第十回 涙の欠片、幸の欠片
テーマ:幸福
禁則事項:手抜き禁止
白一色の、けれどどこか薄暗い空間を、私はただまっすぐ歩いていた。家もビルも、道路もない。ブロックを並べてできたような段差や壁があるだけだ。もちろん人間なんて一人もいなくて、生き物の気配すら微塵も感じられない。鼓膜が破れているのかと思ってしまう静寂の中で、私の足音だけが くぐもった音を響かせる。
その音とまわりの景色に気を取られて前を見ていなかった私は、進む先に地面が無くなったことに気付かずにそのまま歩を進める。当然、何もない場所に足を置いても、私の体重を支えるようなものはなく。
——墜ちた。
現実のものではない落下感に目を開けると、頭の片隅に追いやられていた教室のざわめきが意識に雪崩れ込んできた。まだ覚めきっていない頭に、雑音はこれが現実だということを教えてくれる。かなりしっかり眠ってしまっていたのか、今の状況が飲み込めずにかるく教室を見渡す。
化学の授業中。席は立っていないものの、前後左右だけでなく教室の端と端で大声で話しているクラスメイト。授業なんて全くといっていい程聞いていないから、試験前に慌ててノートを見せてくれと拝んでくる連中だ。教壇では今年来たばかりの若い女教師が懸命に生徒に内容を理解させようとしているけれど、それを真面目に聞いているのは片手で足りる程の人数。結果として授業は遅々として進まず内容の上澄みだけを掬っているような感覚だ。
それにしても、今日は普段以上に騒々しい。だからかもしれない。いつもなら少なくとも授業中に熟睡したりはしないのに、今は夢まで見てしまっていた。
「はぁ……」
何度も、それこそ飽きる程に見ている夢なのに、何故寝ている間はそれが夢だと認識出来ないのだろう。
完全に意識がはっきりしないうちにチャイムが鳴って授業が終わった。化学の教師は困ったような、ホッとしたような顔をして教室を出て行った。それを見送ってから私は重い腰をあげる。
窓際の一番後ろの席、教室の真ん中より少し廊下寄りの私の席からは一番遠い席にいる明美のところには、既に数人の女子が集まっている。
さっきの授業中からか休み時間になってから話し始めたのか、相当話しが弾んでいるようだ。そのグループから聞こえてくる悲鳴に似た笑い声は、教室の中で一際大きく聞こえた。
「何の話?」
明美に聞いてみたけれど、返事はなかった。話に集中していて聞こえなかったのだろうなと思う。仕方がないので、そのまま近くの机に腰掛けて彼女たちの話を上の空で聞く。
なんだか、まだ意識がぼんやりしていた。
風邪を引いた。
昨日、化学の時に熟睡してしまってから、いくら経っても夢見心地が抜けないと思っていた。そうしたら今日は、朝起きるなり頭痛と吐き気、熱からくる倦怠感ですっかりまいってしまった。
それにしても、こんなにしっかりと風邪を引いたのは、一体いつ以来だろう。
ベッドで寝ているだけでやることもない。午前中いっぱいを寝て過ごしてしまうと、午後にはさすがにしっかりと目が覚めてしまった。だからといって体のだるさが抜けたわけでもない。少し体を起こすだけでも目眩が酷かったのでベッドから出ることも諦めた。
そのままの体勢でできるからと携帯をいじっていると、学校では授業中のはずの時間なのにも関わらず、何人ものクラスメイトがチャットをしているのを発見した。だからといって私は会話の輪に入るわけでもなく、本を読むのと同じ感覚でそれを眺めているのが好きだった。
それなのに、そのはずなのに。
どうして今はこんなにも寂しいのだろう。
気が付くとチャットのログに、自分の名前を探していた。誰かが、自分のことを少しでも気にしてくれていないかと。
普段からクラスメイトに冷めていると言われている私が、友達に何を言われても平然としている私が。
柄にもなく、泣きそうだった。
「……ばっかじゃないの」
強がるために呟いた声は、布団に吸われて消えた。夢の中でいつも聞こえる足音と同じように。それがもたらした効果といえば、部屋に私しかいないことを改めて認識させられただけだった。
吐き気を堪えているための息苦しさか、熱で朦朧としやすい思考のせいか、見えない圧力に押し潰されるような気がして、私は布団の中で膝を抱えて丸くなった。何度か携帯が鳴った気がしたけれど、開いて確かめる気力もなかった。
暫くそうしていると、少し気持ちが落ち着いた。
布団から顔を出して携帯を確認すると、メールや不在着信が会わせて十件以上溜まっていた。あまりに返信が遅いことで余計に心配になったのか、「元気かー?」「明日は直して学校きなよ」という内容が、途中から「葉乃、無事!?」「ちゃんと生きてる!?」とのようなものになっていた。
そんなメールをゆっくり読んでいるところで、急に部屋の外が賑やかになって顔を上げた。私がドアを見たのと同時に、勢いよくドアが開けられた。
「葉乃、生きてるー?」
そう言って明美が部屋に入ってきた。その後からも女子が二人入ってきて、部屋が一気に狭くなったように感じた。
「……え? あれ、何で?」
「何でって、お見舞いに決まってるでしょ」
風邪引いても冷めてるね、と誰かが言って、私以外の三人が顔を合わせて笑った。
こんなにも私のことを思っている友達がいるのに、さっき私は何を思っていたんだろう。
来てくれた三人に、ありがとうと笑ったはずなのに、何故か私の頬は濡れていた。