第八回 絵画
テーマ:光景
禁則事項:直喩法使用禁止
:固有名詞使用禁止
キャンバスに収まるように描かれた絵など、くだらない。絵の具やクレヨンなどの道具を使って描かれた絵など、つまらない。
売れない画家である男は、いつからか思いはじめた。素晴らしいと称賛される絵画たちが、そんなものに囚われる必要など無いのだと。芸術というものに、はっきりした形などは要らない。それこそ極端にいえば、それが何で描かれていようと、触れることができなかろうと、目に見えさえすればそれは絵画と言える。
しかし、男がそう声高に主張したところで、周囲から返ってきたのは彼を異端と蔑む人々の嘲りだけだった。社会は彼を頭から否定した。
男ははじめ、悲嘆に暮れた。異端とされ社会から弾き出された悲しみは、ある時から自分を捨てた社会への偏見となり、人々にまともに取り合ってもらえないという嘆きは、次第に自分を受け入れる気のない社会への怒りとなった。同時に、男の描く『絵』はあらゆる意味においてその様子を変えていった。
「要するにだ」
カーテンを通り抜けた、朝方の淡い陽光に照らされ、仄明るい小部屋で男が言った。
「名画って言われるものってのは、大抵の場合目に飛び込んでくるんだよ。見るつもりがなかったとしても、視界をかすったら気になってじっくりと見なきゃ気が済まなくなる。そういうものだと思うんだ」
男の視線は、八畳程の狭い部屋の中を物色するために忙しなく動く。僅かながら焦りすら見えるそれとは別に、男の声は穏やかでのんびりしていた。
「だけど、俺の絵はそれだけじゃない。見る者の目にその絵を焼き付けてやるんだ。一度見たら、絶対に忘れられない、俺はそんな絵を描いているんだ」
わかるか? と、男が問いかける。その時に一瞬だけ男の視線が明確な意志を持って部屋の中央に向けられた。そこには女が寝ていた。否、倒れていたという方がその状態を正確に表しているだろう。どちらにせよ、女からの返答は無かったが、男は全く気にすることなく「だいたい——」と話を続ける。
焦げ茶色のフローリングの床に夜の闇を思わせる長い漆黒の髪は散り、その上に仰向けに横たわる女の肢体は白く、輝かしい。一糸纏わぬその姿を目にした人はまず感嘆するはずだ。それ程にその女は美しかった。傷一つないなめらかな肌。余分な肉のついていない、けれど女性らしい柔らかな輪郭。上半身にある二つの乳房は、小さすぎて未熟さを感じさせることも、大きすぎて他を圧倒することもなく、男の掌にすっぽりと収まりそうな大きさで、その形を保っている。彼女の躯の下、床に散っている髪は緩やかに波打ち、彼女の躯の上にも一房、二房乗っている。それは夜空を流れる乙女を連想させる。目を閉じ、口を薄く開き、胸のまえで手を組んでいる様子は、神にその身を捧げた処女の姿だといったところで、だれも嘘だとは言えないだろう。そこには淫乱なものなど欠片も見当たらず、ただ只管に美しい。
そして、その美しさを壊してしまいそうになりながらも、見る者によってはさらに不思議な、神秘的な雰囲気さえ醸し出しているのが、女の胸の上で丁寧に組まれた手の中にある鮮やかな桃色と、その下の赤だった。二つの乳房の真ん中よりも少し下の辺りが、十センチメートルほど切り開かれて、そこからは本来なら見えてはいけないものが覗き見える。その中は黒く濁った赤い液体が溜まっていて、幽かな振動で小刻みに波紋を作っている。女の十本の細く長い指の間に握られているのは、彼女の握り拳と大して変わらない大きさで、まだドクッと微かに脈を打っている。
何か少しでも間違えば、この酷く美しい、不可思議で神秘的な空気は簡単に壊れてしまうだろう。その少しとは、モノの配置であり、配色であり、時間だった。そして、様々な要素の微妙なバランスによって成り立っているその空間は、まさに男の描いた芸術だ。それ故に、男はここまで上手くできたことを喜び、その完成を急ぎ焦っていた。
一見完成しているように思えるその『絵画』は、しかし『絵画』として重要な要素が一つかけていた。
作者のサインだ。
これの作品を自分が描いたという証拠を残す、男はそう決めていたし、そのための用意もしておいた。予定では女の血液を使うはずだったのだ。けれど、素材が良かったのか、その『絵』は男が想像していたよりもずっと繊細なものに仕上がってしまった。そしてそれを見ているうちに、赤いサインでは満足ができなくなってしまったのだ。夜空の暗さを表したこの床に入れるサインは、白でなければ気が済まない。そう思ったものの、その白がなかった。
自分の予想以上の作品ができた喜びを感じながらも、男の焦りは次第に強くなっていく。考えろ、頭の中がその言葉だけでいっぱいになり、何も考えられなくなった。頭が真っ白になり、男の視界にあるものは女の姿ばかりになった。
一度そうなってしまうと、今度は逆に思考がはっきりしてきた。その結果思いついたものに、男はそれ以上のものはないと思った。神代の時代から、女の対は男と決まっている。女がだせないものなら、男が出せばいい。
その考えを実行に移して、男は完成した作品を改めて眺めた。
「あぁ、これは俺の最高傑作だ。そして、これを見るやつが俺しかいないというのはもったいないな」
そして男は部屋を出て、携帯電話を取り出した。
電話をかける先は勿論——