第9話「止まった朝」
「王都で大変なことが起きたらしいよ」
港の荷受所の前で、商人たちが固まっていた。
あの日から二週間が過ぎていた。ヘルツさんの秘密を知ってから、私は工房での会話を最小限にしていた。朝の鐘を撞き、昼に港の大鐘を撞き、夕方にまた小鐘を撞く。仕事は続けた。鐘を撞くのは私の仕事だ。誰に頼まれたかは関係ない。港の時計を必要としている人がいる限り、やめる理由はなかった。
ヘルツさんも何も言わなかった。毎朝、私が階段を降りてくると作業台にいて、「おはよう」とだけ言った。私は「おはようございます」と返した。それ以上の言葉はなかった。
その朝、港の大鐘を撞いた帰りに、荷受所の前の騒ぎに出くわした。
「外交使節の歓迎式典で、とんでもない失態があったんだとさ」
商人の一人が声を潜めて言った。周りの漁師や荷運びたちが耳をそばだてている。
「式典の開始時刻が二時間もずれたらしい。使節団が到着したとき、城の広間には誰もいなかった。城の時計が狂っていて、出迎えの準備が全然間に合わなかったんだと」
「二時間? 城の鐘が二時間も狂うのか」
「鐘は鳴るんだよ。鳴るんだけど、時刻が合わない。城の中の時計がばらばらで、どれが正しいのか誰にも分からなくなってるって話だ」
私は足を止めて聞いていた。
城の時計が、そこまで狂っている。外交の場で二時間のずれ。それは時計の問題ではなく、国の信用の問題だ。
「誰の責任なんだ」
「さあ。でも鐘撞き係を廃止して自動鐘にしたのは財務管理官のレーヴェンだろう。あの人の判断が間違ってたってことじゃないのか」
ヴィクトル様の名前が、見知らぬ商人の口から出た。港町の商人にまで届いている。城から馬で五日の距離にある、この小さな港町にまで。
マルタが市場の方から走ってきた。
「アメリア、聞いた? 王都の話!」
「今、聞いたわ」
「すごいことになってるわよ。商船の船長たちがみんな怒ってるの。王都の港で出港時刻が合わなくて、積荷の引き渡しが遅れて、違約金を取られたって」
マルタの声はいつもより低かった。興奮ではなく、心配の色が混じっていた。
「アメリア。あんたが城で撞いてた鐘でしょう。あんたがいなくなってからこうなったんでしょう」
「私は——鐘を撞いていただけよ」
「その"だけ"がなくなったら城が止まったのよ。それってつまり、あんたの鐘が城を動かしてたってことじゃないの」
返す言葉がなかった。
カミルさんの家を訪ねたのは、その日の午後だった。
港町の裏通りにある、小さな平屋。引退した時計職人の隠居先として、質素だが手入れの行き届いた家だった。訪ねるのは初めてだった。
「お嬢さん。よく来たな」
カミルさんは驚いた様子もなく、茶を淹れてくれた。
「カミルさん。城のことを聞きました。外交の式典で大きな問題が起きたと」
「ああ。商人の噂で聞いた」
「私は——城に戻るべきなんでしょうか」
声に出してみると、その言葉の重さに自分で驚いた。城に戻る。追放された場所に。あの鐘楼に。
カミルさんは茶碗を膝の上で包み、しばらく黙っていた。
「お嬢さん。それを決めるのはわしではないよ」
「分かっています。でも——自分だけでは整理がつかなくて」
「何が整理できんのかね」
「城に戻れば、鐘を撞ける。大鐘を撞けば、城の時計は直る。私にはその力がある。カミルさんの話と、これまでのことで、それはもう分かっています」
カミルさんは頷いた。
「でも城に戻るということは、この町を離れるということです。工房を離れる。マルタや、カミルさんや——ヘルツさんの傍を」
「ノアの傍を、か」
私は黙った。
カミルさんは茶を一口飲んだ。
「お嬢さん。ひとつ聞いてもいいかね」
「はい」
「ノアのことは、恨んでおるか」
恨んでいるか。二週間、ずっと考えていた。
「分かりません。恨むべきなのかもしれません。でも——あの人がいなかったら、私は鐘撞き係になっていなかった。五年間は辛かったけれど、鐘を撞いた日々を後悔はしていない。それだけは確かです」
カミルさんは小さく目を細めた。
「お嬢さん。城に戻るか戻らないかは、お前さんが決めることじゃ。ノアのためでも、城のためでもなく、お前さん自身のために決めなさい。それだけが、わしに言えることじゃよ」
カミルさんの家を出て、港の方へ歩いた。夕方の鐘の時刻にはまだ早かった。潮風が頬に当たった。冷たくなり始めている。季節が動いている。
工房に戻ると、ヘルツさんが表の前に立っていた。
工房の中ではなく、外に。扉の前で、こちらを待っていた。
「ヘルツさん」
「……少し、話がある」
ヘルツさんの声は低かった。いつもの短い業務連絡の声ではなかった。覚悟の据わった声だった。カミルさんがあの日工房に来たときと、同じ種類の声。
「中で——」
「ここでいい」
ヘルツさんは扉の横の壁にもたれた。夕方の光が斜めに差して、顔の半分を照らしていた。
「城で外交の問題が起きたことは聞いた」
「はい」
「お前が——トーンさんが城に戻れば、直せる。それは分かっている」
「はい」
ヘルツさんは壁から背を離した。私に向き直った。まっすぐに。目を逸らさずに。
「前に、全部話してくれと言われた。あのとき言い切れなかったことがある」
私は黙って待った。
「三年間——城を辞めてからの三年間。俺はこの工房で、お前の鐘の音を聞いていた」
それはカミルさんから聞いた。あの日、工房で。
「城からここまで馬で五日。普通なら届かない距離だ。でも校正波には残響がある。極めて微弱だが、ゼロにはならない。精密な時計と——俺の耳があれば、拾える」
ヘルツさんの声が変わった。技術の話をするときの、言葉が止まらなくなる口調に近かった。けれどどこかが違った。技術ではなく、もっと深いところから出ている声だった。
「毎朝六時。正午。夕方六時。お前が鐘を撞くたびに、かすかな波が届いた。俺はその波で工房の時計を合わせていた。腕がいいからだ、と人には言った。嘘だった。全部、お前の音だった」
ヘルツさんの手が震えていた。あの日と同じだ。けれどあの日とは違った。あの日は工具を掴めない手だった。今は、何かを差し出そうとしている手だった。
「お前の鐘が——俺の時計を、三年間、動かしていた。代わりはいない。お前の音でなければ、俺の時計は合わなかった。お前でなければ——」
ヘルツさんの声が途切れた。
「アメリア」
名前で呼ばれた。ヘルツさんが、私の名前を。
「代わりなんかいない」
沈黙が落ちた。
港の波の音が聞こえていた。遠くで海鳥が鳴いた。工房の中から、時計たちの揃った音がかすかに漏れていた。
「……それは」
声が震えた。今度は私の声が。
「それは、仕事の話ですか」
ヘルツさんは首を横に振った。
「仕事じゃない」
短かった。たった一言だった。けれどその一言に、三年間の沈黙が全部詰まっていた。
私は答えなかった。答えられなかった。恨むべきか感謝すべきか、まだ分からない。でも、ヘルツさんの声が震えていたこと、私の名前を呼んだこと、仕事ではないと言ったこと。それは嘘ではなかった。この人の嘘は見分けられるようになっていた。だからこそ、これが嘘でないことは分かった。
「……今は、答えられません」
「ああ」
ヘルツさんは頷いた。それ以上何も言わなかった。
夕方の鐘の時刻が来ていた。
私は工房の中に入り、小鐘の前に立った。撞木を手に取った。
手は震えていなかった。
撞いた。音が広がった。澄んだ、まっすぐな音だった。
城の時計塔の廊下を、ヴィクトル・レーヴェンは歩いていた。
城務長官との会談を終えたばかりだった。外交使節の歓迎式典の失態について、正式な報告書の提出を命じられた。原因の特定と対策を含めた報告書を、三日以内に。
ガレスの「調整中」という報告は、もう通用しなかった。ヴィクトル自身が城内の時計を確認して回った。大広間の時計は二十三分進み、謁見の間の時計は十七分遅れ、厨房の時計は四十分以上ずれていた。自動鐘は設計通りに鳴り続けている。鳴り続けているのに、時計が合わない。
鐘撞き係を廃止したのは自分の判断だった。自動鐘の導入費用は鐘撞き係の人件費三年分に相当し、長期的には予算削減になる。計算は正しかった。
計算は正しかった。だが時計は狂っている。
報告書にどう書くのか。「自動鐘は正常に稼働しているが、城内の時計が同期しない原因は不明」と。不明。財務管理官が、自らの判断の結果について「原因不明」と書く。
ヴィクトルは廊下の窓際で足を止めた。外は暗かった。壁の時計は午後七時を指していたが、もうその数字を信じる者は城内にいなかった。




