第6話「届かない手紙」
城にいた5年間、私は一通も手紙を受け取らなかった。
父からも、母からも、姉たちからも。鐘楼には郵便係が上がってこなかったし、私から出した数通の手紙に返事が届くこともなかった。二年目の終わりに、待つのをやめた。届かないものを数えるのは、ずれた時計を眺めているのと同じだ。直せないなら、見ないほうがいい。
港の大鐘を撞くようになって二週間が経っていた。
朝の工房の小鐘、昼に港の大鐘、夕方にまた小鐘。一日三回の鐘撞きが日課になり、港の時計はほとんどずれなくなった。マルタは「アメリアが来てから市場が回るようになった」と言い、船長たちも出港時刻の混乱が減ったと喜んでいた。
その日の午後、私は工房の帳簿を整理していた。
ノアさんに頼まれた仕事だった。月末が近い。給金の計算に必要な帳簿を揃えておくように、と。部品の仕入れ台帳、修理の受注記録、港への出張作業の日誌。それらを時系列に並べ直しているとき、ある項目が目に留まった。
従業員給金の台帳だった。
私の名前の横に、月額の数字が記されている。技術見習い相当の給金。その下に天引き項目の欄があった。
空欄だった。
家賃の天引き。ノアさんは初日に言った。「家賃は給金から引く形でいいなら」と。私はそれを了承した。二階の部屋に住み、毎月の給金から家賃が引かれる。そういう契約だと思っていた。
なのに、天引きの記録がない。初月も、翌月も。欄そのものは存在するのに、金額が一度も記入されていない。
記入漏れだろうか。ノアさんは工具の整備には異常なほど正確だけれど、帳簿仕事は後回しにする癖がある。単純な書き忘れかもしれない。
でも——二ヶ月連続の書き忘れは、不自然だった。
マルタに会ったのは、翌日の昼だった。
港の大鐘を撞いた後、市場でマルタと立ち話をしていたとき、何気なく聞いてみた。
「マルタ、この町の家賃ってどのくらいが相場なの」
「家賃? あんた、工房の二階に住んでるんでしょ。いくら引かれてるの」
「それが——よく分からなくて」
マルタは目を丸くした。
「分からないって、給金の明細を見れば分かるでしょ」
「帳簿には、天引きの記録がなかったの」
「なかった?」
マルタは腕を組んだ。魚の鱗がエプロンからぱらぱら落ちた。
「あんた、それ天引きされてないんじゃないの」
「まさか。契約のときにそう言われたもの」
「言われただけで、実際に引かれてるかは別の話でしょ。帳簿に記録がないなら、引いてないのよ」
マルタの声には、呆れと別の何かが混じっていた。
「ノアさん、あんたに家賃を請求してないのよ、たぶん。あの人ならやりかねないわ」
「どういうこと」
「どういうって——お人好しってこと。あの人、工房の修理代も値切られたら値切られっぱなしだし、港番のリオの時計なんて三回も無料で直してるし」
マルタは肩をすくめた。
「でもね、家賃をただにするのはお人好しじゃ済まないわよ。あんた、ちゃんと聞いたほうがいい」
ちゃんと聞く。
そうすべきだと思った。施しを受けているなら、それは契約と違う。契約と違うことを黙って続けられるのは——好意であっても、嘘だ。
工房に戻ると、ノアさんは作業台に向かっていた。精密時計の歯車を組んでいる。細い工具が指先で正確に動いている。
「ノアさん」
「何だ」
「帳簿のことで、聞きたいことがあります」
ノアさんの手は止まらなかった。歯車に集中しているように見えた。
「給金の台帳を見たんですが、家賃の天引き欄が空欄でした。二ヶ月分とも」
手が止まった。
工具が歯車の上で静止した。ノアさんはゆっくりと顔を上げた。
「はっきり答えてほしいんです。私の家賃は、引かれているんですか」
沈黙があった。
壁の時計たちが刻む音だけが流れた。今朝の鐘撞きから六時間。まだ正確に揃っている。その規則正しい音の中で、ノアさんの沈黙だけが不規則だった。
「……計算を間違えた」
ノアさんは視線を作業台に戻した。
「天引き額の算出が済んでいなかった。来月分からまとめて調整する」
嘘だった。
分かった。ノアさんは数字に強い人だ。部品の寸法を百分の一ミリ単位で把握し、歯車の噛み合わせを音で判別する人が、二ヶ月も家賃の計算を間違えるはずがない。
「ノアさん」
「……何だ」
「嘘ですよね」
ノアさんの肩がわずかに強張った。
「計算を間違えたんじゃなくて、最初から引くつもりがなかったんじゃないですか」
答えはなかった。ノアさんは工具を置き、作業台の上で両手を組んだ。何かを言おうとして、やめた。それを二度繰り返した。
「……来月から正規に天引きする。それでいいか」
質問に答えていなかった。でも、その答え方が答えだった。
私は黙って頷いた。それ以上追及する気力がなかった。追及すれば、ノアさんがなぜ家賃を免除していたのか、その理由を聞くことになる。理由を聞けば——何かが変わってしまう気がした。
工房の隅に戻り、帳簿を棚にしまった。
ノアさんは嘘をついた。小さな嘘だった。家賃を取らないという、善意からの嘘。悪意はない。たぶん、私が無一文で港町に来たことを知っていて、生活が安定するまで負担を軽くしようとしたのだろう。
けれど——嘘をつく理由が分からない。
正直に「しばらく免除する」と言えばよかった。なぜ天引きするふりをして、実際には引かなかったのか。なぜ、聞かれるまで黙っていたのか。
ノアさんには、他にも聞けないことがある。カミルさんの言いかけた言葉。鐘を撞いたときの表情。港の鐘の許可を先月から取っていたこと。椅子の高さ。窓の向き。全部、合理的な説明がつく。全部、雇い主としての配慮で説明できる。
でも、それなら嘘をつく必要はない。配慮なら堂々とすればいい。隠すのは、配慮以外の何かがあるからだ。
この人は、何を隠しているのだろう。
夕方の鐘を撞いた。
小鐘の澄んだ音が工房に広がり、時計たちが刻を揃えた。いつもと同じ音。いつもと同じ手応え。
ノアさんは作業台に向かったまま、こちらを見なかった。手も止まらなかった。いつもなら一瞬だけ止まるのに、今日は止まらなかった。
意識して止めなかったのだと思った。
鐘を撞き終えて撞木を戻したとき、表の扉が開いた。港から戻ってきた商人風の男がノアさんに懐中時計の修理を依頼しに来たのだった。
「王都からの航路で時計が狂っちまってね。出港のときに合わせたはずなんだが」
商人は懐中時計を作業台に置いた。
「王都も最近ひどいもんだよ。外交使節の到着時刻が合わなくて、港で二時間も待たされたって話だ。船長仲間が怒ってたよ」
外交使節の到着時刻。
私の手が止まった。城の時計が狂っているという噂は、マルタから聞いていた。五分のずれだと。それが——外交使節の時刻が合わないほどの問題になっている。
「二時間もずれるものですか」
思わず声が出た。商人が私を見た。
「ああ、ずれるどころじゃないらしい。城の鐘が鳴る時刻と、実際の時刻が全然違うんだとさ。最近王都を出た船はみんな同じことを言ってる」
城の鐘が鳴る時刻と、実際の時刻が違う。
自動鐘は決められた時刻に鳴るはずだ。それなのに実際の時刻とずれているなら——城の時計そのものが狂っている。基準がないのだ。鐘が鳴っても、時計が合わない。
私が撞いていた頃は、そんなことは起きなかった。起きるはずがなかった。朝と昼と夕方、三回撞けば城中の時計が揃った。それは鐘の精度が良かったからで、私の力ではない。
私の力ではない——はずだ。
商人が帰った後、工房は静かだった。
ノアさんは懐中時計の裏蓋を開けて中を覗き込んでいた。いつもの姿だった。いつもの沈黙だった。
「ノアさん」
声をかけようとして、やめた。
何を聞くつもりだったのか、自分でも分からなかった。城のことを聞きたかったのか。鐘のことを聞きたかったのか。それとも——家賃の嘘の、本当の理由を。
ノアさんは嘘をついた。理由の分からない嘘は、大きな嘘より怖い。なぜなら、小さな嘘の奥に何があるのか、想像するしかないからだ。
二階の部屋に上がり、窓を開けた。港の夕暮れが広がっていた。
この工房は安全な場所だと思っていた。鐘を撞かせてくれる場所。時計の傍にいられる場所。ノアさんがいて、マルタが来て、カミルさんが茶を飲みに来る場所。
その安全な場所の土台に、小さなひび割れが見えた。
ノアさんは何を隠しているのか。城の時計は、なぜあんなにも狂っているのか。そして——私の鐘には、本当に何の力もないのか。
波の音が聞こえた。鐘の音はもう消えていた。




