ヤバイかも
「誰だろう」
最近の電話は、引越しの手続きばかりでした。
「ご準備は順調ですか?」
「確認のお電話です」
「洗濯とエアコンの取り付けの日程です」
全てが終わったので、もう何も無いと思っていました。
「また、何か失敗したかなぁ」
止まらない着信音が更に不安を深めます。
ゆっくりと、携帯に手を伸ばしました。
次の瞬間、電気ショックが上半身に駆け巡りました。
姿勢を正し、応答ボタンを押します。
携帯の画面には、先ほど電話したジムの番号が出ていました。
「ヤッタァ」
それから、すぐに「何が?」と自分に問い、首を傾げました。
でも、なんだか、嬉しいのです。
声を低くして「はい、小島です」と出ました。
「あ、先ほど連絡いただいた、ジムの者です。留守電で申し訳ありませんでした。レッスンに興味があるんですよね」
溌剌とした男の声が聞こえました。
「はい」
「では、最初、無料体験はいかがですか?」
「はい、お願いします」
相手の後に、秒の隙間もなく、返事をします。
「いつがよろしいですか?」
「いつが空いていますか?」
「いつでもよろしいですよ。一番早くて、今日の午後一時ですけどね。それから、、、」
相手が言い終わらないうちに、即答しました。
「あ、それでお願いします」
ジムの人が、小さく「えっ」と言ったような気がしました。
「では、一時にお待ちしております。運動する格好で来てください。あと、水とタオル、運動靴」
私は何も準備をしていませんでした。
脳内で、箪笥の中身を検索します。
「ジャージ?あーっ、あれかぁ」と内心で呟きました。
「あの、普通の運動着ですか」
私は急に風船が萎んだように小声になり、質問しました。
「はい、大丈夫ですよ」
私は、「大丈夫なんだぁ」と反芻します。
もう、考えるのに、ほとほと疲れていました。
それで、「わかりました」と言い切ります。
「では、」
と言いかけた相手に、不安な私がぬっと顔を出し、追いすがりました。
胸の中の蝶々がバタバタと暴れ出します。
「あ、、あの駐車場はありますか?」
「店の前に俺の黒い車がありますから、その隣に止めてください」
「はい」
それで、電話は終わりました。
私は理由などわからずに、両手をあげて叫びました。
「ヤッタァ!」
上擦った声と共にスケジュール帳に「ボクシング、午後一時」とボールペンで書き込みます。
青いインクがつかずに、何度も最初の字をなぞりました。
「ボ」の字だけが、彫刻刀で書いたようでした。
「さっぁー」
叫びながら、走り出しました。
箪笥から、運動の服を見つけなければなりません。
運動靴は、一足、心当たりがあります。
「いつか、走るかも」と買っていた記憶があります。
一番の気がかりは、運動着でした。
そういえば、20年以上運動をしていません。
「まずいかも」
「いや、本当に、やばいかも」
電話で思い出していた、ジャージは、激安で買ったものでした。
それは、着古して、膝やお尻に毛玉が付いていました。
「もしかしたら、捨てずにあるかも」
箪笥の引き出しを掻き回します。
指先が震えていました。
「最近、皆んなは、どんな服で運動するのだろう」とチラリと考えます。
ちょっと、カッコ良くしたいという欲も出ます。
「Tシャツだな、まず、それだ」
私は、上から二段目の引き出しの窪みに指を置き、一気に開けました。
「こぉれぇ、かな」
紺色の厚手の半袖を取り出し、広げてみます。
いきなり、胸全体に、銀色の波の模様が連なっています。
「あー、これ、そうダァ」
美術館に行った時、売店で衝動買いしたものでした。
北斎の絵柄の隣にあったやつです。
私は、凍りつきました。
「ダメだぁ」
ため息と一緒に、言葉がこぼれ落ちました。
これは、最後のさいごで、選ぶべきです。
けれど、他のTシャツは、目の覚めるような青やふっくらした袖などで、運動用ではありません。
時計を見ると、十一時半です。
買いに行っている時間はありませんでした。
「そっ閉じ」で、箪笥の引き出しを押し込みます。




