初めの、一歩。
三月の半ばに、この地域に、引っ越したばかりです。
周りが全くわかりません。
パン屋を探して、散歩の範囲を広げました。
昼に美味しいパンを食べようと思うのです。
建物を横目で見ながら、歩きました。
コンビニ、美容院、家具屋、一つひとつの店名を読みながら進みます。
「あれ、何て読むんだろぉー」
「なんか、オシャレだ」
「看板、でかいなぁ」
独り、ツッコミを入れて歩きます。
春の日差しは柔らかく、心地よい風が吹いています。
「帽子、被ってくればよかったかな」
雲ひとつない空を見上げました。
しばらくして、通りから、車一台分、引っ込んだ建物が現れました。
黒いフィルムで覆われたガラスで囲まれています。
内側が全く見えませんでした。
なんとなく、足早になりました。
「キックボクシング教えます」
ガラスに貼られた、掲示板の白い丸文字が目に入りました。
「ふーん」
その掲示は、蛍光ピンクのライトで囲まれていました。
「そういう、ところなんだ」
私は、顎を軽く上げました。
先に見える、歩行者信号に目がいきました。
点滅で「急げ」と煽ってきました。
次のタイミングで渡ることに決め、歩みを緩めました。
その建物のドアの近くに「トレーニング」と手書きの小さな看板がありました。
私は、それきり、その建物を振り返りませんでした。
探しているのは、パン屋です。
こんがり焼いたトーストにバターをたっぷりと塗り付け、蜂蜜をつけるのです。
溶けていくバターと蜂蜜が混ざり合う瞬間、パンに齧りつくのです。
最近、答えのない質問をAIに聞いています。
朝食を終え、そのまま、食卓でお茶を飲みながら、暇つぶしに文章を打ちました。
「このまま、ずっと、パニック発作が治らないだろうか」
AIが「大丈夫です」と書いてきました。
案外、普通の返事です。
さらに猫背になりました。
スクロールして、終わろうとすると、「ボクシングが良いですよ」の一文に手を止めました。
「えっ?」と内心で声が出ます。
発作の苦しみで極端に痩せた私が、トンネルの先のわずかな光に手を伸ばそうとしています。
その手の甲には、五本の中手骨がはっきりと透けて見えています。
「うん、明日、探そう」と思いました。
「いつかと明日は、なかなか来ない」と、もう一人の自分が天井から見下ろしています。
ため息をつき、渋々、携帯を掴みました。
検索すると、一件だけが昼間に営業しています。
電話をかけました。
携帯を持つ手が震えていました。
薬を飲もうか、迷いました。
体が汗ばみます。
留守電の応答の声に、拍子抜けしました。
「なんだぁ」と安心したのも束の間でした。
「どうぞ」
滑舌の良い口調を聞いた後、目が空中を彷徨いました。
「う、う、あ、ぼ、ぼ、ぼ、ボッ、あーっ」
「ぴーっ」と、終了の音がなりました。
私は、「こんなもんだよなぁ」と椅子の背に仰け反りました。
でも、なぜか、悔しくなり、もう一度、かけ直しました。
今度は、息を吸い、頷きながら、話します。
「あ、あの、ボクシングを、や、やりたい、電話しっましたぁー」
それが、精一杯でした。
携帯を投げ出します。
心拍が早く、マラソンを走り切った感じです。
「もう、ダメだ」
私は、食卓に額をつけました。
そのひんやりが、額、頬から熱をとっていきました。
「やっぱり、怖い人たちのグループなんだ」
場違いな私を笑う人たちや、多額の入会金を請求されるのを想像して、一人でダメージを受けていました。
私は、運動不足で、生まれながらの痩せ型の虚弱体質です。
細枝のような腕は、骨ばっています。
「お前は、何しに来たんだ?」という目つきで見られるのだろう。
どんどん、自分が小さくなっていきました。
私が豆粒ほどになったとき、携帯の着信音が鳴りました、
私は現実に引き戻されました。




