけど。

「……とと。ンなしょうもないこと考えてる暇ねえじゃん、オレ」

 オレは自分にそう説教し、気持ちと一緒にカランもキュッと締めた。



 オレやミャアが通っている塾では、成績ランクが四部構成になっている。上位から、トップ・グレート・レギュラー・スタンダード、トップがいわゆるエリートコース、っていうわけだ。自慢じゃないが、オレはトップ。そしてなぜか残念なことに、ミャアもこの春からトップコースへレベルアップしたらしい。

 トップコースは特別講習として、サマースタディ、つまり夏期講習が特別仕様となっている。『よく遊び、よく学べ』がモットーのこの塾では、九日間の講習カリキュラムを前後半に分け、その間に一日だけ、講師のつき添いのもと海水浴というレジャータイムが組み込まれているのだ。成績上位者へのご褒美ってヤツだな。スポンサーは親だけど。親が講習代、講習代とうるさく言うのは解らないでもない。

「えへへ~、私は今年、初参加だから嬉しいな。スイカ割りとかバーベキューとか、キャンプファイヤーみたいなのもするんでしょ?」

 駅に向かってオレの隣を歩くミャアが、ものすごくとろけそうな顔で笑って言った。家もミャアの家も共働きだから、そういうのってあんま経験がないんだ。

「あ~、みたいだなあ」

「みたい? ミキちゃんは去年もトップカリキュラムだったでしょう? グレートにいなかったし、夜も部屋の電気消えてたよ?」

「サマスタには参加してたけどさ、去年は雨で中止になったんだよ。何が悲しくて体育館でバスケットとか……思い出したら行く気が萎えて来た。この話、ヤメ」

 すっかり忘れていたけれど、そういう可能性もあったのか。急きょ、悩み浮上。中二の悪夢が蘇る。

「つうかさ、お前、あんまこっち寄るな」

「なんで?」

 なんでだとぅ?! 滾る怒り、握る拳。思わずミャアを睨み下ろす。

「……なんででもだよっ」

 こいつ、完全に自分の言ったことを忘れてる。理由なんか言えるかバカヤロウ! 言えばヤブヘビじゃねえか、このクソ幼女!

 言うに言えない腹立たしさが、オレにミャアから自分の目を逸らさせた。

「あ、ちょっと待ってよー」

 文句を垂れるミャアになどお構いなしで、オレの脚の運びは勝手にその歩幅を広げていった。

「大丈夫だよ、そんなに急がなくても。集合は八時半じゃん」

 そんな声が急速に小さくなっていく。

「うっせ黙れっ。お前が早く来たせいで、このクソ暑い炎天下にとっとこ追い出されたんだろがっ」

 気づけば返すオレの声も、息の上がったものになる。

「だって、だって……ッ」

 いつの間にか、足が勝手に駆け足でミャアから逃げるようにダッシュしてた。そのまま後ろに向かって怒鳴るように叫んだ内容は、半分だけホントだけど、もう半分は本心じゃあなかったんだ。

「だいたい、塾の女友達だっているだろうがよっ。なんでオレにつきまとうんだよ。小坊のころと違うんだから、周りから色々言われるの、すんげえウゼぇ!」

「……ミャア……」

 そんな小さなつぶやきが、けたたましく泣き喚く蝉の声に混じってオレの鼓膜をちょっとだけ揺らした。猛ダッシュしていた足を、ちょっとだけとめて振り返る。

「……」

 もんのすげえ、胸が痛んだ。泣きそうな顔をして走るミャアが、汗だくになって追いつこうと足掻いてる。遠い昔を思い出した。近所の男子にいじめられて、泣きながら助けを求めて駆け寄って来た小さな小さな、妹みたいだったミャアの幼い顔。

「だって……はぁ……はぁ……」

 つかずはなれずの距離で、ミャアは立ちどまり、膝を両手で覆って身を屈めた。

「ミキちゃんが、はぁ、はぁ、私のこと、はぁ、はぁ……避けるから。……私が、はぁ、はぁ、追っ掛けるしか、はぁ」

「おま、ちょ、まずは息吸え、息ッ」

 現在時刻は八時十分前。集合時刻まで四十分あって、ここから集合場所の駅前広場までは五分ちょっとでたどり着ける。

「……朝マック、食いたくなった。ジュースくらいおごってやる」

 つい衝動的に、そう言ってしまった。そしたら、泣きそうだったミャアの顔が、全開のひまわりみたいな笑みを零してオレを見上げた。

「うんっ!!」

 どっかすっごく遠くの方で、“ズッキュ――んッッッ!!”って音がした、気がした。




 集合場所の駅前広場と反対側の出口すぐそば、パーテーションで仕切られほどよく個室っぽい雰囲気を保てるファーストフード店の一席を陣取る。

「サマスタ、一緒にサボろうだァ?!」

 叫ぶと同時に右手に挟んだハッシュポテトがオレから逃げた。

「しーっ、ミキちゃん、声が大きいっ」

 ミャアがそう言いながら、すかさず落ち掛けたオレのハッシュポテトを宙でキャッチした。オレはミャアの意外なまでの迅速さに驚いて思わず目を剥いた。

「なんでだよ。ついさっき“初参加だから嬉しい”って言ってたじゃねえか。矛盾してるぞ」

 オレがミャアから手渡されたハッシュポテトにかじりつきながらそう言うと、ミャアは無言で携帯電話の画面をオレに向ける恰好で差し出した。

「な……んだ、コレ。つい今さっきの受信じゃねえかよ」

 受け取った携帯電話の画面を凝視したまま、オレは思ったままを独り言のように呟いた。


 ――ブリブサ女、ウザイんだよ。サマスタ来るな。来たらコロス。


 その言葉に続く絵文字は、ナイフや注射器、ドクロのマークに、とにかくぽよんとしたキャラのミャアには、かなりのメンタルブロウを食らわせる類の絵文字が意地悪く連なっていた。

「なんだ、この“ブリブサ女”って」

「カワイ子ぶってるブサイクな女、って意味なんだって。あ、ミキちゃん、気をつけて。そのあと」

「うぉぁっ!」

 画面を凝視していたら、いきなり画面が切り替わって、ショッキングホラーな画像が待受画面いっぱいに現れた。血まみれの顔で白目を剥いて、ずぶ濡れの髪を振り乱した女の画像。マジでオレの心拍数が倍化。

「おま、よく叫ばなかったな」

 俯き加減で肩をすぼめていたミャアの頭を、思わず昔みたいに撫でていた。

「もう慣れちゃったぁ」

 少しだけ苦々しいものを含んで、だけどやっぱり屈託のない幼い笑みを零すミャアがなんだかものすごく、……痛々しい、と思ったんだ、多分。

「慣れたって、どういうことだよ」

 いい加減、野太過ぎてこえぇぞオレの声。ってくらいはらわたが煮えくり返っていた。露骨過ぎるオレの不機嫌な声を聞いて、一瞬ミャアが答えを探すように右へ左へと瞳をさまよわせた。

「んん……、ほら。最初、よく先生に怒られてたでしょう。私、騒がしくって」

「ああ、トップにクラス替えしてからか。だってお前、たかがゴキだの蛾だので……って、あ。まさか」

「えへへ~。先生にチクったところで、どうしようもないでしょ? もっとひどいことされるのやだし。一年の辛抱だしー、と思って」

 あ、そんでね、と言ってミャアはいそいそと自分の大きなバッグをまさぐり出した。

「嬉しいってのはね、きっとミキちゃんなら私のお願い叶えてくれるって知ってるから」

「待てコラ」

「一緒におサボリしてね、ディズニーリゾートへ行こうと思って通帳丸ごと持って来た!」

「ちょと待てコラっ! 人の話聞けっ! つか、なんだそのオイシイ展開は!」

「オイシイ?」

 しまった……ッ! 大事そうに通帳を両手でつまみ、誇らしげに見せるミャアに骨抜きにされた。通帳にじゃない、取り敢えず今回に限り素直に認めよう、まる。

(あのな、お前、自分が何言ってるか解ってるか? ディズニーリゾートっつったら、東京だぞ? 新幹線だぞ? パスポートが樋口一葉レベルなんだぞ? しかもランドとシーで別料金だぞ?! 時間的にも金的にも絶対に、ムリ! 日帰り出来ねえだろ。っていうか、親になんて言うんだバカヤロウっ)

 言われずとも小声になる。なぜかつい頭まで下げて、過剰に人目を避けながら懇々と説得しているオレがいた。

 距離、コンマ六メートル。センチ換算で六十センチ。それがこの日いきなり、三十センチまで近づいた。

(だから。そこをミキちゃんが担当するのっ。だって口は悪いけど、頭はすっごくいいんだもんっ)

 赤ん坊や幼児の必殺技、無垢な清純スマイル。今の言い方、きっと語尾にハートマークか音符がついていた。

(……ひと晩だけだかんな。今夜辺りバレるとして、明日の晩には帰って来るんだからな)

 無垢とハートマークに負けたオレは、一秒未満で親への弁解をすっかり構築し終えていた。




 リピート・アフター・ミー。

 オレもミャアも、旅行の経験がほとんどない。どちらの親も共働きで、しかもサービス業だったりなんかして、一般の休日が繁忙期ってヤツで、近所のプールとか遊園地とか動物園とかをローテーション。そんな幼少期だったわけで、初めての長旅に胸ときめくのはそのせいなわけで。

「えへへ~、なんか、すっごいドキドキするねっ。修学旅行なんて目じゃないってくらい」

 ただでさえ垂れている目尻が、よけいに下がって眠たげな猫目になる。そんなミャアを見て、初めて気がついた。最近、こんなミャアの顔を見たことなんてなかった気がする。

「……そうだな」

 もっと早く気づいてやりゃよかった。そんな罪悪感が、ミャアの言葉を聞いたオレに同意の言葉を紡がせた。

「ミキちゃん、元気ないね。どうしたの?」

「どうして、って、おま、状況を解ってるか?」

 夏休み真っ盛りの舞浜周辺で空いているホテルなんざありゃしなかった。ケータイからネット検索したけど、まったく一件も空きがなかった。普通のビジネスホテル、それもすっげえ舞浜から離れた千葉市内のホテルをようやく確保。しかもシングル一室に無理やり簡易ベッドを頼み込んで。当然ながらオレ名義で、ミャアは妹ってことにした。

 到着するのは多分昼過ぎ。遊んで飯食って、きっと終電終了、イコール、タクを使ってお帰りコース。金が幾らあっても足りやしねえだろ。

 ――という台詞は、今のミャアには酷だと思ったので、一人金策を考えていたわけだ。

 なんだかんだ言ってオレを信用してくれてるおふくろが、オレに預けてくれたキャッシュカード。学校での備品購入や、塾で予定外の時間に終わって終バスが終わったときなどのタクシー代をここから出しなさい、と言って預けてくれたカードが財布に入ってる。

 オレは心の中で、久しぶりに「母ちゃん」と呼んだ。「母ちゃん、ごめん」と謝った。電車を降りたら、まず郵便局のATMを探して残高照会しようと思っていた。

「――ちゃん。ミキちゃーん、起きてますかー?」

「おあっ!」

 耳もとに聞こえた声よりも、いきなり頬へ押し付けられたひんやりとした感触で悲鳴を上げた。

「自販機あったから、コーラ買って来たよ。急に俯いてだんまりしちゃったから、覗き込んだら目ぇつぶってるんだもん。私、タイクツ。だから起きて」

「……」

 こいつ、いつから泣きそうな顔して笑うようになったんだろう。って、ちょっと、思った。なんていうか、すごくメンドクセー。オレのキャラが崩壊していきそうで、どうリアクションしていいのかわかんなくなる。一事が万事、ずっとこんな調子だった。東京駅についてからも、そのあとATMを探して練り歩いたときも、迷いながら乗り継ぎ電車を探して飛び乗ったときも。

 気づけばものすごく久しぶりに、ずっとミャアの手を握ったまま、コイツを引っ張り回していた。まだおむつをしてたかしてなかったか、ってくらいチビっこだったころみたいに。

 いつの間にかコンマ六メートルの距離は、ごく一部だけ、コンマゼロになっていた。ごく一部、だけどあちこちいろんな意味でいろんなトコが、コンマゼロになっていた。




 旅の終わり。それは、突然にやって来た。

「早く走れっ。今なら、まだ終電に間に合うっ」

 最後の花火を見終えてちょっと。みんなが出口に向かい出したころ。きっともう二度と来れないと思ったオレたちは、閉園の出入り口の混雑具合をかなり甘く見ていたせいで、最後の最後までシンデレラ城の前で余韻に浸っていた。

「待……って、ミキ、ちゃ……歩幅、追いつけない……ッ」

 ミャアが途切れ途切れにそう訴える。やっと出口の混雑から解放されて、走れる状態になったのに。そんな苛立ちがいつものオレに戻して、ミャアに乱暴な言葉を吐いていた。

「お前が最後まで見たいっつったんだろッ。駅まであとちょっとじゃんか、踏ん張れよッ」

 親からの鬼着信が怖くて、もとい面倒で、ケータイの電源を切っていた。もちろんそれはミャアも同じで、見知らぬ土地にふたりっきりで、誰の助けも差し伸べる手もないんだから、甘えられてもオレだって困るんだ。無計画な衝動旅行は、やっぱり失敗だった。タクシーで千葉市内まで行くだけの金が残ってはなかった。幸い帰りの切符を先に買っておいたし、ホテルの宿泊料は前払い制だったので先に納め終えている。

「う……ん、ごめ……ごめ、んね……ミ、キ」

 ミャアは最後まで言い終えることが出来なかった。

「ミャア?!」

 ずるりとコンマゼロの接触が解けていく。痛そうな恰好でミャアがアスファルトに膝を打ちつけた。その顔が青白いのは、色とりどりのライトアップがミャアの顔に色を反射させているから、というだけではなかった。

「おいっ。ミャア!」

 オレの苛立ちがピークに達した。ずっとミャアに向けたものだと思っていたそれは、オレ自身に向けたものだと、バカなオレはそのとき初めて自覚した。


 いい人に会えたのが不幸中の幸いだったと思う。

 ぶっ倒れたミャアを抱えて途方に暮れていたオレに声を掛けてくれたのは、関西から来たお孫さんを連れて来場したという千葉市在住の六十代くらいの夫婦だった。事情を訊かれたので、妹と泊まりで遊びに来たけれど、とウソの説明をしたのに、彼らはそれを信じて、タクシーの相乗りを申し出てくれた。荷物みたいにミャアを肩に担いだ途端、おばさんの方が目を丸くした。

『あの、ちょっと。すごく言いにくいんだけど』

 ミャアのパステルピンクのスカート、後ろ側の方に、小さな小さな赤い染みがちょっとだけついていた。おばさんは、かなりタクの運転手を急き立てた。そしてようやくビジネスホテルに着いたかと思うと、おじさんに何やら内緒話をして、一目散に飛び出していった。

『兄ちゃん。家のばあさんの勘違いだったらすまないけど、一応念のためにっつうから』

 ミャアは生理による貧血で倒れたんじゃないか、と言われた。

 部屋に運ぶ途中で、ミャアの意識が覚めた。

『うぇ? あ! ご、ゴメンっ、ミキちゃん、下ろしてっ!』

 汗ばむほどに密着していた肌が、ポチ、と小さな音を立てて離れていった。接触範囲八十パーセントが、あっという間にゼロパーセント。それまでものすごい勢いで過剰労働させられていたオレの心臓も少しずつ平常勤務に戻っていった。


「はあ……」

 ベッドに寝っ転がって、バスルームの扉をぼんやりと見つめる。どうしても先にバスルームを使うのがイヤだから、と、オレのあとってことで、今ようやくミャアが汗を流しているところだ。

「ガチで幼女仕様だったのかよ」

 いわゆる初潮、だったらしい。ガッコで知識は入れてたんだろうけど、実際にその場になると、どうしていいのか分からんもんらしい。ミャアは親切なおばさんに女性のいろはをバスルームで教えてもらっていた。オレはその間、おじさんから説教を受けていた。いくら異性の兄妹でも、なんとなく分かるだろう、とか、今は学校でも習うらしいじゃねえか、とか。挙句、結局ウソがばれて、家に電話をさせられた。おふくろと親父が、受話器越しでも判るほど大きな声で、おじさんに謝罪とお礼の言葉を繰り返し、しつこく名前や連絡先を尋ねていた。


 ――女が強えのは、お母ちゃんになってからだ。それまでは野郎が守ってやんなきゃダメだろう。


 おじさんの言葉が、痛かった。いじめのこととか、今回のコレのこととか、全部オレの目が節穴だったせいだ。ぽよんとしてるヤツだからこそ、オレが気をつけてやんなきゃいけなかったのに。

「両方の親がタク飛ばして来るっつってたよな……」

 四発分のグーパンチは、どれだけ顔が崩れるんだろう、って、少しだけ心配した。


「ミキちゃん」

 バスルームの扉がゆっくりと開き、おずおずとした様子でミャアが顔を出した。バスタブに湯を張って、ゆっくりと浸かったらしい。真っ赤なほっぺたは、昔とおんなじチビっこいガキんちょの顔つきそのものだった。

「ごめんね。いっぱい迷惑掛けちゃった。ホントに、ごめんね?」

 うん、分かったから頼むから、キャミソールに短パン姿で出て来んなよな。ドレッサーの鏡がたたんであってよかった、って、すっげー思った。引き攣れる頬の筋肉が、今どんな顔をしているのかイヤっていうほどオレに突きつけて来る。いつもどおり、コンマ六メートルまでミャアが近づいた瞬間、オレは入れ替わるみたいにベッドから身を起こして立ち上がった。

「どっか行くの?」

「ちげーよ。腹、痛いんだろ。親父たちが来るまでベッドに入って寝とけ」

 吐き捨てるようにそう言ってベッドに腰掛けたミャアを見下ろし、一瞥をくれてやる。別に怒っちゃいないが、どういう顔してコイツを見ればいいのかわかんなくなっていた。

「ミキちゃんは? ひとりはヤだよ」

「どこにも行かねーよ。親父たちが来るまでフロントのソファで寝とく」

 イヤになるくらい低い声が床を這う。潤み始めたミャアの瞳から、我慢ならなくて思い切り目を逸らした。

「ミキちゃん……あのね、私ね、ホントはね」

 って、声がか細いくせに、なんでオレのシャツを引っ張る力がそんだけ元気なんだっつうの。人の気も知らないで、この幼女なジョシコーセーは、腹が立つほど、歯痒いほど、なんつうか、こう……。

「はあ~……」

 全面降伏。ホールドアップ。女って、ホントにずるい、と思った。オレはかなり荒っぽくシャツの裾を引っ張ってミャアの手を振り払った。しゃくり上げる声をBGMに、ドレッサーの椅子をベッドの脇にセットする。背もたれを前に、それを抱えて椅子にまたがった。

「ホントは、なんだよ。だいたい見当がついた。絶対知ってるヤツ誰とも会わなくて済むどっかで、言いたいことがあったんだろ? そんなら何もこんな遠くまで来なくったって、家でも構わなかっただろが」

 そう問い掛けるオレの心臓は、いたって穏やかだった。下世話なあれやこれやが、どっかへ飛んでいった。懐かしい兄貴分の心境ってのを取り戻し、オレは上掛けをめくって、ミャアの肩をトンと突いた。

「ほ?」

 ヘンな声を出して仔猫みたいにぽてんと転がったミャアの身体に、そっと上掛けを掛けてミャアを促す。

「それとも、家のおふくろはシフト制のパートだから、いつ帰って来るかわかんない、とでも考えて無茶言ったのかよ」

 ずり上げた上掛けの端から、そっと垂れ目だけが覗く。それが一度瞬きしたあと、小さくコクリと頷いた。

「ミキちゃんと喧嘩してるって知ったら、おばちゃんが心配して、またミキちゃんを叱るかな、って」

「は? 喧嘩? いつ? 誰が? 誰と、だって?」

 多分そう尋ねたときのオレは、はとが豆鉄砲を食らったような顔をしていたに違いない。

「だってミキちゃん、ずうっと怒ったまんまだもん。もういつからか忘れちゃったくらい、ずっと、ずうっと」

 そう言ったかと思うと、また目が潤み出す。思い当たるだけに、こっちも口角が引き攣った。

「いじめなんてね、全然、ヘーキなの。だって、ミキちゃんがホントの私を知っててくれるもん。でも、ミキちゃんに嫌われるのだけは、ヤだ。私、なんか悪いことしたなら、昔みたいにちゃんと教えてよ」

 例えば今あるいじめも、昔のオレなら気づいてくれていたはずだ、とミャアは言う。知ってて知らんぷりしていたのかと、今日の今日まで思っていたというのも初めて聞かされた。

「なんかね、ミキちゃんに、訊けない雰囲気だったの。だけど、サマスタのメンバーを見たら、今年はミキちゃんと仲のいい早田くんとか赤澤くんとかもいなかったし、ミキちゃんは女子とつるむなんてのはまずありえないし。だから、あのメールをもらうまでは、まだサマスタに行かなくちゃ、とも思って、迷ってたの。行こうかな、って方に気持ちが傾いていたんだよ。ホントだよ?」

 サマスタの中間日に当たるレジャーの日なら、ふたりっきりになれるかと思って、という声がくぐもった。

「勇気出して、ちゃんとミキちゃんと話して、そんで愛想笑いばっかの自分から抜け出そう、そしたらまた昔のミキちゃんと自分に戻れる、って。思った、のに……ッ」

 ぽふりと頭から上掛けをかぶった頭が震えていた。誰も知らないこの場所が、自分の見たこともないこの景色が、ミャアの今まで溜め込んで来たものを全部吐き出させた。

「なんで私ばっかりいじめられるの? ミキちゃん、どうして気づいてくれないの? ぶってるって、なに? 私のどういうところがぶってるの? ブサイクは認めるけど、でもそれがいじめる理由なんて、おかしいよ」

 ミキちゃんの傍にいたくて勉強も頑張って、トップクラスに入ったのに、ミキちゃんは気づいてくれない。女子のいじめがもっとひどくなった。お父さんやお母さんには、知られたくない。せっかく喜んでくれてるのに、塾をやめたいなんて、言えない。学校が別々なのに、塾をやめたらミキちゃんと会える時間がなくなっちゃう。

 支離滅裂な、思いつくままに話が飛び交う、文句の嵐。ちっちゃなミャアがそこにいた。

「……ミャア、ごめんな」

 ちょっとだけためらったけど、上掛けをそっとめくった。ぐしゃぐしゃな顔のミャアを見たら、迷いも吹き飛んだ。

「ミキちゃん」

 阿と言えば吽の呼吸で、ミャアが起き上がる。小さな子どもみたいに、昔そのままに、ミャアがオレの首にしがみついて来た。

「喧嘩してねーよ。怒ってもいねーし。たださー」

 妹を子守りするみたいに、ミャアの背中をトントンと叩きながら、ゆっくり言い含めるように、半分だけ本音を口にした。

「おまえ、臭いつったじゃん。オレだって、嫌われたくないっつうの。そしたらあんま近づかないようにしよう、とか思うだろ、ふつー」

 小さな「え?」という声が、オレの鼓膜を揺さぶった。

「そんなこと、言ってないよ」

「ゆった」

「におうって言ったけど、くさいなんて言ってないもん」

 ――は?

「それ、どう違うんだ?」

 ちっとばかしミャアを引き剥がし、顔を覗きこんでみる。

「なんかねー、落ち着く? なのにね、ココがね、きゅうううん、とかも、するの」

 ミャアはそう言って、謙虚過ぎるほど謙虚な自分の胸を指差した。

「えへへ~、なんかね、そういうにおいするようになったんだよ、ミキちゃん」

「――は?」

「だからね、くさい、じゃあなくって、におう、なの」

 意味不明な内訳を言うだけ言うと、猫毛の頭が再び懐に納まる。

「ミャア~、きもちー」

「……」

 やばい……アドレナリンが過剰分泌されて来た。ええとそれはなんていうか、つまり、ですね。単純にガキんちょモードで無自覚なだけで、つまり、コイツは、つうか、コイツも、えっと。

「ミキちゃん、すっごい心臓がバクバクゆってる。ひょっとして、怒ってる?」

「~~~~……ッ」

「ミャっ!」

 とりあえず、ゲンコツを食らわせておいた。




 なんとも曖昧で摩訶不思議なひとときは、親父どもの怒声が飛び込み、中途半端なまま終わった。グーパンチは家の親父からの一発で済んだ。ただしおふくろにはキックをお見舞いされた。我が家のそんなやり取りの合間に、ミャアが自分の両親に事の次第を話してくれたらしい。

「いつまでも子どもでごめんね、未来也くん。一人っ子だから、つい甘ったれで未来也くんを頼るから」

 もう、と言って頭を小突かれていたミャアは、昔と変わらない顔で笑っていた。

 いじめの件は、メールが証拠になって、ミャアの親父さんが塾へ直談判して教育的指導をお願いすると言っていた。その後、オレは塾の女子軍団に呼び出された。

「す、好き、だったから」

「は?」

「だーかーらっ。すみれはあんたが好きだったのっ。けど、あんたは美彩しか見てなかったでしょう。美彩はそれに気づかない鈍感だし、あんたたちって部外者のあたしたちから見て、かなりガチでウザかったのよね」

「けどー、高校生にもなって親にチクるとか。ゲンメツ、って感じー」

 とかなんとか、散々罵声を浴びせられ。暴言を吐くだけ吐くと、女子軍団は最後にオレの横っ面を一発ずつ引っ叩いていった。これでもう二度とミャアにあんなメールを送らないっていうから、オレはひたすらに耐えた。

「ほら、すみれ。あんたも散々泣かされたでしょ」

 同じクラスだったらしい、オレにとって全力で初見にしか見えない女子が、スカートを握りしめた手をふるふるとさせていた。

「……さい」

「あ?」

「ごめんなさいっ。美彩にも、そう言っておいてっ」

 すみれと呼ばれた女子はそれだけ言うと、ほかの女子を掻き分けて逃げるように走り去って行った。

「ちょ、すみれっ。……何それ、それじゃあまるで私たちが悪者みたいじゃない」

「っていうかあんたらがうざい態度してるのが元凶なのよっ。受験に向けて恋愛セルフ封印してるっつうのに、この能天気バカップル!」

「や、別にカップルじゃないんすけど」

 というオレの答弁を聞く女子はあっという間に消えていなくなっていた。


 あとで判ったにおいのもと。ひげが生え始めたころから使い始めたシェービングクリームのにおいらしい。

「あー! これっ、このにおいっ!」

「だーからっ! 顔近づけんな、このアホガキっ!」

 その距離、コンマゼロメートル。オレの欲望願望我欲的意味合いのそれとはかなり異なるけれど。でもまあ、気長に待とうと思う。心身ともに、成長が遅いみたいだから。

「ほ? ミキちゃん、顔が真っ赤。もう十月だよ? まだ暑い?」

「ちげーよっ。つか、うっせーよっ」

 そんなオレの、日々唱えるおまじない。


 ――ままごとな今日を抜け出そう。明日にはきっと、ミャアも今日よりは成長してくれるはずだから。


 もうね、自覚したら負けだな、って、思った。この曖昧な関係が、時々しばしばかなり相当、歯痒く感じるけど。でも、コンマ六メートルからは卒業出来たし。

「ミャア、大学受験、合格したらお祝いの交換しようぜ」

「あー、それいいっ。私ねー、合格したら、今度こそ絶対、ディズニーシーにも行きたい! この間はランドしか回れなかったもんっ」

「あ、それいいな。んじゃ、お年玉とバイト代は今から使わないで温存だな」

「けってーい。あ、あとお父さんとお母さんにもオッケーもらえるように、いい子しとこうっと」

「だな」

「あ、そんでミキちゃんは、何が欲しい?」

「ディズニーシーが実現したときに言う。そんでもって、絶対もらう」

 何それ、それじゃ用意出来ないじゃん、と膨れるミャアに意地悪な笑みを零してやった。

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