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鐘を撞くだけの仕事だったので追放されましたが、なぜか城の時計が全部狂い始めて私を探しているそうです  作者: 月雅


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第7話「狂う歯車」

港の朝は正確だ。鐘が鳴り、船が出る。市場が開く。でも最近、王都からの便だけが、いつも遅れて届く。


馬便の到着予定は朝の九時だった。ギルド事務所の受付係がそう言っていた。なのに王都からの便は三日続けて昼近くに届いている。届くたびに御者が首を傾げる。「王都の出発時刻が合わなくてね」と。


港の時計は正確だ。私が朝と昼と夕方に鐘を撞くようになってから、船長たちの苦情は消えた。市場の開閉も滞りない。マルタは「あんたが来る前がどうだったか思い出せない」と笑う。


けれど、この町の外から届くものだけが、少しずつずれていく。


カミルさんが工房に来たのは、昼の鐘撞きを終えた午後だった。


いつものように表の扉を開けて、ゆっくりと入ってくる。今日は紙包みを持っていた。


「菓子を持ってきた。前に約束したろう」


「ありがとうございます、カミルさん」


前の訪問のときに「今度は菓子でも持ってこよう」と言っていた。約束を覚えていてくれたのだ。紙包みを受け取ると、焼き菓子の甘い匂いがした。


ノアさんが奥から茶を運んできた。三人分。カミルさんが来ると、ノアさんはいつも三人分の茶を淹れる。それが自然な動作になっていることに、私は最近気づいていた。


「お嬢さん。港の鐘撞きは順調かね」


「はい。時計のずれはほとんどなくなりました」


「ほう。大したものじゃ」


カミルさんは茶を一口飲み、焼き菓子を割った。半分を私に差し出し、残りを自分の皿に置いた。


「のう、お嬢さん。少し昔の話をしてもいいかね」


ノアさんの手が止まった。作業台の上で工具が微かに鳴った。


カミルさんはノアさんの方を見なかった。私だけを見ていた。穏やかだが、いつもより真剣な目だった。


「昔の話?」


「わしの旧い友人の話じゃ。もう亡くなったが、王都で時計を作っておった男でな。その男が晩年に不思議なことを言っておった」


カミルさんは茶碗を膝の上で包んだ。


「鐘を撞く者の中に、ごく稀に、特別な力を持つ者がおる。その者が鐘を撞くと、音に魔力が乗る。その魔力が周囲の時計を正しい時刻に引き戻す。時間の魔力と、友人はそう呼んでおった」


時間の魔力。


工房の時計たちが刻を揃えて鳴っていた。昼の鐘撞きから二時間。まだ正確に同期している。


「校正波、とも言うそうじゃ。鐘の音に乗った魔力が波のように広がって、届く範囲の時計を全て同期させる。鐘が大きければ広く届き、小さければ狭い。じゃが、誰が撞いても同じというわけではない。魔力を持たぬ者が撞けば、ただの音が鳴るだけじゃ」


私は焼き菓子を持ったまま、動けなかった。


ただの音が鳴るだけ。では——ただの音ではない鐘が、あるということだ。魔力を持つ者が撞けば、時計が揃う鐘が。


工房の小鐘を初めて撞いた日のことが頭をよぎった。何十もの時計が一斉に同じ時刻を指した、あの瞬間。港の大鐘を撞いたとき、港全域の時計が揃った光景。


あれは——鐘の精度が良かったからではないのか。


「カミルさん。それは、どのくらい珍しいものなんですか」


「一世代にひとりおるかおらぬか、と友人は言っておった」


「その力を持っている人は、自分でそれと分かるものですか」


「分からぬことが多いそうじゃ。鐘を撞けば時計が合う。本人にとってはそれが当たり前じゃから、自分の力だとは思わん。鐘が良いのだろう、くらいに考える」


鐘が良いのだろう。


私が、ずっとそう思っていた言葉だった。


カミルさんは私の顔を見て、小さく頷いた。何かを確かめ終えた顔だった。初めて工房に来た日と同じ表情。あのときは分からなかったけれど、今は少しだけ分かる。この人は、私の答えを聞く前から何かを知っていた。


「なぜ——今、この話を」


「年寄りの茶飲み話じゃよ。友人のことを思い出してな」


嘘だった。カミルさんは嘘が下手だ。ノアさんの嘘よりずっと分かりやすい。でも、それ以上は聞かなかった。カミルさんがこの話をした理由は、たぶん茶飲み話ではない。けれど今の私には、それを追及するより先に確かめたいことがあった。


ノアさんが作業台の前にいた。


カミルさんが話している間、ノアさんは一度もこちらを見なかった。工具を動かし続けていた。けれどその手の動きが、いつもより遅かった。同じ歯車を何度も磨いていた。聞いていないふりをしながら、一言も聞き逃していない。そういう沈黙だった。


カミルさんが帰った後、工房には私とノアさんだけが残った。


時計の音が流れていた。壁の時計、作業台の置き時計、窓際の掛け時計。全て揃っている。私が昼に撞いた鐘の校正が、まだ保たれている。


ノアさんは作業台に向かったままだった。背中がいつもより硬く見えた。


「ノアさん」


「……何だ」


「カミルさんの話。時間の魔力のこと」


ノアさんの手が止まった。今度は隠さなかった。工具を置いて、けれど振り向かなかった。


「ノアさんは、知っていましたか。時間の魔力のこと」


沈黙。


壁の時計が秒を刻む音だけが流れた。五秒。十秒。ノアさんは動かなかった。


「知っていたから、私を雇ったんですか」


また沈黙。


ノアさんの背中は答えなかった。否定もしなかった。その沈黙が、どんな言葉よりも重かった。


「あの小鐘を、棚に置いておいたのも。港の大鐘の許可を先に取っていたのも。全部——私の鐘に、何かがあると知っていたから?」


ノアさんがゆっくりと振り向いた。


顔を見た。苦しそうだった。何かを言おうとして、言葉が出ない顔。喉まで来ているのに、唇が動かない。口下手なのは知っていた。技術の話以外では言葉が足りない人だと分かっていた。でも今のこれは、口下手とは違う。


言えないのだ。言いたくないのではなく、言えない。


「……すまん」


それだけだった。ノアさんはそれだけ言って、目を逸らした。


すまん。何に対しての謝罪なのか、分からなかった。知っていたことに対してなのか。黙っていたことに対してなのか。それとも——もっと別の、もっと大きな何かに対してなのか。


「ノアさんは、何を知っているんですか」


声が震えなかったのは、怒っていなかったからだ。怒りではなかった。もっと深い場所にある、名前のつかない感情だった。この人の沈黙の奥に何があるのか、知りたいと思った。知るのが怖いとも思った。


ノアさんは答えなかった。


作業台の上の歯車に目を落としたまま、動かなかった。


夕方の鐘を撞いた。


小鐘の音が工房に広がった。時計たちが刻を揃えた。いつもと同じ手順。いつもと同じ音。


けれど今日は、その音の意味が違って聞こえた。


時間の魔力。鐘を撞く者の魔力が、音に乗って時計を校正する力。もし私がその力の持ち主なら——城にいた五年間、私は知らずにその力を使っていたことになる。そして、私が追放されたことで、城の時計から校正波が消えた。


自動鐘は鳴る。正確な時刻に、正確な音を出す。けれど魔力が乗らないなら、時計は揃わない。


だとしたら——ノアさんは最初からそれを知っていたのか。私の鐘が特別だと、この工房に来る前から。


カミルさんは「友人の話」として時間の魔力を教えてくれた。なぜ今なのか。なぜあのタイミングなのか。ノアさんがいる場で、ノアさんに聞こえるように話した。あれは私に向けた言葉であると同時に、ノアさんに向けた言葉でもあったのかもしれない。


窓の外が暗くなり始めていた。


ノアさんは作業台の灯りを点けた。いつもの動作だった。けれど今日は、灯りを点ける前に一瞬だけ港の方角を見た。それから何も言わず、作業に戻った。


時間の魔力。そんなものが本当にあるなら、私の鐘は——ただの鐘ではなかったのか。城の五年間は、「鐘を撞くだけの仕事」ではなかったのか。だとしたら、ノアさんは最初からそれを知っていて——。


二階への階段に足をかけたとき、背後からノアさんの声がした。


「トーンさん」


振り返った。ノアさんは作業台の灯りの中にいた。顔は半分影に沈んでいた。


「……明日も、鐘を頼む」


いつもの言葉だった。毎晩、私が二階に上がる前に言う言葉。業務連絡。それだけのはずだった。


「はい」


私は答えて、階段を上がった。


部屋の窓を開けた。波の音が入ってきた。港の灯りが水面に揺れていた。


ノアさんは何を知っているのだろう。カミルさんは何を見ているのだろう。城の時計はなぜ狂い続けているのだろう。そして、私は——何者なのだろう。


今ある居場所が壊れることが、怖かった。鐘を撞ける場所。時計が揃う場所。ノアさんがいて、マルタが来て、カミルさんが茶を飲みに来る場所。この場所が、真実を知ることで変わってしまうかもしれない。


けれど、もう知らないふりはできなかった。


城の時計塔に、夜の灯りが点いていた。


ヴィクトル・レーヴェンは執務室を出て、廊下を歩いていた。定例会議の帰りだった。


会議は荒れた。外交使節の到着式典の時刻が二時間ずれた件で、城務長官から正式な説明を求められた。ヴィクトルは「自動鐘の調整中に生じた一時的な誤差」と報告した。城務長官の表情は険しかった。


廊下の壁に掛かった時計の前で、ヴィクトルは足を止めた。


午後九時を指している。


窓の外を見た。空の暗さは午後九時のものではなかった。もっと遅い。十時を過ぎている。


ヴィクトルは時計から目を離さなかった。


ガレスの報告では、自動鐘は正常に稼働している。技術的な問題はない。調整を重ねれば改善する。そう書いてあった。


だが時計は合わない。合わないまま、ずれが広がり続けている。


ヴィクトルは懐から鐘撞き係の廃止命令書の写しを取り出した。自分の署名が記されている。合理的な判断だった。数字が正しさを証明していた。


数字は——今も正しいのか。


命令書を懐に戻し、歩き出した。足音が廊下に響いた。壁の時計は、狂った時刻を黙って指し続けていた。

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