私を殺したあなたと、もう一度だけ恋に落ちる
白。
どこまでも続く、無機質な白。
それが、深い深い暗闇から浮上した私が、最初に認識した色彩だった。
「……く……雫……っ!」
耳鳴りの奥から、掠れた声が聞こえる。
ひどく切羽詰まった、泣き出しそうな声。私の名前を呼んでいる。
重い石が乗っているかのような瞼を、ゆっくりと押し上げる。
視界はぼやけ、光の輪が乱反射していた。消毒液のツンとした匂いと、規則的な電子音が空間を支配している。ここが病院のベッドの上なのだと理解するまでに、数秒の時間を要した。
「雫! わかるか!? 俺だ、蓮だ……っ!」
焦点が定まってきた視界に、一人の青年の顔が飛び込んできた。
私を覗き込むその顔は、酷く青ざめ、目の下には濃い隈が張り付いている。血走った瞳からは大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、私の右手を両手で包み込むようにして、すがるように握りしめていた。
「れ、ん……?」
ひび割れた声帯から、砂を噛むような声が漏れた。
その瞬間、蓮は「ああ……っ、ああああっ!」と獣のような嗚咽を漏らし、私の手に顔を埋めて泣き崩れた。
彼を知っている。
私の恋人だ。大学時代に出会い、社会人になってから同棲を始めた、優しくて、不器用で、誰よりも私のことを愛してくれている人。
でも、どうして彼はこんなに泣いているのだろう。どうして私は、病院のベッドで寝かされているのだろう。
「私……どうし、て……」
「喋らなくていい! 今、先生を呼んでくるから……っ。よかった、本当によかった……っ!」
蓮は弾かれたように立ち上がり、ナースコールを押しながら廊下へと飛び出していった。
一人残された病室で、私は状況を整理しようと記憶を探った。
だが、頭の中に濃い霧がかかっているように、何も思い出せない。最後に覚えているのは、春の桜並木を蓮と手を繋いで歩いていた記憶だ。
不意に、首の周りに違和感を覚えた。
何かで分厚く覆われているような、ひきつるような感覚。
左手をゆっくりと持ち上げ、首元に触れる。そこには、何重にも巻かれた包帯があった。軽く触れただけで、ズキリとした鈍い痛みが走る。
(私、怪我をしたの……?)
やがて、慌ただしい足音と共に、医師と看護師、そして蓮が病室に戻ってきた。
いくつかの簡単な検査と問診が行われ、私は自分の身に何が起きたのかを知らされた。
「逆行性健忘、ですね。脳への酸素供給が一時的に絶たれたことによる、低酸素脳症の後遺症と考えられます」
初老の医師は、カルテを見ながら静かに告げた。
私の記憶は、ここ一年分がすっぽりと抜け落ちていた。今は春ではなく、木枯らしが吹く十二月の末だという。
「……私は、どうして倒れたんですか? 病気……ですか?」
私が尋ねると、病室に重い沈黙が落ちた。
医師はチラリと蓮の方を見た。蓮はギュッと唇を噛み締め、両手で顔を覆って俯いている。
「雫さん。あなたは……自宅に押し入った強盗に、首を絞められたんです」
「え……」
「幸い、帰宅した蓮さんがすぐに心臓マッサージを行い、救急車を呼んだことで一命を取り留めました。しかし、首の気道と頸動脈を強く圧迫されたことで、脳にダメージが残り、意識不明の状態が二週間続いていたのです」
強盗。首を絞められた。
あまりにも現実離れした言葉に、私の思考は完全にフリーズした。
首に巻かれた包帯の下にあるのは、見知らぬ誰かに殺されかけた痕だというのか。
「……ごめん。俺が、俺がもっと早く帰っていれば……っ。雫に、こんな痛い思いをさせずに済んだのに……っ!」
蓮が、ベッドの傍らで床に膝をつき、絞り出すような声で懺悔した。
彼の震える肩を見て、私は反射的に手を伸ばし、彼の頭を撫でていた。
「蓮のせいじゃないよ。……私、生きてるじゃない。蓮が助けてくれたんでしょう?」
「雫……っ」
「泣かないで。私が生きてるのは、蓮のおかげだよ。ありがとう」
記憶は抜け落ちているけれど、この人を愛おしいと思う感情は、胸の奥に確かに残っていた。
いや、違う。
死の淵から目覚め、これほどまでに私を想ってボロボロになって泣いてくれる彼を見て、私は『もう一度、彼に恋に落ちた』のだ。
こんなにも深く愛されている私は、きっと世界で一番幸せな女だ。
その時の私は、心からそう信じて疑わなかった。
*****
それからの入院生活は、蓮の献身的な愛情に包まれた日々だった。
彼は毎日、仕事の合間を縫って病室に通い詰めた。私の好きなかすみ草の花束を飾り、食事が喉を通らない私のために、口当たりのいいゼリーやスープを手作りしてタッパーで持ってきた。
「はい、あーんして」
「もう、子供じゃないんだから自分で食べられるよ」
「いいから。俺がしたいの。雫に触れて、生きてるって実感してないと、俺がおかしくなりそうなんだ」
そう言って切なく微笑む蓮の瞳には、常に深い翳りと、そして執着にも似た重い愛情が宿っていた。
彼は時折、私が眠っていると思っているのか、私の首の包帯の上から、そっと震える指先で触れてくることがあった。
『ごめん……ごめんなさい、雫……』
掠れた声で繰り返される謝罪。強盗から守れなかったことへの自責の念が、彼を深く苛んでいるようだった。
「蓮、私ね、記憶は一年分なくなっちゃったけど、蓮への気持ちは変わってないよ。ううん、前よりもっと好きになった」
ある日、彼の手を握りしめてそう告げると、蓮は目を見開き、そして泣き笑いのような、酷く歪んだ表情を浮かべた。
「……俺には、もったいないよ。雫は、優しすぎる」
彼が私の手の甲に落としたキスは、火傷しそうなほど熱く、そしてどこか悲しい味がした。
身体の回復は順調だったが、時折、首の傷とは全く別の場所に、原因不明の激痛が走ることがあった。
胸の奥から胃のあたりにかけて、内臓を鋭い刃物でえぐられるような、息もできないほどの痛み。
「痛っ……ぅ……っ!」
「雫!! どうした!?」
私が胸を押さえてベッドの上でうずくまると、蓮は血相を変えて飛んできた。
「大丈夫だ、すぐに薬を入れるから。これを飲んで! ゆっくり深呼吸して!」
蓮は、医師から処方されているという強力な鎮痛剤を素早く取り出し、私の口に水と共に流し込んだ。
薬が効いて痛みが引いていく中、私は荒い息を吐きながら蓮に尋ねた。
「これ……なんの、痛み……? 首を絞められたことと、関係あるの……?」
「……ああ。脳へのダメージで、神経が過敏になってるって先生が言ってた。幻肢痛みたいなもので、実際には内臓に異常はないんだ。だから、痛くなったらすぐに俺に言って。絶対に俺が、痛みを消してあげるから」
蓮の目は、異常なほどに真剣だった。
私が痛みを感じることを、彼自身が傷つくよりも恐れているかのような、切迫した響き。
私はその過保護なまでの愛情に甘え、深く考えることをやめてしまった。
*****
年が明け、一月の中旬。
私は無事に退院の日を迎え、蓮と一緒に暮らすマンションへと帰ってきた。
「おかえり、雫」
「ただいま、蓮」
見慣れたリビング。二人がけのソファ。お揃いのマグカップ。
一年分の記憶がない私にとっても、そこは紛れもなく『私の帰る場所』だった。
ただ、いくつか変わっている点もあった。
ベランダに面した大きな窓には、今までなかった頑丈な二重ロックと防犯フィルムが貼られ、玄関には最新式のホームセキュリティが導入されていた。
あの『事件』のトラウマから、蓮が神経質になっているのだろう。
「ごめんね、少し息苦しいかもしれないけど。……もう二度と、あんな思いはさせたくないんだ」
「ううん、蓮が守ってくれてるみたいで安心するよ。ありがとう」
退院してからの日常は、穏やかで静かなものだった。
私は後遺症による疲れやすさと神経痛のため、仕事は休職させてもらい、家でゆっくりと療養することになった。
蓮は残業を一切せず、定時になると飛ぶように帰ってきて、私のために栄養満点の夕食を作り、お風呂の準備をし、夜は私が眠りにつくまでずっと手を握っていてくれた。
首の傷跡は、ケロイド状になって痛々しく残っていた。
鏡でその紫色の痣を見るたびに、殺されかけた時の恐怖が蘇るわけではない。ただ、自分の身体に刻まれた暴力の痕跡に、薄ら寒いものを感じるだけだ。
蓮は、私が鏡を見るのを極端に嫌がった。
「見ないで。俺が、必ず綺麗に治すから。痕が残らないような治療法を、いくらでも探すから」
そう言って、彼はハイネックのセーターや、肌触りの良いシルクのスカーフを何枚も買ってきて、私の首を隠すようにした。
そんな完璧で甘やかな生活の中で、ほんの小さな『違和感』が芽生え始めたのは、退院から一ヶ月が経った頃だった。
ある日の午後。
蓮は珍しく休日出勤となり、私は一人で留守番をしていた。
体調も良く、久しぶりに部屋の掃除でもしようと思い立った私は、リビングの棚の整理を始めた。
ふと、救急箱の中に入っている自分の薬のストックを確認しようとした時だ。
「あれ……これ、なんだろう」
鎮痛剤のボトルの裏に、見慣れない分厚い医療用のファイルが隠されるように置かれていた。
表紙には何も書かれていない。
無断で見るべきではないと思いつつも、退屈とほんの少しの好奇心に勝てず、私はそのファイルを開いた。
そこに挟まれていたのは、大量の診断書と、検査データだった。
日付は、私が記憶を失っている空白の一年間のもの。
(私の、診断書……? 神経痛の検査結果かな)
軽い気持ちで紙に目を落とした私の全身から、一瞬にして血の気が引いた。
『病名:ステージIV 進行性胃癌(多発性腹膜播種を伴う)』
「……え?」
見間違いかと思い、何度も目を瞬かせる。しかし、活字は残酷な事実を淡々と告げていた。
余命宣告の記録。抗がん剤治療の副作用の経過。緩和ケアへの移行計画。
全てに、私『長谷川 雫』の名前が記されている。
「癌……? 私が? 余命、半年……?」
手からファイルが滑り落ち、バサリと音を立てて床に散らばった。
頭が真っ白になる。
神経痛だと言われていた、あの内臓をえぐられるような痛み。強力な鎮痛剤(医療用麻薬)の数々。
全て辻褄が合う。私は強盗に襲われた後遺症で痛がっていたのではない。癌細胞が、私の身体を内側から食い破っていたのだ。
じゃあ、なぜ蓮は私に嘘をついた?
なぜ「内臓に異常はない」と言い切った?
いや、もしかして、記憶を失った私に、再び余命宣告という絶望を味わわせないための、彼なりの優しさなのだろうか。
震える手で散らばった書類を拾い集めようとした時、ファイルの一番後ろのポケットから、一冊の小さな革張りの手帳が出てきた。
それは、私が昔から愛用している日記帳だった。
「私の日記……」
空白の一年間、私が何を考え、どう生きていたのか。
この日記を読めば、全てが分かるはずだ。
私は床に座り込んだまま、祈るような気持ちでそのページを捲った。
インクの文字は、間違いなく私の筆跡だった。
『5月10日
検査の結果を聞いた。もう手術はできないらしい。蓮は私の前では泣かなかったけれど、帰りの車の中で、ずっとハンドルを握りしめて震えていた。私より彼の方が可哀想だ。』
『8月22日
痛みがひどくなってきた。薬の量が増える。私が痛みに悶えて叫ぶたび、蓮は狂ったように泣きながら私の背中をさすってくれる。彼をこんなにも苦しめている自分が許せない。』
『10月5日
夜、痛みが怖くて眠れない。蓮はすっかり痩せ細ってしまった。私の介護のために仕事も休んでいる。このままじゃ、彼まで壊れてしまう。もう嫌だ。痛いのも、彼を苦しめるのも。』
ページを捲るごとに、過去の私の凄絶な苦しみと、絶望が伝わってくる。
文字は次第に乱れ、涙の痕で滲んでいる箇所も多かった。
そして。
私が意識を失う『あの事件』の当日、12月24日のページ。
クリスマスイブの日記。
そこに書かれていた最後の一文を読んだ瞬間、私の心臓は、氷の杭を打ち込まれたように完全に停止した。
『12月24日
ついに決めた。今日、全てを終わらせる。
蓮にお願いした。「もうこれ以上、私を生かさないで」と。
彼は最初は拒絶して泣き叫んだけれど、最後には私の願いを聞き入れてくれた。
愛する蓮。どうか自分を責めないで。
今夜、私は彼の手によって殺される。
私を苦しみから解放してくれる彼に、心からの感謝と、永遠の愛を。』
「…………ぁ……」
声にならない悲鳴が、喉の奥で引きつった。
日記帳を握る手が、ガタガタと制御不能なほどに震え始める。
強盗なんて、いなかった。
見知らぬ誰かに襲われたわけではなかった。
私を殺そうとしたのは。
私の首を絞め、酸素を奪い、脳を破壊し、意識不明の重体に追いやった犯人は。
「蓮……」
私の愛する人。
今、私を何よりも大切に、過保護なまでに愛し、毎日「守る」と誓ってくれている、あの人だったのだ。
私の愛する人。
今、私を何よりも大切に、過保護なまでに愛し、毎日「守る」と誓ってくれている、あの人だったのだ。
首の傷跡をそっと撫でる。
ひきつったケロイドの感触。それは、見知らぬ悪意ある他人がつけた暴力の痕などではなかった。
私の痛みを終わらせるために、私の切実な願いを聞き入れるために。あの優しくて不器用な彼が、泣きながら、震える両手で私の首を締め上げた痕跡だったのだ。
『私を苦しみから解放してくれる彼に、心からの感謝と、永遠の愛を。』
日記の最後の文字は、涙で大きく滲んでいた。
どれほどの覚悟で、私は彼に自分の殺害を依頼したのだろう。そして、どれほどの絶望と愛情を抱えて、彼は私の首に手をかけたのだろう。
退院してから今日までの、蓮の言動が次々とフラッシュバックする。
私が首の傷に触れようとするたびに、彼が見せた酷く歪んだ、泣き出しそうな顔。
『ごめん……ごめんなさい、雫……』
彼が繰り返していた謝罪は、強盗から守れなかったことへの謝罪ではなかった。私を殺しきれなかったこと、あるいは、私の首を絞めるという大罪を犯してしまったことへの、血を吐くような懺悔だったのだ。
そして、私が胸や胃の痛みに悶えるたびに、彼が血相を変えて飲ませていたあの強力な「鎮痛剤」。
あれは神経痛の薬なんかじゃない。末期癌の激痛を和らげるための、医療用麻薬などの緩和ケア用の薬だったに違いない。
だから、飲むとすぐに意識がぼんやりとして、痛みが遠のいていったのだ。
「蓮……っ、ああ、蓮……っ」
私は日記帳を胸に抱きしめ、声を殺して泣いた。
なんて残酷なすれ違いだろう。
自分がもうすぐ死ぬ運命にあることも、自分が彼に殺人という十字架を背負わせようとしたことも全て忘れ、私は無邪気に「蓮が助けてくれた。前よりもっと好きになった」と彼に笑いかけていたのだ。
その言葉を聞くたび、彼の心はどれほどズタズタに切り裂かれていたことだろう。
自分が首を絞めた女から向けられる、一点の曇りもない純粋な愛情と感謝。
彼は、私の余命が残りわずかであることをたった一人で抱え込みながら、私に『強盗に襲われた可哀想な恋人』という嘘の平穏を与え続けてくれていたのだ。
ガチャッ。
不意に、玄関のドアの鍵が開く音がした。
「……っ!」
私は弾かれたように顔を上げた。
休日の午後。今日は夕方まで帰ってこないはずの蓮だったが、予定より早く仕事が終わったのだろう。
「雫、ただいま! 予定より早く片付いたから帰ってきたよ。駅前で、雫の好きなモンブラン買ってきたんだけど……」
明るい声と共に、リビングの扉が開く。
そこに立っていた蓮は、床に散らばった無数の診断書と、私が胸に抱きしめている革張りの日記帳を見た瞬間――全ての動きを止めた。
「…………あ」
蓮の手から、ケーキの箱が滑り落ちた。
ぐしゃり、という鈍い音がリビングに響き渡る。
箱がひっくり返り、彼が私のために買ってきてくれた美しいケーキが箱の中で無惨に潰れたのが分かった。
蓮の顔面から、スーッと血の気が引いていく。
呼吸が止まり、その大きな瞳が見開かれ、震えが全身に伝播していくのが見て取れた。
彼は一歩、後ずさりをした。まるで、絶対に開けてはならないパンドラの箱を開けてしまった子供のように。
「れ、ん……」
私が掠れた声で名前を呼ぶと、蓮はビクッと肩を震わせ、そして、崩れ落ちるようにその場に両膝をついた。
「見ちゃったんだね……」
絞り出すような、ひどく掠れた声だった。
彼は顔を両手で覆い、まるで自分を世界から隠そうとするかのように身を縮めた。
「ごめん……。ごめんなさい、雫……っ。隠してて、ごめん……っ」
私はゆっくりと立ち上がり、散らばった書類を踏まないように気をつけながら、彼のもとへと歩み寄った。
そして、床にうずくまる彼の前に同じように膝をつき、彼の震える肩にそっと手を触れた。
「蓮……どうして、嘘をついたの?」
私の問いかけに、蓮は顔を覆ったまま、子供のようにしゃくり上げた。
「……君が、全部忘れてたからだ……っ」
蓮は少しずつ、途切れ途切れに、あの日――クリスマスイブの夜の出来事を語り始めた。
「あの夜……雫は、痛みに狂うくらい苦しんでた。薬も効かなくて、吐血して……俺の服を掴んで、『もう殺して、お願いだから終わらせて』って泣き叫んだんだ。……俺は、救急車を呼ぼうとした。でも、君は電話機を叩き落として、俺の手に自分の首を押し当てた……っ」
「……」
「俺は……俺は、君の願いを叶えることしか、君を楽にしてやれる方法が見つからなかった……。君の細い首に手をかけて、力を込めた。君は……苦しいはずなのに、最後、俺を見て、ふっと笑って『ありがとう』って口の形で言ったんだよ……っ!!」
蓮の叫びが、悲痛なエコーとなって部屋に響く。
彼の言葉一つ一つが、私の脳裏に失われた記憶の断片を呼び起こしていく。
そうだ。私は、彼に笑いかけた。自分の痛みを終わらせてくれる最愛の人に、せめてもの感謝を伝えるために。それがどれほど彼を呪縛するエゴイズムかも分からずに。
「でも……できなかった……っ! 君の脈が弱くなっていくのを感じたら、俺の心臓が引き裂かれそうになって……! 気づいたら手を離して、狂ったように心臓マッサージをして、救急車を呼んでた……っ。俺は、君の覚悟を裏切った……君を殺しきることもできず、ただ君を傷つけて、再び癌の苦しみの中に引き戻しただけの、最低の男なんだ……!」
蓮は床に額を擦り付けるようにして慟哭した。
病院で意識を取り戻した私が、過去一年間の記憶――自分が末期癌であることも、余命宣告を受けたことも、そして蓮に殺してほしいと懇願したことも全て忘れていると知った時。
蓮は、激しい自己嫌悪と同時に、ある『狂った決意』をしたのだという。
「先生に頼み込んだんだ。雫の記憶が戻るまで、どうか癌のことは伏せておいてくれって。……彼女は今、自分の死の恐怖から解放されている。なら、残されたわずかな時間だけでも、彼女に『自分がもうすぐ死ぬ』という絶望を知らないまま、幸せに生きてほしかった……っ!」
強盗に襲われたという嘘も。
頑丈な鍵を取り付け、私を外に出さなかったのも。
全ては、私が外の世界の人間と接触し、自分の本当の病状に気づいてしまうのを防ぐためだった。
私が痛みを訴えるたびに、彼は「後遺症の神経痛だ」と嘘をつき、緩和ケアのための医療用麻薬を飲ませていた。
私が、自分の死の恐怖に怯えることなく、ただ「蓮に愛されている」という幸福の中だけで最後の日々を全うできるように。
彼は、私が息を引き取るその瞬間まで、自分一人だけが『殺人未遂の罪』と『恋人を癌で失う絶望』を背負い込み、完璧な嘘の舞台を演じ切るつもりだったのだ。
「俺は……最低だ。君が全てを忘れて、俺に『ありがとう』って笑いかけてくれるたびに……俺は、救われてた。自分の罪から逃げて、君の偽りの愛情に甘えてたんだ……っ。ごめん、ごめんなさい……こんな俺を、許さないでくれ……!」
蓮は、床にぽたぽたと涙の染みを作りながら、許しを乞うのではなく「許さないでくれ」と懇願した。
私は、息が詰まるほどの愛おしさと、彼に対する底知れない申し訳なさで、視界が涙でぐしゃぐしゃになっていた。
なんという不器用で、悲しい人なのだろう。
私のために人殺しになろうとし、私のために嘘をつき、私のために一人で地獄を歩き続けていた。
私が記憶を失い、のんきに笑っている間、彼は毎日どんな気持ちで私の首の傷跡を見ていたのか。どんな気持ちで、私に余命を削る鎮痛剤を飲ませていたのか。
「……馬鹿だなあ、蓮は」
私は、床にうずくまる彼の肩を抱き寄せ、その背中に腕を回した。
「え……」
「偽りの愛情なんかじゃないよ。私が蓮を好きな気持ちは、記憶を失う前も、今も……何一つ変わってない。本物だよ」
私がギュッと彼を抱きしめると、蓮の身体がビクッと強張った。
「私が悪いんだよ。私が、蓮の優しさに甘えて、自分勝手な願いを押し付けたから……。蓮の手を、こんなに冷たくして、汚させちゃったから……」
私は、彼の顔を覆っていた両手を優しく引き剥がし、その震える大きな手を両手で包み込んだ。
そして、私の首に触れることをあんなに恐れていた彼の手のひらを、私の方から、首の包帯の上へと導き、そっと押し当てた。
「ひっ……! だ、だめだ雫……俺の手は……っ」
「あったかいよ、蓮の手。……私を殺そうとした手じゃない。私を、生かそうとしてくれた手だよ」
私が微笑みかけると、蓮の目から再びせき止めていたダムが決壊したように涙が溢れ出した。
「どうして……どうして君は、そんなに優しいんだ……っ。俺は、君に嘘をついて……っ」
「嘘をついてくれて、ありがとう。おかげで私、今日まで本当に……世界一幸せだったよ。自分が死ぬことも忘れて、ただ大好きな人と一緒にいられる、最高の毎日だった」
私は、彼の涙に濡れた頬にそっとキスをした。
「もう、一人で抱え込まなくていいよ。これからは……二人で一緒に、終わりの日まで歩いていこう? 私、もう死ぬの、怖くないから。蓮がそばにいてくれるなら、痛いのも怖くないよ」
私の言葉に、蓮は嗚咽を漏らしながら、私を壊れ物を扱うように、それでも決して離さないという強い意志を持って、きつく抱きしめ返してくれた。
「雫……っ、愛してる……愛してるよ……っ。俺を置いていかないでくれ……っ!」
「うん。愛してる。ずっと、ずっと一緒にいるよ」
静寂に包まれたリビングで、私たちは床に座り込んだまま、ただひたすらに互いの体温を確かめ合うように抱きしめ合い、泣き続けた。
絶望と、死の恐怖と、そしてそれらを全て凌駕するほどの、深くて重い愛情の海の中で。
私は、私を殺しかけたこの人を、心の底から愛していると、もう一度深く確信したのだった。
*****
それから、桜の蕾が膨らみ始めた三月の終わり。
私の身体は、ついに限界を迎えていた。
癌細胞は全身に転移し、起き上がることもままならなくなった私は、自宅のベッドで最後の日々を過ごしていた。
在宅での緩和ケアに切り替え、点滴で持続的に強い鎮痛剤を入れているため、痛みはほとんど感じないが、一日の大半を眠って過ごすようになっていた。
蓮は、会社を完全に休職し、二十四時間つきっきりで私の看病をしてくれた。
「雫、喉乾いてない? 氷、舐める?」
「……うん。ありがとう」
彼が口に含ませてくれる小さな氷の欠片が、今の私にとって唯一の食事だった。
痩せ細り、すっかり小さくなってしまった私を、蓮は毎日、愛おしそうに撫でてくれた。首の包帯はもう外していた。ケロイド状の傷跡を、彼はもはや目を逸らすことなく、祈るように優しくキスをしてくれるようになっていた。
ある日の夕方。
西日が差し込む病室で、私はふと目を覚ました。
ベッドの脇の椅子で、蓮が私の手を握ったまま、疲れ果てて眠りこけている。
彼の顔は痩せこけ、無精髭が生え、まるで彼自身も私と一緒に命を削っているかのような姿だった。
「蓮……」
掠れた声で呼ぶと、彼はすぐにハッと目を覚ました。
「雫!? どうした、痛いか? 薬の量、増やそうか?」
「ううん……痛くないよ。……ちょっと、窓の外、見たいな」
私がそう言うと、蓮は優しく私の上半身を抱き起こし、背中にクッションを当ててくれた。
窓の外には、夕日に照らされた桜の木が見えた。ほんの数輪だが、薄紅色の花が咲き始めている。
「桜……咲いたね」
「うん。今年も一緒に見れたね、雫」
蓮が私の耳元で囁く。彼の声は優しく、そしてどこか震えていた。
「ねえ、蓮……」
「なに?」
「私ね……記憶をなくす前に、蓮にひどいことお願いしたでしょ。私を殺してって」
「……」
「あれね、取り消す。……私、蓮に殺してほしかったんじゃないの。ただ、蓮と一緒にいたかっただけ。痛くて辛くて、でも蓮が優しすぎるから……これ以上負担をかけるのが嫌だったの」
私の途切れ途切れの言葉に、蓮は私の手を両手で包み込み、ボロボロと涙を流した。
「分かってる……。分かってるよ、雫」
「記憶をなくして、もう一回蓮に恋をして……私、本当に幸せだった。蓮が私のために、いっぱいいっぱい嘘をついてくれたこと……一生、忘れないから」
「雫……っ」
「だから、お願い……。私が死んでも、自分を責めないで。蓮の手は、私を殺した手じゃない。私を、最後まで愛してくれた手だから……。ちゃんと、ご飯食べて、寝て……私がいなくなっても、笑って生きてね」
それが、私の最後の我儘だった。
彼が私を愛してくれた証拠を、彼自身の手で穢してほしくなかった。私という存在が、彼の人生の呪いになってほしくなかったのだ。
蓮は、嗚咽を堪えきれずに私の胸元に顔を埋めた。
「できない……っ。君がいない世界で、俺が笑えるわけないだろ……っ」
「だめ。……笑って。私との約束……守ってね」
私の視界が、次第に白く霞み始めていた。
あの日、記憶を失って病院のベッドで目覚めた時と同じ、無機質で穏やかな白。
でも、あの時とは違う。
今の私には、痛みがなく、不安もなく、ただ絶対的な愛情だけが身体中を満たしている。
「蓮……」
「ここにいるよ、雫。ずっと、君のそばにいる」
彼の温かい両手が、私の頬を包み込む。
その温もりを確かに感じながら、私はゆっくりと目を閉じた。
私を殺そうとしたあなたと、もう一度だけ恋に落ちて。
私は、本当に、本当に幸せだった――。
*****
【エピローグ】
雫が、永遠の眠りについてから数年が経った。
春の穏やかな日差しが降り注ぐ、桜並木の道。
俺――蓮は、花びらが舞い散る中をゆっくりと歩いていた。
「雫、今年も綺麗に咲いたよ」
手にした小さなかすみ草の花束を、俺は胸の前に抱きしめた。
あの日の約束通り、俺は生きている。
彼女が愛してくれたこの命を、自分から絶つことだけはできなかった。
時折、目を閉じると、彼女の細い首に手をかけた時の、あの生々しい感触が蘇ることがある。
その度に俺は冷や汗をかき、激しい自己嫌悪と後悔に押し潰されそうになる。
俺は彼女を殺しかけた。その事実は、一生消えることはない。
だが、それと同じくらい、いやそれ以上に強く俺の心に焼き付いているのは、全てを知った上で俺を抱きしめ、「私を生かそうとしてくれた手だよ」と微笑んでくれた彼女の顔だ。
俺の右手を見る。
彼女が最後に包み込んでくれた、この手。
殺人未遂という重い十字架を背負ったこの手は、同時に、彼女からの究極の許しと愛情を受け取った証でもあるのだ。
「……待っててね、雫。もう少しだけ、こっちで頑張るから」
いつか俺の命が終わる時、あの白い光の中で、彼女がまた笑って出迎えてくれると信じて。
俺は顔を上げ、桜吹雪の向こうへと続く道を、一歩ずつ歩き出した。




